無私
明後日は飛騨高山100kを走る・・・・・否、決意としては走り切るつもりである。
100kと言うのは実に遠い遠い道のりで、その14時間何を考えているのかと問われたりする。
勿論、何も考えてなどいない訳で、そこでもがき苦しんでいる「自分」を見つめている。
禅で言うところの荒業であって、恰好良く言えば「自分を見つめる」ってことになる。
だけど幾ら見つめ倒した所で、自分は自分であってそれ以外ではあり様もない。
ともあれ今日は、自分の心の内側について考えている。
かつて現役時代には、様々な公式の場で話しをし、多数の聴衆を前に講演もしてきた。
しかし今、人を前に話しをしようとすると心が揺らぐのである。
この傾向は歳と共に過敏になるようだが、その原因が分からずに悩んでいた。
そしてその原因は「無私」なんじゃ無いかと思い始めている。
公の仕事をしている時には、私的な考えや思惑なんてどうでも良いんであって、公的に振舞えばそれで事足りていた。
ところが歳を経るに従って、私的なウエイトが徐々に増えてくる。
つまり公的な覚悟が無くなって、私的な惰弱さが表に出てくるのである。
言葉を変えると覚悟が無いというか、覚悟なんてしなくても良くなっちゃっているんだ。
私も人の子、自分なんて大事ないと思っていたのに、何時の間にか自分を後生大事にしている。
今更大事にしたってどうしようもないのに、やっぱり自分が可愛いんだろうなぁ。
さて肝心の明後日だが、途中で自分の弱さと妥協してしまわないかどうか、自分のうちの覚悟を探っている。
完走しようがしなかろうが、それはあくまで自分の心次第なのである。
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