38 視察交流と自覚(2)
いつから想いを寄せていたのか、と問われても分からない。欲や希望は裏切られるものであり、持たないものだと決めて生きてきた。
『好き』という気持ちは典型的に愛を求める欲で、愛は繋がれば幸せになれる希望の象徴。エリィが幼い頃から諦め、追放されてから遠ざけていた気持ちだった。
だというのにセドリックは無遠慮に、でも宝物のように丁寧にエリィに触れて温もりを与える。甘え、甘えさせ、心の殻まで破って温もりを与えようとする。はじめは困惑しかなかったというのに、次第に喜びへと変化していった。慣れぬ優しさにほだされ、恋に落ちてしまった。
しかしセドリックは過去の事件から使用人を好きにはならない。ましてやエリィは使用人以下の身分の奴隷で、結婚はおろか好意を寄せることすら彼に軽蔑されそうな立場。
――――自分は過ちを犯さないと常に言い聞かせてきたというのに。馬鹿なのは私だわ
愚かさを実感した途端、エリィの視界は涙で滲む。
しかし泣いてしまえば目が腫れ、セドリックに理由を問われかねない。好きになってしまったなど言えるはずもなく、エリィは天を見上げ涙を耐える。
――――いつものように諦めるのよ。ほら、今さら私の願いなんて叶ったことないじゃない。切り替えるのよ…………できるだけ早く
散らばった冷静さを必死にかき集める。次こそ剥がれないようにと仮面をつけ直そうと、試みるがうまくいかない。
その日はもう刺繍作業には手を付けられなかった。期日には余裕があるため、心の整理に時間を当てた。お陰で夕食を運んできたミモザに動揺は隠せているはずだ。空いていないお腹に夕食を押し込み、廊下のワゴンに食器を戻しに部屋を出る。
「セドリック様は本当に素敵な仕立て屋ですわ!」
「セシル嬢は誉めすぎですよ。照れてしまいます」
階段の方から明るく鈴のような声と、聞きなれた落ち着いた低い声が聞こえてくる。一階から客室のある二階に上がっている途中のようだ。エリィは反射で階段から身を隠すように壁際に寄った。
「本当に思っているのですわ。どのドレスも素敵でうっとりしちゃいます。ねぇ、セドリック様、私がモデルならどのようなデザインにしますか?」
「前にお貸しした雰囲気のドレスになると思いますよ。綺麗より可愛らしいデザインが似合いそうですから」
「か、可愛いですか?ふふふ、嬉しい。私のためにデザイン画として形にしてくださいませんか?ねぇ、宜しいでしょう?セドリック様のデザインはどれも素敵ですもの。帰国後はそれを見て、仕事の励みにしたいのです。そしていつかオーダーするの」
「ふっ、セシル嬢は甘え上手ですね。帰国までに一枚描いてみましょう。さぁお部屋までお送りしますよ」
二人の声は次第に遠ざかり、会話の内容は聞こえなくなった。
エリィはため息をつくことで、無意識に止めてしまっていた呼吸を再開させた。それでも息苦しさは解消されない。目の前がくらくらと揺れ、足が動かない。
「エリィ?」
「――――ご主人、様」
「どうしたの?」
セドリックの声にエリィはハッしたように顔をあげた。彼女はしばらくその場で考え込んでしまっていたことに、声をかけられてようやく気付いた。
「少しだけ考え事を…………たいした事ではありません」
エリィは不自然にならない程度にセドリックから目を逸らす。彼の優しい瞳を見ていると感情がこみ上げ、脆くなった仮面が簡単に剥がれてしまいそうなのだ。
「そうか…………ねぇ、今からお茶をしないかい?」
「お客様のご対応は宜しいのですか?」
「二週間動きっぱなしだったから、今日は早め解散、明日は自由休日にしたんだよ。もう今夜は部屋で過ごすだけなんだ。久々に話をしよう」
セドリックがエリィに手を差し出した。彼女はじっとスラッとした彼の長い指先を見つめ、ゆっくり手を重ねた。
ソファに二人で並んで、ティーカップに口をつける。夜のリラックスにぴったりのシンディオリジナルハーブティーだ。恋を自覚したいせいかセドリックの隣に座ることに緊張していたが、お茶のお陰で肩の力が抜けた。
「大丈夫?またひとりで寂しい想いをさせてないかい?」
「いえ。朝晩は挨拶もできますし、大丈夫です」
本心は絶対に言えない。エリィはしっかりと仮面をつけた回答をする。
「残念。僕は寂しかったのに」
「申し訳ありません。それより交流は順調なのでしょうか?帰国の目処はついたのでしょうか?」
「交流は順調…………かな。でも帰国の日程はまだ決めかねている。条件がわずかに足りなくて、こちらが引き留めてる状態なんだ」
苦労をしているのかセドリックが目を閉じて、背もたれに体を預ける。だがすぐに不敵な笑みを浮かべた。
「でも、もう時間の問題かな。ご機嫌はとっているしね」
そう語るセドリックの瞳の奥は、以前に見せた獲物を狙う色を宿していた。それは何に向けられたものなのか。ご機嫌を取っている相手は誰なのか。それはただひとり。
――――以前言っていた、ご主人様の手にいれたいものって…………もしかしてセシル様?ユースリア王国で出会ったときに好きになってしまったの?
エリィはたどり着いてしまった可能性に、ドクンと全身の脈が波打った。
可愛くて、感情を素直に表に出せて、甘え上手なセシル。マナーに疎くても、身分差を気にしなくてもいい貴族の令嬢。
――――なんでいつもセシル様なのっ
セシルはエリィが持っていないものを全て持っていた。素直に羨めず、やはり嫉妬という感情に傾いてしまう。
――――セシル様だけは駄目。だってフィル様がいるのにご主人様にあんなに愛想を振り撒くなんて、誠実ではないわ。そうよ、セシル様にはフィル様がいるわ!ご主人様は婚約者がいる相手を奪おうとすることはしないわ。
セドリックがセシルの事が好きかもしれない可能性を否定したくて、質問する。
「そういえばセシル様には婚約者はいらっしゃらないのかしら?可愛らしく奔放な方が一人で異国など、私なら心配ですわ。案外視察団のなかにいたりして…………例えば騎士のマレット様とか」
冷静さを欠き、わざとらしい聞き方になってしまい少し俯く。誤魔化すように持ち上げたティーカップの水面に映るエリィの表情は、固すぎる微笑みだ。
「セシル嬢に婚約者はいないと聞いている」
「そう…………でしたか」
エリィの口の中にはじわりと苦汁が広がった。
――――そうよね。気になったら、まずはじめに確認しているわよね…………ご主人様の気持ちに関与する資格がないのに、諦めてくれるかもだなんて浅ましい。はじめから私の気持ちは叶わず、いつものように諦めることが決まっているというのに、本当に馬鹿だわ
ハーブティーに口をつけ、苦汁を飲み込む。これ以上動揺すれば、ペットに過保護なセドリックに気付かれかねない。エリィは必死に落ちそうな仮面を顔に押し付ける。
「どうしてフィル・マレットなんだい?」
「え?」
「他にも男性はいて、セシル嬢はどの人とも仲良さそうにしている。だというのに、何故あえてフィル・マレットなんだ?」
「――――っ」
先入観に囚われすぎていたことに気付き、言葉に詰まる。落胆している場合ではない。震えそうな手でティーカップをゆっくりテーブルに戻し、セドリックに微笑む。
「なんとなくです。ほら、いつもあの方だけはセシル様の側にいらっしゃるように見えましたから」
「…………エリィはいつも窓から彼を見ていたということなんだね」
「彼だけを見ていたというわけでは」
「でも見てきたということは事実なのか」
セドリックの声色は不機嫌になっていく。彼の表情は僅かに怒りを滲ませているように見え、怖さに再び顔を逸らしそうになる。
しかしセドリックに髪留めに手を添えられ、止められる。
「君は彼のような男が良いのか?」
「そんな…………ありえません」
エリィがフィルを好きになることはあり得ない。ただセドリックにそう思われるのが辛く、声を絞り出すような答え方になってしまった。
「じゃあなんでそんなに辛そうに答えるんだ」
「なんでと言われましても…………」
セドリックに追求されるが、それ以上は答えられず見つめ返すので精一杯だ。彼がぐっと奥歯を噛んだと思ったら、エリィは強く引き寄せられ腕の中に収まった。
「エリィは僕のだ」
「――――っ」
いつもしている抱擁だけど、いつもより苦しい。それはセドリックの抱き締める力が強いのか、それともエリィの心のせいなのか分からない。
セドリックに求められているのに、自分とは違う理由だという現実が辛い。この腕の中の温もりが、自分のものでないことが悔しい。頭で分かっていても、他人のものになることを想像しただけで身が引き裂かれそうだ。
エリィはもう感情を抑え込めなかった。
「ぐずっ」
「――――っ、エリィ」
セドリックが慌てて体を離し、エリィの表情を見て狼狽える。彼女の青い瞳からは止めどなく大粒の涙が溢れ、頬を濡らしていた。
「そんなに…………僕の側は嫌なのか?」
「違います!嫌なはずがありません。これ、はっ…………私が悪いのです。私が愚かで…………私の問題なのです。申し訳ありませんっ」
「では何故泣いている。何が君を苦しめているんだ!」
「申し訳ありません。申し訳ありません…………どうか聞かないでください。お時間をくだされば…………終わればっ…………いつもと同じようにしますから」
エリィはこれ以上心に踏み込まれるのを恐れ、ソファから立ち上がり扉を目指した。
引き留めようとするセドリックの手は間に合わず、空を掴んだだけ。
「エリアル・アレンス――――?」
彼の絶望した声色がエリィの耳に届くことはなく、扉は勢いよく閉じられた。