やってしまった。
私の左手には弦巻こころが手放しかけた風船が握られており、右腕には弦巻こころ本人がすっぽりと収まってしまっていた。
咄嗟のことだったとはいえ、初めて人に対して念動力を使ってしまった。目の前で怪我をされるかもしれないという焦りの感情が、私にそうさせた。もし何か勘付かれでもしたら、なにか言い訳できるかも怪しい。
一応、客観的に見ればそこまでおかしな光景でもなかったと思う。
私がしたことといえば、弦巻こころを念動力で受け止めたという、たったそれだけのことだ。
私の念動力は、動かす対象がサイコパワー的な光に包まれることはない。イメージでいえば、ポルターガイストに近い能力なのだ。そして不思議なことに、動かした対象を急停止させても、その対象に慣性が働くことがない。
いうなれば、マウスカーソルでドラッグアンドドロップ操作をするような感覚だ。
念動力を弦巻こころにかけて落下の勢いを無かったことにし、そのあと受け止めたふりをしつつ腕の中で念動力を解除した。
見た目上では、落下しつつある弦巻こころを片腕で抱きかかえたようにしか見えないだろう。
いや、その時点で私がとんでもない怪力女みたいに思われてしまうが、実際に怪力を使えるからまぁ仕方ないともいえる。
こうして考えている間に急ぎ足で近づいてきている黒服の集団に「えっ、なにこの女の子……体幹が安定しすぎ…………」と思われることはあっても、「もしかして今、念動力を使っていました?」などと疑問に思われる心配はない、はず。
繰り返し主張するが、見た目上では私が華麗に弦巻こころを受け止めたように見えるだろう。
そう、見た目上では。
当事者である私。そして、念動力をかけられた弦巻こころにはそれが当てはまらない。
私は昔、念動力で自分自身を持ち上げることができるか試したことがある。念動力をかけられるという感覚がどんなものなのか、知っておく必要があったからだ。
結論からいえば、それは容易く行うことができた。その瞬間、私は世界で唯一、念動力の感触を知る人間になった。
そう、念動力は触覚で感じ取ることができるのだ。
念動力をかけられた場所は、僅かながら熱を持つ。それはまるで、一枚の毛布で全身を包み込んだようで。あるいは、抱擁を受けているみたいで。
それでいて、自分が世界から切り離されたかのような、そんな不思議な感覚。
それが、念動力の持つ力の特性だった。
私の腕の中に収まった弦巻こころはキョトンとした表情をしながら、自分の両手をニギニギと動かし、その身に味わった感覚を反芻しようとしている。あぁ、分かるよ。全身を誰かに包み込まれていたような気がするんだろう? 私もそうだった。
彼女を地面に一人で立たせ、いつの間にか目の前に来ていた少年へ風船を渡す。「もう離しちゃダメだよ」と、そう告げようとして。
「奥沢様、少しよろしいでしょうか」
────これからどうするべきか考えている私に、件のスーツ姿の不審者が声をかけてきた。いや、跡をつけてきていたのは知ってるけど、なに普通に私の名前を呼んでるのよ。
そんな気持ちを悟られないように、心持ち驚いたような演技をしながら後ろを振り返る。
「えっ、あの、はい…………どちら様ですか?」
今気づきました。みたいな顔をしながら、サングラス越しに瞳を合わせる。
【まさか、こころ様の危機を前にして一般の方に先を越されてしまうとは。今後の警戒態勢の見直しを────】
あぁ、なるほど。そういうあれね。
黒い服の人から視線を逸らし、歯をくいしばる。そうしなければ、大きなため息が出てしまいそうだったから。
薄々感じていたことだが、弦巻こころは普通じゃない。
普通じゃないっていうのは、まぁ彼女の理解しがたい感性も含めて全てに当てはまるのだが、特筆するべきはその危機感のなさだ。
いや、ありえないだろう。木に登るのは危ない、なんてのは普通の家庭で育てば分かることだ。いくら子供が世間知らずとはいえ、流石に限度がある。
子供は痛みから学ぶことが多い。喧嘩を通して「殴られたら痛い」ということを知り、そして叱られ、「人を殴ってはいけない」ということを理解するのだ。
それと同じだ。木から落ちれば怪我をする、怪我をすると痛い、痛いのは怖い、だから無理して木に登らない。どれだけ無謀な子供であっても、そういったプロセスを経て性格が丸くなり、一般社会に溶け込んでいく。
ならば、その痛みを感じたことがないとしたら? 何かを失敗しても、その痛みを感じる前に誰かが全て無かったことにしてしまえるのであれば?
どれだけ危険な事をしても、それで痛みを感じる事なく成長してしまった子供はどうなるのだろうか。
まぁ、つまり、なんだ。
私のこのなんともいえない感情は、憤りなのかもしれない。学ぶということは、成長するということ。ただただ過保護に守るだけで、子供が一人で生きていくための成長を奪っていく大人というものは、あまり好ましいものではない。
少し心を覗いただけで、この黒い服の人が弦巻こころをどれだけ想っているのかは分かった。そして、弦巻こころがどんな家庭に身を置いているのかも。きっと、彼女達はこの子の護衛か何かなのだろう。
そこにあるのは義務感と敬愛であり、悪感情などいっぺんも存在していないということも、まぁ、認めよう。
だけど、なんだろう。
私は好きじゃないな。そういう、鳥籠の中の鳥を愛でるみたいなやり方。
泣いていた少年はいつのまにかいなくなっていた。私が風船を渡した時点で、どこかに走り去っていったのだろう。
黒い服の人が言ったことは、要約すれば私に対する感謝と、これまで断りもなく跡をつけてきていたことへの謝罪と、自分達と弦巻こころの関係性の説明だった。
私は弦巻こころが何か気づいたのではないかと気が気でなかったし、彼女達の話よりも弦巻こころの境遇の方が気になって仕方がなかったから。聞き流すみたいな事をしてしまったけど、許してほしい。
その態度が、驚きで茫然としている普通の少女のように見えることは望外にも、幸運なことだった。
このまま当たり障りのない事を言って、この黒い服の人達に弦巻こころを押し付けてこの場を立ち去るのが、現状における最善手だ。
人の言葉は真実とは限らないが、その心は嘘をつくことができない。だからこの黒い服の人達が弦巻こころの関係者ってことは、これっぽっちも疑っていない。
不審に思われる前に、いなくなるべきだ。
先程から不自然に黙り込んでいる、行動力おばけが覚醒してしまう前に。
お堅い言葉で賛辞を贈ってくれる黒い服の人には悪いけど、そろそろ目的の場所へと向かうとしよう。
ただ一言、「すみません」と切り出そうとして。
「ねぇ、美咲」
やばい、と。そう思った時にはもう手遅れで。
「あなた、さっきあたしに何かしなかった?」
金色に輝く二つの瞳が、私の心の中の後ろめたさを貫いていた。
☆ ☆ ☆
黒い服の人達は、いつの間にかいなくなっていた。主人? である弦巻こころが口を開いた途端に姿を消すとは、いや、もう、流石の私も感心するよ。二人で会話したい、という弦巻こころの気持ちを汲んだのだろうか。超能力が使えるわけでもないのにそれが出来るというのは、凄いことだよ。
「えっと、何か…………って、なに?」
動揺を顔に出すことなく、私は言葉を返す。こういう事態に遭遇した時のために、ある程度の受け答えは決めてある。それを披露するのは初めてだから、少し…………いや、かなり不安だけど。
「それはあたしにも分からないけど……こう、なんかね、ぶわぁーっとしたものがあたしに触れたのっ! ねぇ、あなた知らないかしら。こう、ぶわぁーっと、ぶわぁーっとした感覚なのよっ!」
たしかに念動力は言葉で表現しづらい感触をしているけど、それにしたってその語彙力のなさはどうにかならないの?
「いやいや、それじゃ何が言いたいのか分からないって」
「うーん、困ったわ。こう、全身に何かが触れたのよ……あれは、そう、人肌くらいの温もりで、それで、そうよ! 美咲の気配がしたわっ! 美咲があたしを抱きしめたのよ!」
「いや、それは私があんたを受け止めたからで────」
「そういうことじゃないわっ! あたしの全身を、美咲が抱きしめたのよっ! こんな感じよ、ほらっ!」
そう言うなり、弦巻こころは私の胸元に抱きついてきた。その姿勢のまま、私の顔を見上げる。
いや、ちょっと待ってほしい。そんなこと言われても、その、困る。割と本気で。
なんでそこでピンポイントで私が怪しいって気づくんだ。そりゃ、一番近くにいたのは私だけども。その勘の良さを少しだけでも、私の気持ちを推し量るために使ってほしかった。
私を見上げてくる彼女の視線から、目を逸らしてしまいそうになる。だけど、それはダメだ。変に鋭い彼女のことだ。いま目を話したらきっと、何かやましいことがあると勘付かれてしまう、かも、しれない。
私は人の目を見て話すのが苦手だ。
それは人の心が読めるようになる前からそうだったし、超能力を得たあとはもっとひどくなった。
少しの間ならいい。一瞬、ほんの少しだけ目を合わせても拒否感はない。
だけど、それが一分…………いや、数十秒続くと耐えられなくなる。人の心を覗くことができるという事実は、罪悪感となって私の精神を締め付ける。勝手に心を読んで、勝手に失望して。そして勝手に見下す、そんな身勝手にもほどがある自分が嫌いで、それを自覚したくないから、だから目を合わせたくない。
私のテレパシーは、人と目を合わせることで発動する。そして一度心の路を繋いでしまえば、私がその気になるまで効果は持続するのだ。
だからなるべく人の目を見ないよう、そう心がけて生きてきた。帽子を被って、鍔を下げて。視線と心を閉ざしてきた。
そうしなければ…………いつか誰かが、私の醜い本性を覗き込んでしまえるのではないかと。それが心配で心配で堪らなくなってしまうから。
「いや、意味がわからないから」と、切って捨てることができればどれだけ楽だろうか。
私は嘘をつくのも苦手だ。嘘まみれの家庭を作り上げた両親のことを思い出して、どうしようもなく哀しい気持ちになってしまうから。
だからいつか、こういう日がくると思ってた。私は嘘をつくのが下手で、演技が下手で、そして自分で思っているほど自制心があるわけでもないから。きっといつの日か、自分で勝手にボロを出してしまう。そういう確信があった。
うまく言い含められると信じたかった。そのための練習もしてきた。
でも、それは全て無駄だったみたいだ。
だって、まだ弦巻こころは何も知らないのだ。私が超能力者であることも、それを隠して生活していることも。
ちょっとだけ、気になることがあったから。だから、怪しい私に聞いてみたのだろう。彼女の瞳には困惑と好奇心こそあれど、疑惑と確信は一切映っていないのだから。そんな、心を読むまでもなく分かることでも、私は、私には────。
あぁ、思い出してしまう。
身の毛がよだつ、鳥肌が止まらない。
あの、得体の知れないものを見るような、人でないものを恐れるかのような、あの、あの、目が、視線が、私の心の弱いところを、アイスピックで滅多刺しにした、あの、あの、目が、目、視線、が。
化け物を見る目で私を見つめた、両親の顔がフラッシュバックする。
汗が止まらない。暑さではなく、寒さで。心が寒くて、汗をかいてしまっている。冷や汗だ、背筋を垂れていく。気持ちが悪い、早く拭かないと、早く、早く。
「美咲? あなた凄い汗よ、大変だわっ! 日陰で休まないと────」
私を見つめる瞳が怖い。その瞳に映る感情が、好奇から恐怖へ変わってしまうのが、心底恐ろしい。
私の頬へと伸びる腕に、弦巻こころの腕に、もう声も忘れてしまったあの人の腕が重なる。
『あんたなんか、■■■■■ばよかった!!』
やめて…………やめて、お願いだから。私を見ないで。化け物の私を、化け物を見る目で見ないでください。あぁ、私が、私の、記憶、が、思い出の、星が、見える。私が『私』でなくなってしまった、あの日の、あの空から、落ちてきた、声が、私に、私を、与えて消えた、あの、声が。
『みさきちゃん? だいじょうぶ!? みさきちゃん!!』
誰でもいいから、私をここから連れ出してほしい。誰もいないところに、誰も私を見られない場所へと。どこか、遠くへ。なによりも、星よりも遠く、誰も、誰も私を見つけられない、ば、しょ、に?
────きこえるよ、君の声が。
気がつけば私は、誰もいない丘に立ち尽くしていた。