ドブスが二万円

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海外ステマで大成功したドブ元が広島で凱旋公演を行うことになり、当日の朝から地元ではその話題で持ちきりであった。そのまったく同じ時刻、同じ広島で、その喧騒から離れたライブハウスでステージに上がろうとしている少女がいた。
鞘師里保である。
あらゆるものを失い、何も持たない彼女が、わざわざドブ元と同じ時刻にライブで対抗しようと考えたのである。
だが、ドブ元が所属するアミューズ社の妨害もあり、告知さえろくに出来ない有り様であった。
開演間際になっても観客席は無人であった。
遠くからメタラーの騒擾やパトカーのサイレンが聴こえてくるが、ここは至って無音であった。
ドブ元の会場には二万円の高額チケットを手にした観客が押し寄せているのに、鞘師里保のライブには誰も来ないのである。
人間は集団の中でこそ孤独を感じることがあるが、このライブハウスは空想でも悪夢でもなく、現実の空虚さそのものを体現する楼閣であった。決して山紫水明の森閑たる仙境ではなく、間違いなく俗世間に居合わせており、その重みを持った現実から疎外されているのである。遠くから聴こえる花火や爆竹のような音は幻聴ではあるまいし、実在する人間たちが耳障りな俗塵を撒き散らしており、そして鞘師里保にはまったく目を留めることなく通り過ぎていくのである。白骨として野ざらしにされ、蔑まれることすらなく、認識されない透明な骸として彷徨する、都市空間の孤独であった。
なんとか集めたバンドメンバーも、さすがにドブ元の権勢に打ちのめされていた。
鞘師里保に近づくのは躊躇われたが、バンドメンバーの一人が時計に目をやり、堪りかねて声を上げた。
「今日のライブは中止にしようよ」
しばらく静寂が訪れたが、鞘師里保は声を絞り出した。
「わたしは絶対にやりたい。やり遂げるためにわざわざこの日を選んだ」
「一人や二人しかいないようなライブならわたしだってやったこともあるよ。でも無観客はありえない。一人でもお客さんがいるならやるけど、誰もいないんじゃ中止しかないよ」
「でもまだ開演時間になってない。ひとりでも来てくれれば」
周りのメンバーは特に何も言わず、所在なさげに立ち尽くしていた。
リハを行う様子もなく、心ここにあらずという具合であり、開演時間になったらすぐに帰るという面持ちだった。
鞘師里保はドブ元と決着を付けるつもりで、わざわざこの日を選んだのだが、遠くの喧騒と、ここの無音の対比という現実を前にすると、さすがに心は折れていた。
「わたしはライブをやりたい。鞘師里保の存在証明としてこの時間にライブをやってみたいんだ」
「うんうん。一人でもお客さんがいるならやるけどね」
メンバーが投げやりに言いながら帰り支度を始めた頃、ライブハウスの支配人が現れた。
「どうやらお客さんが一人だけ来られたようです。みなさん中止にするみたいでしたが、どうします」
鞘師は決然として答えた。
「観客が一人でもいるならやる。おまえらもそう言っていたはずだ。あのインチキメタルと同じ時刻にこの鞘師里保が鞘師里保である所以を見せなければならない」
そして観客が会場に入ってきた。
「今日のライブは中止なのか。スケジュールをやりくりしてようやくたどり着いたのだが」
そうやって空っぽの空間を見回しているのは松岡茉優であった。
「まさか松岡茉優さんが来られるなんて……。無観客でライブをやるかどうか悩んでいたところでした。こうやって広島でメタルが盛り上がっている現実があり、それと隣り合わせの無人の空間で演じることに意義があるのか、そんなことを考えていました」
「正解はないが、楽譜は永遠でもライブはナマモノではないかな。誰も食べずに腐らせた料理が根源的に無価値というわけではないが」
「わたしも、ひとりでいいので聴いてほしいです。誰かに伝えたいです」
「ではこの松岡茉優が立ち会わせてもらおう。隣の馬鹿騒ぎのことは気にする必要もあるまい。ちはやふるで広瀬すずと共演したときのことがなぜか不思議と思い出される。鞘師里保の紅天女を見せてもらおうではないか」

その後、ドブ元のステマは限界に達し、一気にピークアウトした。
そして鞘師里保の時代が始まるのであった。
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