まだ、私が小学生の頃の話だ。
「みさきちゃん、おまたせ!」
その日は夏真っ盛りにも関わらずとても涼しく、それでいながら、雲ひとつない綺麗な空をしていた。
仲の良かった友達に誘われて、私は街の中にある丘で星を見ることになった。その友達の強い希望もあって、二人っきりで。
いまでこそ小学生が夜に出歩くのは常識的にどうなの? と思わなくもないが、子供だった私にとってはある意味で冒険のようなものだった。たとえ目的地が徒歩で辿り着ける距離の、ごく普通の丘であったとしても。
夜というひとつの要素が加わることで、何物にも代え難い魅力を放っていた。
「みて、ほしがきれいだよ!」
親の反対は覚悟していたが、友達と一緒だと伝えるとそのまま送り出された。明らかに不自然な態度だったが、ただの少女だった私にはその違和感の正体を突き止めることはできなかった。
多分、なにか
首を傾げながらも待ち合わせ場所へと向かい、少し遅れてきた友達と並んで歩き出す。
そこからは、あっという間だった。とりとめもない話題で盛り上がっているうちに、目的地へとたどり着く。歩き始めてから、十分も経っていなかったのではないだろうか。
「すごい…………こんなにたくさん……」
その日は、なんたらって名前の流星群が見られるあの子に会えるという話だった。友達は本の虫で、色々な事に詳しかった。宇宙関連の物事に殊更興味を持っていて、普段は口数が少ないのに、星の話をしている時だけはやたら饒舌だったのを覚えている。そんなものはいない。
宇宙のように黒い瞳に、星のような輝きを宿して。
私の目を見つめて話す彼女の瞳があんまりにも綺麗だったから、それだけが強く印象的だった。
「みさきちゃん? ねぇ、きこえてる? …………みさきちゃん?」
────ねぇ、きこえてる?
そう聞いてきたのは、いったい誰だったのだろうか。いや、そもそもそんな声が本当に存在していたのだろうか。夢に見るたび、思い出そうとするたび、頭の中に靄がかかる。
「みさkちゃん? だいjょうぶ!? ■■きちゃ────」
瞳を覗き込んだのは、誰だったのだろうか。私だったのか、あの子だったのか。覗き込まれたのは? 宇宙よりも黒く輝く、あの瞬きに魅せられたのは?
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話しかけてきたのは、本当にあの子だったのだろうか。
宇宙の果てよりもなお遠く、深淵よりも更に暗い場所から語りかけてきたもの。
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あの子の叫び声よりも小さくて、それでも耳の奥から離れない音。
どれだけ時が流れても、記憶が思い出へと変わってしまっても。それでも私は覚えている。
夜空が大きな瞳となって、私の全てを覗き込んできたあの日のことを。
私から全てを奪っていって、そして全てを与えていったあの子のことを。
その日、私は『 』を聞いた。
★ ★ ★
お腹の中から込み上げてくるものを必死に飲み込みながら、一歩ずつ足を進める。気分は最悪だった。
私は、また逃げ出したのだ。
あの日と同じように、あの時と同じように。
ここにはいないはずのあの子の瞳が、私の網膜に焼き付いて離れない。その輝きはまるで夜空に輝く星のようで、私の中に存在する罪悪感を責め立てていた。
さっきまでの私は、間違いなく正気を失っていた。トラウマが蘇り、錯乱していた。
冗談じゃない。
私は、私が危険極まりない存在であることを自覚している。いつでも、どこでも、何があっても。決して自分を見失ってはいけないということを、強く理解している。
超能力という、個人に与えるには強すぎる力を持ってしまった私が正気を失ってしまったら、何が起きるか分かったものではない。
子供の癇癪ではすまないんだ。
誰かを傷つけてしまったらどうする。その責任が、私にとれるのか? あの日から逃げ続けているお前に出来るはずもない。
それに、人の目の前でテレポーテーションを使用してしまった。
無意識のうちであったとしても、そんなこと、ありえない。どう言い訳するつもりだ、納得のいく説明が出来るのか? 誤魔化すことすらしなかった私に、そんなことができるのか?
自己嫌悪が止まらない。確実に足を進めながらも、その思考は少しも前へ進んでいなかった。全て、全て、私が悪いんだ、と。もはや何に対して叱責しているのかも理解できない頭で、自分への罵倒を繰り返す。
不毛だ、いやになる。
そうして、どれだけ歩いたのだろう。
きっと、何分も経っていないのだろう。それでも、私にとっては永遠に等しい時間だった。
震える足から力を抜いて、その場に座り込む。鞄の中からお茶を取り出して、一気に飲み干した。
ようやく、落ち着いてきた。
辺りを見回し、人がいないことを確認する。まぁ、元から心配はしていないけれども。
無意識のうちにこの場所を選んでいたことは、私にとって幸運なことだった。
ここは星見の丘。街の隠された名所というやつで、私がかつて友達と一緒に流星群を見に訪れた場所。
私の懐かしの、思い出の場所。
そして同時に、二度と足を踏み入れたくなかった場所でもある。
「私、帰ってきたよ。帰って、きたんだよ」
言いたかったことも、知りたかったことも。今だけはどうでもよかった。
ただあの日のように空を見上げて、それであの子と語り合いたかった。私を友と呼んでくれたあの子と、もう一度話をしたかった。そして願うことなら、また嘗てのように仲良く過ごしたかった。
いや、そうじゃない。そうじゃないだろう。
それを願って、取り戻したいから戻ってきたのだ。
始める前から諦めてどうする。私は、取り戻すんだ。友を、思い出を、失ってしまった時間を。もう一度、この手に。
服が汚れるのも気にせず、地面に寝そべる。鞄を枕がわりにして、空を見上げる。
昼の長い季節ということもあり、まだ星は出ていない。でも、それでよかった。星を見てしまう前に、ことを終わらせたかったから。
瞳を閉じ、息を整える。
だんだんと意識が薄れていくのを自覚しながらも、私はそれに逆らうことなく落ちていった。
深く、深い、時の彼方へと。
☆ ☆ ☆
あの子と私は友達だった。
たとえ学校が違くて、お互いの名前しか知らない関係でも、そこに嘘はない。
あの子と私が出会ったのは、思い出すことができないほど昔のこと。多分、幼稚園にいた頃だったと思う。
ふとしたきっかけで出会い、また会う約束をして、そしてまた次の約束をする。
そんなことを繰り返して、私たちは関係を深めていった。もちろん、それほど頻繁に会っていたわけではない。
学区が近くとも、通う学校は別。そんな私たちにはお互いの生活があったし、それぞれに優先するべき人間関係があった。
それでも、二人の出会った公園がなくなって公民館へと変わっても、私たちの関係が途切れることはなかった。
きっと私があの子を大切に思っていたように、あの子も私を大切に思っていてくれていた、はず、なんだと。そう思いたかった。
その関係が壊れてしまったのは、二人でこの丘に星を見にきた日の事だった。
その時のことは深く印象に残っているのに、なぜか所々あやふやだった。
私は、私は空から落ちてきた声を聞いて、あの子が、あの子が話しかけてくれていたはずだったのに、それが、わからなくて、空の、星の声が、私に囁いて、そして私は、なにか、なにかとんでもなく大切な約束をしたはずで。そして────。
気がつけば私は一人で丘に立っていて、あの子は姿を消していたのだ。
夢か現か、それも分からぬまま。私は二人で歩いてきた道を、一人で歩いて帰った。ふらふらと、なぜか覚束ない足を動かして。
そしてその日の夜だった。
私は、とんでもない高熱に苦しめられていた。
それは一週間ものの長期間続き、医者も家族も私の命を諦めかけるほどだった。高熱が原因で、目の色素が薄くなってしまうほどだったから。きっと、生き残っても目が見えなくなってしまう、と。死んでもおかしくないと、諦めてしまうほど。
だけど、結果的に私は生き残った。生き残ってしまった。懸念されていた視力の低下もおきず、むしろ色々なものがよく見えるようになって。
私は死の淵から生還した。
────そう。超能力という、人に非る異能を身に宿して。
そんなもの、私は望んでいなかったというのに。ただ、あの子がいてくれさえすれば、私は、それで。
それからは、あっという間だった。
あの子は二度と、私たちの約束の場所に現れることはなかった。お互いの家を知っていたわけでもなく、携帯なんか持っていない。そんな私たちだったから、一度縁が切れてしまえば二度と交わることがなかった。
いや、それは違うのだろう。
覚えていないが、その縁を切ったのはきっと私なのだ。
あの日、あの夜、あの場所で。
きっと、何かが起きたのだ。
私たちを隔ててしまうような、私をただの人間で無くしてしまうような、そんな致命的な何かが起きてしまったのだ。
その予感を裏付けるように、星見の丘はあの時からしばらくして、立ち入り禁止になった。
学校の噂では、行方不明者が出たとか出なかったとか。
私は発現したばかりの超能力に振り回されて確認していられなかったが、それがあの子ではない事を祈るばかりだった。
祈ることしか、出来なかった。
あの子は今でもどこかで元気に生きていて、自分の好きなことに一生懸命で、それでいて健やかに…………。
私が超能力で彼女を探そうとしなかったのは、怖かったからだ。私があの子に拒絶されて、傷つくのが怖かったから。
繰り返すようだけど、当時の私に余裕など全くなかった。
友達が一人いなくなり、超能力という身にあまるものを手に入れ、そして両親の不誠実さを知り、家族の絆の脆さを理解して。人を信じる心を失いかけて。
あの子に出会い、その心を見てしまうことが何よりも怖かった。知りたくなかった、人の心なんて。知りたくなかったのに。
だから私は逃げた。過去から、友達から、家族から、責任から、故郷から逃げ出した。
遠く、もっと遠く、夜空に輝く星よりも彼方へと。
☆ ☆ ☆
五年、五年だ。
日にして千八百五十、秒にして一億と五千七百万。実際には、それよりももっと長いことだろう。
それだけの時間をサイコメトリーで遡るのは、私にとって初めての経験だった。
サイコメトリー、それはものに宿った記憶を読み解く力。私の場合は、動画を巻き戻すように時間を遡り、その過程の全てを認識することができる。
覚悟はしていた、そのための訓練もしてきた。だけど、そんなものが意味をなさないほどに、瞼の裏を流れていく景色は暴力的だった。
当たり前だ。五年という長い月日を、たった数分、数時間で遡ろうとしているのだから。極限まで高速化され、逆再生されていく景色に精神が疲弊していくのがわかる。
本当は、今日はここまでやるつもりはなかった。サイコメトリーは使い慣れた能力ではなく、精神にかける負担も大きい。
時の積み重ねとは、情報量の積み重ねだ。
より長く時間を巻き戻すほどに、そこに蓄積された情報が私の脳内へと雪崩れ込み、私の意識を押し流す。
それは途方もないことで、自我の弱い人間ならすぐに脳が勝手に意識を閉ざしてしまうだろう。それが、人の防衛本能というものだから。
でも、もう逃げたくはない。
言い訳をして、やるべきことから目をそらして、そして後悔したくない。
いま此処にたどり着いたことの意味を、私が帰ってきたことの意味を、無駄にしてしまいたくない。
なのに、なのに、どうして。
たどり着いた真実は、私にとって最も残酷なものだった。動揺が精神を揺さぶり、私の力を不安定なものへと変える。それでも、私はこの丘の記憶を読み取ることをやめなかった。
…………やめられ、なかった。
認めたくない気持ちが言葉となって、口から溢れ出す。きっと、現実の私は悪夢にうなされたように寝言を繰り返しているのだろう。
そんな、嘘だ、誰か、嘘だと言って、と。
頭に走る痛みを無視して、あの日の光景を見返す。
何度も、何度も、何度でも。
そして幾度繰り返しても、その現実が変わることはなかった。
認めざるを得なかった。在りし日の、その光景の中で、私は
────あの子が、いない。
間違っているのは、私の方なのか。
私の記憶がおかしいのか。そもそも、超能力だと思い込んでいた力がなにかの間違いだったのか。
それとも、私の頭が狂ってしまっているのか。本当は、
分からない、分からないよ。
きっと私はその気になればなんでも知ることが出来るというのに、それなのに、自分のことは何一つ分からないんだろう。
私は、私は一体何を、何を信じて、何を導に生きていけば、なにを、誰を、誰の言葉を信じれば────。
「────美咲?」
黄金の輝きと、目があった。それは記憶の中にある何よりも綺麗で、不覚にも、少し安心してしまった。
だけど、あぁ、なんで……此処にいるんだ。私の目の前に、現れるんだよ。
────なぁ、弦巻こころ。