計都@artscape_tha·2017年7月20日僕も「子供たちの教育とは関係ない」という趣旨の表現を使いました。それは原告団・朝鮮学校側が共闘団体との関係において「学びの権利」を押し出しているからで、差し当たって被差別当該の主張に従いました。確かにそれは戦術上の最大公約数であり、共和国への「制裁」を曖昧にする危険はあります。1
計都@artscape_tha·2017年7月20日僕自身は差別的な社会関係と無縁なものは存在しないと思っています。むろん教育もそうです。否、ブルジョア教育制度こそ差別の元凶とさえ思います。しかしまた、この教育制度にしたがわないと現実に生きていけない事も事実で、それくらいに支配の要として位置づけられ、個々に深く内面化しています。1
計都@artscape_tha·2017年7月20日生徒たちの即時的な「学びたい」という気持ちを、露骨な「反北朝鮮」という政治判断によって打ち砕かれた生徒達の怒りを「わかる」とは到底思いませんが、僕はいつも想像します。会って話をすれば「建築をやりたい」「デザイナーになりたい」などというある意味「普通」な言葉が返ってきます。1
計都@artscape_tha·2017年7月20日でもそうした夢を追求する事ひとつとっても、それはリベラル評論屋がいう「彼らも普通の子供達だ」などというお喋りでは到底語りえない、差別との闘いの中にあるのだと思います。1
計都@artscape_tha·2017年7月20日そうした生徒たちが「教育は平等」というタテマエとの関係において「自分たちの学びたいという気持ちが、ミサイルとなんの関係があるのか」と叫んでも何ら間違っているとは思えません。2
計都@artscape_tha返信先: @artscape_thaさん, @Verandahamさん僕がなぜこんな話をしているかというと、かつて大失敗をやらかした事があるからです。 随分昔の話です。とある「障害者」の友人からこんな相談を持ちかけられました。午後1:24 · 2017年7月20日·Twitter Web Client
計都@artscape_tha·2017年7月20日返信先: @artscape_thaさん, @Verandahamさん「親戚の家で結婚式や葬式があっても自分だけがのけ者となって一回も参加したことがない。今度いとこの結婚式があり、どうしても参加したいと家族に伝えると『障害者であるお前を親戚の前に出したくない。お前自身がかわいそうだと思うからそうするのだ』と言われた。…1
計都@artscape_tha·2017年7月20日…悔しくて悔しくて仕方がない。どうしたらいいだろう?」 これに対して僕はこう答えました。 「そんな差別は許せないが、そもそもブルジョア家族制度自体が国家と階級支配を支える道具であり、差別そのものなのだ。そんな儀式に参加する必要ないじゃないか」。1