「有害な男らしさ」という言葉に潜む「意外な危うさ」を考える

問題を「自己責任化」していないか
西井 開 プロフィール

まず考えられるのは、使いようによってはジェンダー平等を後退させてしまう点である。この言葉の変遷で見たように、「有害な男らしさ」は周辺化された男性だけでなく権力を持つ男性にも適用されるようになり、それは一見社会における男性全体の問題を射程に入れたように見える。

しかし、例えばブッシュ元大統領(息子)が「有害な」男性から弱者を守る「男性的な」英雄として自身を描いてきたように、実はこの概念が、エリート男性が自身の権力を維持するために利用されてきた、とハミルトンは指摘している。つまり「有害な男らしさ」というラベルを他の男性に貼り付けて非難をすれば、自分を棚上げするだけでなく、「健康的」「進歩的」な男性として位置づけてより権力を強化することができるというわけだ。

ジョージ・W・ブッシュ元大統領〔PHOTO〕Gettyimages
 

その上、問題を起こした男性だけを取り上げ、彼らの「個人としての資質」を非難することで、社会全体の制度や文化に埋め込まれた男性特権や性差別の問題を覆い隠すことが可能となる。

「有害な男らしさ」という言葉を手放しで受け入れると、男性同士のヒエラルキーの構築や、特権性の隠蔽に意図せず寄与してしまう。結局一部の男性が問題化されるだけで男性中心的な社会は変化しない。それは周辺化された男性だけを「有害」と見なして介入し、社会構造自体には手を加えなかった過去の事例と相似形になっている。

また、「有害な男らしさ」は、男性が抱える問題への対処を考える際にもマイナスの作用を及ぼす可能性がある。確かに性差別や競争的・支配的なふるまいには個人の性格特性が関わっていると言えるかもしれない。しかし本来あらゆる行動はその場の環境や他者との関係性、そこに至る過程など、多くの要因の相互作用によって生じるものだ。男性の暴力も例外ではなく、女性軽視が埋め込まれた社会意識や文化、暴力を正当化する態度や語彙、暴力を可能にする権力関係などが関わっており、性格だけに一元化して説明することはできない。

例えば、男性心理学者のクリストファー・キルマーティンは、男子大学生たちが男性同士では性差別的にふるまうのが当然だという社会意識に従い、仲間からの承認を得ようと性差別的な言葉を発する傾向にあることを提示した。しかも彼らの多くが実はそうした会話をすることを望んでいないにもかかわらず、である*3

この研究は男性個人の「内側」だけではなく「外側」にも問題があることを端的に示している。脱性差別を考える際、個人だけを対象にしてしまうと問題の全体像を見逃し、包括的な対策から遠ざかってしまうリスクがある。たとえなんらかの治療によって「有害性」を取り除いたところで、社会や環境自体には問題が残っているからだ。