「有害な男らしさ」という言葉に潜む「意外な危うさ」を考える

問題を「自己責任化」していないか
西井 開 プロフィール

起源と変遷

この言葉の起源はアメリカの「神話的男性運動」に見ることができる。神話的男性運動とは、スピリチュアルなワークショップや太鼓を用いた儀式などによって、産業革命前の戦士のような男らしさを取り戻すことを目的に、1980年代から90年代にかけて実施されていた運動である。

男らしさを取り戻す運動で「有害な男らしさ」が取り上げられたことを不思議に思う読者もいるかもしれない。運動の創始者であるシェパード・ブリスは、「すべての病気と同じように有害な男らしさにも解毒剤があると信じていたからこそこの医学的な用語を用いた」と話しているが、この運動において、男性たちが女性に対する暴力に走ってしまう(=有害な男らしさを発揮してしまう)のは、「適切な」父親の不在などが原因で男性たちが腑抜けたために、欲求不満に陥っているからだ、と想定された。

つまり「有害な男らしさ」に対する解毒剤は、より立派な父親の存在、すなわち適切な男らしさを教え込んでくれる父親の存在である、と考えられたのだ。

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この主張は学問の領域や政策にまで広がった。例えば心理療法家のフランク・ピットマンは、適切な父親を欠いた男性は、非現実的な男らしさの文化的イメージを追求し、男性であることを証明する必要性を常に感じていると主張している。

つまり当時は、「有害な男らしさ」を持ち出すことによって、父親不在の家庭の男子のような「規範的な家族像・男性像から逸脱した男性」を不健全と見なし、その一方で力強い父親像を推奨するような、保守的で異性愛家族主義的な言説が展開されていったのである。

21世紀に入ると、こうした考え方はさらに発展し、暴力が原因で家族や職を失った男性のうち、黒人男性や非正規雇用の男性、受刑者の男性など、より社会の中で周辺に位置づけられる男性に偏重して「有害」というラベルが適用されるようになる。中でも刑務所をフィールドとして「有害な男らしさ」を論じた精神科医のテリー・クーパーズの研究は広く引用され、彼の「積極的な競争や他者を支配する欲求、心理療法への抵抗につながる男性的性質」という定義が定着していった。