39 視察交流と自覚(3)
エリィは部屋に戻ると、枕に顔を押し付け泣いた。
一度溢れてしまった想いと同じで、涙は簡単には止まらない。言葉にならない声が勝手に喉から放たれ、自分の感情に翻弄されるだけだ。
ついに涙が渇れ果てようとも、喉が潰れても悲しみは癒えなかった。
窓の外を見れば空は白く、日の出を迎えようとしている時間帯になっていた。エリィはぼんやりした頭のまま鏡の前に立つ。目は真っ赤に腫れ、顔は浮腫み、ワンピースはシワだらけ。髪留めは外れかかり、ボサボサだ。
「酷い姿…………心と同じね」
エリィは自嘲し、誰もいないことを確認して部屋を出る。重たい体を引きずるようにしてシャワーを浴びにいき、部屋に戻って身なりを整えた。
――――仕事はきちんとしなきゃ。ご主人様を起こしたら、まずは謝らないと
セドリックの部屋から飛び出る直前の彼の顔が脳裏から離れない。とても傷付いた子供のような表情をしていた。理由は分からないが、原因がエリィにあるのは明らかだった。
冷たいタオルを当てても目の腫れだけはなかなか引かず、苦戦していると扉がノックされる。おそるおそる開けるとブルーノが立っていた。彼はエリィの顔色の悪さを見て顔をしかめた。
「エリィさん、本日はお休みなさい。いえ、数日は休みなさい。セドリック様の寝起きの世話は私が引き継ぎましょう」
「なんで……」
「私が判断するよう、セドリック様から許可は得ております。質の良い仕事をするためにも休息は必要なことはご存じのはず」
「でも――――」
エリィは反論しかけた口をつぐんだ。今また彼の顔を見たら泣いてしまう姿が安易に想像できた。
「ブルーノ様、ご主人様にもご配慮ありがとうございますとお伝えくださいませんか?」
「もちろんですよ。また早く元気な姿を見せてください」
「ありがとうございます。お願いします」
軽く礼をして頭をあげるとブルーノの後ろには見守るシンディの姿もあった。
「心を鎮める作用のあるハーブティーです。飲んでみてね」
「シンディ様、ありがとうございます」
シンディからトレイを受けとる。そしてエリィはもう一度感謝の気持ちを込めて深く頭を下げ、そっと扉を閉じた。
主に失礼をした奴隷に対しても二人の変わらぬ態度に優しさを感じる。
でも一番優しいのはセドリックだ。私情で仕事もできぬ奴隷に対して、理由を問い詰めることなく時間をくれた。昨夜だって部屋まで追いかければエリィに逃げ場も、命令されれば拒否権はなかった。
しかし彼はエリィの頼みを聞いてくれようとしているのだ。
「本当に優しすぎる人…………」
だからこそ好きで、諦めきれない。こんなにも執着を持ってしまったのは生まれて初めてだ。恋という感情の強さに呆れてしまう。
「参ったわ。追放された時より切り替えが難しいだなんて」
エリィは椅子に腰掛けハーブティーを口に含むと、窓の外に想いを馳せた。
※
エリィは三日間の休暇をもらった。その間はずっと部屋に籠り、ひたすら考える時間に当てていた。顔を合わせるのは様子を見に来るブルーノ、シンディ、食事をもってくるミモザくらい。ミモザは何か聞きたそう素振りはみせるが、我慢しているようだ。
そしてセドリックの姿は一切見ないようにしていた。
「何をしても駄目だわ。やっぱり切り替えられない」
夜這いメイドと同じになってはいけない。セドリックの優しさはペットへの愛情。自分は奴隷であり物である。着せ替え人形になりきる――――など多方向に自分を洗脳しようとするが、セドリックへの気持ちは忘れられない。
視察団がいなくなればセドリックとセシルのツーショットを見ずに済み、表面上は平静を装える自信は取り戻した。しかし時間の問題であり、先延ばしでしかない。再び葛藤するのは目に見えている。
根本的解決にはもっと大胆な決断が必要だと感じていた。エリィが選んだ答えは…………
「もうこの際告白して、捨ててもらえば良いのよ!」
自信たっぷりに拳を作り、突き上げた。
エリィのプランはこうだ。告白すればセドリックは夜這いメイドのトラウマを思い出し、エリィを側に置いておけなくなる。モデルとしてもアシスタントとしてもペットとしても使えず、穀潰しの奴隷を所持する意味は無くなる。つまり他へと売られるに決まっていると予想した。
――――ご主人様のトラウマを刺激するのは申し訳ないけど、このまま私が側にいる方が危険だわ。いつ本当に夜這いメイドと同じになってしまうか分からないもの…………こっぴどく捨ててもらうわ
中途半端に優しさがあるから甘えてしまい、諦められないのだ。だが捨てられればセドリックの優しさを受けることはなくなり、追放された時と同じように全てを失う。そうすれば諦められそうな気がしてきた。
告白計画を立てようと、突き上げていた拳を下ろして頬杖をつく。どうせ玉砕するのであれば、自分の思いの丈が全て伝わる方法が良い。
一般的に女性が告白するときは令嬢も平民も手作りの品や身に付ける小物を渡すのが定番だ。そしてエリィは思い出した。
「あ、ご主人様の刺繍!」
セドリックの礼服用の刺繍が残っていたのだった。ハンカチの刺繍程度では想いは伝えきれない。お菓子は作れないし、他の品を調達するお金も足もない。
礼服の刺繍はハンカチより面積は広く、高い技術が求められている。そして小物ではないが身に付ける物だ。限られた環境で情熱を注ぐには最適な品。
――――完成したら「大好きなご主人様に着て欲しくてたっぷり愛を込めました」って告白するわ
エリィは善は急げと、部屋から顔を出す。するとミモザが窓を拭いており、声をかけた。
「ミモザ様、ご心配おかけしました。本日からアトリエでの作業を再開します。あのご主人様たちのご予定はご存じですか?」
「セドリック様たちは、今日明日は観光。明後日は王宮で昼食とお茶会と言っていたわ。それよりエリィさん、もう体調は大丈夫なの?随分と顔色は良くなったようだけれど」
「はい。まだ朝晩の挨拶はできなさそうですが…………」
「そう…………何があったかは知らないわ。だけど私にできることがあったら、何でも言うのよ」
ミモザはエリィを抱き締めた。告白計画を実行すればこの姉のような優しさも失うと思うと、今から寂しくなる。エリィはお礼を言い、決意が揺らがないうちに体を離した。
アトリエに入るとすぐに刺繍台の前に座った。ネイビーの生地には銀糸の蔓がほとんど出来上がっている。あとは花と葉を施せば終わりの状態だ。
「思ったより早く終わってしまいそうね…………一日中集中できたら二、三日ってところかしら」
刺繍の模様を一度撫で、針を持つ。蔓の部分よりも少しだけ明るい銀糸に替え、生地に針を刺していく。
買ってくれた感謝。人権を尊重してくれた感謝。仕事を与えてくれた感謝。ケーキを与えてくれた感謝。苦しいけれど恋という感情を教えてくれた感謝。
セドリックとの生活を振り返れば、素敵な思い出でいっぱいだ。
そんな彼を、自分が諦めきれないという勝手な理由でこれから傷付ける。でもそのあと彼にはたくさんの幸せが訪れますようにと一針、一針丁寧に想いを込めて針を刺した。
葉は葉脈までしっかりと意識し、花はふっくらと立体的に仕上げていく。しかし可愛くならないように上品に。花をひとつ咲かせる度に、セドリックへの愛しさも咲いていった。身が焦がれ痛みだけ感じている恋も、素敵な恋に思えてくるから不思議だ。
エリィの口元は自然に緩やかな弧を描いた。
※
「出来てしまったわね」
予定通りに決意からの三日後の昼過ぎ、刺繍は出来上がった。刺繍台の枠を外し、完成品を夕陽に照らす。
ネイビーの生地の上で銀糸が夕陽を反射し煌めく。深い青に散りばめられた輝きは、エリィの瞳と同じだった。セドリックが自分の色を身につけてくれたのなら――――それは少し恥ずかしく、とても嬉しい。
エリィは蝶の髪留めを頭から外し、手のひらに乗せた。セドリックの瞳と同じブルートパーズが嵌め込まれた宝物。同じく銀が輝き、刺繍とお揃いにも思えてくる。
お互いに身につけて隣に並べたらどれだけ素晴らしいことかと想像し、エリィはハッとして片手で自分の頬を叩いた。
――――妄想終わり!危ない…………諦めるのが最終目標なのに希望に繋げるところだったわ。どれだけご主人様のことが好きなのよ
深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせる。刺繍は出来た。あとは告白のタイミングを決めるだけ。今は視察団の対応でセドリックは忙しそうで、更なる心労はかけたくない。
――――視察団が帰国したあとが良いわよね。もう三週間。交流にしては長すぎるくらいの滞在だわ。そろそろ帰国よね
エリィは告白の目処を決め、髪留めを頭に戻そうとした時、扉が開く気配を感じた。彼女は髪留めをつけるのを一旦やめ、扉の方を振り向き固まった。
「――――ぇ」
それはどちらの声だったのか、あるいは両方なのか。
ふわふわのストロベリーブロンドの来訪者は、アメジストのような紫の瞳が溢れ落ちそうなほど見開き驚いている。
「エリアル様…………?」
「セシル様っ」
蝶の髪留めはエリィの手から滑り落ち、カランと音をたてて床に転がった。