「みさきちゃん、これ……あげるね」
人に関する記憶というものは声から忘れていくのだと、何処かで聞いたことがある。
「はんぶんこしよ? ね? そのほうがきっと、もっともっとおいしいよ」
声を忘れて、顔を思い出せないようになり、思い出を失ってようやく、人と人との繋がりは消えてしまうのだと。それが人を「忘れる」ということなのだと、そう書かれていた気がする。
今なら分かる。
「ね、みさきちゃん。またこうして、わたしと一緒に────」
────そんなこと、全て嘘っぱちだと。
だって、それならば、私は覚えているはずなのだ。
あの子の私を呼ぶ声は、こんなにも鮮明に思い出せるというのに。
あぁ、なんで、どうして。
大切な友達だったんだ、大切な、大切な人だったはずなのに。何があってもこの子の事は裏切らないと、この子と一緒に歩んでいくんだと、そう決めていたはずなのに。
私は、私は約束したはずなのに。絶対に離れないって、
なのに、なのに、私は、私は。
人は声から忘れていくんだとしたら、だったら、どうして。
『わたしはね、みさきってなまえなんだ。ねぇ、あなたはなんていうの?』
『わ、わたしは────────』
私はどうして、あの子の顔も名前も忘れてしまったんだ。
★ ★ ★
超能力者だって、汗をかくこともある。
何を当たり前のことを、と。そう思うかもしれないけれど、私にとっては大切なことだ。
どれだけ人間離れした力を持っていたとしても、結局のところ、私は一人の人間でしかないんだということを、思い出すことができる。
まぁ、今はそんな大げさな話をしたいわけじゃない。
私も年頃の女の子だ。汗を掻いたら臭わないか気になるし、肌がベタつくのは嫌だ。
そう…………特に、気になりつつある相手の前だとそれは顕著だろう。
つまり、何が言いたいのかというと。
「あの、こころさん? ちょっと距離が近すぎるとは思いませんか?」
「…………? あたしはそう思わないわよ?」
一言で話が終わってしまった。
彼女────弦巻こころは私の真横に、それこそ肌がくっついてもおかしくないほどの距離に座っていた。夢中になって割り箸を回して、ねり飴をかき混ぜている。いや、懐かしいなそれ。
ベンチのスペースにはまだまだ余裕があるというのに、わざわざ相手の体温を感じてしまうほどの近さで。
出会ったばかりなのに大きすぎる感情を向けている自覚のある私がいうのもなんだけど、ちょっと距離感がおかしくはないだろうか。っていうか、もう肌が直接触れてしまっている。
あぁ、なんかヒンヤリしてる。しかも、やけにスベスベだ、シミひとつない、羨ましい。私が冷風を飛ばしていたからって、汗ひとつ出ていないのは如何なものだろうか。
違う、そうじゃない。
「いや、ほら、今日は熱いし、ね? あんまりべったりなのも、ほら、わかるでしょ?」
「? 美咲の近くはとても涼しいわ」
「あ、はい」
自業自得というか、因果応報というか。
まぁ、暑い場所よりは涼しい場所に近づくよねって感じだった。
私が何かするまでもなく「暑さなんて感じてません」と言いたげな態度だったから勘違いしていたけど、うん、やっぱりこの子も暑いものは暑いと思ってたんだなって。いや、そりゃ当たり前の事なんだけど。
それをちょっとだけ、残念に思う私がいる。自分から距離が近いと言い出しておいて、その目的が私本人じゃないと分かった途端に寂しく思ってしまうなんて、面倒くさい女だな。いや、別に弦巻こころに悪気があるわけじゃないと思うし、もしかしたら純粋に私の…………近く、に、いたいと思ってくれているかもしれないけど。
瞳を覗き込んで、心の中を見てしまえばわかる事だというのに。
あれだけ、他の人が何を考えているか確かめることに流されて生きてきたというのに。
この子が喜ぶのなら、少しくらいは超能力を使っていいかもしれないって思っているのに。
肝心のこの子の心を覗き込むことに、どうして私はこんなにも抵抗感を覚えているのだろうか。
いいじゃないか。だって、この子は私が人の心を読む化け物だと分かった上で一緒にいてくれるんだ。少しくらい勝手に盗み見たって、きっと私を責めてくることはない。そんな狭量な子じゃないんだ。
何も下心があるわけじゃない。秘密を暴いてやろうだとか、弱みを握ってやろうだとか、そんなことはこれっぽっちも考えていない。少しだけ、私のことをどう思っているのかを…………。
でも、うん。
普通の人だったら、こんなことで悩む必要なんかないんだなって思うと、やっぱり私はどこまでいってもただの怪物なんじゃないだろうか。
だって、そうだろう。
人は相手と想いを交わすために、言葉という手段を手に入れたのだから。相手の心を知りたいのであれば、言葉を通じて直接聞き出せばいいだけの話なのだ。それが普通の人の営みで、かつては私にも出来ていたことで。
相手が自分をどう思っているのか。それを確かめるために一番最初にその行動が出てこないなんて、心の中を覗き込むことを肯定してしまおうだなんて。
あぁ、なんて脆弱な事だろうか。
本当にダメだな、私って。
「はい美咲、口をあけて」
「えっ、なんっ…………!?」
口の中に感じる異物感と、舌に触れる先端から感じる仄かな甘味が、私を思考の世界から現実へと引き戻した。
目を丸くして下手人を見つめれば、彼女はしてやったりとでも言いたげな笑みを浮かべて、私の口へと割り箸を入れていた。
いや、危ないから。怪我するかもしれないし、次からやっちゃダメだよ。
そう言おうにも、口の中には彼女の作っていたねり飴が入れられているわけで。言葉も出ない私に出来たことは、ただ黙って棒を口に含むことだった。
甘い。糖分を固めて作られた、チープな甘さだ。でも、なぜか少しだけ優しい味のような気がしなくもない、そんな甘さ。
なんだろう、すごく懐かしい気がする。前にもどこかで、こんな事があったような────。
「もう、美咲ったらすぐあたしの事を忘れるのね。考え事はきんし!」
まただ。この子と一緒にいると、どうしても記憶のどこかが刺激されてしまう。私が忘れてしまったはずの何かが、奥沢美咲がただの人であった頃の何かが、どうしようもなく呼び起こされてしまう。それが少しだけ嬉しくて、そしてちょっとだけ悲しい。変わってしまったのは私の心なんだと、そう突きつけられてしまうようで。
黙り込む私の瞳を、彼女の瞳が覗き込んでくる。
無意識のうちにモゴモゴと口を動かしていたからか、飴はいつのまにか無くなってしまった。割り箸が口元を離れて、地面へと落ちる。
拾わなきゃ、そう思っているはずなのに。私の体は金縛りにあったかのように、ピクリとも動くことはない。
動けない、動きたくない。
弦巻こころの瞳から、目をそらせない。
なんて様だろう。こんな、躾の行き届いた犬かなにかのように、主人の命令を待っている忠犬のように、私は弦巻こころの言葉を待っているのだ。
動悸が鳴り止まない。血流が顔に集まっていくのを感じる。視界が狭まり、黄金の輝きが世界の全てを埋め尽くしていく。呼吸は自然と、口で行うようになっていた…………臭わないだろうか。
弦巻こころは何も言わずに、ただひたすら私の瞳を見つめていた。その両手は、私の頬に添えられている。えっ、いや、なんで、いつの間に。
黄金が迫ってくる。いつまでも輝き続けるであろう、星のような煌めきを据えた彼女の瞳が。好奇と期待を乗せた、心の中どころか、私の全てを覗き込んでしまえる、彼女の瞳が、空に輝く一等星が、私を、私の全てを、私の心に入り込んで────。
どれだけの間、そうしていた事だろう。もしかしたら数秒間の出来事だったかもしれないし、数分経っていたかもしれない。
一つ言えるのは、私にとってそれは永遠にも等しいほどの一瞬だったということで。
そして、終わりは突然訪れた。
「うーん、ダメね! あたしには美咲がなにを考えているか全然分からないわっ! 昨日は分かったのに…………」
そう言って少し残念そうに離れていく彼女の顔を見て、「あっ」と。無意識のうちに声が出た。
いやいや、なに、その声。私、今まで一度も聞いたことないんだけど。
いや、そうじゃない。そうじゃなくて。
「えっ、なに? なんで? 近くない?」
「だって美咲ったらずっと考え事ばっかりしているから…………あたしと一緒にいるのは楽しくないのかなって思ったの。昨日みたいに、目を見ていれば何を考えているか分かるかなって試してみたけれど…………ダメね! 全然分からなかったわ!」
「いや、いやいや、だからってあんなに近くで見つめることないじゃん!」
「離れて見つめるより、近くで見つめた方が色々分かりそうな気がしないかしら?」
「えっ、と…………まぁ、たしかに。言いたいことは分からなくもないけど」
「でも全然分からなかったから、直接聞くことにするわ。あたしは美咲と一緒にいて楽しいと思うけど、美咲は違う? あたしと一緒にいることは、楽しくない事?」
「いや、そんなことは…………」
「だって美咲、ずーっと悲しそうな顔をしているじゃない。眉間にこう……シワがガーッと寄っているわ」
あぁ、なんだ。この子にも分からない事があるんだなって。そりゃ当たり前なんだろうけど。
一緒にいる人がなにを考えているのか、分からないからこそ気になって、だからこそ確かめたくなる。それはまるっきり、さっきまでの考え事をしていた私と同じだった。
私は、まだ『人』のままなのかもしれない。この子がそうであるように、私もそう在りたい。
なんだろう、少しだけ気が楽になった。強張っていた体の力が、抜けていくのを感じる。
自然と、笑みを浮かべていた。
「私も、あんたと一緒にいると、その、楽しいよ。嘘じゃない」
だから、なんで吃る。少しくらいカッコつけなって、締まらないなぁ。
「やっと笑顔になったわね。素敵よ、あなたには笑顔が一番よく似合うもの」
「あはは、なにそれ。それを言うんだったらあんたの方が…………」
「? あんたの方が、なに?」
「あ、いや、なんでもない」
私の心の中を知ろうと、私の瞳を覗き続ける彼女の真面目な表情は、なんというか…………あれだ、あんまり彼女に似合わなかった。彼女がいう事を信じるのならば、私はいま、とても素敵な笑顔ができているらしい。なら、それでいいんだ。
君には笑顔が似合う、だなんて。そんなキザなセリフが言えるのは、きっと彼女くらいのものだろう。少なくとも、私には無理だ。とてもじゃないけど、恥ずかしくて言えない。
だってそうだろう。そんな、まるで愛を囁くような真似。私には似合わないよ。
ただ、うん、そうだ。
「ちょっと待ってて」
返事も聞かずに、駄菓子屋さんの中へと入る。冷蔵庫の中からアイスを取り出して、店番をしている子の元へと持っていく。
「これ、ください」
「……………………」
店番の子からの返事はなく、どこかボーっとした様子で私の顔を見つめてくる。明らかに、顔が赤い。熱中症だろうか?
「あのー、大丈夫ですか?」
「あっ、はっ、はひっ! えっと、あの、あっ、アイスですね! 百円です!」
あぁ、大丈夫だったみたい。むしろ、なんかちょっと元気だ。髪を長く伸ばしているから、熱がこもって危ない状態なのかと思った。いや、それはあの子にも言えた事か。
「あ、あの、その、ありがとうございました!!」
「? いや、こちらこそ?」
へんな子だな。と思いながらも、アイスを持ってあの子の元へと戻る。
私を待っていた弦巻こころは、私の手に持っているものを興味津々といった様子で見つめている。あ、なんか可愛いかも。
隣に座り、袋を開く。
「ほら、これ」
私が買ったのは、縦で二つに折れるタイプの、棒が二つ付いたソーダ味のアイスだ。多分、全国のコンビニで売っているんじゃないかな。
その片方を差し出した私を、弦巻こころは不思議そうな顔で見返してくる。
「あたしにくれるの?」
「これは私の友達が言っていたことなんだけどね…………
友達になった印に、なんて。少し安っぽいかもしれないけれど、これが私の思い出に残っている、数少ないコミュニケーションの取り方で。
言葉に詰まる私をよそに、弦巻こころの顔は今までで一番輝いていた。そんな顔を見せられてしまっては、言いたいことも口から出てこなくて。
「ありがとう、美咲! あたし、すっごくドキドキしているわっ!」
そのあとは、二人で一緒に並んでアイスを食べた。ひさびさに口にしたそれは冷たくて、火照った体に心地よくて。
私はきっと、ずっと昔から…………こういうことをしたかったんだ。友達と二人で、一つのアイスを分け合って食べる。そんな、他愛もないことを、幸せに感じたかったんだろう。
だからきっと、そういう事だったんだ。
弦巻こころの瞳の中で輝く星に、私はなりたいんだ。
Q:店番の子はなんで顔を赤くしてボーッとしてたの? 熱中症なの?
A:駄菓子屋はガラス窓、ベンチは店の前にある。店番の子からは二人の様子が見えている。あとは分かるな?