被曝治療83日間の記録
http://www8.plala.or.jp/grasia/dokushyo/JCO/Hibaku2.pdf
被曝治療83日間の記録 NHK取材班(岩波書店)
被曝-1999 年9 月30 日
・バケツで七杯目。最後のウラン溶液を同僚が流し始めたとき、大内はバシッという音とともに青い光を見た。臨海に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。その瞬間、放射線の中で最もエネルギーの大きい中性子線が大内たちの体を突き抜けた。被曝したのだった。(2頁)
・被曝医療の専門家として歩み始めた前川は、前日の情報交換会で、原子力関連施設周辺の病院の医師や医療スタッフに被曝医療の知識が徹底して教育されていないことをあらためて思い知り、驚いていた。(6頁)
・前川には、症状や緊急の血液検査の結果などから見て、運び込まれた三人のうち、大内と同僚の二人が非常に高い線量の被曝をしたものと考えられると話した。また三人が放射性物質を浴びていないことや、大内の吐しゃ物を分析した結果、ナトリウム24 が検出されたことから、中性子線による被曝、つまり「臨界事故」だと確信していると伝えた。(9 頁)
邂逅-被曝二日目
・まったくコントロールがきかないうえ、放射線を閉じ込める防護装置もない「裸の原子炉」が突如、村の中に出現したのだった。この事態に、東海村は事故現場から350メートルの範囲の住民に非難を要請、茨城県も半径10キロメートル圏内の住民約31万人に屋内退避を勧告した。
・8シーベルト以上の放射線を浴びた場合の死亡率は100 パーセントだ。染色体検査などの結果から、最終的に大内の被曝量は20シーベルト前後とされた。これは一般の人が一年間に浴びる限度とされる量のおよそ二万倍に相当する。・・・・・体を細菌やウィルスなどの外敵から守る白血球のうち、リンパ球が激減していることが報告されたのだ。(12 頁)
・前川は大内の様子に一瞬目をみはった。どこから見ても重症患者には見えなかったのだ。・・・・・浴びた放射線の量は減り続けるリンパ球などのデータとは関係なく「命を救えるのではないか」と思いました。(14頁)
・私は「負け戦ですよ」と考え直すよう説得しました。・・・・・・どう考えても現在の医学で大内さんを救うことはできなかった。・・・・・・医者が患者を死なせてしまうことはどんなことがあっても不名誉なことです。その不名誉を敢えて背負ってでも助けたいと思っているのだから、そう言われると、あとは協力するしかありませんでしたね。(15 頁)
・大内の症状はすでに悪化の兆しを見せていた。尿の量が少し減り、血液中の酸素濃度が下がったため、酸素吸入などの治療が始められた。腹も少し張ってきていた。腸に障害が出始めたのかもしれなかった。(16 頁)
転院-被曝三日目
・大量の放射線に被曝すると、体の中でも細胞分裂の活発な部分、つまり細胞が次々と生まれ変わっている部分から影響が出てくる.免疫をつかさどる白血球、腸の粘膜、皮膚などだ。とくに白血球が少なくなるとウィルスや細菌、カビなどに感染しやすくなり、ときにその感染が命取りになる。その治療法として、白血球などの血液を作り出すもとになる造血幹細胞を移植して免疫力を取り戻させる方法がある。しかし、放医研は造血幹細胞の経験がなかった。(17 頁)
・放射線医学の知識から考えると、大内が浴びたと推定される放射線の量が致死的であることはだれの目にも明らかだった。しかし、この時点での大内は非常に元気で、どこから見ても高線量の被曝をした患者には見えなかった。前川は大内の治療に全力を尽くそうと心に決めた。(19 頁)
・細川美香は医師たちと話す小林のただならぬ雰囲気を感じ取っていた。そこへ、「今テレビでやっている被曝の患者さんが来るんだよ」と医師から聞かされ、動揺した。・・・・・・まず頭をよぎったのは、患者のそばにいたら二次被曝するのではないかという不安だった。「二次被曝」は、核兵器の爆発や原子力施設の事故で「死の灰」と呼ばれる放射性物質が撒き散らされた際に問題になる。ストロンチウム90 やセシウム137 などの放射性物質は放射線を出す能力、すなわち放射能をもち、人体にとって非常に危険な物質だ。放射性物質が患者の体の表面や衣服などに付いていると、医療スタッフもそれにさわったり、吸い込んだりして被爆する可能性がある。・・・・・・・大内たち三人の被曝は中性子線とガンマ線という放射線によるものだった。放射性物質を浴びていたとしてもごく微量だったため、実際には二次被曝の危険性はほとんどなかった。(21 頁)
・横たわった大内が声を発した。「よろしくお願いします。」細川は「あれ?」と思った。普通に会話できる状態だと思っていなかった。被曝という言葉から、外見的にもかなりダメージを受けているだろうし、意識レベルも低いのではないかと想像していたのだ。しかし外見だけでは、一体どこが悪いのだろうとしか思えない。致死量といわれるほど高い線量を浴びたと聞いたのが、とても信じられなかった。「ひょっとしたらよくなるんじゃないか。治療したら退院できる状態になるんじゃないかな」そういう印象を持った。(24 頁)
被曝治療チーム結成-被曝五日目
・これまで世界で起きた臨界事故は20 例に満たない。そのほとんどが30 年以上前、アメリカやソ連などで起こっていた。当時行われていた治療は今とまったく違うレベルのもので、必ずしも参考にならない。科学的に証明された治療法はどの専門書にもほとんど書かかれていなかった。(28 頁)
・今回、核燃料開発機構から発注された仕事は、燃料を「硝酸ウラニル」というウラン溶液の状態で57 キログラム納入するというものだった。一般の原子力発電所で使われる核燃料は濃縮度が5 パーセント以下だが、大内たちが扱っていた燃料は濃縮度18.8 パーセントだった。核分裂を起こしやすいウラン235 の割合が高い分だけ、臨海に達する危険性も高かった。(33 頁)
・93 年1 月から溶解塔の代わりにステンレス製のバケツを使うという違反行為が始まった。溶解作業では一回の作業が終わるたびに容器を洗浄しなくてはならない。溶液が残っているとウラン235 が蓄積され、濃度が変わる恐れがあるためだ。その点、バケツは洗浄が簡単で、作業時間も短縮できる。それが理由だった。(34頁)
・この裏マニュアルでも臨界に達することのないような対策が立てられていた。核分裂が連鎖的につづく臨界に達するのは、核分裂を起こしやすい性質を持つウラン235 などの放射性物質が一定の条件のもとに一定の分量以上集まったときだ。逆に言えば、条件や分量をきちんと制限していれば臨界に達することはない。このため臨界防止策としては質量制限と形状制限という二つによる制限による対策がとられる。(34 頁)
・裏マニュアルでは細長い形状、つまり表面積が広い貯塔を使うことで、臨界を回避していた。ところが、事故を起こした今回の作業では、この裏マニュアルさえ無視された。均一化の工程で貯塔を使わず、より球形に近い、ずんぐりとした形状の沈殿槽を使ったのだ。貯塔にくらべて背が低く、作業しやすかったためだといわれている。この危険なやり方さえも、加工工程を管理していたJCO東海事業所の主任が承認していたことがわかっている。(38 頁)
造血幹細胞移植-被爆七日目
・写真には顕微鏡で拡大した骨髄細胞の染色体が写っているはずだ。しかし、写っていたのは、ばらばらの散らばった黒い物質だった。平井の見慣れた人間の染色体とはまったく様子が違っていた。・・・・・・・・・染色体がばらばらに破壊されたということは、今後新しい細胞が作られないことを意味していた。被曝した瞬間、大内の体は設計図を失ってしまったのだ。(39 頁)
・病気が起きて、状況が徐々に悪くなっていくのではないんですね。放射線被曝の場合、たった零コンマ何秒かの瞬間に、すべての臓器が運命づけられる。ふつうの病気のように血液とか肺とかそれぞれ検査値だけが異常になるのではなく、全身すべての臓器の検査値が刻々と悪化の一途をたどり、ダメージを受けていくんです。(40 頁)
・大内の体からは、このリンパ球が転院初日にはまったくなかった。さらに白血球全体も急激に減少していた。大内の体の抵抗力(免疫力)がほとんどなくなっていたのだ。抵抗力のある健康な人なら感染しても問題のないウィルスや細菌などが異常に増える「日和見感染」を起こしやすい、きわめて危険な状態に陥った。(42 頁)
・大量の放射線に被曝したことによって障害が進むと、見た目にも想像を絶する変化が起きると前川は予想していた。決してきれいごとですまされない。今後、病状が悪化した場合、どういう変化が予想されるのかについて率直に伝えた。大内にどんな変化が起こっても、家族に受け入れてもらいたいと考ええてのことだった。
(49 頁)
人工呼吸管理開始-被曝十一日目
・大内はのどの渇きをたびたび訴えるようになった。妻には「チェルノブイリの被害者はのどが渇くと言っていたと聞いていたが、本当にかわくんだな」と話していた。・・・・・・・中性子線など放射線のエネルギーは、放射線を出す場所(線源)からの距離の二乗に反比例する。つまり、距離が二倍になると四分の一になる。この線源から二倍離れると照射される面積が四倍になることからもわかるだろう。線源から少し離れただけでも、体が受ける影響はずいぶん小さくなるのだ。このことからわかるように、大内が浴びた中性子線は体中で均等だったわけではなく、体の部分で大きく開きがあった。こうした被曝の仕方を不均等被曝という。(52 頁)
・しかし、大内の場合、基底層の細胞の染色体が中性子線で破壊されてしまい、細胞分裂ができなくなっていた。新しい細胞が生み出されることなく、古くなった皮膚は剥がれ落ちていった。体を覆い、守っていた表皮が徐々になくなり、激痛が大内を襲い始めた。(54 頁)
・血液中の酸素の量を増やすために、圧力をかけて強制的に肺を広げ、酸素を送り込む医療用のマスクも付けることになった。このマスクは顔に密着させて圧力をかけるため、つけている間は、とても苦しくなる。このころ、看護記録に記された大内の言葉には我慢の限界を超えた叫びが多くなっていた。「もう嫌だ」「やめてくれよ」「茨城に帰りたい」・・・・・・・・「おれはモルモットじゃない」(55 頁)
・呼吸をたすけるために、のどにチューブを入れて人工呼吸器を付けることが検討された。それは、家族と言葉を交わせなくなることを意味していた。このころ、医療チームに新たなメンバーが加わった。カリフォルニア大学医学部内科血液腫瘍部門教授ロバート・ピーターゲールである。ゲールは1978 年、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で起きた史上最悪の原発事故の際、現地を訪れて、被曝した19 人に造血幹細胞移植を行ったことで知られている。・・・・・・・ゲールにとっても、臨界事故で中性子線被曝した患者を診るのは初めてだった。(58 頁)
・「愛してるよ」妻は少し照れていたようだ。その情景は微笑ましいと思いながらも、花口にはまったく違う意味を持って映った。これからの病状について、だれもはっきりと予測できない。しかし、大内が浴びた放射線の量から考えれば、状態がこれから悪化することは医療関係者として十分想像できた。「大内さんも、これから先、自分の中に起こるであろうことを、もしかしたら知っていたんじゃないか。だからこそ、奥さんに伝えたいことを、体がだるいなかで、精一杯おっしゃったんじゃないか。奥さんへの思い、家族への思い。大内さんはそうした必死の思いをその一言に込めていたんじゃないか。」花口はそう感じた。(60 頁)
妹の細胞は-被曝十八日目
・10 月16 日、被曝から17日目。血液検査の数値のうち、白血球の変化が見られた。前日の朝の白血球が300だったのが、この日の午前0時には600、午後6時には1000と徐々に増えてきたのだ。抹消血管細胞移植が成功したのかもしれない。医療チームは大内の骨髄を採取し、検査に出した。徹夜で検査が行われた。・・・・・・白血球は急速に増え、この日の夕方には健康な人と変わらない6500になった。そして、翌日には8000前後に回復した。ゼロになっていたリンパ球も白血球の約20%を占めるまでに回復し、赤血球や血小板も徐々に増えてきていた。(65 頁)
・前川は妹の造血幹細胞が大内の骨髄に根付いたことを確信し、「最初の難関を突破できたかな」と安堵するとともに、「これだけ増えてくれれば、がんばれるな」と放射線被曝と戦う気持ちを新たにした。・・・・・大内の体の中で妹の細胞が根付いたのは、大量の放射線を浴びて、免疫細胞がほぼ完全に破壊されていたことが逆に幸いし、妹の細胞を拒絶しなかったためでないかと考えられた。ともあれ、この時点において移植は成功したのだった。(66 頁)
・「なお、染色分体のbreak が、30細胞中3細胞に認められました。」・・・・この染色体の傷については医療チームの中でも議論になった。一つの推測として、大内の体を貫いた中性子線が体内の物質に放射化し、染色体を傷つけたのではないかという考え方があった。中性子が体内のナトリウムやリン、カリウムなど当たると、これらの物質の性質が変化し、自ら放射線を発するようになる。これが放射化だ。(68 頁)
・・・・放射線が妹の造血幹細胞が生み出した骨髄細胞の染色体を傷つけたのではないかというのだ。・・・・・
放射化された物質から出る放射線のエネルギーでは、染色体を傷つけることはできないというのだ。こうした反対意見の人たちは「バイスタンダー(傍観者)効果」という中性子線被曝などに独特の影響が出たのではないかと主張する。・・・・その効果の一つに中性子線に被曝した細胞が活性酸素を出すようになり、近くに被曝していない細胞に損傷を与えるというものがある。・・・・いずれにしろ、被曝による影響であることは間違いない。そう考えながら、平井は、放射線の恐ろしさをまざまざと感じていた。(70 頁)
次々と起きる放射線被害-被曝二七日目
・大内は口から食べ物を摂ることができなかった。このため、首の付け根から心臓の近くの静脈に向かって通されたチューブで栄養の入った点滴を送っていた。(73 頁)
・腸の粘膜は血液や皮膚とならんで、放射線の影響をもっとも受けやすい。粘膜は皮膚と同じように内部にある幹細胞がさかんに分裂して表面に向かっている。表面にある古い細胞は、はがれ落ちて新しいものと入れ替わる。このため、大量に放射線に被曝して幹細胞の染色体がダメージを受け、細胞分裂ができなくなると、消化管障害の症状が現れる。その時期は被曝からおよそ二週間前後と言われていた。(74 頁)
・ただし、これまでの被曝事故のケースで報告されているような血の混じった便ではなく、緑色の水のような便が出ていた。(76 頁)
・医療チームのメンバーはいわゆる「教科書」とずいぶん違う症状に戸惑い、議論を重ねた。まさに海図のない航海に迷い込んだようだった。・・・・・・臨界事故で全身に被曝した患者で、これまでもっとも長く生存したケースは九日間。海外の専門かも、これほど高線量の中性子を浴びながら、生存している患者を診た経験はなかった。(78 頁)
・入院したときは、一日で一気に日焼けしたぐらいの赤さで、少しはれているだけだった大石の右手。事故の瞬間最も多くの放射線を浴びたと見られているこの右手は、被曝して二週間たったところから表面が徐々に水ぶくれになっていた。人間の場合、皮膚の表皮が新しく入れ替わるまでのサイクルは二週間といわれている。医療用テープをはがすときにいっしょにむけていた皮膚は水ぶくれがやぶれた部分に新しい表皮ができてこないことに気づいた。放射線で染色体がずたずたに破壊された大内の皮膚の細胞は分裂できず、新しい表皮が生まれてこないのだった。(80 頁)
・このころ大内の目蓋が閉じない状態になっていた。目が乾かないよう黄色い軟膏を塗っていた。ときどき、目から出血した。細川美香は大内が苦しくて血の涙を流しているのではないかと思った。爪もはがれ落ちた。名和純子は、むかし広島にある原爆の資料館で見た被爆者の写真を思い出した。五〇年以上前、原子爆弾で被爆した人たちも、こういう状態だったのだろうかと考えた。(83 頁)
小さな希望-被曝50日目
・ただちに各大学から培養皮膚が届けられ、被曝から50日目の11月18日、右の腹部と右足に移植された。・・・・・移植した培養皮膚は3~4日もすると浮いてしまい、生着することはなかった。また、期待していた成長因子の影響も、健康な皮膚との境界の部分では皮膚の成長を早める効果はあったが、皮膚が剥がれ落ちた体の前面には効果がなかった。(87頁)
・モニターを見つめる岡本は、小腸から大腸の間の一部に点々と見えた白い円形の組織が気になった。「一体なんだろう?」岡本は消火器内科の医局に用意されたビデオで、このときのテープを何度も再生しながら検討した。組織をとって分析すればすぐわかるが、大内の腸に傷をつけるとさらに出血が多くなり、命に関わる恐れがある。他の専門医に相談したり、文献を徹底的に調べたりした結果、岡本は一つの結論を出した。この丸い組織は新しく作り出された粘膜に違いなかった。粘膜のなくなっていることが確認されてから三週間、すっかり失われたはずの粘膜が再生していた。「復活」「生命力」という言葉が岡本の頭に浮かんだ。(89頁)
・毎日大量の鎮痛剤・鎮痛薬が投与された。カルテによるとプロポフォールという鎮痛剤とフェンタニールという鎮痛薬が常に点滴で入れられていた。フェンタニールは塩酸モルヒネの100倍の効果があらわれるという合成麻薬である。・・・・・・持続的な痛みに効くこの薬は火傷の際使われることが多い。医療チームはこれらの薬を組み合わせて投与した。出口の見えない治療の中で、本人の苦痛を取ることが唯一の有効な治療となっていた。・・・・・このころ前川は他の多くの医師と交代で病院の廊下や研究室等で仮眠していた。肉体的な疲労に加え、精神的にも追い詰められていた。だれもが、今のまま治療を続けていくことの意味を自問自答した。(91頁)
・大内が、世界でも例のない患者であることはよくわかっていた。医師として、そうした稀な診察に関わることができるというのは貴重な経験であると、周りから励まされることもあった。しかし、山口自身は、こんな医療があるのか、自分のしていることが果たして本人のためになっているのかと常に自問自答した。目の前の大内に起きている状態を受け止めるので精一杯だった。医師になって数ヶ月という段階で、治療の方針の決定に積極的に関わっていくには力不足だということもわかった。(93頁)
・山口は、自分のやっていることが実際だれの幸せや喜びにつながっているのかが、わからなくなっていた。客観的に見ると生きながらえる見込みが非常に低い患者であることはだれの目にも明らかだった。助かる見込みが非常に低いという状況の中で、日に日に患者の姿が見るも無残な姿になっていく。その患者の治療に膨大な医薬品や血液などの医療資源が使われていく。しかし、そうして行った処置は患者に苦痛を与えているのだ。医療者はこの状況に、この治療に、どこまで関わっていくことが許されるのか、山口は常に考えた。(94頁)
・「そこまでやって治るのならいいけれども、でも多分治らないだろう。そういう状態を長くつづけさせていくことは、大内さんにとっては苦痛なんじゃないかと思ったんです。」(96頁)
・「ここにいる人は何なんだろう。だれ何だろうではなく、何なんだろう。体がある、それもきれいな体ではなく、ぼろぼろになった体がある。その体のまわりに機械が付いているだけ。自分たち看護士は、その体を相手に、次からつぎに、その体を維持するために、乾きそうな角膜を維持するために、はげてきそうな皮膚を覆うために、そういう処置ばかりどんどん続けなければならなかったんです。自分は一体何のためにやっているんだろう。自分は別に角膜を守りたいわけではない。大内さんを守るためにやってるんだ。そう思わないと耐えられないケアばかりでした。大内さんをおもいだしながらでないと、自分のやっていることの意味が見出せないような、そんな毎日でした。」(97頁)
・「リーダーとして気の抜けない、緊張が和らぐことのない毎日の中で、二人と話している時間は、前川にとって唯一のほっとできる時間になっていた。・・・・・・前川のもう一つの支えとなっていたのは大内の家族であった。前川は毎日、家族に病状を説明し続けていた。被曝して50日が過ぎた大内の状態を、前川は「言葉で語るには軽すぎるとしか言いようがない姿でした」と表現する。・・・・・家族は大内に、「2000年を迎えようね」と語りかけた。妻も両親も自らを励ますためにそう言っていたのではないかと、看護士たちは思った。治療が始まって二ヶ月がたとうとしていた。」(100~103頁)
被曝59日目
・「そこに前川がものすごい勢いで飛び込んできた。・・・・ボスミン入れて!前川は叫んだ。ボスミン(エピネフリン)は強力な強心剤だ。・・・・普段、大内の部屋には、感染予防のために手を洗い、うがいをしたうえで、黄色いガウンを着てからでないと入室できない。しかし、このときは、前川も他の医師も、そのまま猛然と走りこんでいった。」(107頁)
・「山口も、頭の中が真っ白になっていた。心のどこかで「大内さんひょっとしたら、これで楽になるのではないだろうか」と考えていた。それでも、患者が亡くなるのはいやだった。心拍が再会してほしいと念じながら、前川と交代で心臓マッサージをつづけた。」(108頁)
・「声は奪われても、顔の表情や体全体で気持ちを伝えてきた大内は、心停止を境に、家族の呼びかけにも応えなくなった。もはや機械と薬に支えられて生きていた。」(112頁)
終わらない闘い - 被曝59日目
・「心臓が停止したことにともなって肝不全に陥った大内には、肝臓で作られる血液の凝固因子を補充する必要があった。凝固因子は出血を止める働きのあるタンパク質で、血液のなかでも血漿という液体成分の中に含まれる。」(117頁)
・「しかし、大内の場合は、凝固因子が足りないだけでなく、皮膚から浸み出す体液や下血など、一日10リットル前後の水分が体の外に漏れ出していた。この水分を補うためにも新鮮凍結血漿の大量輸血が必要になっていたのだ。研修医の山口和将は、大内に大量の輸血を行いながら、医師として自分がどうあるべきなのか、そのあり方をより深く考えるようになった。大内は、もはやなんの反応もしなくなった。山口には、治療行為そのものが、これまでより一層つらい処置に感じられるようになっていた。」(118頁)
・「苦しい日々が続いたとき、治療を続ける原動力となったのは、やはり大内の家族だった。最後の最後まで失われない家族の希望が、前川をかろうじて支えていた。」(119頁)
・「無菌治療部の平井久丸がのぞいた顕微鏡の視野のなかで、赤血球や白血球にアメーバーのような形をした細胞が襲いかかっていた。マクロファージとよばれる細胞だった。・・・肝臓の機能が落ちたことで、肝臓で代謝される脂質を処理しきれなくなり、代わりに処理しようとマクロファージが異常に増殖したかもしれなかった。その異常に増えたマクロファージが正常な細胞まで攻撃しているのかもしれない。原因は、結局わからなかった。」(120頁)
・「妹から提供された造血幹細胞から作られ、大内の体の中で増えていた白血球は、異常を感知した自らの免疫細胞・マクロファージによって次々と攻撃され、力尽きていったのだ。大内の意識の状態はさらに悪化していた。」(123頁)
・「治療をしても効果がない。体から失われていく水分を補い、障害のある臓器や機械や薬で何とか動かしているだけ。どこか一ヶ所でも悪化すれば命取りになる状態だった。これまで大内は自分たちの治療に精一杯こたえてくれた。しかし、血圧を上げる昇圧剤の量と種類が増え続けるなか、前川ははやこれまでかと思った。もう、打つ手がない。前にも進めない、後ろにも下がれない。敗北感や挫折感とともに、前川は決意を固めた。・・・・前川は、家族は最後の最後になっても希望を捨てないだろうということが、痛いほどわかっていた。だからこそ、現実を直視してもらいたいと思った。」(124頁)
・「今度心臓が止まっても、もう蘇生措置はしないほうがいいと思います。」わかりましたと家族は言った。そのとき、家族は初めて前川に落胆の表情を見せた。・・・・家族が待機室で祈り続けていた鶴は一万羽に達しようとしていた。」(126頁)
1999年12月21日 - 被曝83日目
・「血液の流れが悪くなったことで、抗生物質や抗真菌剤が全身に行きわたらなくなった大内の体の表面には浸み出してくる体液を栄養分にしてアスペルギルスというカビの一種がはえてきた。銀白色のアスペルギルスは体から腕、そして足の付け根の部分に広がった。「あーあ、お父さん、かわいそうに。頑張るのよ」と言いながら、妻は涙ぐんでいる。また、顔をしっかり見たいとも言っている。」(128頁)
・「強心剤のボスミンのアンプルを三本使った。全く効かなかった。上が90、下が40あった血圧が突然、すとんと落ちた。あっという間だった。通常は、少しずつ血圧が下がり、心拍数も徐々に下がって亡くなることが多い。医療チームでは大内の心拍数が60を切ったら家族をよんで、病室に入ってもらおうと決めていた。急遽、家族のいる待合室に連絡を入れたが、間に合わなかった。・・・・・・・放射線障害の圧倒的な広がりと強さに、医師として虚無感すら感じていた。」(131頁)
・「勝てぬ戦いに挑んだドン・キホーテの闘いだったのだろうか。・・・・・。矛盾していることはよくわかっていた。生きてもらうために治療をしているのだが、治療はとてもつらいことが多い。そのつらい処置で本当に助かればいい。しかし、大内はそうならなかった。助からないことは目に見えていたのだ。」(132頁)
・「山口も大内の最後に、自分も立ち会いたかったと思った。「三ヶ月間。昼も夜も患者さんのそばにいて、その運命にここまで関わる事は、これからもおそらくないだろうと思えたからなんです。救急医療に携わっていると、余命があまりないと診断された患者さんをどこまで治療すべきなのか、患者さんの運命にどこまで関ることが許されるのかという問題に、つねに直面しています。ぼくは大内さんの治療に三ヶ月関りました。でもいまも、はっきりとした考えはまとまらないんです。」」(134頁)
・「三澤はこれまで3000体余りの遺体を解剖してきたが、大内の遺体を見たときは驚きを隠すことはできなかった。正面から一見すると真っ赤に火傷したような状態だった。しかし、全身が真っ黒になった焼死体とは違っていた。放射線が当たったところと、そうでないところの境界がくっきりと分かれていたのだ。このような遺体を見たのは初めてだった。」(136頁)
・「大内さんにかぎったことでなく、亡くなった方はいつも、自分の意思に反して解剖されます。だれも解剖されることはおろか、亡くなることさえ望んでいなかった、予想もしていなかったはずなんです。それは、いわば国家権力によって解剖するのが、自分の仕事である司法解剖だと私は常々思っています。だからこそ、ご遺体が何を言いたいのか、その声を聞き取らなければならない。それは自分たち解剖医にしかできないことなんです。集中力を持って観察し、記録することで、その人の声に必死で耳を傾けるのが私たちの仕事だと思っています。」(139頁)
・「人間の体を内側から壊していく、放射線被曝。放射線の影響は、体のすみずみまで及んでいた。しかし、体中の細胞が破壊されるなかで、大内の心臓は生きつづけていたのだ。」140(頁)
折り鶴 - 未来
・名和は大内の妻と抱き合って泣いた。・・・・そして自らの生き方についても考えた。「自分にとって大切な人とはいっぱい話をして、その人がし口を聞けなくなって、治療するかしないかという選択を迫られたときに、この人はこういう人だったからこの治療は続けて下さいとか、この治療はやめてくださいとか、そういうことが言えるくらい、たくさんたくさん話をしたいと思うようになりました。そして「いのち」について前よりずっと考えるようになりました。生きたいと思っている人なのに生きられなかったら、その生きたいという思いをすごくわかっているからつらい。反対に、生きたくないって思っているのに生かされている人を見ていても、とてもつらい。生きたいのか、苦しい思いをしてこれ以上生かされたくないのかは、本当に本人しかわからないと思うんです。だからこそ、「いのち」を人の手にゆだねられたくない。人は、落ち込んでいたら、もうどうでもいいって思って、死んでしまいたいと思うときもある。頑張って生きたいと思うときもある。わからない。「いのち」って何だろう?」(142頁)
・「柴田直美も「いのち」について考え続けている。・・・・・死ぬのも生きるのと同じように、その人が自分の死に方をきめられればいいのに。最後まで、その人の意思が尊重されるような、そういう最後を。・・・・どういうふうに生きていきたいのかを考えるのと同じように、自分はどういうふうに死にたいのか、考えられるようになればいいのに。そう思うようになりました。」(145頁)
・「細川美香も大内の看護で考えが変わった。助かる見込みがない患者さんにとっての「生」を考えるようになりました。この人にとっては治療しても苦痛だけしか感じていないんだろうなという患者さん見ていると、いままでは、そんなことをしても患者さんの苦痛な時間を長くしているだけだ、早く楽になりたいと思っているんじゃないかとどこかで思っていました。でも、大内さんと出会って、その考えは変わりましたどんな状況でも患者さんは、決して早く楽になって死にたいなんて思っていない。前向きに「よくなりたい、頑張りたい」と思っている。・・・・意識もなくて状態もよくなくて、治る見込みがないのにずっと延命していて、「生命の質」が問われる患者さんもいる。そのなかでも患者さんというのは、生きたい、頑張りたいと思っていると思うんです。」(146頁)
・「花口麻希は、いまも大内と対話を続けている。あの治療の意味がいまだにわからずにいます。大内さんの気持ちがわからないから。いま振り返ってみても、あそこまで頑張って治療を続けたことが、果たしてだれのためになったのか。やはり大内さんにつらいことを強いただけではなかったか。大内さん自身の気持ちが永遠に聞けないから、自分自身がしてきたことへの後悔、罪悪感まで覚えてしまう。・・・・・あんなに家族を思っていた大内さんだから、家族のためにがんばったんだって思わないと、自分が許せなくなる気がするんです。自分が大内さんを無理やり生かさせてしまった一因になったのではないかと思うと、一生罪に感じてしまう気がするんです。」(148頁)
・「大内の同僚の篠原理人が東大病院の前川のもとに転院してきた。・・・・・・・大内の死は一週間か二週間くらいたって、兄が伝えた。篠原は、そのとき泣きながら「俺もそうなるのかな」と言ったという。妻は「元気になったら、二人で大内さんのところにお線香をあげに行こうね。」と夫を励ました。・・・・・・しかし容態の悪化は止まらなかった。転院から一週間後には尿が出なくなって、24 時間の持続的な血液透析が必要になった。また、放射線による肺の障害が顕著になり、肝臓の機能も悪化した。そして、被曝から211日目の4月27日7時25分、死亡した。40歳だった。」(153頁)
・「大内と篠原、二人の被曝患者の治療は前川の医者としての驕りをみじんに打ち砕いた。同時に、被曝治療は、近い将来、勝つ見込みのある闘いだとは思えなくなった。放射線障害を受けた臓器や組織を最新の再生医学によって次々と置き換えていくだけでは、人間は救えない。事実、大内も篠原も造血幹細胞移植は一応成功したものの、高度な免疫機能を持つリンパ球は未熟なままにとどまり、本来の免疫機能が回復することはなかった。高線量の被曝、とくに臨界事故などによる中性子線被曝の治療について、これまで日本ではほとんど研究が行われてこなかった・・・・・原子力防災の施策のなかで、人命軽視がはなはだしい。現場の人間として、いらだちを感じている。責任ある立場の方々の猛省を促したい。」(154頁)
・「放射線の恐ろしさは、人知の及ぶところではなかった。今回の臨界事故で核分裂を起こしたウランは、重量に換算すると、わずか1000分の1グラムだった。原子力という、人間が制御し利用していると思っているものが、一歩間違うととんでもないことになる。そのとんでもないことに対して、一介の医師が何をしてもどうしようもない。どんな最新の技術や機器をもってしても、とても太刀打ちできない。その破滅的な影響の前では、人の命は本当にか細い。しかし、大内は、そして篠原は、その命の限りを尽くして、前例のない闘いに挑んだのだった。放射線や原子力と命の重さとの関りを見つめなおしたい、前川は決意した。人の命の尊さを、原子力防災の枠組みのなかで訴え、万が一、同じようなことが起きたとき、できるだけ早く医療として対応できるような準備をしたいと思った。そのための体制づくりに、自分自身のこれからの人生とエネルギーを捧げたい。それは二人が与えてくれた決意だった。」(156頁)
・「とても悲観的な考えなのかも知れませんが、原子力というものに、どうしても拘らなければならない環境にある以上、また同じような事故は起きるのではないでしょうか。所詮、人間のすることだから・・・という不信感は消えません。それならば、原子力に携わる人達が自分達自身を守ることができないのならば、むしろ、主人達が命を削りながら教えていった医療の分野でこそ、同じような不幸な犠牲者を今度こそ救ってあげられるよう、祈ってやみません。」(157頁)
(2005.8.7 掲載)__
被曝治療83日間の記録 NHK取材班(岩波書店)
被曝-1999 年9 月30 日
・バケツで七杯目。最後のウラン溶液を同僚が流し始めたとき、大内はバシッという音とともに青い光を見た。臨海に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。その瞬間、放射線の中で最もエネルギーの大きい中性子線が大内たちの体を突き抜けた。被曝したのだった。(2頁)
・被曝医療の専門家として歩み始めた前川は、前日の情報交換会で、原子力関連施設周辺の病院の医師や医療スタッフに被曝医療の知識が徹底して教育されていないことをあらためて思い知り、驚いていた。(6頁)
・前川には、症状や緊急の血液検査の結果などから見て、運び込まれた三人のうち、大内と同僚の二人が非常に高い線量の被曝をしたものと考えられると話した。また三人が放射性物質を浴びていないことや、大内の吐しゃ物を分析した結果、ナトリウム24 が検出されたことから、中性子線による被曝、つまり「臨界事故」だと確信していると伝えた。(9 頁)
邂逅-被曝二日目
・まったくコントロールがきかないうえ、放射線を閉じ込める防護装置もない「裸の原子炉」が突如、村の中に出現したのだった。この事態に、東海村は事故現場から350メートルの範囲の住民に非難を要請、茨城県も半径10キロメートル圏内の住民約31万人に屋内退避を勧告した。
・8シーベルト以上の放射線を浴びた場合の死亡率は100 パーセントだ。染色体検査などの結果から、最終的に大内の被曝量は20シーベルト前後とされた。これは一般の人が一年間に浴びる限度とされる量のおよそ二万倍に相当する。・・・・・体を細菌やウィルスなどの外敵から守る白血球のうち、リンパ球が激減していることが報告されたのだ。(12 頁)
・前川は大内の様子に一瞬目をみはった。どこから見ても重症患者には見えなかったのだ。・・・・・浴びた放射線の量は減り続けるリンパ球などのデータとは関係なく「命を救えるのではないか」と思いました。(14頁)
・私は「負け戦ですよ」と考え直すよう説得しました。・・・・・・どう考えても現在の医学で大内さんを救うことはできなかった。・・・・・・医者が患者を死なせてしまうことはどんなことがあっても不名誉なことです。その不名誉を敢えて背負ってでも助けたいと思っているのだから、そう言われると、あとは協力するしかありませんでしたね。(15 頁)
・大内の症状はすでに悪化の兆しを見せていた。尿の量が少し減り、血液中の酸素濃度が下がったため、酸素吸入などの治療が始められた。腹も少し張ってきていた。腸に障害が出始めたのかもしれなかった。(16 頁)
転院-被曝三日目
・大量の放射線に被曝すると、体の中でも細胞分裂の活発な部分、つまり細胞が次々と生まれ変わっている部分から影響が出てくる.免疫をつかさどる白血球、腸の粘膜、皮膚などだ。とくに白血球が少なくなるとウィルスや細菌、カビなどに感染しやすくなり、ときにその感染が命取りになる。その治療法として、白血球などの血液を作り出すもとになる造血幹細胞を移植して免疫力を取り戻させる方法がある。しかし、放医研は造血幹細胞の経験がなかった。(17 頁)
・放射線医学の知識から考えると、大内が浴びたと推定される放射線の量が致死的であることはだれの目にも明らかだった。しかし、この時点での大内は非常に元気で、どこから見ても高線量の被曝をした患者には見えなかった。前川は大内の治療に全力を尽くそうと心に決めた。(19 頁)
・細川美香は医師たちと話す小林のただならぬ雰囲気を感じ取っていた。そこへ、「今テレビでやっている被曝の患者さんが来るんだよ」と医師から聞かされ、動揺した。・・・・・・まず頭をよぎったのは、患者のそばにいたら二次被曝するのではないかという不安だった。「二次被曝」は、核兵器の爆発や原子力施設の事故で「死の灰」と呼ばれる放射性物質が撒き散らされた際に問題になる。ストロンチウム90 やセシウム137 などの放射性物質は放射線を出す能力、すなわち放射能をもち、人体にとって非常に危険な物質だ。放射性物質が患者の体の表面や衣服などに付いていると、医療スタッフもそれにさわったり、吸い込んだりして被爆する可能性がある。・・・・・・・大内たち三人の被曝は中性子線とガンマ線という放射線によるものだった。放射性物質を浴びていたとしてもごく微量だったため、実際には二次被曝の危険性はほとんどなかった。(21 頁)
・横たわった大内が声を発した。「よろしくお願いします。」細川は「あれ?」と思った。普通に会話できる状態だと思っていなかった。被曝という言葉から、外見的にもかなりダメージを受けているだろうし、意識レベルも低いのではないかと想像していたのだ。しかし外見だけでは、一体どこが悪いのだろうとしか思えない。致死量といわれるほど高い線量を浴びたと聞いたのが、とても信じられなかった。「ひょっとしたらよくなるんじゃないか。治療したら退院できる状態になるんじゃないかな」そういう印象を持った。(24 頁)
被曝治療チーム結成-被曝五日目
・これまで世界で起きた臨界事故は20 例に満たない。そのほとんどが30 年以上前、アメリカやソ連などで起こっていた。当時行われていた治療は今とまったく違うレベルのもので、必ずしも参考にならない。科学的に証明された治療法はどの専門書にもほとんど書かかれていなかった。(28 頁)
・今回、核燃料開発機構から発注された仕事は、燃料を「硝酸ウラニル」というウラン溶液の状態で57 キログラム納入するというものだった。一般の原子力発電所で使われる核燃料は濃縮度が5 パーセント以下だが、大内たちが扱っていた燃料は濃縮度18.8 パーセントだった。核分裂を起こしやすいウラン235 の割合が高い分だけ、臨海に達する危険性も高かった。(33 頁)
・93 年1 月から溶解塔の代わりにステンレス製のバケツを使うという違反行為が始まった。溶解作業では一回の作業が終わるたびに容器を洗浄しなくてはならない。溶液が残っているとウラン235 が蓄積され、濃度が変わる恐れがあるためだ。その点、バケツは洗浄が簡単で、作業時間も短縮できる。それが理由だった。(34頁)
・この裏マニュアルでも臨界に達することのないような対策が立てられていた。核分裂が連鎖的につづく臨界に達するのは、核分裂を起こしやすい性質を持つウラン235 などの放射性物質が一定の条件のもとに一定の分量以上集まったときだ。逆に言えば、条件や分量をきちんと制限していれば臨界に達することはない。このため臨界防止策としては質量制限と形状制限という二つによる制限による対策がとられる。(34 頁)
・裏マニュアルでは細長い形状、つまり表面積が広い貯塔を使うことで、臨界を回避していた。ところが、事故を起こした今回の作業では、この裏マニュアルさえ無視された。均一化の工程で貯塔を使わず、より球形に近い、ずんぐりとした形状の沈殿槽を使ったのだ。貯塔にくらべて背が低く、作業しやすかったためだといわれている。この危険なやり方さえも、加工工程を管理していたJCO東海事業所の主任が承認していたことがわかっている。(38 頁)
造血幹細胞移植-被爆七日目
・写真には顕微鏡で拡大した骨髄細胞の染色体が写っているはずだ。しかし、写っていたのは、ばらばらの散らばった黒い物質だった。平井の見慣れた人間の染色体とはまったく様子が違っていた。・・・・・・・・・染色体がばらばらに破壊されたということは、今後新しい細胞が作られないことを意味していた。被曝した瞬間、大内の体は設計図を失ってしまったのだ。(39 頁)
・病気が起きて、状況が徐々に悪くなっていくのではないんですね。放射線被曝の場合、たった零コンマ何秒かの瞬間に、すべての臓器が運命づけられる。ふつうの病気のように血液とか肺とかそれぞれ検査値だけが異常になるのではなく、全身すべての臓器の検査値が刻々と悪化の一途をたどり、ダメージを受けていくんです。(40 頁)
・大内の体からは、このリンパ球が転院初日にはまったくなかった。さらに白血球全体も急激に減少していた。大内の体の抵抗力(免疫力)がほとんどなくなっていたのだ。抵抗力のある健康な人なら感染しても問題のないウィルスや細菌などが異常に増える「日和見感染」を起こしやすい、きわめて危険な状態に陥った。(42 頁)
・大量の放射線に被曝したことによって障害が進むと、見た目にも想像を絶する変化が起きると前川は予想していた。決してきれいごとですまされない。今後、病状が悪化した場合、どういう変化が予想されるのかについて率直に伝えた。大内にどんな変化が起こっても、家族に受け入れてもらいたいと考ええてのことだった。
(49 頁)
人工呼吸管理開始-被曝十一日目
・大内はのどの渇きをたびたび訴えるようになった。妻には「チェルノブイリの被害者はのどが渇くと言っていたと聞いていたが、本当にかわくんだな」と話していた。・・・・・・・中性子線など放射線のエネルギーは、放射線を出す場所(線源)からの距離の二乗に反比例する。つまり、距離が二倍になると四分の一になる。この線源から二倍離れると照射される面積が四倍になることからもわかるだろう。線源から少し離れただけでも、体が受ける影響はずいぶん小さくなるのだ。このことからわかるように、大内が浴びた中性子線は体中で均等だったわけではなく、体の部分で大きく開きがあった。こうした被曝の仕方を不均等被曝という。(52 頁)
・しかし、大内の場合、基底層の細胞の染色体が中性子線で破壊されてしまい、細胞分裂ができなくなっていた。新しい細胞が生み出されることなく、古くなった皮膚は剥がれ落ちていった。体を覆い、守っていた表皮が徐々になくなり、激痛が大内を襲い始めた。(54 頁)
・血液中の酸素の量を増やすために、圧力をかけて強制的に肺を広げ、酸素を送り込む医療用のマスクも付けることになった。このマスクは顔に密着させて圧力をかけるため、つけている間は、とても苦しくなる。このころ、看護記録に記された大内の言葉には我慢の限界を超えた叫びが多くなっていた。「もう嫌だ」「やめてくれよ」「茨城に帰りたい」・・・・・・・・「おれはモルモットじゃない」(55 頁)
・呼吸をたすけるために、のどにチューブを入れて人工呼吸器を付けることが検討された。それは、家族と言葉を交わせなくなることを意味していた。このころ、医療チームに新たなメンバーが加わった。カリフォルニア大学医学部内科血液腫瘍部門教授ロバート・ピーターゲールである。ゲールは1978 年、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で起きた史上最悪の原発事故の際、現地を訪れて、被曝した19 人に造血幹細胞移植を行ったことで知られている。・・・・・・・ゲールにとっても、臨界事故で中性子線被曝した患者を診るのは初めてだった。(58 頁)
・「愛してるよ」妻は少し照れていたようだ。その情景は微笑ましいと思いながらも、花口にはまったく違う意味を持って映った。これからの病状について、だれもはっきりと予測できない。しかし、大内が浴びた放射線の量から考えれば、状態がこれから悪化することは医療関係者として十分想像できた。「大内さんも、これから先、自分の中に起こるであろうことを、もしかしたら知っていたんじゃないか。だからこそ、奥さんに伝えたいことを、体がだるいなかで、精一杯おっしゃったんじゃないか。奥さんへの思い、家族への思い。大内さんはそうした必死の思いをその一言に込めていたんじゃないか。」花口はそう感じた。(60 頁)
妹の細胞は-被曝十八日目
・10 月16 日、被曝から17日目。血液検査の数値のうち、白血球の変化が見られた。前日の朝の白血球が300だったのが、この日の午前0時には600、午後6時には1000と徐々に増えてきたのだ。抹消血管細胞移植が成功したのかもしれない。医療チームは大内の骨髄を採取し、検査に出した。徹夜で検査が行われた。・・・・・・白血球は急速に増え、この日の夕方には健康な人と変わらない6500になった。そして、翌日には8000前後に回復した。ゼロになっていたリンパ球も白血球の約20%を占めるまでに回復し、赤血球や血小板も徐々に増えてきていた。(65 頁)
・前川は妹の造血幹細胞が大内の骨髄に根付いたことを確信し、「最初の難関を突破できたかな」と安堵するとともに、「これだけ増えてくれれば、がんばれるな」と放射線被曝と戦う気持ちを新たにした。・・・・・大内の体の中で妹の細胞が根付いたのは、大量の放射線を浴びて、免疫細胞がほぼ完全に破壊されていたことが逆に幸いし、妹の細胞を拒絶しなかったためでないかと考えられた。ともあれ、この時点において移植は成功したのだった。(66 頁)
・「なお、染色分体のbreak が、30細胞中3細胞に認められました。」・・・・この染色体の傷については医療チームの中でも議論になった。一つの推測として、大内の体を貫いた中性子線が体内の物質に放射化し、染色体を傷つけたのではないかという考え方があった。中性子が体内のナトリウムやリン、カリウムなど当たると、これらの物質の性質が変化し、自ら放射線を発するようになる。これが放射化だ。(68 頁)
・・・・放射線が妹の造血幹細胞が生み出した骨髄細胞の染色体を傷つけたのではないかというのだ。・・・・・
放射化された物質から出る放射線のエネルギーでは、染色体を傷つけることはできないというのだ。こうした反対意見の人たちは「バイスタンダー(傍観者)効果」という中性子線被曝などに独特の影響が出たのではないかと主張する。・・・・その効果の一つに中性子線に被曝した細胞が活性酸素を出すようになり、近くに被曝していない細胞に損傷を与えるというものがある。・・・・いずれにしろ、被曝による影響であることは間違いない。そう考えながら、平井は、放射線の恐ろしさをまざまざと感じていた。(70 頁)
次々と起きる放射線被害-被曝二七日目
・大内は口から食べ物を摂ることができなかった。このため、首の付け根から心臓の近くの静脈に向かって通されたチューブで栄養の入った点滴を送っていた。(73 頁)
・腸の粘膜は血液や皮膚とならんで、放射線の影響をもっとも受けやすい。粘膜は皮膚と同じように内部にある幹細胞がさかんに分裂して表面に向かっている。表面にある古い細胞は、はがれ落ちて新しいものと入れ替わる。このため、大量に放射線に被曝して幹細胞の染色体がダメージを受け、細胞分裂ができなくなると、消化管障害の症状が現れる。その時期は被曝からおよそ二週間前後と言われていた。(74 頁)
・ただし、これまでの被曝事故のケースで報告されているような血の混じった便ではなく、緑色の水のような便が出ていた。(76 頁)
・医療チームのメンバーはいわゆる「教科書」とずいぶん違う症状に戸惑い、議論を重ねた。まさに海図のない航海に迷い込んだようだった。・・・・・・臨界事故で全身に被曝した患者で、これまでもっとも長く生存したケースは九日間。海外の専門かも、これほど高線量の中性子を浴びながら、生存している患者を診た経験はなかった。(78 頁)
・入院したときは、一日で一気に日焼けしたぐらいの赤さで、少しはれているだけだった大石の右手。事故の瞬間最も多くの放射線を浴びたと見られているこの右手は、被曝して二週間たったところから表面が徐々に水ぶくれになっていた。人間の場合、皮膚の表皮が新しく入れ替わるまでのサイクルは二週間といわれている。医療用テープをはがすときにいっしょにむけていた皮膚は水ぶくれがやぶれた部分に新しい表皮ができてこないことに気づいた。放射線で染色体がずたずたに破壊された大内の皮膚の細胞は分裂できず、新しい表皮が生まれてこないのだった。(80 頁)
・このころ大内の目蓋が閉じない状態になっていた。目が乾かないよう黄色い軟膏を塗っていた。ときどき、目から出血した。細川美香は大内が苦しくて血の涙を流しているのではないかと思った。爪もはがれ落ちた。名和純子は、むかし広島にある原爆の資料館で見た被爆者の写真を思い出した。五〇年以上前、原子爆弾で被爆した人たちも、こういう状態だったのだろうかと考えた。(83 頁)
小さな希望-被曝50日目
・ただちに各大学から培養皮膚が届けられ、被曝から50日目の11月18日、右の腹部と右足に移植された。・・・・・移植した培養皮膚は3~4日もすると浮いてしまい、生着することはなかった。また、期待していた成長因子の影響も、健康な皮膚との境界の部分では皮膚の成長を早める効果はあったが、皮膚が剥がれ落ちた体の前面には効果がなかった。(87頁)
・モニターを見つめる岡本は、小腸から大腸の間の一部に点々と見えた白い円形の組織が気になった。「一体なんだろう?」岡本は消火器内科の医局に用意されたビデオで、このときのテープを何度も再生しながら検討した。組織をとって分析すればすぐわかるが、大内の腸に傷をつけるとさらに出血が多くなり、命に関わる恐れがある。他の専門医に相談したり、文献を徹底的に調べたりした結果、岡本は一つの結論を出した。この丸い組織は新しく作り出された粘膜に違いなかった。粘膜のなくなっていることが確認されてから三週間、すっかり失われたはずの粘膜が再生していた。「復活」「生命力」という言葉が岡本の頭に浮かんだ。(89頁)
・毎日大量の鎮痛剤・鎮痛薬が投与された。カルテによるとプロポフォールという鎮痛剤とフェンタニールという鎮痛薬が常に点滴で入れられていた。フェンタニールは塩酸モルヒネの100倍の効果があらわれるという合成麻薬である。・・・・・・持続的な痛みに効くこの薬は火傷の際使われることが多い。医療チームはこれらの薬を組み合わせて投与した。出口の見えない治療の中で、本人の苦痛を取ることが唯一の有効な治療となっていた。・・・・・このころ前川は他の多くの医師と交代で病院の廊下や研究室等で仮眠していた。肉体的な疲労に加え、精神的にも追い詰められていた。だれもが、今のまま治療を続けていくことの意味を自問自答した。(91頁)
・大内が、世界でも例のない患者であることはよくわかっていた。医師として、そうした稀な診察に関わることができるというのは貴重な経験であると、周りから励まされることもあった。しかし、山口自身は、こんな医療があるのか、自分のしていることが果たして本人のためになっているのかと常に自問自答した。目の前の大内に起きている状態を受け止めるので精一杯だった。医師になって数ヶ月という段階で、治療の方針の決定に積極的に関わっていくには力不足だということもわかった。(93頁)
・山口は、自分のやっていることが実際だれの幸せや喜びにつながっているのかが、わからなくなっていた。客観的に見ると生きながらえる見込みが非常に低い患者であることはだれの目にも明らかだった。助かる見込みが非常に低いという状況の中で、日に日に患者の姿が見るも無残な姿になっていく。その患者の治療に膨大な医薬品や血液などの医療資源が使われていく。しかし、そうして行った処置は患者に苦痛を与えているのだ。医療者はこの状況に、この治療に、どこまで関わっていくことが許されるのか、山口は常に考えた。(94頁)
・「そこまでやって治るのならいいけれども、でも多分治らないだろう。そういう状態を長くつづけさせていくことは、大内さんにとっては苦痛なんじゃないかと思ったんです。」(96頁)
・「ここにいる人は何なんだろう。だれ何だろうではなく、何なんだろう。体がある、それもきれいな体ではなく、ぼろぼろになった体がある。その体のまわりに機械が付いているだけ。自分たち看護士は、その体を相手に、次からつぎに、その体を維持するために、乾きそうな角膜を維持するために、はげてきそうな皮膚を覆うために、そういう処置ばかりどんどん続けなければならなかったんです。自分は一体何のためにやっているんだろう。自分は別に角膜を守りたいわけではない。大内さんを守るためにやってるんだ。そう思わないと耐えられないケアばかりでした。大内さんをおもいだしながらでないと、自分のやっていることの意味が見出せないような、そんな毎日でした。」(97頁)
・「リーダーとして気の抜けない、緊張が和らぐことのない毎日の中で、二人と話している時間は、前川にとって唯一のほっとできる時間になっていた。・・・・・・前川のもう一つの支えとなっていたのは大内の家族であった。前川は毎日、家族に病状を説明し続けていた。被曝して50日が過ぎた大内の状態を、前川は「言葉で語るには軽すぎるとしか言いようがない姿でした」と表現する。・・・・・家族は大内に、「2000年を迎えようね」と語りかけた。妻も両親も自らを励ますためにそう言っていたのではないかと、看護士たちは思った。治療が始まって二ヶ月がたとうとしていた。」(100~103頁)
被曝59日目
・「そこに前川がものすごい勢いで飛び込んできた。・・・・ボスミン入れて!前川は叫んだ。ボスミン(エピネフリン)は強力な強心剤だ。・・・・普段、大内の部屋には、感染予防のために手を洗い、うがいをしたうえで、黄色いガウンを着てからでないと入室できない。しかし、このときは、前川も他の医師も、そのまま猛然と走りこんでいった。」(107頁)
・「山口も、頭の中が真っ白になっていた。心のどこかで「大内さんひょっとしたら、これで楽になるのではないだろうか」と考えていた。それでも、患者が亡くなるのはいやだった。心拍が再会してほしいと念じながら、前川と交代で心臓マッサージをつづけた。」(108頁)
・「声は奪われても、顔の表情や体全体で気持ちを伝えてきた大内は、心停止を境に、家族の呼びかけにも応えなくなった。もはや機械と薬に支えられて生きていた。」(112頁)
終わらない闘い - 被曝59日目
・「心臓が停止したことにともなって肝不全に陥った大内には、肝臓で作られる血液の凝固因子を補充する必要があった。凝固因子は出血を止める働きのあるタンパク質で、血液のなかでも血漿という液体成分の中に含まれる。」(117頁)
・「しかし、大内の場合は、凝固因子が足りないだけでなく、皮膚から浸み出す体液や下血など、一日10リットル前後の水分が体の外に漏れ出していた。この水分を補うためにも新鮮凍結血漿の大量輸血が必要になっていたのだ。研修医の山口和将は、大内に大量の輸血を行いながら、医師として自分がどうあるべきなのか、そのあり方をより深く考えるようになった。大内は、もはやなんの反応もしなくなった。山口には、治療行為そのものが、これまでより一層つらい処置に感じられるようになっていた。」(118頁)
・「苦しい日々が続いたとき、治療を続ける原動力となったのは、やはり大内の家族だった。最後の最後まで失われない家族の希望が、前川をかろうじて支えていた。」(119頁)
・「無菌治療部の平井久丸がのぞいた顕微鏡の視野のなかで、赤血球や白血球にアメーバーのような形をした細胞が襲いかかっていた。マクロファージとよばれる細胞だった。・・・肝臓の機能が落ちたことで、肝臓で代謝される脂質を処理しきれなくなり、代わりに処理しようとマクロファージが異常に増殖したかもしれなかった。その異常に増えたマクロファージが正常な細胞まで攻撃しているのかもしれない。原因は、結局わからなかった。」(120頁)
・「妹から提供された造血幹細胞から作られ、大内の体の中で増えていた白血球は、異常を感知した自らの免疫細胞・マクロファージによって次々と攻撃され、力尽きていったのだ。大内の意識の状態はさらに悪化していた。」(123頁)
・「治療をしても効果がない。体から失われていく水分を補い、障害のある臓器や機械や薬で何とか動かしているだけ。どこか一ヶ所でも悪化すれば命取りになる状態だった。これまで大内は自分たちの治療に精一杯こたえてくれた。しかし、血圧を上げる昇圧剤の量と種類が増え続けるなか、前川ははやこれまでかと思った。もう、打つ手がない。前にも進めない、後ろにも下がれない。敗北感や挫折感とともに、前川は決意を固めた。・・・・前川は、家族は最後の最後になっても希望を捨てないだろうということが、痛いほどわかっていた。だからこそ、現実を直視してもらいたいと思った。」(124頁)
・「今度心臓が止まっても、もう蘇生措置はしないほうがいいと思います。」わかりましたと家族は言った。そのとき、家族は初めて前川に落胆の表情を見せた。・・・・家族が待機室で祈り続けていた鶴は一万羽に達しようとしていた。」(126頁)
1999年12月21日 - 被曝83日目
・「血液の流れが悪くなったことで、抗生物質や抗真菌剤が全身に行きわたらなくなった大内の体の表面には浸み出してくる体液を栄養分にしてアスペルギルスというカビの一種がはえてきた。銀白色のアスペルギルスは体から腕、そして足の付け根の部分に広がった。「あーあ、お父さん、かわいそうに。頑張るのよ」と言いながら、妻は涙ぐんでいる。また、顔をしっかり見たいとも言っている。」(128頁)
・「強心剤のボスミンのアンプルを三本使った。全く効かなかった。上が90、下が40あった血圧が突然、すとんと落ちた。あっという間だった。通常は、少しずつ血圧が下がり、心拍数も徐々に下がって亡くなることが多い。医療チームでは大内の心拍数が60を切ったら家族をよんで、病室に入ってもらおうと決めていた。急遽、家族のいる待合室に連絡を入れたが、間に合わなかった。・・・・・・・放射線障害の圧倒的な広がりと強さに、医師として虚無感すら感じていた。」(131頁)
・「勝てぬ戦いに挑んだドン・キホーテの闘いだったのだろうか。・・・・・。矛盾していることはよくわかっていた。生きてもらうために治療をしているのだが、治療はとてもつらいことが多い。そのつらい処置で本当に助かればいい。しかし、大内はそうならなかった。助からないことは目に見えていたのだ。」(132頁)
・「山口も大内の最後に、自分も立ち会いたかったと思った。「三ヶ月間。昼も夜も患者さんのそばにいて、その運命にここまで関わる事は、これからもおそらくないだろうと思えたからなんです。救急医療に携わっていると、余命があまりないと診断された患者さんをどこまで治療すべきなのか、患者さんの運命にどこまで関ることが許されるのかという問題に、つねに直面しています。ぼくは大内さんの治療に三ヶ月関りました。でもいまも、はっきりとした考えはまとまらないんです。」」(134頁)
・「三澤はこれまで3000体余りの遺体を解剖してきたが、大内の遺体を見たときは驚きを隠すことはできなかった。正面から一見すると真っ赤に火傷したような状態だった。しかし、全身が真っ黒になった焼死体とは違っていた。放射線が当たったところと、そうでないところの境界がくっきりと分かれていたのだ。このような遺体を見たのは初めてだった。」(136頁)
・「大内さんにかぎったことでなく、亡くなった方はいつも、自分の意思に反して解剖されます。だれも解剖されることはおろか、亡くなることさえ望んでいなかった、予想もしていなかったはずなんです。それは、いわば国家権力によって解剖するのが、自分の仕事である司法解剖だと私は常々思っています。だからこそ、ご遺体が何を言いたいのか、その声を聞き取らなければならない。それは自分たち解剖医にしかできないことなんです。集中力を持って観察し、記録することで、その人の声に必死で耳を傾けるのが私たちの仕事だと思っています。」(139頁)
・「人間の体を内側から壊していく、放射線被曝。放射線の影響は、体のすみずみまで及んでいた。しかし、体中の細胞が破壊されるなかで、大内の心臓は生きつづけていたのだ。」140(頁)
折り鶴 - 未来
・名和は大内の妻と抱き合って泣いた。・・・・そして自らの生き方についても考えた。「自分にとって大切な人とはいっぱい話をして、その人がし口を聞けなくなって、治療するかしないかという選択を迫られたときに、この人はこういう人だったからこの治療は続けて下さいとか、この治療はやめてくださいとか、そういうことが言えるくらい、たくさんたくさん話をしたいと思うようになりました。そして「いのち」について前よりずっと考えるようになりました。生きたいと思っている人なのに生きられなかったら、その生きたいという思いをすごくわかっているからつらい。反対に、生きたくないって思っているのに生かされている人を見ていても、とてもつらい。生きたいのか、苦しい思いをしてこれ以上生かされたくないのかは、本当に本人しかわからないと思うんです。だからこそ、「いのち」を人の手にゆだねられたくない。人は、落ち込んでいたら、もうどうでもいいって思って、死んでしまいたいと思うときもある。頑張って生きたいと思うときもある。わからない。「いのち」って何だろう?」(142頁)
・「柴田直美も「いのち」について考え続けている。・・・・・死ぬのも生きるのと同じように、その人が自分の死に方をきめられればいいのに。最後まで、その人の意思が尊重されるような、そういう最後を。・・・・どういうふうに生きていきたいのかを考えるのと同じように、自分はどういうふうに死にたいのか、考えられるようになればいいのに。そう思うようになりました。」(145頁)
・「細川美香も大内の看護で考えが変わった。助かる見込みがない患者さんにとっての「生」を考えるようになりました。この人にとっては治療しても苦痛だけしか感じていないんだろうなという患者さん見ていると、いままでは、そんなことをしても患者さんの苦痛な時間を長くしているだけだ、早く楽になりたいと思っているんじゃないかとどこかで思っていました。でも、大内さんと出会って、その考えは変わりましたどんな状況でも患者さんは、決して早く楽になって死にたいなんて思っていない。前向きに「よくなりたい、頑張りたい」と思っている。・・・・意識もなくて状態もよくなくて、治る見込みがないのにずっと延命していて、「生命の質」が問われる患者さんもいる。そのなかでも患者さんというのは、生きたい、頑張りたいと思っていると思うんです。」(146頁)
・「花口麻希は、いまも大内と対話を続けている。あの治療の意味がいまだにわからずにいます。大内さんの気持ちがわからないから。いま振り返ってみても、あそこまで頑張って治療を続けたことが、果たしてだれのためになったのか。やはり大内さんにつらいことを強いただけではなかったか。大内さん自身の気持ちが永遠に聞けないから、自分自身がしてきたことへの後悔、罪悪感まで覚えてしまう。・・・・・あんなに家族を思っていた大内さんだから、家族のためにがんばったんだって思わないと、自分が許せなくなる気がするんです。自分が大内さんを無理やり生かさせてしまった一因になったのではないかと思うと、一生罪に感じてしまう気がするんです。」(148頁)
・「大内の同僚の篠原理人が東大病院の前川のもとに転院してきた。・・・・・・・大内の死は一週間か二週間くらいたって、兄が伝えた。篠原は、そのとき泣きながら「俺もそうなるのかな」と言ったという。妻は「元気になったら、二人で大内さんのところにお線香をあげに行こうね。」と夫を励ました。・・・・・・しかし容態の悪化は止まらなかった。転院から一週間後には尿が出なくなって、24 時間の持続的な血液透析が必要になった。また、放射線による肺の障害が顕著になり、肝臓の機能も悪化した。そして、被曝から211日目の4月27日7時25分、死亡した。40歳だった。」(153頁)
・「大内と篠原、二人の被曝患者の治療は前川の医者としての驕りをみじんに打ち砕いた。同時に、被曝治療は、近い将来、勝つ見込みのある闘いだとは思えなくなった。放射線障害を受けた臓器や組織を最新の再生医学によって次々と置き換えていくだけでは、人間は救えない。事実、大内も篠原も造血幹細胞移植は一応成功したものの、高度な免疫機能を持つリンパ球は未熟なままにとどまり、本来の免疫機能が回復することはなかった。高線量の被曝、とくに臨界事故などによる中性子線被曝の治療について、これまで日本ではほとんど研究が行われてこなかった・・・・・原子力防災の施策のなかで、人命軽視がはなはだしい。現場の人間として、いらだちを感じている。責任ある立場の方々の猛省を促したい。」(154頁)
・「放射線の恐ろしさは、人知の及ぶところではなかった。今回の臨界事故で核分裂を起こしたウランは、重量に換算すると、わずか1000分の1グラムだった。原子力という、人間が制御し利用していると思っているものが、一歩間違うととんでもないことになる。そのとんでもないことに対して、一介の医師が何をしてもどうしようもない。どんな最新の技術や機器をもってしても、とても太刀打ちできない。その破滅的な影響の前では、人の命は本当にか細い。しかし、大内は、そして篠原は、その命の限りを尽くして、前例のない闘いに挑んだのだった。放射線や原子力と命の重さとの関りを見つめなおしたい、前川は決意した。人の命の尊さを、原子力防災の枠組みのなかで訴え、万が一、同じようなことが起きたとき、できるだけ早く医療として対応できるような準備をしたいと思った。そのための体制づくりに、自分自身のこれからの人生とエネルギーを捧げたい。それは二人が与えてくれた決意だった。」(156頁)
・「とても悲観的な考えなのかも知れませんが、原子力というものに、どうしても拘らなければならない環境にある以上、また同じような事故は起きるのではないでしょうか。所詮、人間のすることだから・・・という不信感は消えません。それならば、原子力に携わる人達が自分達自身を守ることができないのならば、むしろ、主人達が命を削りながら教えていった医療の分野でこそ、同じような不幸な犠牲者を今度こそ救ってあげられるよう、祈ってやみません。」(157頁)
(2005.8.7 掲載)__
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