なぜ「天動説」でなく「地動説」なのか?文系でもわかる天文学の歴史

太陽を中心に地球や惑星が回っている……。コペルニクスの唱えた「地動説」を、わたしたちは当たり前のように信じています。でも、地動説が正しいとどうしてわかるのでしょうか?「天動説」を唱えた昔の人たちは単純にまちがっていたのでしょうか?今回は天文学をめぐるいろいろな説とその歴史を、わかりやすく紹介します。アリストテレスやプトレマイオスなど「天動説」を唱えた人々には、じつはとても深い考えがあったのです。

天体を合理的に説明する試みが、古代ギリシアではじまった

天体にまつわるたくさんの謎

旅先で、ふと夜空を見上げると、満天の星。
日常のささいな悩みなど忘れて、このひろい世界と、そのなかにいる自分について考えたくなる……。
そんな瞬間はありませんか。
これから紹介するのは、そのようにして夜空と世界に取りつかれた人たちの物語です。
その時代は高層ビルも街の灯りもなく、いまよりもっと、夜空が身近に不思議に感じられた時代でした。
空をながめていると、いろいろな不思議と出会います。
太陽はかならず東からのぼって西にしずみ、翌朝には休むことなくまた東からのぼってきます。
また月も東から西へと移動し、しかも28日周期で満ち欠けをくりかえします。
夜空にかがやく星々も、日没から夜明けにかけて東から西へと動いているようにみえます。
なぜこれらの天体は1日かけて、東から西へと動くのでしょうか。

また毎夜おなじ時間に夜空をながめると、いくつかの星は位置がちがってみえます。
そこで昔の人は、これらの星をまるで惑うように動くことから「惑星」、そして位置のかわらない星を「恒星」と名づけました。
なぜ惑星は夜ごとに位置がちがってみえるのでしょうか。
そして恒星も季節の変化によってすこしずつ西から東へ動き、1年経つと元の位置にもどってきますが、これはなぜでしょうか。

こうした疑問の数々に、はじめて合理的に答えようとしたのが、古代ギリシアの人々でした。

イオニア学派アナクシマンドロスの天体説

古代ギリシアで最初に学問が花開いたのはトルコ西海岸、昔でいうイオニア地方です。
イオニア学派を代表する哲学者タレスは、日食の日にちを予言したといわれています。
そしてタレスの弟子であるアナクシマンドロスがギリシアではじめて、天体にかんする体系だった説をつくりあげました。
アナクシマンドロスによると、この世界は「アペイロン」という万物の根源からできています。
アペイロンは水や火や物質などすべての素で、現代の素粒子理論に似ていなくもありません。
そしてアナクシマンドロスは、われわれの大地は平らな円盤型をしており、そのまわりを太陽や月や星がまわっていると考えました。
これで天体の1日周期の運動(日周運動)が説明できます。
空をながめていれば、天体のほうがわれわれの周りをまわっていると考えるのが自然でもあります。

ただアナクシマンドロスの説では、なぜ惑星が奇妙なうごきをするのか、また恒星が1年周期で西から東へうごくのはなぜなのかを、説明できませんでした。
またアナクシマンドロスはこの大地を平らな円盤型としましたが、やがてこの説も否定されていきます。
地球は丸いと、ピタゴラスが唱えたからでした。

ピタゴラス学派の「地動説」

数学を愛したピタゴラス学派

「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラスは、紀元前6世紀に活躍した学者で、タレスやアナクシマンドロスと同時代人です。
ピタゴラスはイタリアで教団をひらき、数学による調和を重視した学問をつくりあげました。
弦の長さと音の関係を見出したり、整数に神秘的な性格をあたえたり、ピタゴラスの定理から無理数(√2)が出てきそうになると発見した弟子を溺死させたりといったエピソードが伝わっています。
またピタゴラスとかれの弟子たちは、もっとも美しい形として円や球を愛しました。
円や球には始まりも終わりもなく、どこまでも完全で調和がとれているからです。
この円や球を愛する傾向はのちのギリシア人たちにもひきつがれました。
ピタゴラスがこの大地は球であるとしたのも、あるいは球という形を愛していたからかもしれません。

このピタゴラスの説は、「万学の祖」アリストテレスによって確かめられました。
水平線のむこうからやってくる船は帆の上側から見えてくること、月食を観察すると地球の影が丸いこと、北極星を見上げる角度が緯度によってちがうことなどから、地球はたしかに丸いと、アリストテレスは結論づけました。
こうして古代ギリシアでは、地球がまるいことはひろく知られるようになりました。

フィロラオスの地動説は2つの天体をつけくわえたもの

またピタゴラス学派は、当時としては画期的な天体説をうちだしていきました。
その代表例が、フィロラオスによる地動説です。
フィロラオスは地球が自転も公転もしていて、惑星とともに宇宙の中心のまわりをまわっていると考えました。
ただ現代の説とちがっているのは、太陽もまた惑星とともにまわっていること、そして宇宙の中心には「中心火」、地球と反対側には「対地球」というあらたに2つの天体を仮定したことです。
そんな天体は見たことないという反論にたいしては、地球は中心火と対地球につねに背をむけるように自転・公転しているから見えないのだ、と説明しました。

フィロラオスの生きた紀元前5世紀には、すでに水星・金星・地球・火星・木星・土星、月と太陽という8つの天体が発見されていました。
しかしピタゴラス学派の人たちにとって、天体はぜんぶで10個である必要がありました。
なぜなら10という数は1+2+3+4の答えであり、特別な数だったからです。
そこでフィロラオスは「中心火」と「対地球」という2つの天体を加えて、宇宙を体系づけたのでした。

しかしフィロラオスの説もまた、惑星の奇妙なうごきや恒星の1年周期での運動(年周運動)をうまく説明することはできませんでした。
イオニア学派もピタゴラス学派も、どちらかといえば観念的な説明だったのです。
天体のうごきをより正確に説明しようという試みは、紀元前4世紀以降のことになります。

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アテネで花開いた古代ギリシアの天文学

マトリョーシカのボール版?エウドクソスの同心球説

紀元前4世紀前半に活躍したプラトンは、ギリシアのアテネにアカデメイアという学園を建て、数学をはじめとしたさまざまな学問を奨励しました。
古代アテネの絶頂期でもあるこの時代に、ギリシアの天文学もまた花開き、いろんな説が登場しました。
プラトンと同時代人であるエウドクソスは、ギリシアではじめて、惑星の奇妙なうごきを体系だって説明しようとしました。
エウドクソスの考えた宇宙とは、不動の地球を中心に、同心円ならぬ同心球が何重にもとりまいているというものでした。
ちょうどロシア人形のマトリョーシカがボール型になっていると想像するといいでしょう。

いちばん外側のボールには無数の恒星がはりついています。
そのひとつ内側には土星のはりついたボール、さらに内側には木星、以下同様に火星、太陽、金星、水星、月とつづき、最後には地球が中心にあります。
それぞれのボールは地球のまわりを回転していますが、回転方向がちがっていたり、回転軸がずれていたりして、それが惑星の不規則なうごきをもたらすのです(正確にはひとつの惑星が3、4個のボールをもっているとしました)。

エウドクソスは数学者でもあったので、回転速度や軸のずれをうまく調節して、惑星の動きを説明することに成功しました。
しかしこの説にも弱点がありました。
地球と惑星との距離が近くなったり遠くなったりすることは当時から知られていたのに、この説ではそれがうまく説明できなかったのです。
ただこの同心球説はアリストテレスなどに影響をあたえていきました。

ヘラクレイデスの説と、円運動にとらわれる天文学者たち

エウドクソスより20歳ほど年下のヘラクレイデスは、アカデメイアでプラトンに学び、さらにアリストテレスにも学んだ人でした。
ヘラクレイデスの考えた宇宙はエウドクソスとおなじく地球を中心としたモデルでしたが、3点ちがいがありました。
地球は不動ではなく自転していること、惑星の軌道は球ではなく単純な円であること、そして水星と火星だけは太陽のまわりをまわっているとしたことです。
当時から水星と火星はとくに不規則なうごきをすることが知られていました。
そして太陽のそばをあまり離れないこともわかっていました。
そこでヘラクレイデスは、太陽もまた地球のまわりをまわるが、水星と火星のみは太陽のまわりをまわっているとしたのです。
つまり水星と火星は太陽という惑星の衛星のようなものだとみなしたのでした。

エウドクソスやヘラクレイデスなどの説は、いずれも天体の軌道を円、または球であるとしているところが特徴です。
これはプラトンがピタゴラス学派の教えを受け継いで、円や球の美しさ・完全性を強調したところから来ています。
ネタバレをすると、じっさいの惑星軌道は円ではなく楕円です。
17世紀にケプラーがこれを発見するまで、天文学者たちはみな円運動にとらわれていたのでした。
こうした思い込みは、つづくアリストテレスやアリスタルコス、プトレマイオスやコペルニクスたちにも引き継がれていきます。

ギリシアの学問をまとめあげたアリストテレス



アリストテレスの天動説

紀元前4世紀に活躍したアリストテレスは、プラトンの弟子であり、アレクサンドロス大王の家庭教師としても有名です。
このアリストテレスが古代ギリシアの学問をひとりでまとめあげました。
かれの著作は論理学・政治学・天文学・物理学・生物学・気象学・演劇学・心理学と非常にはばひろく、しかもこれらの残っている著作は全体の3分の1ほど。
まさに知の巨人です。
ちなみにアリストテレスがモットーとした「知を愛する(ギリシア語で「フィロソフィア」)という言葉がのちに「哲学」を意味するようになりました。
アリストテレスの天文学では、まずピタゴラス学派の説をとりいれて、地球は丸いとしています。
つぎに地球は動いているのかどうかという問題については、自転も公転もしておらず不動であるとしました。
その結果として、エウドクソスなどの説をとりいれて、宇宙の中心は地球であると考えました。
つまり不動の地球のまわりを、月や太陽、惑星や恒星が円運動していると唱えたのです。

またアリストテレスは、地球における万物の根源は土・水・空気・火の4つであるという4元素説を唱えました。
これも古代ギリシアの学者たちが唱えていた説をまとめたものです。
そしてアリストテレスは、これらの4元素には本来の場所があって、土・水・空気・火の順に宇宙の中心からとおくなると考えました。
だから宇宙の中心、つまり地球の中心には土があり、そのうえに海があり、そのうえに大気があり、火はさらにうえに昇るのです。

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アリストテレスの物理学

このようにアリストテレスの天文学では、地球は動いていないという考えが要になっています。
なぜかれは、地球が不動であると考えたのか……。
たんなる思いつきや迷信ではありません。
そこにはアリストテレスの物理学が土台にありました。
みなさんも学校でならった知識をいったん忘れて、アリストテレスの考えをすなおに聞いてみてください。
かれはいいます。
物体のもともとの状態は静止であり、そこに力がはたらくことで運動がおこると。
力には2種類あって、物体にそなわっている自然本来の場所にもどろうとする力と、外側から強制的に加えられる力です。
だからたとえば、土のかたまりである石は、真上に投げあげられるとまず、強制力によって上に運動しますが、やがて自然本来の場所である中心へもどろうとして、下へ落ちてきます。

仮に地球が動くとすれば、地球は土のかたまりなので、その運動は中心からはずれさせようとする強制力のはずです。
ただ石を投げたときとおなじように、強制力は一時的にしかはたらきません。
しかし地球がずっと動いているというのは、これと矛盾します。
よって地球が動くという仮定がまちがいであり、地球は不動なのです。

ほかにもアリストテレスは、仮に地球が動いているならば、真上に投げあげた石や、空気や、鳥たちは、地球の運動にとりのこされるはずだと指摘しています。
こうしてかれは、地球が動いていないという証拠をつみあげて、天動説をまとめあげたのでした。

早すぎた太陽中心説は、なぜ広まらなかったのか

アリスタルコスの太陽中心説

アリストテレスの天動説はやがてひろく信じられていきました。
じっさい、この地球が動いているようには感じませんし、まわっているのはむしろ天体です。
アリストテレスの物理学も、ひごろ目にするいろいろな運動をよく説明できています。
アリストテレスが偉大すぎる知の巨人だったことも手伝って、かれの天動説は古代ギリシア世界で、またそれにつづくヘレニズム時代や古代ローマ時代で、おおきな影響力をもつようになりました。
そこにひとり、いや、地球は動いている、宇宙の中心は太陽であるという説をとなえる学者があらわれました。
紀元前3世紀のギリシア人、アリスタルコスです。
かれは天体観測と数学を駆使して太陽のおおきさを測り、地球のおよそ6倍と結論づけました(現在の観測ではおよそ109倍)。
そしてこれだけ大きくて明るい太陽こそ宇宙の中心であるとして、太陽のまわりを地球や惑星がまわるという太陽中心説(地動説のひとつ)を唱えたのです。

アリスタルコスの太陽中心説は現代のわたしたちの考えととても似ています。
またこの説は、「てこの原理」で有名なアルキメデスも取り上げていますし、約1800年後にはコペルニクスがふたたび唱えたことで、主流となりました。
しかし古代ヨーロッパでは、この太陽中心説は主流にはなりませんでした。
いったいなぜでしょうか。
ここで「地動説」と「天動説」のちがいと、それぞれの問題点を整理してみましょう。

「視差」が発見されないので地動説は不利だった

まず注意すべきは、「地動説」も「天動説」もただのモデルであって、一方が真実で他方がまちがいというわけではないということです。
じっさい、いまでも天動説をモデルにして惑星の動きを予測することもできます(理科の授業では「天球」という概念をつかって天動説をよく用います)。
つまり地動説と天動説は、中心をどちらに置くかという視点のちがいなのです。
そこで問題は、どちらのモデルがより正確に単純に、天体の動きを予測できるかという点になってきます。
この点にかんして、当時の地動説は不利な立場でした。
なぜなら、地球が動いていれば発見されるはずの「視差」が、まったく見つからなかったからです。
「視差」とは地球の公転によって、近い恒星と遠い恒星とのあいだで、見える角度がちがってくるその角度のことをいいます。
ちょうど高速道路を走っていると、近い山と遠い山で見える角度がしだいに変わってくる現象に似ています。

もし地球が止まっているなら、視差は見えなくて当然です。
こういうわけで、アリスタルコスの説はすたれていき、天動説が一般的となりました。
ただ天動説にも問題がなかったわけではありません。
あいかわらず、惑星の不規則な動きが正確に予測できなかったのです。
この問題をみごとに解決して、天動説を1500年ものあいだ主役に押しあげたのが、プトレマイオスでした。

プトレマイオスが天動説を集大成した

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「周転円」と「離心円」というモデル

プトレマイオスは2世紀の古代ローマ時代に活躍した学者です。
かれはアリストテレスの天動説を支持して、地球は中心にあって不動であり、天体が地球のまわりをまわっているとしました。
そしてほかの学者の説も取り入れながら、惑星の不規則な動きを正確に説明できるモデルをつくりあげました。
プトレマイオスの天動説の特徴は3つ、「周転円」と「離心円」と「エカント」です。
順に説明しましょう。
まず「周転円」とは、地球を中心とした大きな円に、もうひとつ追加された小さな円のことです。
周転円の中心は、大きな円の円周上を移動します。
そして惑星は、この周転円の円周上を動くのです。
たとえるなら、グラウンドに巨大な円を白線で描き、その白線の上をハンマー投げ選手がハンマーをふりまわしながら歩いている、そのハンマーの動きが惑星といえます。

また「離心円」とは、大きな円の中心が地球そのものではなく、ちょっとずれているとしたモデルです。
この離心円モデルをつかえば、天体が地球に近づいたり遠ざかったりする現象を説明できます。
先のハンマーの例でいえば、あなたが巨大な円の中心からちょっと離れて座っていたら、ハンマー投げ選手との距離が変化することとおなじです。

こうした「周転円」と「離心円」という考え方はプトレマイオスが最初ではなく、アポロニウスとヒッパルコスという2人の学者がすでに唱えていました。
ただそれを集大成したのがプトレマイオスだったのです。

「エカント」という架空の点も導入する

プトレマイオスはさらに「エカント」という架空の点も導入して、惑星の予測をさらに正確にしました。
これもハンマーの例で説明しましょう。
いまあなたは、巨大な円の中心からすこし離れて座っています。
円の中心のちょっと向こう側、あなたと対称の位置に、秒針だけのアナログ時計を置きます。
このアナログ時計の置かれた位置が「エカント」です。
アナログ時計の秒針が指す方向に、つねにハンマー投げ選手がいなければいけないものとします。
するとハンマー投げ選手は、巨大な円の円周上を、時計に近いときにはゆっくりと、時計と遠いときには速く動くことになります。
時計は円の中心からちょっとずれているからです。
こうして惑星の、ときに遅かったりときに速かったりする動きも、説明できるようになりました。

さきで触れたように、じっさいの惑星軌道は円ではなく楕円です。
しかしプトレマイオスには楕円という発想がなかったので、どうにかして円運動のなかで惑星の動きを説明しようと、この「エカント」を考え出したのでした。
そして、周転円と離心円とエカントを導入したプトレマイオスのモデルは、かなり複雑でしたが、その代わりおどろくほど正確に天体の動きを予測できました。
そのため時代が中世へと移っても、プトレマイオスの説は主役として君臨したのです。

コペルニクスの地動説は正確でも単純でもなかった



古代天文学の再発見と改革

5世紀に西ローマ帝国が滅びると、学問の中心は東ローマ帝国、そしてイスラム世界へと移りました。
アリストテレスやプトレマイオスなど、古代ギリシア・ローマ時代のさまざまな学者の本がアラビア語に翻訳されて、研究され、発展しました。
いっぽう西ヨーロッパではキリスト教が浸透し、天文学は占星術と一体となって生き残っているのみでした。
しかし十字軍などをきっかけとして、ヨーロッパの知識人たちは、イスラム世界のなかにある古代ギリシア・ローマ時代の先人たちの遺産を再発見します。
これがルネサンスにつながり、そして天文学の改革につながっていきます。

15世紀ごろには、年月が経ったことと、観測技術が向上したことで、プトレマイオスの天動説もこまかなズレが生じるようになりました。
これは占星術師にとって、また暦をつくる人にとって、そして大航海時代に星の位置だけをたよりに海をわたる人にとって、大問題でした。
そこに登場したのがコペルニクスです。

コペルニクスは1473年に、ポーランドの中部トルンという街で生まれました。
かれはキリスト教の司祭として働くかたわら、古代ギリシアのさまざまな説を学んで考えを深め、やがて太陽が中心で地球は動いているという地動説を確信するようになります。
そして1543年、かれの考えをまとめた本が出版されました。
『天体の回転について』です。

コペルニクスの考えた地動説とは?

コペルニクスは古代ギリシアのアリスタルコスと同様に、宇宙の中心には太陽があると考えました。
地球や惑星はそのまわりをまわっていて、みずからも自転していると唱えました。
そして月だけは惑星でなく、地球のまわりを回っている天体だとみなしました。
また当時信じられていたアリストテレスの物理学にたいしては、空気も地球とともに動いているから、投げあげた石や鳥は地球の運動にとりのこされることはないと反論しました。
これだけみると、コペルニクスの説は現代の考えと非常に似ているようですが、そうではありません。
コペルニクスもまた円や球にとらわれていたので、惑星の軌道を円運動だけであらわそうと、周転円やさらにこまかい円まで導入しています。
結局コペルニクスの地動説もプトレマイオスの天動説とおなじように複雑で、天体の予測にかんしても、天動説より格段にすぐれたものというわけではありませんでした。

しかしこのコペルニクスの登場によって、天文学は一気に地動説が主流となっていきます。
かれの唯一の著作である『天体の回転について』は科学革命のはじまりだと後世の人々から言われるようになり、「回転」を意味していた「revolutionibus」というラテン語はのちに意味がかわって「革命」となりました。
いったいなぜ地動説が天動説にとって代わったのでしょうか?そこには当時の風潮と、そしてコペルニクスの跡をついだ学者たちの貢献があったのです。

地動説を後押ししたルネサンスの風潮と、ケプラー

「地球は主役じゃない」という風潮が地動説を後押しした

コペルニクスの生きた時代はルネサンスの最盛期で、キリスト教の世界観を盲目的に信じるよりも、古代ギリシア・ローマの先人たちの業績を発展させたり、ありのままの自然や人間を描いたりという風潮がさかんでした。
すると先人たちのなかには、地動説を唱えた人もいたことがわかりました。
また太陽が地球よりはるかに大きいことも、地球の主人である人間がさまざまな愚行を犯すことも、ひろく受け止められるようになってきました。
こうした風潮によって、人間のいる地球が宇宙の主役であるという信念はゆらいできたのです。
たとえばコペルニクスの21歳上であるレオナルド=ダ=ヴィンチは、地球よりも太陽が宇宙の主役であるという信念を、手記のなかでつぎのように書いています。
「太陽よりも人間ばらを礼拝することをもっぱら讃えようとする連中を、クソミソにこきおろすに足るだけの語彙が欲しいなあ。
(中略)太陽はけっしていかなる影をも見ない。
太陽は動かない」(杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(下)』)。

ダ=ヴィンチのような信念をもつ人々が、この時代に一定数いたことで、コペルニクスの地動説は埋もれることなく生き延びたのでした。
ただ天動説を信じ、反対する人も多くいました。
またフランスの哲学者モンテーニュのように、どっちだってかまわないと言う人もいました。
地動説の最終的な勝利は、このあとのケプラー、ガリレオ、ニュートンの登場を待たなければいけません。

地動説を優位にしたケプラーの楕円軌道説

ヨハネス=ケプラーは17世紀はじめに活躍したドイツの学者です。
大学で数学を学んでいるときにコペルニクスの地動説と出会い、その考えを全面的に支持しました。
その後ケプラーはティコ=ブラーエという天文学者に招かれて共同研究をおこないます。
このプラーエは当時最高の天体観測家で、ぼうだいな観測データを持っていました。
プラーエのデータを引き継いだことで、ケプラーは史上はじめて、惑星の軌道は円ではなく楕円であるというひらめきに達します。
ケプラーは惑星の運動にかんする3つの法則を発見しましたが、そのうち第1法則はこうです。
「惑星は太陽をひとつの焦点とする楕円軌道を描く」。
ここで言われる焦点とは、高校数学の「軌跡」単元で習うものです。
楕円を作図するには、2つのピンに長い糸をむすんで、糸をつねに張りつめながら鉛筆をあてがって動かします。
このときの2つのピンが、楕円の焦点にあたります。
つまりケプラーは、円軌道の中心に太陽があるのではなく、楕円軌道の焦点に太陽があるとして、太陽中心説(地動説)を修正・発展させたのでした。

このケプラーの説が、おどろくほど観測と一致しました。
そしてもはや周転円やエカントなどは必要なく、天の形はとても単純ですっきりしたものになりました。
学者たちは好んでケプラーの説を使いはじめ、ここから地動説は天動説よりも優位にたったのです。
この優位をさらに決定づけたのが、ケプラーと同時代人のガリレオでした。

地動説に有利な証拠をみつけ、あたらしい物理学をつくったガリレオ

望遠鏡によって地動説に有利な証拠をつみあげる

イタリア生まれのガリレオ=ガリレイは、ケプラーとおなじく、若いころにコペルニクスの地動説と出会いました。
かれは大学教授として講義をするかたわら、さまざまな実験や観測、研究をおこない、地動説に有利な証拠をいくつも見つけました。
とくにガリレオがそのうわさを聞きつけてみずから開発した天体望遠鏡によって、おおくの証拠がつみあがっていきました。
地動説に有利な証拠のひとつは、木星の衛星の発見です。
ガリレオは自分の望遠鏡をつかって、ガニメデやタイタンなど4つの星が木星のまわりをまわっていることを見つけました。
当時、天動説を支持する人々は、もし地球が動いているなら、地球の衛星である月はふっとんでしまうだろうと主張していました。
しかし、動いている木星に衛星が発見されたことで、この主張は説得力を無くしてしまいました。

また証拠のふたつめは、金星の満ち欠けが詳細にわかったことです。
天動説のモデルでは、金星はつねに太陽の内側をまわります。
いっぽう地動説のモデルでは、地球から見た場合、金星は太陽より外側に行くこともあります。
どちらが正しいかは、太陽光による金星の満ち欠けを詳細に観察すればわかります。
ガリレオは望遠鏡によってこれを成し遂げたのでした。
ガリレオのスケッチは、金星が太陽より外側に行くことを示していたのです。

ガリレオがあたらしい物理学を切り拓いた

それでもまだ、天動説の支持者たちは食い下がりました。
当時支配的だったアリストテレスの物理学をもちだして、もし地球が自転するなら、投げあげられた石や鳥たちは後方にとりのこされてしまうだろうと主張したのです。
ガリレオはこれにも反論しました。
そしてガリレオの反論にはあたらしい物理学、つまり「慣性の法則」という考え方が含まれていました。
ガリレオはいいます。
まっすぐに動く船のてっぺんから鉄球を落とせば、鉄球は後方にとりのこされることなく真下に落ちるだろう、だから動いている地球の上でも、投げあげた石は真下に落ちるのだと。
またガリレオは斜面をころがるボールの実験によって、落体の速さは物体の重さとは関係ないことを示しましたが、この斜面を平面にしたら、摩擦がない場合、ボールはどこまでも等しい速さで直線的に動くだろうと考えました。

これらが中学の理科で習う慣性の法則、つまり「物体に力を加えなければ、静止している物体は静止しつづけ、動いている物体は等速直線運動をつづける」です。
ガリレオは天動説を否定するとともに、アリストテレスの物理学も否定して、あらたな物理学を切り拓いたのでした。

しかし、こうしたガリレオの権威を否定する態度が、反対者たちの怒りにふれ、ガリレオは宗教裁判にかけられました。
ガリレオの晩年は自宅軟禁でさびしいものだったようです。
科学が、宗教や哲学から離れて独自の発展を遂げるのは、ニュートン以降のことになります。

地動説を決定づけ、科学革命を完成させたニュートン



ニュートンの理論によって地動説の勝利が確定した

アイザック=ニュートンは1642年生まれのイギリス人で、コペルニクスより170年、ケプラーやガリレオより70年ほど後の学者です。
ニュートンは主著『プリンキピア』のなかで、ガリレオの物理学を発展させて、3つの法則(慣性の法則、運動方程式、作用・反作用の法則)からすべての運動を説明しようとしました。
またその一例として、この理論が天体の運動にも当てはまるとして、ケプラーの法則を数学的に導いてみせました。
ニュートンが天体の運動を説明するさいに使ったのが、万有引力の法則として知られる、たったひとつの方程式です。
天体間にはたらく力は、天体の質量に比例し、天体間の距離の2乗に反比例します。
そしてこれは天体だけでなく、地球が物体を引っぱる力でもあるとして、地上の運動もおなじように説明できることを示しました。

こうしたニュートンの業績によって、地動説の勝利が確定しました。
すべてを統一的に説明できるすばらしい理論が、ケプラーの法則を支持していたからです。
またニュートン以後には、ふりこの研究によって地球の自転が直接的に証明され、1838年には観測技術の向上によって、地球の公転による視差も発見されました。
このようにして、天文学は、地動説が主流となったのでした。

科学革命の4つの意義

コペルニクスにはじまり、ケプラーやガリレオが押し進め、ニュートンによって完成された一連の改革を「科学革命」とよびます。
科学革命の意義は、天動説から地動説へと移行したことだけではありません。
ほかにも主に3つの意義があります。
ひとつは、地球上の運動も天体の運動も、おなじ理論で説明できると示したことにあります。
これはニュートンの業績です。
アリストテレス以来、地球と天とは世界がちがっていて、法則も異なるとされていました。
それがわずかな法則と、数学という道具を使うことで、おなじように扱うことができるようになったのです。
これ以降、学者たちは宇宙について積極的に研究をすすめ、土星より遠くにも惑星があること、彗星の軌道、恒星までの距離など、さまざまな事柄を解明していきました。

ふたつめは、物理学に「なぜ」をもちこむのをやめたことです。
なぜ天体はまわるのか、なぜ石は落ちるのかという問いをつきつめると、宗教や哲学にいきついてしまいます。
ガリレオやニュートンは「なぜ」の代わりに「どのように」という問いにすることで、物体の運動を、時間・質量・速度などの「量」で記述することをはじめたのです。

その結果、みっつめの意義として、科学が宗教や哲学から分かれていきました。
コペルニクスやガリレオは敬虔なキリスト信徒であり、ケプラーは占星術で生活費をかせぎ、ニュートンは神学や錬金術のほうに熱心でしたが、19世紀になると「科学者」という専門の職業が登場してきます。
そして、ひとり独立した科学の発展ぶりは、現代を見てのとおりです。

「天動説」と「地動説」をめぐる壮大な歴史

いかがでしたか。
「天動説」と「地動説」をめぐる、古代から現代にいたるまでの壮大な歴史。
旅先で、ふと星空を見上げたときに、こうした歴史にぼんやりと思いをはせてみるのも一興です。
また天文学を勉強中の方も、そしてここに紹介した先人たちの遺跡をおとずれる際にも、ぜひこの歴史を参考にしてください。