気がつけば私は一人、浜辺で立ち尽くしていた。
……………………は?
「……………………は?」
思わず、思考の中の疑問符が口からこぼれてしまった。いや、なにごと?
目の前を呆然と眺め、ふらふらとした足取りで海へと近づく。砂の感触をリアルに感じ、足の裏に刺激がはしる。なぜだろう、私は裸足になっていた。
波打ち際まで進んだところで、私はペタリとその場に座り込んだ。
なぜ、私はこんなところにいるんだろうか。
記憶が確かであるならば、私は公民館で椅子に腰掛けていたはずだった。
単身で電車へと乗り(本当は駅で寝過ごしたんだけど)、進学予定の高校を見学し、古巣を訪れ、思い出をなぞるように街を見て回った。
そして休憩するために馴染みのある公民館へと足を運び、そこでお茶を飲んで一息ついていたはずだった。
それが、次の瞬間には見知らぬ浜辺だ。
正直、意味が分からない。
無意識のうちに、事故のように瞬間移動を行なったわけではないだろう。
私が瞬間移動をするためには、移動する先を視界に捉えている必要がある。遠距離の移動を行うためには、前準備として遠視を用いて行き先を決めなくてはならない。
だから原則として、
だからこそ、この状況は本当に意味が分からなかった。
私がどれだけ使おうとしても、遠視が全く発動しないのだ。
私の使う遠視は、自分自身の肉体を開始地点と設定した上で視界を遠くへと飛ばす能力だ。
分かりやすくいえば、カメラのついたドローンを用いて遠くの景色を頭のなかに中継放送している感じだ。
使えるはずのものが使えないというのは、私に大きな衝撃を与えた。
なにか行動を起こさないといけないのに、放心して微塵も動く気にもなれないくらいには。そのくらいには、衝撃的だった。
普通の人でいえば、肉体の機能を失ったようなものだ。突然目が見えなくなったり、下半身が動かなくなったら、そりゃあ混乱するでしょ。
そんな状態だからこそ、気づくのが遅れてしまった。
目の前の景色の不自然さに。
……………………は?
「……………………は?」
再び、疑問符が口から零れ落ちた。
波打ち際まで近づかなければ分からなかったのが不自然なくらい、目の前の海は理解できないものだった。
海底が見えるくらいに透き通った色をしていて、それでいて妙に赤黒く、それでいて仄かに甘い匂いがする。
手酌で顔に近づけると、それがなんなのかハッキリと理解できた。少しだけ、口に含む。
うん。
「これコーラだ」
いや、いやいや。いやいやいやいや────。
「コーラの海ってどういうこと!? 環境破壊ってレベルの話じゃないでしょ!? 百歩譲って炭酸飲料にするとして、透明なサイダーとかにしておきなって!!」
自分でツッコミをしておいてなんだが、かなり混乱しているのがハッキリ分かるくらい、私の言葉は支離滅裂だった。常識的に考えてソーダもダメでしょ。そこは百歩どころか一歩も譲らないでほしい。
「えっ、ちょっとまって、どうなってんのここ」
混乱しているなりに心を落ち着けて周囲を見渡せば、なるほど、うん、そうか、そういうことだったんだ。
落ち着いてみれば簡単な事だったんだ。
周囲を見渡した私の視界には、沢山の不可思議なものが映り込んでいた。
地平線の遥か彼方に存在しながら、遠近感というものをどこかに忘れてきたかのように巨大に見えるクマのぬいぐるみ。
海岸にこれでもかと転がっているのは、大小様々なキャンバスに描かれた子供の落書きのようにデッサンのおかしい絵画。
ケーキで出来た建築物と、それに突き立てられた巨大なろうそく。
パッと見渡すだけでもそれだけのモノが配置されていて、そしてまだまだ沢山の「理解しがたいモノ」があちらこちらに転がっている。
太陽は不自然なほど近くに存在していて、星の輝きが見えるほど黒く暗い夜空なのにとても明るい。
…………いや、冷静に羅列しても理解できないわ。頭がおかしくなってしまいそう。というか、私の頭がおかしくなってしまったのだろうか? こんな
『────? ──────!』
あ、いや、分かった。
『────! ──────』
世界の全てが、うん、わかってきた。
そうだったんだ、宇宙と時間と私との関係はすごく簡単なことだったんだ。
『────! ────!!』
ははは、どうして、私が超能力を使えるのかも。イチ足すイチがどうしてニになるのかも、私が小さい頃に■■■が消えた理由も────────。
『────っと、あなた大丈夫? もしもーし? おかしいわ、きこえてないのかしら?』
きこえている、きこえているから。お願いだから静かにしてて、私はいま
『もうっ、人の話を聞かないイケナイ子はこうしちゃうんだから』
頬に痛みが走って、私は目を覚ました。
☆ ☆ ☆
「────いふぁい、いふぁいっへ」
「やっと反応してくれたわねっ、あたしが何を言っても無視するものだから、寝ちゃってるのかと思ったわ?」
「…………うん、それはわかったからはなひて」
「いい笑顔だったわよ? やっぱり泣きそうな顔をするより笑っていた方がいいのよ!」
爛々と輝く黄金の瞳で私を覗き込みながら、この少女は私の頬を指で掴んでいた。指で引っ張った口元が弧を描くように釣り上げられ、きっと私は不恰好な笑みを浮かべているのだろう。
お願いだから気づいてほしい、それは苦笑いの上に重ねた愛想笑いだ。ピクピクと痙攣する頬の筋肉が、何よりも雄弁に私の気持ちを表現している。
いや、なんなのこの子。
言葉を返していなかった私も、確かに悪いと思う。でも、流石に、尻餅をついている相手に正面から乗りかかって頬を引っ張ってくるなんて思わないじゃない。
シミひとつない滑らかな手を私の顔から離して、少女は満足そうに微笑んでいる。
いや、私の上から退いてくれ。
冷静な部分の感情がそう叫んでいるが、そんなものとは別の部分で私は理解していた。
さっき見て、体験した。摩訶不思議な風景の正体が分かったのだ。こうして意識を取り戻して、ようやく理解できた。アレは、あの景色は、あの場所は────。
「あら? あなた、随分と体が冷たいのね? 肌が触れたところがひんやりして気持ちいいわっ」
────この子の、心の中だ。
☆ ☆ ☆
「それで、あなたは誰? 名前はなんていうの?」
興味津々といった様子で、私の瞳を覗き込む少女。うん、よく分かった。この子、私の苦手なタイプだ。距離感がぶっ壊れている、女同士とはいえ初対面で抱きつくってどういう教育を受けてきたんだ。
ため息をつきそうになる口を無理やり動かして、言葉をつなぐ。
「それよりも先にお願いがあるんだけど…………立てないから、どいてくれない?」
「ダメよっ、教えてくれるまで離さないわっ」
えぇ…………?
「嘘でしょ…………」
「……? あたしは嘘なんてついてないわよ?」
頭が痛くなりそうだ。これでワザとじゃないっていうのなら、本当の本当にホンモノなのだろう。
こちらを覗き込む瞳を、じっと見つめ返す。陰り一つ見当たらない、強い意志をもった瞳だった。きっと心の底から、正気の本気で言っているのだろう。
あぁ、うん、そう。
「うん、なるほどね、分かった。あんたバカでしょ」
「あたしは『ばか』じゃないわよ? あたしの名前は『弦巻こころ』っていうの、こころでいいわよ?」
(そういう事を言いたいんじゃないんだってば!)
心を読むまでもなく、察していた。この子は、冗談でもなく本気で言っているんだと。
あぁ、ほんの少しのやり取りで理解してしまった。この子、ホンモノのアホの子だ。
こうしている間も、この子は私に密着したままだった。裾の短いハーフパンツから露出したすべすべの足を私の腰に落ち着きなく擦りつけ、両腕を私の首の裏へと回してガッチリと抑えて、私を逃さないように全身を使って抱きついている。
…………いや、ちょっと待って、なんか感触がおかしくない? …………えっ、デカくない? いやいや、これ私のよりもふた回りくらいデカくない? 嘘でしょ? こんなに軽いのに!? 私よりも身長が小さいのに? 私、小学生に負けてるの? えっ、どうなってるのこれ、すごく柔らかいんだけど。
一度気づいてしまえば、何処となく居心地が悪く感じてしまう。二つの金の瞳から目を逸らし…………それでもなお、私の瞳を追いかけてくる顔を手で押さえて、全力で────あくまで普通の少女としての腕力でーー抵抗する。
頬が熱い。きっと私はこれでもかというくらい赤面しているのだろう。意識しちゃっているのだ、今日始めて会った女の子の、か、からだ…………を。
いや、変な意味ではない。だって、そんな、私が、まるで、その、わたしが、へ、へんた…………。
ああ。
ああ、もう。
もう、もう!!
「近いって!! はな、離してってば!」
「なんでそんなに嫌がるのっ? いいじゃない、ハグ! こうしていると『楽しい』が溢れてくるのよっ、不思議だわっ!」
「知らないって! あ、当たってる! 当たってるから!! むしろこれでもかってくらいくっついちゃってるから!!」
「当たり前じゃない! あたしはくっついてるのよ、今のあたしはくっつき虫なのよっ!」
「そうじゃないって言ってるでしょおおおお!!」
「そんなこと言っていたかしら?」
「だからそれが違うって言ってんの!? 分からないの!? なんで!?」
恥も外聞もなく叫んだ勢いで
「あら、あなた力持ちなのね!」
「あんたが軽いんだよおおおおお!!」
抱えた少女を何度も振り回して、そうしてようやく、ようやくこの子は手を離してくれた。疲れた、すごく。いや、体は元気そのものだけど。心が、すごく疲れた気がする。
「あなたすごいのね! すごく、すっごく気に入ったわっ。もう一度やってくれないかしら?」
「二度とやらない」
あれだけ目立つことをしてしまった以上、もう公民館で休んでいられなかった。刺さるわ刺さるわ、人の視線。すごく居た堪れなかった。
だから早々に立ち去って、次の場所を目指すつもりだったのに。
「ねぇねぇ。あたし、まだあなたの名前を聞いてないわ。そろそろ教えてくれてもいいんじゃない」
「嫌です」
「どうしてそんなイジワルをするの? あたしはあなたのこと、すっごく気に入ってるわ! 好きよ? だからあなたもあたしを気に入ってくれたら、すごく嬉しいわ。好き、っていう気持ちが、新しい『好き』をうみだすのよっ。素敵だわっ! それをたくさん繰り返せば、きっと世界はもっともーっと素晴らしくなる、あなたもそう思わない?」
流石に話が壮大になりすぎじゃないだろうか。なんか世界とか言い出しましたよ、この子。
でも、そんなちょっとおかしい子に付きまとわれて、それで『好き』って言われるだけで心揺れてる私は、もしかしたらすっごくチョロいのかもしれない。
どうしてだろうか。初めて会ったはずなのに、少し触れ合っただけなのに、この子がこんなにも気になって仕方がない。私を覗き込んでくる金色の輝きから、目が離せない。
────仕方ない、かな。
少しずつ近づいてくる顔を手で押さえながら、もう片方の手で帽子のつばを下げる。金色の輝きが遮られ、ようやく心が平静を取り戻した。
そのまま、視線を合わせないようにしつつ口を開く。普段から割と流されやすい方だとは思っていたけど、まさかそれがこんなことになるなんて。流石に予想できないでしょ。
まぁ、いいか。名前を教えるくらい
「────私は美咲、奥沢美咲っていうの」
「じゃあ美咲って呼ぶわねっ。それで美咲、あたし達はどこに向かっているのかしら?」
「えっ、着いてくるつもりなの? 名前を教えたらバイバイじゃなくて?」
「当たり前じゃないっ! 美咲に着いていけば楽しいことに出会えそうな気がするのよ。あたしが楽しいことをわざわざ見逃すなんて、考えられないわっ!」
「…………まぁ、いいけどさ」
いざとなったら、逃げちゃえばいいわけだし。