36 嵐の前の静けさ
無事に新作発表会を終えると本格的な夏を迎えた。アトリエの窓からは太陽の恵みが降り注ぎ、床には二つの影が重なるようにシルエットができている。
「ご主人様…………これ以上は私…………っ」
「そうか…………ここまでだね」
エリィが息をあげながら訴えると、セドリックは名残惜しそうに抱き締めていた体を離した。
「ありがとう、元気になったよ」
「良かったです。では刺繍作業に戻りますね」
夏の暑さと、恥ずかしさで熱くなった顔を隠すようにエリィはすぐに作業へと戻った。
二人の抱擁は1日5分までとなっている。
セドリックの甘えを一度受け入れてから、彼は頻繁にエリィに抱擁を求めるようになった。いつもは年上の男性らしく余裕な雰囲気なのに、最近はふと不安そうな表情を浮かべることが多くなっていた。それを見て拒否できる彼女ではない。
理由は聞けていないがその表情を見るとエリィまで苦しくなり、セドリックの心を軽くしたくなるのだ。それに弱い部分を見せてくれることも、存在を求められているのも嬉しい。セドリックが元気になるのであれば、喜んで甘えに応じたい。問題は時間が長いことだ。
短い間は慣れぬ抱擁に緊張していただけだった。しかし何度も繰り返され、その時間が長くなると色々気づいてしまうようになった。体が密着することで彼の温もりが伝わり、腕の力強さを感じ、彼の熱い呼吸が耳に届き、異性の香りに包まれ、全ての感覚が甘く痺れてくる。
生地の薄い夏服のせいだとか、高い気温のせいだとか、それでは説明がつかない熱量。
エリィは見知らぬ感覚が怖くなった。しかし妙な幸福感があり、完全に断ることは考えられない。
そこで提案したのはエリィが甘えで朝セドリックの寝顔を見る時間と同じ5分。彼が甘えを許してくれる時間だけ、彼女は頑張って受け入れると提案したのだ。抱き締めていたいであろうセドリックにそんな事を頼むなど、彼の優しさにエリィが甘えてしまっている。申し訳ないと思いつつも、それが精一杯だった。
「ふぅ」
エリィはまだ冷めぬ熱さを軽くするために、窓辺に椅子をずらして風に当たる。屋敷が森の中にあるため、風は涼やかで緑の香りが爽やかだ。少し刺繍を進めれば、先程の妙な痺れが癒されていく。
ようやく落ち着き、同じく作業に戻っているセドリックを見る。
後ろに纏められた柔らかいオレンジブラウンの髪は温かく光を集め、デザイン画を見つめる水色の瞳は冷たく、色の温度差のコントラストが美しい。整っている容姿と長身もあって、この姿を絵にできそうなほどだ。
――――こんなにも素敵な男性だったかしら?確かにイケメンで優しいけれど前とは違うような…………おかしいわね。抱擁の後遺症かしら。それとも目の疲れのせい?
エリィは謎の症状に疑問を持ちつつ、刺繍をはじめた。与えられているこの課題を完成させれば、ドレスへの刺繍参加の権利が得られることとなっていた。
今までのハンカチサイズとは違い、細いもののドレスの裾一周分の長さだ。均一に、何度も同じ模様を縫い続けていく作業は楽ではない。エリィはいつも以上に気合いを入れて、早く認めてもらおうと一日のほとんどを刺繍に当てていた。
その作業の早さと正確性がセドリックの不安を助長させていることなど、彼女は知らず淡々と針を進めていく。
――――人生で一番良い時間を過ごしているかもしれないわ。バチがあたりそう
朝セドリックの寝顔を見て気持ちが温まり一日が始まる。一緒に朝食を食べたあとは静かに読書と刺繍に励み、時々ドレスの試着をする。
シンディにハーブティーの淹れ方を教えてもらったり、ブルーノに本選びの相談をすることも多い。気分転換に休憩室に行けばメイドたちがいて、ファッションの話に花を咲かせる。衣食住に困ることなく、お茶やお菓子も好きなものを楽しめる。
ここには束縛する元婚約者も、足元を見る貴族もいない。
「楽園…………ね」
「楽園とは?」
「申し訳ありません、聞こえてましたか」
心の中で呟いたつもりだったが、言葉に出てしまっていた。セドリックに聞かれ、少しだけでむずかゆい。
「ここでの生活が幸せすぎて、ずっとこのままだと良いのにと思ったのです」
「そうか…………ふっ、エリィがそう思える空間を提供できて僕は嬉しいよ」
セドリックはパチリと瞬きをしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「でもね、僕は少しだけ変化が欲しいよ。どうしても手に入れたいものがあるんだけど、少し苦戦中でね。きっかけが欲しい」
「ご主人様であっても、手に入れるのが難しいものがあるのですね」
生活を見ていてもセドリックの資産は潤沢であり、たいていの物はお金で手にはいる。
――――売っていないものということね。美術館に飾られている妖精の像とか?いえ、ご主人様ならレプリカを注文できそうだし。それとも誰かの領地…………な、わけないか
少し考えてみるが、さっぱり分からない。
「何でしょうか?」
「何だと思う?僕はそれが手にはいれば、この上なく幸せになれると思うんだ」
セドリックが目を細めてエリィを見つめた。仕事中は冷たく見える水色の瞳は、今は柔らかく光る。時折感じる彼の視線だ。なんだか視線で告白されている気分にさせられて、居たたまれない。またアトリエから逃げたくなる。
「考えてみます。よし、頑張りますよ!」
「ふっ、僕も負けていられないね」
話を切り上げて、視線を外させる。ホッとし作業を再開させようとしたとき、アトリエにブルーノが入ってきた。手にしていた一通の封書がセドリックに渡される。
彼はさっと目を通すと、エリィが見たこともない不敵な笑みを浮かべた。
「この時が来たか」
セドリックの声は妙に上機嫌で、手紙を通して見えぬ獲物を狙うような目をしている。彼はブルーノにシンディを呼ぶように指示し、アトリエには四人が揃った。
皆席につくのを確認したあと、セドリックが口を開いた。
「ラグドールとユースリア王国の交易の話が進められているのは皆知っているね?しかしこの二か国は文化も技術も大きく違い、すぐには始められない。そこで何組か団体の視察交換が行われることになった。この度、仕立て屋ティターニアは受け入れ側として決定したと連絡がきている」
エリィはその話を聞いて、前に感じた不安が一気に再燃した。夏の暑さは消え、指先が冷えてくる。
「エリィ大丈夫?」
「あ、はい。ユースリア王国は奴隷廃止の国と言いつつも、親ほどの代では存在しておりました。その…………本でそう読みました。差別意識が濃く残っている国の人が奴隷の私を見たらどうなのか不安で」
セドリックに問われ、エリィは本音を半分だけ答える。ユースリア王国の貴族や商家の者であればエリアルの容姿を知っており、正体を見破られてしまう可能性がある。冤罪でも犯罪者の烙印を押されたエリィは解雇され、この平和な生活は終わりだ。
俯くエリィにセドリックは優しく声をかけた。
「エリィの不安はもっともだ。だからユースリア王国の人たちとエリィが会うことのないようにするつもりだよ」
ユースリア王国の客人は基本的にはこの邸に滞在してもらうことになる。しかし三階はプライベートエリアとして立ち入りを断り、作業風景は街の支店を見せるつもりだという。アトリエには魔法付与の魔法陣や未出のデザイン画もあるため出入りさせたくないとのこと。
つまりエリィが三階から下りなければ、客人と会うことはないはずだとセドリックは説明した。
「視察期間中ブルーノは僕の秘書として同行し、シンディは客人をもてなすメイドの統括をするため三階を空ける時間が多くなる。だから欲しいものや困ったことがあったら、エリィはミモザを頼るように」
「分かりました、ご主人様。ご配慮ありがとうございます」
「エリィには制限を設けないからね。僕たちが外出中の時はテラスでも庭でも好きなように過ごして」
「はい」
危機が回避できると知り、エリィは胸を撫で下ろした。
客人は今から二週間後に来国し、試験的に行われるため滞在期間は未定。これをベースに今後の交流プランを立てる予定だと説明は続く。
「そして客人なんだが、香水事業をしている貴族だ。来るのは領主ではなく商品開発に関わっているその娘、セシル・ダルトン男爵令嬢だ」
「――――!」
エリィは先程よりも強い不安感に襲われた。無意識に体が強張るが、セドリックはセシルの資料に視線を落とし、ブルーノとシンディは彼を見ていたためエリィの動揺には気付いていない。
――――ダルトン男爵が香水事業をしていたなんて初耳だわ。しかも来るのが男爵ではなくセシル様だなんて。何で…………いえ、今は落ち着くのよ。会わなければ良いのよ。滞在期間中、静かに過ごせば大丈夫…………大丈夫っ
せっかくユースリア王国の客人との迎合は回避できたのに、説明に動揺してはバレては本末転倒だ。エリィは久しく付けていなかった感情の仮面を、そっと表情に戻した。