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明治維新史の背景には、八切・鹿島・松重でも気付いていない もう一つ大切な事実があります。
それは、昭和天皇の母の存在です。勿論、九条節子ではありません。宮中で、「さる方」と呼ばれ、1912年に、孫文が中華民国を建国した時に、日本で、三教会同を時の首相に開催させた人物です。 名前は、朱貞明。
1860年生まれで、実は、明を建国した朱元璋の末裔です。ボルネオ島の現在のブルネイ近くに拠点を持ったいましたが、禁門の変のあとに日本に亡命し、一旦は、孝明天皇に幼女に迎え入れられました。 しかし、維新の後、一旦は、中山忠能が預かり、この客家グループとの関係が必要な明治政府は、今度は、皇太子嘉仁の妃として、抱えなおします。
よって、大正妃は、二人いることになります。昭和天皇の、中華民国に対する姿勢を考えますと、この貞明の影響があったとしか考えられません。ちなみに、大正妃は、生前から、貞明皇后と呼ばれていました。
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日本の天皇家には成立以来(・・・これは正しくは、初代倭国王の崇神以来)、
中国の皇帝一族で亡命してきたものが多く、それを天皇の家族として向かえる
不文律が、持統天皇以後、出来上がっていたといいます。
そして、その動きが、天皇をめぐる日本列島内での国家権力のダイナミズムを
生んでいた、というのです。
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鬼塚は大正天皇は無精子症で、そのことは父親である明治天皇をはじめ、重臣の知るところで,伊藤博文、山縣有朋などの当時の重臣が相談して、美貌、英知に優れた女官の1人である、朱貞明を説得して、九条家の養女として入籍、九条家から迎え入れた、と述べている、貞明皇后は山縣、伊藤の長州閥を内心は増していたという、その葛藤が長子である、昭和天皇へのクールな感情となって、秩父宮を溺愛する結果となって、後に秩父宮が2.26事件を引き起こす原動力となる。
http://blog.goo.ne.jp/thinklive/e/1aa8aa41e847ced8e58ccfac2d81bed9
【三種の神器が皇位の証しになると信じるほかなかった天皇裕仁の気持】
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2709626
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