09 ペットの日常(1)
エリィがセドリックに買われて二週間――――鳥のさえずりがはじまると共にエリィは目を覚ます。窓を開ければ朝露の香り漂う風が流れ込み、それを胸いっぱいに取り込んだ。
「さぁ今日もペット頑張るわよ!」
エリィは太陽に向けて拳をあげて、ひとりで気合いを入れる。手早く身支度を整えて、真新しいワンピースに袖を通した。彼女は「シンディのおさがりで十分です」と訴えたが、セドリックセレクションのワンピースが勝手に追加されていた。どれも淡い色合いで完全に妖精を意識した配色だ。
普段はおさがりを着るようにしているが、今日は来客の予定がある。遭遇する可能性も考慮し、新品を選んだ。奴隷にまで優しいという、素晴らしいご主人様アピールだ。ペットとして重要な役割だろうと考えエリィに余念はない。カチューシャ風にリボンも結んだ。
「よし!」
あとは本を読みながら、呼び出しの時間を待つだけだ。
エリィは部屋の机の上に積み重ねられた本から一冊選ぶ。今日はこの国の『身分制度』について書かれた文献を手に取った。
この国は頂点に王族、その下に貴族、平民と続き最後にエリィが属する奴隷の身分がある。他国と大きく違うのは貴族に爵位がないところだ。ユースリア王国の貴族は上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、一代限りの騎士爵があった。
それに対してラグドール王国は過去五十年間に納めた税金と功績によって勲章の数が決まり、それをもとにして序列が変動する。歴史だけ古く、過去の名誉に胡座をかいている貴族はいずれ淘汰される仕組みだ。
そしてユースリア王国では三十年前に廃止された奴隷の身分も、ここラグドール王国では少し違う。
一時スラム環境が劣悪になり、餓死者が増えた時代があった。それを救済するためにできた身分が『奴隷』だった。奴隷は衣食住を保障され飢えることがなく、雇い主は低コストで人材を得られるという両者にとって利のある関係。貧しい平民は生活の苦しさから自ら貴族の奴隷になるひともいる程、身近な身分。
本には表向きの良いことばかり羅列されているが、エリィはオークションでの環境を思い出し鵜呑みにはしない。本や新聞に書いてあったとしても、真実とは限らないのだ。
――アビスで読んだゴシップ紙にはセドリック様のご実家は伯爵家と書いてあったけど、この国に伯爵家なんて存在しないじゃない。まぁ序列がアビスの伯爵家に相当ってことなのかしらね
そしてゴシップ紙には『セドリックは女性関係が多い』と書かれていたことを思い出す。
それに関してもセドリックが私室に女性を連れ込んでいる様子はないし、朝帰りせずにしっかり夜は私室で寝ている。というより女性の影を一切感じないのだ。
――――噂は当てにならないわね。そりゃ女性の扱いになれているけど、仕事のせいなんだわ……多分
アトリエには男性物もあったが、圧倒的にドレスとワンピースという女性の物が多かった。
さらにこれから一般女性向けに新ブランドを立ち上げる予定がある。あの地獄のようなお着替えタイムは、準備の一環だった。
新ブランドのために市場調査で令嬢のみならず、多くの女性のスリーサイズを把握しているのは当たり前。商売のためにセドリックは日頃から女性を褒めているから、扱いに慣れているのも納得だ。
――――噂や新聞は信用半分で、私は自分の目で見たものを信じなければならないわね
エリィは本をパタンと閉じて立ち上がった。向かった先はセドリックの部屋だ。扉にはメモ帳が一枚挟まっており、それを手にとってノックする。反応がないことを確認して、部屋へと入った。
エリィが天国と称するふわふわのベッドを覗くと、柔らかなオレンジブラウンの乱れたしっぽだけが見える。
どっちが動物っぽいかわからないわね、とクスリと笑いエリィはメモを見てから声を掛けた。
「セドリック様、おはようございます。シンディ様によりますと本日は快晴、風は弱めなのでドレスの日陰干しに最適の日となっているようです」
「ん…………朝露は?」
「今朝は無いようです」
「…………じゃあお客様が来る前に終わらせなきゃかぁ~」
そうして欠伸を噛み殺しながらセドリックが掛け布団から頭を出す。さらりと顔にかかる乱れ髪に色気を感じ、「さすがもて男」と感心しながらエリィは軽く会釈をした。
「おはようございます、ご主人様」
「おはよう、エリィ」
先週セドリックの思い付きで「ペットに起こされるのが夢なんだ」と言い出してから、彼を起こすのはエリィの日課となった。
「やっぱり寝起きに見る顔は四十のおじさんより、可愛い顔が良いよね」
「セドリック様、ブルーノ様に失礼です。そして甘い言葉は朝から重いです」
「…………つれないなぁ」
エリィは寂しそうなセドリックを無視して、ペコリと一礼して扉の外に出る。そして扉の前で洗面セットを用意して待機していたブルーノに挨拶をする。
「ブルーノ様、おはようございます。今日はツンデレ猫を見本にしてみたのですが、どうでしょうか?」
「おはよう、エリィさん。あれではデレの要素が少ないかと」
「そうですか。猫は奥が深いのですね。ありがとうございます」
エリィはブルーノと廊下で別れて、悩ましく手を頬に当てた。
仕立て屋を職業としているため、この屋敷で本物の猫を飼うのは難しい。猫の抜け毛や、爪研ぎをする習性はドレスの質を損なわせる危険があるからだ。
しかしここで諦めてはエリィの奴隷としてのプライドが許さない。こうやって第三者からアドバイスをもらい、試行錯誤していた。
――――人間に猫らしさを要求するということは、セドリック様は相当な猫好き。もっと研究しなきゃ!
エリィは気合いを入れ直して、先に食堂へと向かう。セドリックが座れば朝食の時間の始まりだ。
「セドリック様、今更なんですがティターニアはどんな方が買うことができるのですか?」
「オーダードレスに関しては、完全な紹介制で一見様はお断り。また僕の許可なくお得意様も勝手に誰かに紹介はできないことになっている」
セドリックの衣装は国王、女王も愛用のブランドだ。貴族たちは王族と同じブランドの服を身に付けることで自分の権威や財力のアピールに繋がる。皆が望むブランドなのだ。
だが自由な紹介制になると、それを賄賂にされ取引の材料にされる可能性がある。セドリックは自分の作ったものがそんなことに利用されるのを嫌っていた。
「もし紹介先があまりにも怪しければ、お得意様であろうと取引を止めると事前に伝えてある。だから貴族はステータスを奪われたくないため、下手な人は紹介しない。何より紹介しすぎると自分の注文は遅れるし、ブランドの価値が落ちるから、ほとんどの顧客は弁えてくれているよ」
「怪しい人というのは犯罪に手を染めている等でしょうか?」
「うん。貴族特有の妬みや嫉妬系でライバルを陥れるために、悪に手を染めるタイプは受け付けないんだよね」
「…………」
「そんな顔しないで。エリィが生き残るためにスラムで働いた盗みがあっても僕は気にしないよ。お陰で君は生き抜いて、僕は巡り会えたんだからね」
セドリックはいつものようにエリィに甘い微笑みを向けてくる。ズキリと胸に痛みを感じるが、エリィは下がっていた口角をあげ笑顔を作った。
――――エリアル・アレンスが冤罪だと知っているのは私だけ。冤罪の証明の手段もないわ。他国の話と言えど追放令嬢だって知られたら絶対に追い出されてしまう…………
平民の身分を失ったため、普通に働くことはできない。奴隷から平民になるためにはお金が必要だ。しかし奴隷には賃金は発生しないため、実質無理な話。
つまり追い出されたら再び浮浪者生活か娼婦のような生活が待っている。エリィは追い出された後の事を想像し、静かに戦慄した。
――――できれば親切にしてくれている三人に嘘をつくのは申し訳ないけど、でも…………あの生活にはもう戻りたくない
自分が可愛くて、事実を隠す。セドリックがもっとも嫌う人間になってしまっている事に罪悪感は生まれるが、そんな事は言っていられない。
――――そう、エリアル・アレンスは死んだのよ!私はペットのエリィなのにゃん!
エリィは心の世界で完全に猫になりきり、更なるペットとして極めることを誓った。