容疑者がガソリンを撒いて35人もの人を死に至らしめたことについて、容疑者自身もそこまで炎が広がると考えてなかったのではないかという見方もある。実際、彼自身も炎に巻かれてしまっており、容疑者の予測を大きく超えた被害を京アニに与えてしまった可能性も考えられる。
しかしその一方で、犯人はやはり警察に対して後悔を述べるのではなく「京アニが小説を盗んだこと」を主張していた。それは犯行理由の説明というよりも、自分の行為に正当性があることを警察に訴えていたのではないだろうか。もしこれがネットの場であれば、自分の小説を盗んだという大悪党の京アニが「炎上」すれば、みんな自分の正義を認めてくれるはずなのだ。だから自分は悪くないのだ。自分は被害者なのだと。自分の行為は正義なのだと。
今のネット社会では、誰もがすぐに「正義の存在」になれる。それは決して今回の事件の容疑者だけの話ではない。
昨年に話題となった一部の弁護士に対して大量の懲戒請求が発生した問題も同じである。この事件もまた、ブログに提示された「正義」に対して、多くの人達が賛同し、自分が何をしているのかの自覚も無いままに、裁判沙汰になるような問題行為にまで至ってしまったという問題である。
そして京アニの事件は、犯人が捕まった後も、ネットでは「正義」が叫ばれ続けている。在日、NHKに続く、次の「悪」は「マスコミ」だ。
ネットでは事件現場の近隣住民に取材するマスコミを指して「迷惑行為をしている」と騒いでいる。ネットでは当たり前のように「マスゴミ」という言葉が使われる。確かに、多くの人が悲しみにくれる中、仕事としての取材を行うマスコミは邪魔な存在であることは間違いがない。ただ、そうしてニュースが伝えられなければ、いくら凄惨な事件であってもすぐに風化してしまうということもある。
特に、共同通信社による被害者の遺族やその友人知人に自主的な情報提供を求めるネット上での呼びかけについてすら、「遺族の声を飯の種にしている」などという非難の声が上がったことには首をひねらざるを得ない。