08 ペットはじめました(3)
「――――わぁ」
エリィは感嘆のため息を漏らした。
まず目に入ったのは正面にある純白のウェディングドレスだ。可愛らしいベルラインに絹で作られた白薔薇が斜めにあしらわれ、スカートの裾にはビーズ付きレースが惜しみなく重ねられていた。貴族時代から通しても、ここまで見とれてしまうようなドレスはなかなかお目にかかれない。
ウェディングドレスだけではない。様々な種類のカラードレスやタキシードを着たトルソーが何体も並び、ハンガーラックにも多くの衣装が吊るされている。テーブルには型紙、壁際には三台のミシン、特大の棚には数えきれないほどのロール状の生地が収められていた。
「ご主人様は仕立て屋なのでしょうか?」
「御名答。僕は貴族の長男だけど、現在後を継ぐ気はない。家から独立するために特殊な加工を施したところ、やんごとなきお方の御贔屓のお陰で人気がでてね、今は『ティターニア』というブランドで売り出している」
ドレスはどれも上質な生地、流行り廃れのない上品で堅実なデザインをベースに可愛らしいアレンジが組み込まれている。縫製はとても丁寧で長く着られるのが特徴だとセドリックは説明していく。
それだけでも魅力的なドレスだが、最大の特徴は『魔法』を施してあることだった。セドリックがテーブルにあった水差しから、そのままウェディングドレスに中身をぶちまけた。
「――――っ」
エリィは思わず口を手でおおって悲鳴をあげそうになったが、水は床を濡らすだけでドレスには水滴ひとつ残っていない。エリィは恐る恐るドレスの生地に触れるが、やはり濡れた様子はない。
「なんで…………」
「防水の魔法をかけてあるんだ。ドレスはレディたちの防具だ。社交界の女性とはそれはもう怖い仮面狸でね…………花瓶の水をかけたり、ワインを垂らしたりする。だからこれは人気のある魔法なんだよ」
「なるほど」
欲しかった!と心の中でエリィは叫ぶ。自分が着るのではない。セシルが受けた嫌がらせでドレスを濡らされたから家計が大変だったという訴えがあったからだ。知っていれば紹介したのに!…………と思ったがふと冷静になる。
――――でもその度にさらに高級なドレスを殿方から貰っていたわよね…………もう終わったことだわ
そうして純白の生地に意識を戻す。水の染みひとつないドレスは穢れを知らず、高潔さすら伝わってくる。ドレスを着るものに勇気を与え、祝福を与え、幸せに導いてくれそうだ。そんなドレスはセシルには勿体ないと考えを改めた。
「こんなにも綺麗なドレスを見たのは人生初めてで眼福です。ご主人様の手は魔法の手ですね」
「手が魔法?」
「はい。私を最悪の可能性から救っただけでなく、こんなにも素晴らしいものを生み出し、誰かを幸せにできる手は魔法の手でございます」
昨夜、優しく握ってもらったセドリックの手がどれだけエリィの心を支えていたのか、一晩経ってようやく実感していた。
きっとその手で作られたドレスに救われる人も多い。そう思えたからこそ素直にでた言葉だった。
エリィの自然な微笑みを受け、セドリックは水色の瞳を瞬かせた。
「君は誉めるのが上手だね」
「いえ、もっと相応しい言葉が見つかればきちんと称賛したいくらいです。こんな服をそばで見られるだけで私は今、とても心が満たされています」
「ふーん。だけど見ているだけで終わりじゃないからね?」
セドリックはマネキンから一着のグリーンのチューブトップドレスを脱がせ、エリィに手渡した。
「糸の後処理ですか?ハサミはどこに」
「違うよ。エリィが試着するんだ。実際に歩いた時にスカートの揺れ具合や、ラインを確認したいんだよ」
「え、私がですか?」
「うん。そのためにエリィを買ったんだから。仕事の一つに着せ替え人形だと言ったはずだけど」
そう言いながらセドリックはエリィの頬に手を滑らせた。
「ティターニアは昔の異国語で『妖精の女王』と言う意味がある。そして君はまさに僕が探していた妖精のイメージそのものだ。エリィを見つけた瞬間に運命だと思った」
甘い言葉にうっとりと見下ろす彼の仕草はまるで告白のようだ。だがエリィはときめくどころか、背筋に寒気を感じていた。
――――こんなところをメイドたちに見られたら本当に殺されそうだわ
想像は先を進み、いじめを受け、罠にはめられ、奴隷すら追放されるところまで一瞬まで膨らんだ。
もちろんセドリックには恋愛の意味は一切ないことは十分にわかっている。しかし嫉妬心の隠せないレディたちはそう判断しないだろうというのがエリィの経験である。彼女はぷいっと横を向いて手から逃れる。
「つれないね」
「猫と言えど雌ですから。気軽に触ってはなりません」
「うん、そうだね。ごめんね、猫の妖精さん。嫌わないで」
セドリックは全く反省する様子はなく、頭をポンポンと撫でる。誰かに求められるなんて記憶に久しい。エリィはそれ以上やめてとは言えなかった。
僅かに気まずさを感じ始めた時、遅れてきてアトリエに現れたシンディの姿に隠れて息をホッと吐く。
そしてセドリックとシンディに指示されるままにエリィは試着室に押し込まれ、ワンピースを脱ぎ捨てた。久々すぎるコルセットに対してご飯を食べすぎて苦しいが、自業自得。何とかコルセットの締め上げに耐え、ドレスに足を通す。
ドレスなどもう二度と着ると思わなかった。滑らかな生地が懐かしく、あの頃と違って気持ちが高鳴った。綺麗なドレスを着るときはいつだって冷たい元婚約者の隣に立つ時だったのから。今は純粋にどんな姿になるのか楽しみな自分がいた。
「エリィ、完成した姿を見せてごらん」
セドリックに促され、エリィは大きな姿見の前に立つ。そこにはお姫様かと勘違いしてしまうような自分の姿が映っていた。ドレスだけでこんなにもイメージが変わるのかと、改めて感心するばかりだ。エリィはアトリエ内を何周か歩き、何度も姿見の前で立ち止まる。
くるりと回れば軽い生地でできたスカートはふわりと広がり、緑の命が芽吹いたようだ。
――――楽しい!こんな仕事ができるなんて夢みたいだわ
そうエリィが思えたのは八着までだった。
「はい、次これ」
「え?まだあるんですか?」
「もちろん、仕上げの方針が決めきれずに溜まっていたドレスがたくさんね。量販向けの発表会のためにも全部着てもらうよ」
「ぜ……全部」
現在十二着目。普通の服より重いドレスは歩く度に体力を奪っていく。あれだけ優しそうに見えたセドリックの笑顔が今は怖く見え、エリィは後退りするが許されない。
「さぁ折り返しだよ。残り半分、頑張ろうね?」
「さぁエリィさん、こちらへ」
前からセドリックが迫り、後ろからシンディに引っ張られる。途中でお茶を運びにブルーノが来た際に目線がぶつかるが、「御愁傷様」という幻聴も聞こえただけで助けはない。お茶はすっかり冷たくなっているだろう。ここまできてしまえば、開き直ったもの勝ちだ。
――――奴隷根性で乗り切ってやろうじゃないのよ。御飯のためよ!屋根のある生活のためよ!もっと大変なことは過去にいくつもあったわ!
エリィは持ち前の切り替えの早さで残りのドレスを迎え撃つことを決めた。
「どんどんいきましょう!」
セドリックがクローゼットや衣装部屋を何度も往復してドレスを運びながら、修正点のメモを書き続ける。シンディは額に汗を浮かばせながら着替えを手伝い、エリィはドレスの裾が花開くようにターンを決める。もちろん妖精を意識して微笑みも忘れない。
三人とも疲労が溜まり、言葉数は減っていく。その代わり目線だけで息が合うほどの連携がとれるようになり、絆が生まれたのであった。しかし…………
「エリィさんっ」
「どうした!?」
最後の一着を終えワンピース姿へと戻った瞬間、エリィの身体はその場で崩れたのだ。ともに試着室に入っていたシンディのお陰で床や壁に打ち付けることはなかったが、意識は遠退いていく。
「エリィ!大丈夫か?本当はどこか病気だったのか?」
「…………っ」
エリィの瞳には心底心配そうな表情を浮かべるセドリックが映る。優しいご主人様にこれ以上心配かけぬよう、彼女は途切れそうな意識の中で言葉を紡いだ。
「お腹…………ごはん…………っ」
そう言い残してエリィは眠りの世界へと旅立った。昨晩はたっぷり寝たものの誘拐中の不摂生と疲労が1日で回復するはずもなく、とっくに体力の限界を超えていた。ペットも楽ではない。
アトリエには寝息とお腹の音が静かに響いたのであった。