logo.gif (1598 bytes)
title.gif (4585 bytes)

gx1.gif (974 bytes)

ww.gif (622 bytes)

 

home.gif (1230 bytes)

tup.gif (725 bytes)

title1.gif (3606 bytes)

四書五経」から「社会主義建設」まで--Ⅱ 

 1905年9月5日、清朝政府は科挙制度の廃止に踏み切った。唐・宋時代以来1300年以上続いた科挙による官吏登用制度に終止符を打ち、中国は近代的な教育制度の確立に向けて一歩を踏み出した。  

 中国では教育は昔から重視された。「学問をして良い成績を挙げれば高位高官になれる」わけで、知識人たちは科挙を受けて秀才、挙人、進士の3等級に合格することに出世への望みをかけた。毎年都に赴いて進士の試験を受ける者は7000人に上ったが、合格する者はわずか 3%。科挙に受かるのは天に上るより難しかった。また出題は「四書五経」からに限られていた。伝統的な教育は専ら科挙の受験準備のためのものでしかなく、自由な思考の育成は妨げられた。(写真:1872年8月、120人の少年たちがアメリカ留学の第一陣として旅立った)

 20世紀初頭、中国は文盲の国だった。専門家の推定によると、清代における中国人の識字率は30%、低い時は5%にとどまった。庶民は冠婚葬祭の時か、商売をしたり、訴訟を起こす時以外には文字を使うことがなかった。中国の伝統的な教育は主に私塾によって行われ、教材には千年も前から伝わる「四書五経」などが使われた。子どもたちにとっては非常に難解で大人になってからもよく理解できないような文章であった。

[1912-49年 中華民国の時期]

 1912年、辛亥革命によって清朝が倒れ、中華民国が成立した。臨時大統領に就任した孫文は「4億の民は全員が教育を受けるべきだ」と指摘。蔡元培が教育総長に就任し、大掛かりな教育改革に取り組んだ。教育部(文部省)は小学校7年、中学校4年、大学以上を6~7年に学制を改め、知育、徳育、体育、情操教育を全面的に重視する方針を打ち出した。1913年、全国の新制学校は1909年に比べ倍増した。(写真:30~40年代の北京大学の授業風景)

 1912年から17年までの間、国費留学生は主に日本に派遣され、13~14年には少なくとも67,000人に上った。その中には陳独秀、郭沫若、田漢ら後に各界を指導した著名な人物がいた。19年の「5・4」運動以降はフランス留学が増え、2年間に約1,600人がフランスに留学した。

 37年抗日戦争がぼっ発し、教育は空前の災難に見舞われた。38年8月の時点で108校あった大学のうち、91校が日本軍の空爆に遭い、37校が戦火を避けて後方に移転した。抗日戦争期間中、多くの学校は劣悪な条件の下で運営を続けた。1948年、全国の国立と私立の大学は218校に上った。こうして中国の教育機構は近代化のスタートから半世紀間にかなりの規模が整った。(写真:民国初年(1912年)、京師大学堂は北京大学と改められた。写真は元北京大学の校舎 紅楼)

インタビュー

教会学校

    わたしは南昌に生まれた。四一年、フランスの教会が設けた公進小学校に入った。祖母がカトリックの信者だったから。教会学校は資金があったので、施設が整い、外国語のレベルも高かった。教会学校の数は、国立、県立と私立に次いで、学校全体の約十分の一を占めていた。小学校、中学校も大学もあった。革命の観点からすると、教会学校は帝国主義による奴隷化教育と言える。しかし貧しい子どもたちの学費は減免したので、多くの人が教育を受ける機会を与えられた。四九年、南昌が解放されると、教会学校は取り締まられ、校長の鄧神父も身柄を拘束された。その時わたしは十三歳、解放を迎える喜びでいっぱいだったので、旧い学校に未練はなかった。考えも単純で、教会学校は帝国主義の文化侵略と言われるとすぐ納得した。解放後、中学にも共産党、共産主義青年団組織ができ、政治学習や運動を組織したりした。わたしにはすべてが新鮮だった。(張恩和 中国社会科学院大学院教授  六十二歳)(写真:1915年、アメリカの教会医学校が北京協和医科大学となった(学校の所在地は今は協和病院になっている))

 抗日戦争で上海が陥落すると、わが家は昆明に引越し、地元で最も有名な恩光小学校に入った。 これもキリスト教会が開いた学校で、校長は有名な女流教育家呉恩光さん。昆明で最初の三輪車は彼女がアメリカから持ち帰ったものだった。教会小学校で一番印象深かったのは人を愛せよという教えである。毎年のクリスマスには全員教会堂に集まり、ろうそくを手にはだしで踊ったことが忘れられない。(妻 鄒暁麗  北京師範大学教授  六十一歳)(写真:1919年~20年に、フランスに赴いた苦学生は1600人に達した。その中から周恩来、鄧小平ら偉大な革命家が生まれた。)
(Ⅰ)