東京バーベキュー ~歩くひと、佇むひと~
三河島の町のいろんな場所で見かけた新聞スタンド。「韓国生活情報新聞」とは随分とベタなネーミング。至るところにあるということはそれなりに需要があるということであり、この類のフリーペーパーが広告掲載料で成り立っているのだから、それなりの供給もあるということになる。発行元を見ると新宿区大久保となっていたので、ニューカマーが対象なのだろう。書いてある内容はわからないけど、食う寝るところに住むところ、あとは格安航空券だろうと確信する。以前、池袋で見つけた中国語新聞がそんな内容だったし、流通形態こそ違え海外の日本人コミュニティの情報誌も似たような内容だったからだ。
今回、三河島を選んだ理由のひとつに、古くからの在日の町だというのがある。ちなみに、「連想くらうどβ」というネット上の関連キーワードを拾ってくる検査エンジンに「三河島」と入れてみると、以下のキーワードが並ぶ。
既に触れた三河島事故関連以外、ほとんどすべてが在日・コリアンに関連するワードということになる。では、そのような地域、三河島という町はどのようにして形成されたのだろうか。ここはひとつ、ねちっこく調べてみることにする。
まずは、三河島駅 - Wikipedia
江戸時代、三河島周辺は江戸城から鬼門の方角とされ、屠殺場などの地域とされ、それが戦後、精肉工場等の工場街となった。そこへ朝鮮人などが出稼ぎにきたことで、駅周辺は東京有数のコリア・タウンとなり、済州島出身者を中心としたコリア系住民が多く居住し、朝鮮学校や在日コリアン団体の支部が置かれている。
「鬼門→屠殺→精肉→朝鮮人→コリアンタウン」と、なんか一直線の流れ。マジ?、ちょいと薄っぺらくないかい?。上記の箇所を引用してるblogとして「Kai-Wai 散策: 三河島の古家」を見つけた。このblogは日頃購読してるひとつなのだけど、これ以上のことはわからなかった。
1.鬼門
鬼門については、「江戸の風水論」として様々なサイトが語っている。これが史実に即していたとしても、「三河島=鬼門」というのはどうなのだろう?。鬼門という概念が物理的な空間計画に影響を与えているとしたら、幕府に近い寺社の配置でり、奥州道・東海道といった鬼門・裏鬼門に位置する街道の安全保障に関してだろう。三河島はどちらも外れている。このことは、以前にも紹介した「大正15年の東京を地図で振り返りましょう」でも一目瞭然。例えば、奥州道の鬼門に位置してる小塚原刑場(今回歩く)はこの地図でも相変わらず主要幹線で都電も走ってるけれど、三河島は単なる郊外の村でしかない。だから、在日の町を鬼門から説明するのは直接的には無理なんじゃないかと思う。
2.屠殺
日本の屠場の歴史は静岡県下田市から始まる。ペリーが日本にやってきて「やい、牛肉食わせろ」と言って屠場ができた。ほぼ同じ頃、福沢諭吉が「もらった豚肉煮て食った」と自慢している。あとは横浜に牛鍋屋ができたりして、慶応3年(1867年)には江戸芝白金猿町に東京で最初の屠殺場が作られた。これも主な消費者は外国人だったらしい。その後の屠場については、「もつ煮 - Wikipedia」に次のように書いてある。
1869年、築地に公営屠場が開設され1877年(明治10年)までに芝七曲、神田護持院ヶ原、麻布本村町、三田小山町、千住、浅草千束町に、次々と屠場が開設され、需要の伸びを垣間見ることができる。しかしながら獣肉の処理に伴う腥臭の問題もあり、大量の水が確保できる条件と、その保存の必要性が隣り合わせであることから、前述「中川屋」の主人である中川屋嘉兵衛は函館からの天然氷を切り出して関東まで運ぶ商売も並行して行っていた。
Wikipediaには「昭和初期までの屠場の位置図」というのも載っていて、一見すると鬼門・裏鬼門のようだけど、むしろ、「物流に便利な交通・精肉に必要な大量の水の確保・消費地である人口集積地に近いこと」が立地要因ではないか。もちろん、臭いとかイメージの問題もあるから、そんな中で比較的つくりやすい場所につくっていったんだろう。例えば常磐線だが、上野から日光街道沿いに千住へまっすぐ抜けるのがどう見ても素直なのだが、実際は日暮里を経て急カーブを描いて千住へ向かっている。これは、鉄道敷設時に既に市街地だった入谷の町から、陸蒸気の黒煙は迷惑反対との声があがり、このような軌道になったと聞いたことがある。それでは移動しましょうということで移動した先が三河島だということで、何というか"VOID"として認識されていたのではないだろうか。今の眼で地図を読むと鉄道主体になってしまいがちだが、金杉通りがあって右手が下谷、左手が根岸、その根岸の裏に広大な空き地があるという地理感。
いずれにせよ、その「昭和初期までの屠場の位置図」にも三河島にマークがついてるので、確かに屠場はあったんだろう。これについては、「荒川ゆうネット > 特集 > 三河島コリアタウン Part1 食文化編 > 食材店 丸萬商店 社長 高 明功さん」も、
当時近くにあった精肉解体場に通う業者の勧めで肉を扱うようになった
と答えておられる。
3.精肉
屠場とその関連産業については、三河島の超有名焼肉店「山田屋(東京都荒川区)」を紹介するライター氏が、次のようにまとめている。
1883年(明治16年)、三河島に日本家畜市場株式会社・笠原工場が最初に設立。1887年(明治20年)には大野製革工場、1890年(明治23年)には現在の尾久変電所付近に屠殺場、関連事業の皮革工場、肥料工場、油脂工場が作られ、のちにカバン製作を中心とした皮革業が地場産業として三河島へ分散していく。昭和54年には三河島の皮革工場数は456軒にも激増した。
やはりキーワードの中心は、隅田川の「水」だ。隅田川沿いの工業立地が進み、その関連として手工業的なものが広がっていったようだ。
これは三河島ではないが、下町の古くからあるモツ焼き屋からこんな話を聞いたことがある。近くの食肉センターにアルバイトに行き、そのとき、売り物にならない臓物をもらってくることがよくあって、そういうところからモツ焼屋は始まったんだよ、って。モツやホルモンもそうした周辺産業のひとつだったのだろう。
4.朝鮮人
市・市場:在日朝鮮人市場―荒川区・三河島の例から―
いつ頃から、荒川区の三河島周辺に済州島の人々が住み始めたのかを知る資料は非常に少ないが、高内里出身者で組織されている在日本高内里親睦会の名簿によれば、1919年にこの村の出身者が荒川に来ていることが記されている。
市・市場:在日朝鮮人市場―荒川区・三河島の例から―
済州島の南部の村で生まれたKさんは7歳のときに両親に連れられて、1927年に大阪に来ている。(...、戦前は何度も大阪と済州島の間を行き来している)。...、三河島にいたオルケ(兄嫁)を頼って、上京したのが昭和24年のことであった。
済州島四・三事件 - Wikipedia
1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。...。治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。...。1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。...。事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。
山田屋(東京都荒川区)
1964年(昭和39年)にオープンしました。...。父は済州島からきた在日1世で、母は日本人。...。ですからわたしは日本国籍の日本人です。
日韓併合が明治43(1910)年だから、その頃から住み始め、韓国独立後も済州島四・三事件や朝鮮戦争、さらには日韓条約まで、実に長き歴史である。ちなみに、済州島出身一世の職業としては、「1950年の資料ではゴム加工やミシン加工が目立って多い」、二世・三世は「技術を生かしてビニールの加工業やカバンの縫製業などが見受けられる」のだそうだ。やはり、隅田川の「水」から大工場の立地が進み、そこから周辺産業として手工業的なもの、あるいは焼肉・ホルモン料理などに広がっていったように思える。もちろん、"VOID"だから定住しやすかったというのはあるだろう。
5.コリアンタウン
韓国で海外渡航が自由化されたのは1989年。写真のようなハングルの情報メディアの流通は、古き在日の町の風景なのではなく、海外渡航自由化がつくった風景なのではないか。
話はそれるが、台湾旅行中に韓国の大学生と相部屋になった。彼らは、「本当をは中国に行きたいのだけど、それをすると共産主義者と目をつけられ就職できなくなるので台湾を選んだ」と言っていた。なぜ、中国に行きたかったのかという問いには、「自分たちの文化の根幹があるのではないかと考えるから」であった。1990年代に入ってすぐの頃の話だ。
《追記 2009.4.18 参考になるWebsite》
・こういう歴史もあるんですけどね - finalventの日記
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