23 お留守番(1)
――――さっきの、もしかして……いえ、勘違いという可能性も
パニックになっていたエリィは仲も良くないメイドの方を振り向き、リーダーを務めるミモザに詰め寄った。彼女はぎょっとして後退ろうとするが、肩をつかんで阻止する。
「ご主人様は私の頭に何をしましたか?」
「…………唇を落としていたわよ」
しれっと言われた事実に、エリィは全身の血の気が引くのを感じた。喉から飛び出しそうな悲鳴を手で口を覆って抑え込む。
――――ひぃぃ!メイドたちの前で何てことしてくれるのよ!だから顔が良い男は…………って、あら?
さぞかしメイドから恨まれるだろうと恐れていたが、ミモザからはそれを感じない。他のメイドを見てみるが、シンディから鍵を受け取った時の方が視線は鋭かった。
――――この人たちが私に敵意を向ける理由は別のところにあるというのかしら?
違和感を持ちつつエリィはミモザから身を引いた。
「取り乱してしまい、大変失礼いたしました。どうぞ持ち場に戻られて下さいませ」
「そうさせてもらうわ」
ミモザはツンとした態度でメイド一行を引き連れ、先に屋敷へと戻っていく。
エリィはその背中を見つめ、立ち尽くした。次第に引いていたはずの血は全て顔へと集まり、頭がくらくらしてくる。今にも蒸気が出てしまいそうなつむじを押さえた。
――――どうして…………キスなんか
遅れて恥ずかしさがやってきて、心臓は今にも爆発しそうだ。
貴族でもラブラブであれば婚前にキスする婚約者同士はいた。しかしエリアルはフィルとの間には甘い雰囲気は皆無でキスなどしたことはなかった。
平民はもっとハードルが低く、皆が一度はキスの経験はあると聞いていた。しかしエリィは生きるのに必死でそんな経験からは遠いところにいた。デートのお誘いはあるにはあった。しかしデートに着ていくような服もなく、恋愛における男性不信のため全て断っていた。
つまりエリィにとってキスとは未知の体験。セドリックの意図が全く分からず、ぐるぐると頭の中をかき乱されるだけだ。
だがエリィは切り替えが早い女の子だった。
――――そうよ。私は飼い猫だったわ。大切な愛玩動物に愛情表現としてキスする人もいるわよね。ほら、ぬいぐるみにキスと同じよ。私を猫だと思い込みすぎて、ご主人様も間違えちゃったのよね。ふふふ、意識しそうになって馬鹿みたい!私は奴隷だからあり得ないのに
勝手に着地点を見つけてしまえば、心の穏やかさを取り戻すのも早い。
――――あり得ないのよ…………絶対に…………
最後に危険な気持ちの芽を摘むように、言い聞かせエリィも屋敷の中へと戻っていった。
三階の掃除を済ませ、読書で知識を増やし、次回は堂々と手伝えるようにセドリックから貰った刺繍の課題をこなす日をスタートさせた。
させたが…………今エリィは頭を抱えている。
――――どうしてこんなにもご主人様の事ばかり頭を過るのかしら
掃除に集中していたものの、セドリックの部屋に入れば彼を思い出す。アトリエでも同じで、ふと「今どうしているのかしら」なんて思ってしまう。読書も今は服飾のサポートのための勉強で、やはりセドリックと関連付けてしまう。
刺繍の練習なんて、ずっとセドリック一色だ。
頭を切り替えようとお茶休憩をとってみるが、「今日もひとりでお茶なのね……」と彼との時間を思い出し、ため息が漏れてしまっていた。
甘える猫の研究なんて出来たものではない。考えてはいけないのに、考えてしまう。それが今日で五日目。
――――もうこれは呪いだわ。きっとご主人様が甘えて欲しいという願いを叶えるために、キスで強制的に私に魔法をかけたのだわ。でなければ急にこんなにも……ご主人様のことを
エリィは苦しげに奥歯を噛み締めた。「会いたい」などという自分には不要な『欲』に煩わしさを感じ、苛立ちすら生まれ始める。
――――いいえ、奴隷なのにすぐに要望を叶えられない私の落ち度。ご主人様に怒りを向けるなど未熟者の証拠よね。甘んじて呪いを受け入れて、帰国の時にきちんと甘えられるようにするべきだわ。これは試練よ
深呼吸をして、心を落ち着かせる。受け入れてしまえば胸の苦しさも減り、少し楽になった。
エリィは足取り軽く一階の備品庫へ向かう。午前の掃除の際に確認したら、そろそろモップを交換した方が良さそうな状態だったのだ。
備品庫の近くにいくと、メイドがひとり出てくるところだった。
「すみません。実は――――」
「…………」
エリィは替えモップの場所を聞こうとするが、そのメイドはチラリとエリィを見たあと無言で立ち去った。少し離れてはいたが、声が届かない距離ではない。
――――あら、
セドリックたちが出発してから、このように避けられることが多い。どーんと目の前で話しかければ逃げられることはないが、たいていエリィの姿が見えた途端にメイドが散っていく。例外はメイド長代理のミモザだけ。そっけないが、無視はされない。
――――これは想定外だったわ
何かしらの悪口や悪戯はあるだろうと思っていたが、避けられるパターンは少し肩透かしの気分だ。でも実害があるよりは良いだろうと、エリィは備品庫でひとりモップを探す。
しかし、その日の夕食に変化は起きた。
「は?お前さんのご飯はメイドが運んだじゃないか」
「え?」
調理場に夕食を受け取りにいくと、もうエリィの分はないと中年の料理人に言われたのだ。もちろん頼んだ記憶はない。
「申し訳ありませんが、それは私の分ではございません」
「はぁ?だってローラの奴が…………あ」
そこまで言って料理人も悪戯に気付いたらしい。罰が悪そうに人差し指で頬をかいた。そしてちょいちょいと手招きし、顔を寄せたエリィの耳元で囁く。
「ミモザには気を付けろよ?」
「あら、ローラ様ではなくて?」
「あぁ、ミモザ確かに仕事はできるんだがなぁ…………セドリック様の崇拝者だ。他のメイドは、セドリック様に冷たくされても健気に働くミモザを慕っている。その中でもベッタリなのがローラでなぁ、それで」
「十分ですわ。素敵な情報をありがとうございます」
誰かが調理場にくる気配を感じ、話を切り上げる。
そしてエリィは新しく用意された夕食を受け取り、料理人にお礼を言って部屋へと戻った。
それから次の日には外に干していたエリィのワンピースの洗濯バサミが外されて芝生に落ちていた。草の汁が少しだけ着いてしまっていたが、元花屋の知識を生かして綺麗に洗い直した。
そのまた次の日は書庫の鍵を閉められ、一時的に閉じ込められたりもした。内鍵がない部屋にいるときを狙われてしまったのだ。一階なのであとで窓から出ようとのんびり本を読んでいたところ、勝手に鍵が空いた。エリィはその場で追いかけたり犯人探しはせず、知らぬ顔で部屋へと帰った。
――――ローラ様は何をしたいのかしら?
小さな嫌がらせが続いて数日後、エリィは刺繍の手を止めふと考える。
犯人はローラだと分かっている。メイドで明確な鋭い視線を向けてくる人物は今はもう彼女だけなのだ。嫌がらせの仕込みの現場を覗き見したこともある。
しかし、嫌がらせが全て中途半端なのだ。少しだけイラッとする程度で、ほぼ影響はない。
それにローラが嫌がらせをしたところで、エリィの立場が変わることはない。勝手に奴隷を辞めることも出来ないため、無意味に等しい。
――――それとも小さな嫌がらせは罠で、私の復讐待ち?わざと反撃させて、実害を誘発し、ご主人様に危険な奴隷だと言うつもりなのかしら。そうしたら何故私が反撃したかの理由もバレて、ローラ様の立場が悪化しそうなのに
エリィは奴隷でメイドより身分は低いが、彼女たちよりもセドリックの信用を得ている自信がある。どちらの言葉を信じるかローラも分かるはずで、単なる嫌がらせはマイナスにしかならないのだ。
「裏で嫌がらせする人の心理が分からないわぁ。直接、堂々と教えてくれないかしら…………でもそうね、少々の反撃もありよね?」
エリィは楽しそうな笑みを浮かべ、刺繍糸をパチンとハサミで切った。
物語も折り返しです。
ブクマ、評価ありがとうございます!励みになってます。引き続きどうぞ宜しくお願い致します。