また、さらに注目を向けるべきは、「有害な男らしさ」が精神医学や心理学と結びつきながら発展してきた特徴を持つという点だ。そのため、治療によって男性の「有害性」は除去することができるという治療モデルが構築され、同時に男性の問題は男性個人の内面性によるものであるという説明が説得力を増していくようになった。
すなわち、暴力などの男性の問題は「様々な社会関係や環境との相互作用で生じる」と考えるのではなく、「個人の内面にこそ問題がある」と考える傾向が強まっていったのである――詳しくは後述するが、この点は「有害な男らしさ」という言葉の危うさを考える際のカギとなる。
結果として、非正規雇用者や黒人など周辺に追いやられた男性だけを異常な存在として見出して介入し、階級制度や人種差別の問題に着手しないまま、彼らを社会適応させる口実を「有害な男らしさ」という概念は作り出したのである。
ところが、2017年から「有害な男らしさ」が指し示す対象は、大きく変化する。#MeToo運動の中で「有害な男らしさ」という用語は、周辺化された男性ではなく、トランプ前大統領や映画プロデューサーのワインスタインのような権力を持つ白人男性を対象として用いられるようになったのである。
それ以降この概念は幅広く社会で取り上げられるようになり、例えばマスメディアはレイプ、殺人、銃乱射事件、ギャングの暴力、ネット上の中傷、気候変動、イギリスのEU離脱、そしてトランプ前大統領への投票など、ありとあらゆる問題を「有害な男らしさ」と関連させて論じている。今ではジェンダー研究でも数多く引用されているが、しかしそのほとんどが定義を曖昧なまま使用しているとハリントンは警鐘を鳴らしている。
上述したように、「有害な男らしさ」は男性問題の原因を個人の内面に見出す、つまり個人化・心理化する作用を持っている。男性による性暴力やドメスティック・バイオレンスは後を絶たず、特に身体的な加害は男性に偏在している。この現状において男性たちが無意識に身につけた〈男らしい〉ふるまいや言葉を自覚・内省することは間違いなく必要だ。しかし、内面性ばかりを過度に問題視することは、いくつかのデメリットを有している。
ここから「有害な男らしさ」という概念を使用する際の注意点について考えてみたい。