暗殺未遂から始まる悪役王子の王都療養ライフ
兵馬がダンムールの自宅の風呂で夜空を見上げていた頃、アルマルディーヌ王国の王都ゴルドレーンの王城は、蜂の巣を突いたような大騒ぎになっていた。
数多くの優れた魔法使いを配する王族にあって、至宝と称される第二王子ベルトナールが血まみれの姿で転移してきたからだ。
結論から言うと、ベルトナールは一命を取り留めた。
剣が振り下ろされるのと、ベルトナールが空間転移魔法を発動したのは、ほぼ同時だったが、兵馬の一撃は右の肩を鎖骨まで斬り割っていた。
あとコンマ数秒転移が遅れていたら、ベルトナールの命は失われていただろう。
正にギリギリのタイミングだったが、ベルトナールが咄嗟に転移を速めた訳ではなく、兵馬が間に合わなかったのだ。
空間転移の範囲内にあった剣が一緒に転移しなかったのは、兵馬が発動したレベル9の剣術スキルによって、防御魔法すら斬り裂く魔法阻害の効果が付与されていたからだ。
ベルトナールにとって幸いだったのは、サンドロワーヌから戻った王都の部屋には、常に二名の護衛騎士が詰めている体制が作られていた事だろう。
間髪容れず一名が止血を行い、もう一名が治癒士を呼びに走る。
王室お抱えの治癒士は言うまでもなく高レベルの治癒魔法の使い手で、程なくしてベルトナールの傷口は塞がれたが、魔法では失った血液までは補えなかった。
右肩の傷は深く、更に大量の出血を伴っていたために、ベルトナールは意識を失ったまま眠り続けていた。
そのために、サンドロワーヌの街で何が起こり、どのようにベルトナールが襲われたのかの情報が無く、王城周辺は大混乱に陥った。
王都ゴルドレーンから、国境の街サンドロワーヌまでは平地が続いているが、徒歩で移動すれば二十日以上の道程だ。
ベルトナールが負傷して戻ったと聞いて、ただちに斥候が送られたが、街ごとに馬を変えて走らせたとしても往復に十日以上掛かる。
獣人族が攻めて来た時に異変を知らせる狼煙による信号は用意されているが、細かな話を伝えられるものではなく、そもそもサンドロワーヌから一方的に連絡してくる仕組みだ。
この時点では獣人族の来襲を知らせる狼煙は上がっていないが、ベルトナールは負傷して意識が戻らない状態が続いているために、様々な憶測や噂が飛び交い始めた。
その中で、最も多く聞かれたのは、サンドロワーヌ陥落の噂だ。
これまでベルトナールは、サンカラーンの獣人族との戦いでは連戦連勝、ただの一度も敗北を喫したことは無かった。
若い騎士の間では、戦神として崇める者も多いベルトナールが、血まみれの姿で戻ってきたとなれば、サンカラーンの街は獣人族の手に落ちたと考えられても仕方ないだろう。
曰く、フェスティバルの盛り上がりに乗じて、獣人族の大群が押し寄せて、城壁の内部にまで踏み込まれてしまったらしい……。
曰く、ベルトナールが負傷するほどだから、狼煙を上げる暇も無かったらしい……。
曰く、騎士や兵士は集まっていた民衆が邪魔になり、攻撃魔法を撃つことが出来なかったらしい……。
曰く、ベルトナールは、一人でも多くの住民を逃がすために街に残られ、そのために獣人族の刃を受けてしまったらしい……。
曰く、応援を要請するために最後の力を振り絞って、ベルトナールは王都まで戻ったらしい……。
どの噂も確かめようが無く、らしい……とか、のようだ……といった話ばかりだったが、何度も何度も耳にするうちに、あたかも本当に起こった事のように人々は思い込み始めた。
そして、獣人族の一団はサンドロワーヌを根城として、王都ゴルドレーンへの侵攻を始めたらしい……という噂まで流れ始めた。
民衆の噂が獣人族の脅威に向けられている頃、王城の一部では別の噂が流れていた。
それは、ベルトナールに手を下したとされる犯人と黒幕に関するものだ。
サンカラーンとの戦いにおいて、華々しい戦果を上げ続けているベルトナールに対して、第一王子アルブレヒトの評価は低い。
平民から見れば一等星のごとく輝いていても、太陽のごとく輝くベルトナールの前では、その場にいる事を忘れられるほどアルブレヒトの存在感は薄れていた。
民衆の間でも、貴族の間でも、次期国王にはベルトナールが選ばれると思っている者が大多数だ。
そのベルトナールが瀕死の重傷を負ったとなれば、王位を巡る暗闘の結果ではないかと推測され、アルブレヒトの周囲も騒がしくなってくる。
万が一、ベルトナールが死去した場合、王位継承争いの最有力候補に躍り出るとあって、これまで以上の関係を築こうとする者が、早くも接近を試み始めていた。
表面上はベルトナールの負傷についての見舞いという形だが、付け届けを置いていく者さえいた。
騒がしくなったのは、第一王子アルブレヒトの周囲だけではない。
第三王子カストマールや、第四王子ディルクヘイムの周囲でも、同様の事態が起こっていた。
王位継承争いに乗じて己の利益を追求するのであれば、機を逸する訳にはいかない。
後からノコノコと派閥に加わるようでは、甘い汁にはありつけないのだ。
王都に滞在する貴族達が、王位継承争いに気を揉んでいる頃、市民の間には世紀末的な噂が流れていた。
王国の至宝と称されるベルトナールが敗れた今、獣人族の侵攻を止める手立ては残されておらず、いずれ王都にも獣人族が攻めて来るという噂を多くの住民が信じ込み、中にはオミネスへの移住を検討し、荷物をまとめ始める者までいた。
不穏な空気が王都に立ち込める中、ベルトナールが意識を取り戻したのは、翌日の昼過ぎだった。
ベルトナールは目覚めた直後に、参謀のローレンツを呼びつけた。
「王都の動きは?」
「気の早い馬鹿者どもが、アルブレヒト様の下を詣でているようですが、ベルトナール様が戻られた後からです。殿下、一体何がございましたか?」
「武術大会の決勝戦の最中に、闘技場に暴れ馬が乱入してきた。そのために、見物人が逃げ惑い大混乱になった。とても試合を継続できる状況ではなかったので、王都への転移を試みたのだが、その最中に背後から襲われた。おそらく、部屋の中で待ち伏せていたのだろう」
襲撃の状況を聞いたローレンツは、目を見開いて驚いた。
「何と……襲われたのは城の中なのですか。犯人は、何者でございますか?」
「分からぬ……が、茶色っぽい髪の人族の若い男だった」
「城の中に入り込み、ベルトナール様が転移を行う部屋での襲撃となれば、人族以外ではほぼ不可能でございましょう。問題は、どこの手の者か……ですな?」
「そうだ、サンドロワーヌの兵士が捕らえていれば良いが、逃げられたり自害されていたら身元が分からなくなるやも知れぬ。それゆえ王都の様子を尋ねたのだが、不審な動きは見られなかったのだな?」
「はい、ベルトナール様を襲撃したのであれば、成否を確かめる方法ぐらいは用意しているでしょうし、お膳立てをする過程で何らかの動きを察知できたはずです」
王位継承争いの最右翼とされながらも、ベルトナールは他の陣営への注意を怠っていない。
すべての陣営に、複数のスパイを送り込み、不審な動きが無いか見張らせている。
今回の襲撃は兵馬が一人で行ったものだから、ベルトナールの諜報網が兆しを察知できなかったのは当然の話だ。
「王都の愚者共でないとすると、サンカラーンか……」
「まさか、獣共が人族を使ったとお考えですか?」
「ローレンツ、奴らはオミネスの者とは取引を行っている。我らからすれば獣は使役する存在だが、獣共やオミネスの連中が同じ考えとは限らぬ」
「では、オミネスがサンカラーンと手を結んだのでしょうか?」
「いや……そうとも限らぬ。サンカラーンの一部の者が、腕の立つ人族を雇ったと考える方が自然だろう」
アルマルディーヌ王国では人族と獣人族は相容れぬ存在で、獣人族は使役する存在と考えるのが当たり前とされている。
同様に、サンカラーンの獣人族が人族と共闘するなどあり得ないという考えが常識とされているが、ベルトナールは常識に囚われない柔軟な考えを持っていた。
「では、オミネスの冒険者でございますか?」
「決めつけて掛かるのは危険だが、その線が一番有力であろうな。とりあえず、サンドロワーヌに常駐させているタルビオスに、馬を暴走させた者の調査を命じてある。その線を辿っていけば、我を襲った者にも辿り着くであろう」
「では、タルビオスの報告を待って対応を講じるのでございますね」
「そのつもりだが、王都の動きを探ることも怠るな」
「はっ、抜かりなく探るように命じてございます」
「うむ、何か動きがあれば知らせろ。我は、あと一両日程は療養に専念する」
「かしこまりました。御用があれば、いつなりともお呼び下さい」
「うむ、下がって良いぞ」
「はっ」
ベルトナールの寝所から下がってきたローレンツは、他の王子達の身辺を探る者達に監視を強化するように通達を出したが、この時点で出来る事はその程度に限られた。
王都と地方都市を繋ぐ通信網は、馬車による定期便、早馬による通達、そして訓練された鳥を使った手紙などに限られている。
すでに状況を問い合わせる早馬や鳥が飛ばされたが、こうした通信は王国公式のもので、特定の陣営が秘密を保持することは出来ない。
ただし、それはベルトナールを除いての話だ。
ベルトナールには、王都ゴルドレーンと辺境のサンドロワーヌを瞬時に結ぶ通信手段がある。
空間転移を行う部屋にポストの役目を果たす文箱を置き、それを転移させることで手紙のやり取りを可能にしているのだ。
とは言え、文箱を転移させられるのはベルトナール本人だけなので、体調を崩している現状ではその通信手段も使えない。
今のローレンツは、王都の状況を把握しつつベルトナールの回復を祈ることしか出来なかった。
その王都の状況は、ベルトナールが意識を取り戻したという知らせが流れ、一般市民が喜びの声を上げる一方で、貴族の間には不気味な緊張感が続いていた。
今回、ベルトナールの襲撃は失敗したが、見方を変えれば、あと一歩のところまでは漕ぎつけている。
至宝とか、軍神などと崇められる絶対的な存在であったベルトナールが、傷付き、血を流し、命の危機に陥る一人の人間だと再認識されたのだ。
言うなれば、神の座から人へと転落したようなものだ。
となれば、これまでベルトナールの輝かしい実績の前に、半ば王位を諦めていた者達にも欲が湧いてくる。
ベルトナールとて一人の人間であり、排除して自分が王となる未来を改めて夢見はじめたとしても不思議ではないだろう。
現在、アルマルディーヌ王国がサンドロワーヌの獣人族に戦を仕掛ける目的は二つある。
一つは、労働力としての奴隷を手に入れること。
もう一つは、敵対国の戦力を削ぎ、侵略の危険を抑えるためだ。
この戦の要こそが、空間転移魔法の使い手であるベルトナールであり、その存在を抜きにして連戦連勝を達成するのは不可能であろう。
だが、現状のアルマルディーヌ王国がベルトナール抜きに成り立たないかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。
労働力の要である奴隷については、兵馬が怒りに震えた『繁殖』という手段が確立されつつある。
新しい血を入れる必要性に迫られるかもしれないが、戦によって獣人を捕らえ、連れてくる必要性は薄れつつある。
敵対国の脅威を削ぐという点についても、守りを固めるだけならば、攻撃魔法を使えるアルマルディーヌ側が有利であるし、里単位で戦をする獣人族では王国の都市を攻め落とすのは難しい。
それに、敵対しているとは言え、水晶や鉄などをオミネスを挟む形で取引する関係でもあるのだ。
兵馬の一撃は、ベルトナールの右肩を斬り裂いただけでなく、王国での立場を大きく揺るがせ始めている。