『モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究』を上梓した「ぼくらの非モテ研究会」。この研究会は、「非モテ」という言葉を媒介に、男性が自分たちの経験を語り合い、加害的にならない他者との関係性の築き方や生きづらさへの対処方法を模索する実践の場だ。メンバーの一人である西井開氏が、男性の加害や男性同士の語り合いを見つめてきた経験も踏まえ、昨今耳にすることが増えた「有害な男らしさ」について、その危うさ論じた。
「有害・有毒な男らしさ(toxic masculinity)」という言葉が話題になっている。アメリカで生まれたこの概念は、多くの研究者や運動家に言及され、細かな違いはあるものの(1)性差別や暴力につながる、(2)援助の希求や感情の発露を妨げる、「男性の性格上の欠点」をその基本的な定義としている。
2017年に盛んになった#MeToo運動などの影響を受けて、日本でもジェンダーにまつわる暴力の問題を考える機運がこれまで以上に高まった。翻訳書などを通じて輸入された「有害な男らしさ」は、この流れを受けてSNSを中心ににわかに取り沙汰されるようになり、先日NHKの番組でも特集が組まれた*1。
この言葉がこれほど速く社会に伝播したのは、男性の暴力や感情抑制は男性文化の中でインストールされた気質によるものだ、というわかりやすい説明と、その語彙の持つインパクトによるのかもしれない。私は〈男らしさ〉が性差別や男性自身の生きづらさに関与していることを広く提示した点においてこの概念に意義を感じつつも、その使用には懸念も抱いている。
ここでは社会学者キャロル・ハリントンの論文『「有害な男らしさ」の実体とその問題点(What is “Toxic Masculinity” and Why Does it Matter?)』*2を参照しながらその起源と変遷を見た後、「有害な男らしさ」という言葉の持つ課題について考えてみたい。