【先生ができること(2)】子ども時代の経験

弁護士 太田 啓子
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私はさいたま市で24歳まで過ごしました。司法試験合格以降は神奈川県民です。地元の公立小学校に6年間通い、都内の私立女子中学校に1学期のみ通った後、父の転勤でニューヨークへ行くことになり、現地の日本人学校で中学校卒業まで過ごしました。

「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に関する意識の現状(男女別・年齢階級別)。内閣府「男女共同参画に関する世論調査」(令和元年)より作成

私は子どもの頃から、「女らしさ」「男らしさ」の押し付けにはとても反発を覚える子どもでした。型にはめられたような違和感と、個々の可能性を阻害するものではないかという警戒心があったのだと思います。

中学生の時、理科の授業で気象を勉強していた際、先生が「洗濯物が乾きやすい条件は?」と質問しました。「晴れている」と「気温が高い」は誰もが思い付いたのですが、もう一つの「風が強い」がなかなか出ず、皆が首をひねっていると、先生が「本当に分からない?女の子も分からないの?」と言ったのです。なぜ女子の方が、男子より洗濯に詳しいはずだという前提で物言いをするのかと、かちんときたのを覚えています。面白い先生で嫌いではなかったのですが、性別役割分業意識があると言葉の端にぽろっと出てしまうものです。

小学生の時は、体操の授業でのブルマ着用がとても嫌でした。「なんで下着のパンツと同じ面積なんだ。おかしいじゃないか」と思いましたし、高学年になってからは、生理の際に生理用品でもこもこしないか、脚の付け根あたりの経血の汚れが見えてしまわないかなども気になり、こんなことをいちいち気にせねばならない服装が当然という状況がとても無神経だと思っていました。6年生にもなって胸も膨らんでいるのに下着のパンツ一枚で身体測定に並ばされ、そこに男性の担任が同席するのも、体育で水着に着替えるのが男女同室なのも、とても嫌でした。当時は言葉にできませんでしたが、「学校という所は、子どもの性的尊厳をとても軽視していて、それは人間という存在に対して本質的に失礼である」という思いを募らせました。自分の子どもを見ていると、今はかなり変わったようには思います。当時のあれは一体なんだったのでしょうか。

弁護士になり、離婚事案に関わる中で、社会全体のマクロな性差別構造が個々のミクロな事案で噴出しているのを感じ、自分の子どもの頃からの問題意識と何かがつながったような思いもあります。次回は、弁護士業務から見える性差別構造について書きたいと思います。


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