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僕と昨日の人魚姫

作者:黒井へいほ

 ――夜。家を抜け出し、近所の海へと出向き、テトラポットに座る。

 目の前に広がる海は黒く、昼間のような青さは無い。だが月明かりを反射しており、波はキラキラと輝いていた。


 兄からもらったアコースティックギターを膝の上に乗せ、チューニングをする。耳に自信があるわけではなく、チューナーを持ってきているわけでもない。おおよそ合っているだろう、といった感じだ。

 しかし、それで十分でもある。誰かに聞かせるわけではない。ただ自分が弾きたいから弾く。これは、そういった行為だった。

 C、A、G、F。いくつかのコードを試しに弾いた後、拙い演奏を始めた。


 曲はビートルズのYesterday。兄の残していった譜面があり、とても気に入っている曲だった。

 まだぎこちない3フィンガーピッキングを駆使し、どうにか音を紡ぐ。間違えても止まらずに最後まで弾く。ここで弾くときは、そうすると決めていた。


 僕は学校では地味なほうだ。アコギを弾いていることを知っている人もいない。

 だからこそ、自分だけのなにかがほしい。趣味となるものを得たい。そう考えていた矢先に、兄からアコギを譲り受けた。

 とはいえ、兄は見栄でギターを買い、埃を被らせていた人間だ。教えてもらうことなどはできない。


 しかし、教材などはしっかり買っていた。一度は本気でやろうと考えていたのかもしれない。

 部屋で弾くのとは違い、どこまでも音が届いていくような感覚。少し格好つけているような気もするが、この時間は僕にとって、なによりも大切なものだった。


 下手でも構わない。誰かに聴かせているわけではない。聴いているのは、月と星、それに海だけ。

 鼻歌まじりに気持ちよく、たまにつっかえながらも弾いていると、後方から歌声が聞こえて来た。

 ビクリとし、一瞬弾くのを止めてしまう。だが一度決めたルールを曲げてはならないと、すぐに弾き始めた。


 それに合わせ、また歌声が聞こえ出す。

 誰かが後ろにいる。下手くそなギターを聴かれているのが恥ずかしい。一体誰だろうか? 気になるが振り向く余裕はない。

 程なくして拙い演奏を終える。妙に緊張していたせいか、全身に汗を掻いていた。


「……」


 声は女性だった。だが声をかけてくるわけではない。

 意を決し振り向こうと決めたとき――


「お願い、振り向かないで」


 聞かなければならない理由は無い。だが、なぜだろうか。そうするべきだと思い、僕は振り向かなかった。

 短い沈黙。

 ボンヤリ海を眺めていると、小さな声で話しかけられた。


「あの、ギター……」

「う、うん」


 歌っていたわけでもないのに喉がカラカラだ。無意識の内に唾を飲み込んだ。

 下手くそなギターへのクレームだろうか? まるで自信がないためビクビクしていたのだが、続く言葉は想像していたものとは違った。


「とっても良かった」


 顔がカーッと熱くなる。

 何度も間違えて、止まりそうになりながら弾いていた。良かったはずなんてない。

 誉められたのに申し訳ない気持ちでいっぱいになり、僕は俯きながら言った。


「その、まだ練習中で、だから……ごめんね」

「――ううん、本当に良かった。素敵な演奏を聴かせてくれてありがとう」


 波の音と、感謝の言葉が頭の中で反芻する。

 誰かに聴かせていたわけじゃなかった。本心からそう思っていたのに、嬉しくて仕方がない。

 こちらこそ、歌ってくれてありがとう。そんな一言を口にできずもごもごしていると、スマホからアラーム音が聞こえた。


「あっ……。ごめん、帰らないと」


 時刻は23時。高校生が出歩いて良い時間ではない。

 もう少し話をしたい。そんな気持ちを押し隠して立ち上がる。……しまった。振り向かないでと言われていた。


「えっと、悪いけど、先に帰ってもらってもいいかな?」

「あ、うん。そうだよね」


 離れて行く足音に、どんな人なのだろうと思いを馳せる。だが足音はすぐに止まった。

 どうしたのかな? 不思議に思っていると、彼女が聞いてきた。


「振り向かないでくれてありがとう。理由も聞かないでくれてありがとう。……また、会えるかな?」


 少し惑った後、答えた。


「このくらいの時間に、たまにここで弾いてるんだ。拙い演奏で良ければ、その、いつでも、どうぞ」


 もう少しうまく答えられないのかと、言い終わってから後悔する。自分のネガティブさにうんざりしそうだ。

 しかし、彼女は嬉しそうに答えてくれた。


「うん、また来るね!」


 胸がほんのりと温かくなる。手を当てると、強く脈打っているように感じた。

 足音が離れていく。徐々に音が聞こえなくなり、完全に消えた。

 顔も分からない。名前も知らない。声と歌だけを教えてくれた少女。

 ギターを上から下へ、一度だけ鳴らす。

 僕は海と綺麗な歌声にちなんで、彼女のことを『人魚姫』と名付けた。……声だけを知っているので、真逆だけどね。


 ◇


 学校へ行き、少ない友人と他愛もない話をし、家へと帰る。部屋に入れば、うまく弾けなかった部分の練習をする。これが、僕の日常のはずだった。


 夜、22時半。家を抜け出し、海へと向かう。

 昨日よりも足取りは軽く、浮かれているなと自分でも分かった。

 テトラポットへ腰かけ、いつもと同じようにギターを弾く。またあの歌声が今日も聴ければいいな、と思いながら。


 しかし、そんなに都合の良いことはない。どうにか一曲弾き終えても、歌が聞こえてくることはなかった。

 少し落胆しながらも、後ろを見ることだけはしない。

 昨日を信じている。Yesterdayの、歌詞の一部を思い浮かべながら、少し臭いかな、と思った。

 まだ時間があることを確認し、もう一度弾き始める。……歌声が聴こえた。


 彼女の歌が、うまいのかどうかは分からない。だけど、綺麗だな、と思う。

 自分の拙いギターに合わせ、誰かが歌ってくれている。それがたまらなく嬉しく、同じくらい恥ずかしかった。

 ――弾き終わり、息を吐く。拍手が聞こえて来た。


「昨日よりもっと良かったね」

「一日でそんなにうまくならないよ。でも、もし良かったとしたら」

「良かったとしたら?」

「綺麗な歌があったから、かな」


 本心からそう思い告げたのだが、すぐに気付く。僕は今、とてつもなく恥ずかしいことを口にしなかったか?

 顔が熱くなり、赤くなっているであろうことが分かる。本当に良かった、振り向かないというルールがあって。今の顔を見られるのは恥ずかしすぎる。


 雰囲気に呑まれ過ぎだろ、出会って二日の相手になにを言っているんだ。

 穴があったら入りたい。だが海しかないため、沈むしかないのか? 両手で顔を覆っていると、彼女の声が聞こえた。


「……ありがとう。ひゃー! 恥ずかしいなー!」


 あれ? こんな子だったっけ? 僕のイメージでは、清楚な黒髪の女の子だったが、明るい体育会系の子に変わりそうだった。クラスのリア充グループね。

 少し躊躇ったが、別にいいかと思い直した。

 僕たちは互いの顔も知らず、いつ終わるかも分からない夜の演奏会を重ねる。そんな、不思議な関係でいいのだから。


「そういえば、こんな夜遅くに家を出て大丈夫?」

「こ、こほんっ。それはこっちの台詞だよ?」


 あ、キャラ付けが変わった。実は面白い子なのかもしれない。


「まぁ、僕はすぐに帰るから大丈夫だよ。親もどこにいるか知ってるからね」

「信頼されてるんだね」

「んー、そうなのかな? うん、そうかもしれない」

「うちとは全然違うなぁ」

「そうなんだ」

「そうなんです」


 なぜだろう。クラスの女子とも普通に話せない僕が、自然に話すことができている。顔を見ていないからか? それとも海がいいのか?

 首を傾げていると、スマホのアラームが鳴る。帰る時間になったようだ。


「じゃあ、先に帰るね」

「うん」


 離れて行く足音に、僕はなにも言わない。少しだけ名残惜しさがある。

 しかし、彼女のほうから声がかけられた。


「またね」

「……うん、また!」


 明日かもしれない。明後日かもしれない。いつ果たされるかも分からないこの約束が、僕にはとても大切なものに感じられた。



 出会ってから三日、四日、五日、十日。なんの予定も無い僕は、また会えるかもしれないという淡い期待の元、アコギ片手に海を訪れる。

 その願いが通じていたのか。彼女も毎日のように訪れていた。


「他の曲は弾かないの?」

「実は、まだこれしかできないんだ。……これもまだまだ練習中だけどね」

「なら、他の曲を練習するときは教えてね。わたしも覚えてくるから」

「うん、分かった」


 一緒にいる時間は短く、演奏の時間はさらに短く、話す時間はもっと短い。

 だがこの共に過ごしたこの短い時間で、僕は彼女に惹かれていることに気付いていた。顔も名前も知らない、人魚姫に。

 ――もっと仲良くなりたい。

 そう思っていながらも、決して振り向くことはない。もし知ってしまえば、泡となって消えてしまうんじゃないだろうか? そんな、確信に近い予感があった。


 ある日のことだ。

 学校で譜面にうまく弾けない箇所へ書き込みをしていると、横から取り上げられた。

 友人の誰かだろうと思い、苦笑いで言う。


「やめ――」

「え? なに? お前、楽器なんてやってんの?」


 相手の顔を見て、僕は固まった。友人ではない。クラスの中心グループにいる、男子生徒の一人だったからだ。


「あ、いや、その」

「ふっるい曲だなー。で、楽器はなに? 分かった、キーボードだろ」


 悪意があるわけではないと知っている。ただ興味があり、話を振った。それだけだ。

 ……だが、分かっているのに声が出ない。苦笑いを浮かべる以外、なにもできなかった。


「なぁ、キーボードだろ? 教えろってー」

「――なにしてんの?」


 救いの手が差し伸べられた。そう思い目を向けたのだが、姿を見て愕然とした。

 ウェーブのかかった金色の髪を――ポニーテールと言えばいいのだろうか?――上のほうで纏めている派手な少女は、僕から譜面を奪った彼と同じグループの一員だった。


 一人でも対処できないのに、二人に増えている。許容限界を超えてあたふたしていたのだが、彼女は予想外の行動に出た。

 彼から譜面を取り上げ、丁寧にまとめた後、僕の机に置いたのだ。


「困ってんだからやめなよ」

「ちょっと聞いただけだろ?」

「ったく……ごめんね?」

「うん、大丈夫。ありがとう」


 席から離れて行く二人を見て、溜息を吐く。悪い人じゃないとは分かっているが、苦手意識はどうしようもなかった。



 ――夜。

 いつものように僕はギターを弾き、彼女が歌う。最近はこの時間が待ち遠しくなっており、訪れる時間が少しずつ速くなっていた。

 三回ほど通した後、雑談ついでに今日のことを話してみた。


「実は今日、クラスメートに譜面を取り上げられちゃってさ」

「……そうなんだ」

「悪い人じゃないんだよ。嫌がらせとかじゃなくて、ただ興味があっただけなんだ。……でも、どうしてもクラスの中心人物たちって苦手でさ。彼に悪いことしちゃったなぁ」


 僕がおどおどしていたせいで、虐めているように見えなかっただろうか? 決してそんなことはないのだが、もしそうなっていたらと考えてしまう。


「大丈夫、きっと彼も分かってくれてるよ」


 今日一日、ずっと悩んでいた。本気で落ち込んでもいた。

 でも、なぜだろう。

 彼女がそう言ってくれただけで、心が軽くなるのを感じた。


「……また話しかけてくれたら、頑張ってみるよ」

「うん、でも無理はしないでね」


 このとき、我慢できないほどに彼女を見たくなった。いや、それだけではない。好きだと伝えたいとすら思った。

 だけど、嫌われたくないから振り向いてはならない。必死に抗っていると、背中になにかがピタリとくっついた。


「もう一回弾いてくれる?」

「うん」


 ――君のためなら何度でも弾くよ。

 そんな言葉をひた隠し、僕はギターを奏で、彼女はそれに合わせて歌ってくれた。

 この日、家に帰った後。悩みに悩んだが、僕は一つのことを決めた。新しい曲を練習しよう、と。

選んだ曲は、『One Call Away』。

 この曲が弾けるようになったとき、思いを打ち明けよう。不思議と力が湧き、練習には熱が入った。



 ――翌日。

 登校すると、すぐに例の彼が訪れた。


「おっす!」

「お、おはよう」

「昨日は悪かったな。……オレさ、こう見えてギターやってんだぜ? 音楽やってるやつはみんな友達じゃん? 親近感湧いちゃってさ!」


 こう見えてもなにも、彼がギターをやっているのは見た目通りだろう。恐らくエレキギターで、ロックを奏でているに違いない。うん、しっくりくる。

 何度か声を出そうとしたがうまくいかない。

 しかし、それではダメだ。昨日彼女と約束したのだからと、深呼吸をし、なんとか声を絞り出した。


「あこ、ぎ」

「あこ?」

「あ、アコギ、やってる。僕、少し。まだ、全然」


 お前は壊れたロボットか。同級生相手に、そんなに緊張してどうする。

 自己嫌悪で潰れそうになってしまったが、彼は満面の笑みを浮かべていた。


「へぇー! オレはエレキなんだけどさ。最初はアコギで練習したほうがいいって教えてもらったから、アコギも持ってんだぜ! 今度、一緒に弾いてみるか? そうだ、駅前とかいいかもな!」

「む、むりむりむりむり!」

「そんなことねぇってー」


 こういう流れになることもあるのか。だが、いきなり駅前で弾き語りとは難易度が高すぎる。首を左右に振り続けていると、例の彼女が近づいて来た。


「なんの話してんのー?」

「こいつさ、アコギやってんだって。それで一緒に弾き語りしようかと思ってな!」

「……明らかに困ってんじゃん」

「え、マジで? 困ってる?」


 僕は何度も頷く。


「……本当だ、困ってた。ごめんな、急に」

「だ、大丈夫」

「じゃあ、そのうちってことで! ところで――」


 彼は好きなバンドや曲の話をしてくれていたのだが、僕はそれどころではなかった。

 断ったはずなのに、やることが決定しているように感じる。待って? やらないよね? 断ったよね? 気もそぞろなまま、彼らの話に首肯するだけだった。



 その日の夜。

 僕は彼女に、今日あったことを話していた。


「――そうなんだ。頑張ったね。きっと仲良くなれるよ」

「う、うぅん。仲良くなれる、かな?」


 そうは思えないのだが、仲良くなれたら嬉しいかもしれない。……それに、彼女が嬉しそうな声をしているから、仲良くなれたほうがいいな、と思った。

 何度か演奏をした後、僕は彼女に例の話を切り出すことにした。


「新しい曲を練習しようと思っているんだ」

「楽しみ! わたしも練習しておくね! なんていう曲?」

「……『One Call Away』って知ってる?」

「うん、知ってるよ。彼女が好きで好きでしょうがないラブソングだよね」

「そ、そうだね。好きで好きでしょうがないのかもしれない、かな」


 こう、本人から言われてしまうと恥ずかしいものがある。確かに好きで好きでしょうがないのかもしれないが……うわー! と叫び出したい気持ちだ。

 だが、当の本人は気付いていないのだろう。いつもと変わらぬ様子で聞いて来た。


「いつからやるの? 明日?」

「まだ全然練習してないから……。一ヶ月後、夏休みに入るんだ。その日からはどうかな?」

「結構後にするんだね。うん、でも分かった」


 そりゃ少しでも練習時間をとらないと、情けない演奏で告白をすることになってしまう。僕だって男だ。そういったときくらい、格好をつけたい。

 しかし、もう後には引けなくなった。

 ……死ぬ気で練習しよう。心の底からそう思った。



 指が裂けた。絆創膏を貼った。傷が治るのがもどかしくギターを弾いてしまった。さらに治りが遅くなった。だが必死に頑張り続ける。

 一ヶ月が経ち、ようやく、最後まで弾けるようになっていた。

 明日は約束の日。ガチガチの指先が、少しだけ誇らしかった。

 終業式が終わり、家へと帰る。夜が待ち遠しく、ソワソワしてしまった。

 時間は21時。まだ早いと分かっていながら、我慢できずに家を飛び出した。



 テトラポットに腰かけ、例の曲を練習する。後一時間で、少しでも上達したい。

 しかし、三十分後のことだ。


「早いね」

「……そっちこそ」


 予想よりも遥かに早く、彼女は訪れていた。

 その声を聞いただけで、心臓がバクバクと音を立てている。普段なら聞こえる、後方に彼女が座る音も聞こえなかった。


「今日、約束の日でしょ? 楽しみで早くきちゃった」

「そ、そっか」


 どちらも話さず、辺りを静寂が包む。もしかしたら、緊張していると気付いてくれたのかもしれない。その気遣いが嬉しくもあり、情けなくもある。

 何度か深呼吸をした後、僕は口を開いた。


「じゃあ、やってみようか」

「うん」


 何度も練習したフレーズを、頭が真っ白になりながら弾く。


 ――いつだって飛んで行くよ。

 ――ただ君に愛をあげたい。

 ――僕はただ、君の笑顔が見たいんだ。


 最後まで弾き切り、静かに息を吐き出す。

 今までで一番の演奏ができたと、想いが籠められたという自信があった。


「すごい! とっても良かったよ! なんか、胸が切なくなっちゃった」

「良かった。ありがとう」


 彼女にも伝わっていたらしく、思わず拳を握る。後は、告げるだけだ。

 視線を上げ、月を見る。海は月明かりを反射し、青白く光っていた。


「もう一回やらない?」


 答えず、息を整える。胸は高鳴り、手は震え、感情だけが暴走しているようだった。

 一度目を瞑った後、決して彼女には目を向けず、まるで月に伝えるように言った。


「――君のことが好きです」


 顔も知らない。年齢も分からない。連絡先すら分からず、名前も当然知らない。

 でも、この気持ちだけは本物だ。

 ただ静かに返事を待っていると、彼女が呟くような声で言った。


「――ごめんなさい」


 ……あぁ、そうだよね。僕は後ろ向きな人間だ。うまくいくはずがないと、予防線を張っていた。だから、ショックは少ない。

目からは止めどなくなにかが流れ出しているが、海が押し流してくれる。この気持ちも、きっと同じように。


「突然、ごめ――」

「わ、わたしは、君が思っているような人じゃないから! ずっと、ずっと騙してた! 苦手だって知っていたのに、もしかしたら誤魔化せるんじゃないかって。そんなことを考える汚い人間なの!」


 訳が分からなかった。彼女はまるで、僕を知っているかのように話している。お互いの声しか知らず、顔も分からないはずなのに。

 足音が聞こえ、急速に離れて行こうとする。このままではダメだと思い、約束を破って振り向こうとした。


「お願い、こっちを見ないで!」


 僕は言われた通りに動きを止めた。そして足音が聞こえなくなってから、ようやく後ろを見る。

 ……そこには誰もおらず、僕は最初から一人だったような錯覚を覚えた。

 この日から、彼女がここを訪れることはなくなる。人魚姫は泡となり、海へと消えてしまったようだった。



 一週間、二週間、三週間、一ヶ月。

 もう来ないと分かっていながらも、僕はここを訪れる。そしてギターを弾き、想いを馳せるのだ。

 なぜあのとき、彼女を追いかけなかったのだろう。弱い自分にできることは、ただここへ通うことだけだった。

 あれ以来、彼女のために覚えた曲は弾いていない。前と同じように、だが前よりも思いを籠めて、奇跡を信じるように『Yesterday』を弾いた。


 スマホのアラームが鳴る。もう帰らなければならないのだが、後一度だけとギターへ手を添えた。

 ギターに合わせ、彼女の歌声が聴こえる。そんな幻聴の中、最後まで弾きとおす。とても、とても幸せな時間だ。

 最後まで弾き終え、息を吐く。また明日、と月へ――


「どうして?」


 思わぬ声に、体がビクリと跳ねる。

毎日、彼女の歌声という幻聴を聴いていた。……だが、今日は幻聴ではなかったらしい。

 彼女の質問の意味は分かっている。もう来ないと分かっていたはずなのに、どうして来ているの? そう聞いているのだ。

 だから僕は、ありったけの想いを籠めて、1フレーズ弾く。

これが口下手な僕にできる、唯一の方法だと信じて。


『I believe in yesterday(昨日を信じてる)』。


 僕たちの培った時間は本物で、顔も知らずとも、この思いは本物だと。

 彼女のすすり泣く声が聞こえる。だが一緒にいてくれるだけで、胸は温かくなっていた。

 約束を破り、ゆっくりと振り向く。


 そこには、僕が苦手だと言った、クラスの中心グループの一人である彼女がいた。

 彼女は胸元を握りしめながら、首を左右に振り、涙を流しながらも言う。


「わたし、は」


 手を前に出して言葉を遮り、僕はもう一度告げた。


「――君のことが好きです」


 月明かりが頬を流れる涙を反射し、彼女の顔がキラキラと光る。その姿を見て、とても綺麗だなと、僕は思った。

 彼女は何度もなにかを言おうとしては止まる。だがなにも言わず、ただ待ち続けた。このまま一生待ってもいと思えるほどに、心が落ちついていた。

 少しずつ落ち着きを取り戻した彼女は、恥ずかしそうにしながらも笑みを浮かべる。そして、僕を見ながら言った。


「――わたしも、です」


 ギターを後ろに回し、そっと彼女の指先に触れる。泡になって消えることもなく、少し安心した。

 しかし、彼女は不服そうな顔で僕に言う。


「普通、抱きしめるところじゃない?」

「……これが僕の精一杯の勇気だよ」


 クスリと笑った彼女の顔は、やはりとても美しかった。


 終わり

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