「有害な男らしさ」という言葉に潜む「意外な危うさ」を考える

問題を「自己責任化」していないか
西井 開 プロフィール

自己責任論への発展

それは「有害な男らしさ」のもう一つの要素である「援助希求や感情発露の抑制」についても言うことができる。確かにこれまで男性学の分野において「男は弱さを語れない」「人に助けを求めることが苦手」という言及が何度もなされ、実際にそれを実証した研究もある。

しかし、本来「弱さ」とは、性別問わず安全・安心な場でようやく語ることのできる繊細なものである。そして男性たちが日常的に過ごすコミュニティ、特に男性同士の集団は十分に安心できるものでない場合が多い。

仕事上のやりとり以外でも、周囲の空気や会話の流れを繊細に読み取り、テンポよく話すことが求められる。時にはいじりやからかいがあって、少しでも自分の苦労や悩みを話すとネタ化されたり否定されたりしてしまう。2人きりの場面でも改まって話すのは気が引け、結果なかなか内面を開示した内容を話せない。こうした境遇にいる男性にとって、「弱さを語れない・語らない」という指摘は、「弱さを語る空間や文化」について言及していない点において不十分なものになっている。

ましてや「語れない」ことを「有害性」に紐づけて論じることは(そしてそれは暗に「語れる」ことを「健康」と紐付けている)、問題をいたずらに個人の能力へと還元させ、自己責任論的な方向へと議論を運んでしまう危険がある。

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「有害な男らしさ」という言葉は内省の契機をもたらすが、それと引き換えに「本質的に男性個人の人格には欠陥がある」という認識を生み出す。つまり、実際はその〈ふるまい〉に問題があるのに、〈人格〉そのものを否定する作用を持っている。その結果、男性はたとえ性差別的な行為をしていなくとも、もしくは自身の犯した行為をどれだけ償ったとしても、「有害性」を持った存在であると見なされる事態が起きかねない。また、男性自身が自分を「有害な」存在として自分を否定し続ける可能性もある。

こうした事態から逃れるために、彼は(上述したように)自分を棚上げして他の男性を非難するか、性差別的なふるまいをした場合はその事実を隠蔽しようとするだろう。でなければ自己否定感を延々と抱えたまま、他者との関係を断ち切って閉じこもるしかなくなってしまう。