30 主の帰還(1)
「エリィ!虫がいるの、助けて!」
「お待ち下さい!退治いたします」
エリィは廊下にいたバッタを両手で包み、ひょいと窓の外へ投げ捨てる。その瞬間、まわりにいたメイド達からは称賛の拍手が送られた。
「助かったわ…………何度もありがとう。感謝しきれないわ」
ローラが瞳を潤わせ、エリィの両手を掴みお礼を言う。バッタを触った手なのに良いのだろうかと思いつつ、エリィは笑顔で返した。
「蜘蛛や蛾は毒があったりして怖いですが、バッタは可愛い方ですから」
「さすがスラムを乗り越えた猛者。今日デザートの日だけど譲るわ!また助けてね」
「デザートを貰っても良いのですか?嬉しい!いつでも呼んでください」
打ち解けてしまえば距離が縮まるのは早く、すっかりエリィはメイドたちに溶け込んでいた。最初は差別的な視線を送っていたローラも、エリィがそこら辺の奴隷とは違うと分かれば平等に接するようになった。むしろ懐き、頼り、可愛がる程に気に入っている様子だ。
「ではローラ様、私は洗濯物を取り込みに行ってきます!」
「風強いけど大丈夫?手伝おうか?」
「いえ!お掃除を続けていてください」
そうして物干し場に行けば、ミモザが先にいた。風が強すぎて、このままでは洗濯物が飛んでいってしまうため取り込みにきていたのだ。すぐにエリィは作業に合流する。心配していた通り風は朝よりずっと強く、しっかりと洗濯物を掴んでないと飛ばされてしまいそうだ。
空を見上げれば澄みわたった水色のキャンパスを、白い雲が足早に流れていく。顔にかかる髪を押さえながらエリィは水色の空を見て、まだ帰らぬ主を思い出す。
仕事もメイドとの会話も増えたというのに、相変わらずセドリックのことが頭から離れない。慣れることはなく、時間が経てば経つほどに焦がれそうになる。
――――まだ、まだ帰ってきてくださらないの?
セドリックがユースリア王国へ行ってから三週間が過ぎ、まもなく一ヶ月。
――――このままでは勘違いを起こしそうになってしまうわ
セドリックがエリィを好きという勘違いではない。自分がセドリックを好きになってしまった、という抱いてはいけない感情に支配されそうになる。禁忌の感情が怖くて、彼女は呪いから早く解放されたかった。帰りを切望せずにはいられない。
その時、ひときわ風が強く吹いた。
「――――あ」
エリィの腕の中からエプロンが一枚飛んでいってしまう。手を伸ばしたときには遅く、風に乗せられ高く舞ってエプロンは流されていく。呆然と見ていると、運良く近くの木に引っ掛かった。しかし手を伸ばしても僅かに届かない高さの枝にエプロンは巻き付いている。
「あら~飛んじゃったわね。届かなそうだし、脚立を持って来ましょう?」
「ミモザ様、申し訳ありません。この程度の高さなら私、登ります」
「え、ちょっと無理しないでよ」
エリィはミモザの心配をよそに木に登っていく。スラム時代はよく木の上の果物を狙ったものだ。
低めのところで幹が分かれているため、簡単にエプロンまで到達する。汚れもついておらずエリィはほっとし、下で待つミモザに手を伸ばして手渡した。
「ミモザ様は先に戻っていてくださいませんか?私はゆっくり降ります」
「分かったわ。怪我なんてしないでね。気を付けるのよ!」
「はい。ありがとうございます」
籠は三つあったが、一つだけ残して二つを持って行ってくれるミモザは優しい。エリィは感謝しながら、木の上で一息ついた。少しだけセドリックの瞳と同じ色の空に近づいたはずなのに、微々たるものだ。
「ご主人様…………早く…………」
「僕はここだ。エリィ、そんな所でどうしたんだ」
「――――え?」
無意識に呼びかけてしまった言葉に返事がくる。エリィが下を見るとオレンジブラウンの髪がさらりと靡き、焦がれていた水色の瞳が真っ直ぐエリィを見つめていた。
「ご主人様…………何故ここに」
いつ帰ってきてもおかしくないのは知っていた。しかし屋敷へと続く森の道中には主の帰還を知らせる魔法の仕掛けがあり、屋敷に着く前に誰かは気付くはずだった。
しかしセドリックは目の前にいる。しかもその表情は怒りを含んでいた。
「それは僕の台詞だ。帰ってきたと思ったら…………誰だ。エリィを苛めた奴は!」
「セドリック様!?いつお帰りに!?」
三つ目の籠を回収にきたミモザが、予期せぬセドリックの帰還と怒気に驚き固まる。
「何故エリィが木の上で放置されているんだ。こんなにも悲しそうな顔をさせて、誰も助けに来ないとは。まさか…………僕が不在の間、エリィに嫌がらせをしていたのではないだろうな?」
「あ……いえ、それはっ」
ミモザは完全に震え上がり、上手く言葉を紡げない。実際には嫌がらせは発生していたので、後ろめたさがより言葉を詰まらせていた。エリィは咄嗟に会話に割り込んだ。
「ご主人様!ミモザ様は一切悪くありません。これは洗濯物が飛んでしまい、脚立が面倒だったため、私が自ら登っただけです。むしろミモザ様にはご心配をかけてしまった位です」
「は?その格好で登ったのか…………ミモザ、何故止めなかった!」
「私が登りたかったのです!そんな気分だったのです!ミモザ様を責めないで下さいっ」
「そんな気分って…………やっぱり嫌がらせを!?」
いつスイッチが入ってしまったのか、過保護すぎるセドリックに話が通じない。ミモザの顔はどんどん青くなるし、冷静をまだ取り戻せていないエリィの苛々も増していく。
「嫌がらせなんてありません!ミモザ様はむしろ私を助けてくれていました。心を配ってくれました。これは……苦しいのは…………ご主人様のせいです」
「――――え?」
「全部…………全部ご主人様のせいなんですから!」
エリィの心は混乱に溢れていた。会えて嬉しい気持ち、話が通じない怒りの気持ち、認めなくない気持ちに悲しくなってしまうのは、全てセドリックのせいで――――
高ぶりすぎた感情を抑えつければつけるほど胸は苦しくなり、彼女の瞳にはうっすら涙の幕が張った。
「僕の…………せいだって?」
エリィの言葉にセドリックの怒りは一気に沈み、動揺で目が泳ぐ。落ち着こうと額に手を当て、深呼吸をひとつした。
「分かった。ミモザ、早とちりしてすまなかった。業務に戻れ」
「――――はい」
ミモザは深く一礼し、エリィに心配の一瞥をしたあとその場を去った。