もちろん予防的なかかわりや個人の努力を求めることは重要だが、そのために「有害」という言葉を用いる必要性がどれだけあるだろうか。性差別が起きたときに重要なのは、加害者が自己否定だけをすることではなく、自ら責任をとっていくこと、つまり自身のやってしまったことを認めて謝罪し、二度と繰り返さないことにある。
「有害な男らしさ」という概念は、危機感を煽りはするが、男性たちを自意識の中に閉じ込め、主体的に脱性差別の道を歩むことを妨げる恐れがある。
また、本当に男性の問題を考えるならば、個人の問題と並行して男性を取り囲む社会や文化についても議論していくべきだ。そして具体的な実践の一つの形として、社会や文化の形を変化させることができるのではないかと思う。
フランスの映画『シンク・オア・スイム』は、8人の中年男性がシンクロナイズドスイミングに打ち込む、一風変わった作品である。うつ病で会社を退職し子どもからも馬鹿にされている男性や、妻と子どもに出ていかれた短気な男性、事業に失敗し倒産の憂き目に遭っているのに虚勢を張り続ける男性など、何らかの苦悩を抱えている男性たちがひょんなことからチームを組み、シンクロの世界大会に出場することになる。厳しい特訓によって彼らは実力を伸ばし、大会では金メダルを手に入れる。
一見単純なサクセスストーリーに見えるが、その道のりは決して平坦ではない。彼らは途中で何度も悩み、立ち止まる。また世界大会で優勝しても彼らが抱えている悩みが特に解決されるわけでもないのだ。彼らは人生に絶望しながらも、それでもなんとか生きていく。
それを可能にしたのは作中で印象的に描かれる〈語りが聞き届けられる〉文化にある。このシンクロチームはコーチ(女性)もユニークで、彼女は練習中なぜかシンクロに関係のない詩を何度も読み、そしてメンバーたちはそれに耳を傾ける。その習慣の影響もあってか、彼らは練習後にロッカールームでぽつりぽつりと自分の抱えるプライベートな悩みや困りごとを他のメンバーたちに語りだすようになる。誰もアドバイスなどを投げかけない。ただその語りを黙って聞く。