35 主の甘え
エリィに見つめられながら起床し、未だに鼓動が速いままのセドリックは再びベッドに転がった。
「セドリック様、だらしないですよ」
「分かっている。少しだけ余韻に浸らせてくれ」
そう言いながらセドリックは口元を緩ませた。横目で先程までエリィがいた場所を見て、甘えてくる姿を思い出すだけで幸せな気分で満たされていく。
――――可愛すぎる。明日はベッドに引き込んでしまうかもしれない
深く青い宝石のような彼女の瞳に、自分の姿だけが映っていた事実が嬉しい。しかもエリィ自ら望んで起こした行動であり、それならもっと自分だけを映したいという衝動に駆られる。
仕事とケーキのおねだりしか甘えかたを知らない、そんなエリィの初めてのまともな甘えだ。別方向でドロドロに甘やかしたくなるのも仕方ない。草食系だと思っていた自分に獣のような感情があると初めて知った。
しかしセドリックは思い止まるよう、自分に言い聞かせる。
――――早まるな。エリィはまだ僕をそういう対象に思っていない。我慢するんだ。
頭を冷やすようにベッドから立ち上がり、ブルーノが用意した湯で顔を洗う。今だけはもっと冷たい水で洗いたい気分だが、少しだけ冷静になれただけよしとした。
「ふっ、女性の扱いに慣れたセドリック様も、エリィさんの前では形無しですね」
「うるさいブルーノ。分かっている。僕がいかに想像以上に鈍感で不器用か痛感している最中だ」
セドリックは八つ当たりするように、ブルーノにタオルを投げ渡した。難なくブルーノは受け取り、服を並べていく。
「あなた様が甘えられることに慣れなくてはいけませんね。この程度でうろたえていては、エリィさんも安心して素直に甘えられませんよ」
「分かっているって…………母親か」
「執事ですよ」
ブルーノが子供を見守る目線を向けてくるが、物心ついたころから側にいる彼には口で勝てたことがない。
まだまだ冷静さを取り戻せていないセドリックは窓を開け放ち、朝露の香る風を吸い込んだ。肺に新鮮な空気が入り込み、邪念を押し出してくれるようだった。
それでもエリィへの気持ちだけはしっかりと留まっている。
「愛しているよ…………エリィ」
呟きは風に流され、独り言として消えていく。
エリィが愛しいと気付いたのは帰国した日だ。今までに無いくらい顔を赤らめて、感情をさらけ出したような涙目で「寂しかった」と言われようやく自覚した。
いつから惚れていたのかと問われれば、オークションで見初めたその日からと今なら分かる。毎日エリィの姿に目を奪われ、彼女の予期せぬ行動や言動が生活を彩っていき、共に過ごす度に愛が深まっていった。
初めは妖精のような容姿の可愛さに惹かれていたのは事実だが、今は全てが可愛い。健気で真面目で仕事は器用なのに、甘えかたも知らない程に心の方は不器用で――――可愛くも、もどかしい。
――――どうやったら同じ気持ちになってくれるのだろうか。どうやったら、主ではなく男として見てくれる?
恋を自覚する前からエリィに触れたくて、頬やら髪を撫でていたが彼女は恥じらう様子もなければ、むしろ反応は冷たい。出国の時にキスしたことすらも聞き返してくることはない。
エリィは自分が奴隷だと立場を弁えすぎており、主の単なる戯れだと判断しているのだと分かる。
改めてエリィの奴隷魂に感心したくらいだ。
国に身請け金を支払い、エリィを奴隷から解放すれば――――とも考えたが実行にはまだ移せずにいる。
彼女が平民になったとき、セドリックは屋敷に留めておく拘束力を失う。彼の脳裏にはより多くの仕事を求めて、笑顔で旅立つエリィの姿が浮かんでいる。そんなことはさせられなかった。
「セドリック様、そろそろ」
「あぁ、朝食だね。すぐに行こう」
ブルーノに声をかけられ、セドリックは現実へと意識を戻す。さっと着替えて部屋を出れば、ミモザが朝から窓ふきを開始していた。
「おはようミモザ。今日から宜しく」
「おはようございます。お任せください」
以前よりもパリッとした表情でミモザは一礼し、セドリックはその横をすぎる。メイドも仕事熱心なエリィに触発されたのか、私情を持ち込まず仕事への姿勢に張りがでたように見える。セドリックが歩み寄ろうと思えたのも、帰国後のメイドの雰囲気ががらりと変わっていたためだ。
――――エリィは凄いな。僕の世界をどんどん塗り替えていってくれる
テラスにつけばエリィが待ち遠しそうな笑顔で出迎えた。自然とセドリックも笑みがこぼれてしまう。そして一緒に食事を取り、一緒にアトリエへ向かうのが定番だ。
エリィは基本的に刺繍か読書をしている事が多い。セドリックは最近、その姿を注視することが増えた。
まずは積み重なっている本のタイトルを見る。甘えかたのヒントを得ようとしているのか、哲学や心理学が選ばれている。
そしてエリィが手にしている刺繍のキャンバスへと視線を移す。苦戦するようすもなく、手慣れた手元だ。先日完成品を見たが、シンディと変わらぬ出来栄えだった。
セドリックの心は朝とは違い、重く渦巻き始める。
哲学や心理学の本は難しい言い回しが多く、学が無いものには理解するのは難しい。しかしエリィは辞書や知識を補うために必要な参考書を用いることなく、すらすらとページを捲っていた。
刺繍だって
――――エリアル・アレンス
髪色と瞳の色が同じ深窓の淑女、ユースリア王国の伯爵令嬢の名前がちらつく。か弱い令嬢がスラムで生きていくことなど不可能で、性格も全く違うのに未だに可能性を振り払えない。
――――もし捨てられたショックで性格が変わったとしたら。そもそもか弱い淑女の姿が演技だとして、素の性格が今のエリィだとしたら…………
セドリックは目を瞑り、天を仰ぐように背もたれに体を預けた。
辻褄が合ってしまうのだ。スラム育ちだというのに言葉遣いや所作が綺麗すぎる矛盾の理由が。それに浮世離れした雰囲気や妙なところで世間知らずな所も、温室育ちの令嬢なら納得できてしまう。
エリィの正体がエリアル・アレンスというのは、セドリックにとって最悪の状況だ。
それこそセドリックがエリィを側に置く権利が失われてしまう。行方不明の令嬢を奴隷のままになどしておけない。そうすればユースリア王国へと帰さなければいけなくなる可能性が高くなる。
もしエリアルの希望でラグドール王国の滞在が叶っても、次は夜会で会ったフィル・マレットが奪い返しに来る光景が目に浮かぶ。エリアルとの関係はわからないが、彼からは自分に引けをとらないほどの執念を感じた。
自分の手が届かないところへエリィが行ってしまう。想像しただけで、心臓が止まってしまいそうなほど胸が苦しい。
「ご主人様」
「――――っ、エリィ?」
声をかけられ、セドリックはハッと目を開けた。
すぐ側には心配そうな表情を浮かべ、彼の顔を見つめるエリィがいた。
「顔色が良くありません。どこか具合でも悪いのでしょうか?」
「いや…………体調は大丈夫だ」
「またそのような事を言って、影でご無理をされているのでは?」
「ははは」
セドリックが笑って誤魔化そうとするが、エリィは疑いの眼差しを止めない。
確かにユースリア王国との国交に関してミハエルと内密なやり取りはしており、休み時間は少ない。数日後には懇意にしている貴族の屋敷で新作発表会の段取りもあり多忙だ。でも顔色が悪い原因は、目の前にいる愛しい人のせいだ。
「ねぇ、エリィは――――」
「…………?」
本当はエリアル・アレンスなのか、と言葉は続かなかった。不安で思わず聞いてしまいそうになり自嘲する。
――――何を聞こうとしたのか。エリィはエリアルではないと前に否定したじゃないか
セドリックはニッコリといつもの笑みをエリィに向けた。
「ねぇ、エリィは僕が甘えたいと言ったら甘えさせてくれるかい?」
「ご主人様がですか?もちろんです!私にできるのであれば!」
エリィは何をされるか警戒することもなく、頼られたことが嬉しそうに請け負う。その純粋さが眩しく、手離しがたく、セドリックは思うままにエリィを引き寄せ腕のなかに閉じ込めた。ピクっと彼女の体に力が入り、緊張しているのが伝わってくる。
「ごめん、少しだけなんだ…………」
「い、いくらでも良いですよ。気の済むまで、どどどどうぞ!」
完全に声が上擦り、良さそうには聞こえない。体を離せばエリィは熟れた果実のように赤く染まっており、嫌というより恥ずかしそうにしていた。
「無理して言っているだろう?」
「うっ…………少し無理はしていますが、それ以上に甘えてくれることが嬉しいので大丈夫です!」
「本当?」
「はい。甘えられて初めて知りました。必要とされていると実感できて嬉しいと」
「うん、僕にはエリィが必要だよ。ありがとう」
セドリックは再びエリィを抱き締めた。
――――僕は出会ったころからずっとエリィの優しさに甘えっぱなしだよ。それを君は知っているのかな?
そうしてエリィが「やっぱり恥ずかしさで限界です」と音を上げるまで、抱き締め続けた。
ブクマ、評価ありがとうございます。励みになっております。
また誤字報告も大変助けになっております。重ねてお礼を申し上げます。
あと10話です。(45話完結予定)
残り僅かですが、引き続き宜しくお願い致します。