女の子らしさの再発見

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20世紀後半は性差を認めない時代であった。男女差とは社会的に作られたものであり、生まれつきの差はないとされていた。「男らしい」とか「女らしい」という発想は差別であり偏見であるとして糾弾されたのである。本気で性差が後天的だと信じていた人はいないであろうが、フェミニズムが猛威を振るっていたため、「性差はない」と強弁されていたのである。このところ欧米でもフェミニズムの猛威は弱まっているらしく、ようやく性差に触れることが出来るようになった。

上野千鶴子は開業医の娘で京都大学に進学しているので恵まれた環境ではあるのだが、人間ではなく虫のような顔をしているので、「女の子らしさ」に強烈な反発を抱いたのである。これは上野千鶴子独自の発想というよりは、先進国全般に共通した流れではあったのだが、ともかく「女の子」の絶滅に向かって戦端を開いた。フェミニストとは要は人権団体であり言論弾圧装置であるが、上野は凶相を浮かべ爛々と目を光らせながら、憲兵として走り回ったのである。一般人から見れば、単なる変なババアに過ぎないが、文化人にとっては猛毒を持った蛇であり、その牙に噛みつかれたら致命傷である。

日本社会において、この問題はイケメン最強ということで決着がついた。独身男性の半数くらいが童貞とも言われるし、またイケメンのハーレムに参加した女も年を食えば初老の色情狂でしかないし、自立した女性というよりは、誰からも相手にされない肉塊である。酸鼻を極めた敗北者としての男女がわかりあえるはずもなく、お互いへの強烈な嫌悪感を抱き続け、罪障の深さの極みか、もしくはすべてが物質で罪も罰もないのか知らないが、薄汚れた落人として蕭条たる風景のひとつとなり、この世界から退場していく。結局のところ女は自分より上だと感じる男が好きなのであり、自分の身の丈に合った対等の男性は鼻で笑うのが現実である。女が自分で相手を選ぶと、かなり上のイケメンを狙ってしまうので、セフレで終わるという問題である。左翼的な社会的実験はすべてが失敗として終わるという法則が、ここでも貫かれたのである。

男子と女子の差は自閉というキーワードでだいたい語れるのだが、なにしろ自閉という言葉を使うだけで、自閉症の患者団体が暴れるというめんどくさい事情もあった。最近になって自閉症スペクトラムの考えが広まり、自閉とは自閉症患者だけに見られるものではなく、濃淡の違いがありつつも、かなり多くの人に見られる症状であることが理解されるようになった。

このエントリーはサイモン・バロン=コーエンの「共感する女脳、システム化する男脳」を参考文献として用いているが、この本で「システム化」として書かれていることを、わたしは近代科学や近代文明の問題として勝手に捉え直しているから、まったく忠実な要約ではないし、研究データを参照したに留まる。文明の初期から数学は発達しているので、知能と近代科学を結びつけるのは、歴史的にあまり正しいとは言えないのだが、知能を近代社会と結びつけると、この種の問題がクリアになるというのがわたしの判断である。おそらく知能テストとは、ニュートンが最高のスコアを取れるようなテストなのであり、ニュートンが出来ないような日常的なスキルは評価されないのである。

このところ日本では、女の子らしさが再発見されている。kawaiiという言葉も、女子の可愛らしさのルネッサンスなのである。遠い昔に貴族が嗜んだ文化が復活しているのである。たいてい女子の方がソーシャルスキルが高いので、そういう人間観の変化が大きいと思われる。知能とは近代科学への適性の問題であり、知能が高いとは、近代的な合理性や、科学者向きの頭脳の持ち主ということである。もはや科学への夢や希望は持たれていないし、それよりは女子の可愛らしさの方が好ましいのである。

知能の性差に関しては、身長の性差とはまったく違うわけである。たとえば日本人で160センチ未満の男性というと、かなりの少数派に属するが、女性の半分以上は160センチ未満である。「身長175センチです」と言われたら、男子だと決めつけるわけである。身長175センチの日本人女性は存在するが、かなり稀であるため、175センチなら男子だろうと思いこむわけである。男性の身長と女性の身長がかなり明確に分かれているのに対して、知能はかなりばらつきがある。頭の悪い男子は本当に頭が悪いし、数学が得意な女子は普通に存在する。

遠近感は男子の方が優位なのだが、これはやはり遠近感は空間的に計算する必要があるから、男子の方が優れているのだろう。逆に周辺視野では女子の方が明らかに優れているのである。女子は男子より周囲を把握しているので、必然的に観察力が強いのである。観察の結果を分析するとなるとまた別の話だが、ともかく女子は周囲をよく見ている。男子より細かいところに気づくわけである。もちろんガサツな女子もいるから、個人差も大きいが、平均でくらべれば、明らかに女子の方が周辺への神経が行き届いている。

言語流暢性で女子の方が優れているのは議論の余地がない。女子は訓練しなくても、女子アナのようにスラスラと喋れる子が普通である。男子だと、スラスラとよどみなく話せるのは少数派になる。言葉の扱いに関してはほとんど男女差はなく、むしろ女子の方が語彙が豊富に思える。文学なら女性作家が世界的な文学作品を著すのは全然珍しくない。(おそらく語学のヒアリングでも女子の方が得意であるような気がする)。

女子は自閉性が低くて、内面世界と外面世界がシームレスに繋がっているのである。この方がソーシャルスキルが高いに決まっている。かつて、このような女子の特性は、あまり高く評価されなかった。数唱検査(言われた数字を復唱する)で女子が優れているのははっきりしているので、具体的にそのまま頭に入れるという点では女子の方が聡明さがあるはずである。女子の方が外界への認識がオープンであり、しっかり把握しているのである。女子は視空間認識も明らかに男子より優れている。最初に絵を見せて、その後に少しだけ違いのある絵を見せると、女子の方がその違いに気づくのである。そのわりに女子は地図を読むのも書くのも苦手である。これは三次元の立体空間を二次元の平面図として表現するのに数学的能力を使うためだと思われる。

ラットでもメスは方向音痴なのだが、テストステロン(男性ホルモン)を注射すると、オスと同等の方向感覚を身につけて、迷路でもすんなりと通り抜けることが出来るようになる。アンドロゲン不感症という病気があり、男性ではあるのだが、男性ホルモンを受容出来ないので、(もちろん子宮はないのだが)性器は女性の形になる。この病気の人は、男性的な科学的思考能力が弱い。あまり豊富なデータはないらしいのだが、性転換手術で女性から男性になるためにアンドロゲン(テストステロン)を投与すると空間認識能力が高まるようなので、普通の人間の女性にテストステロンを注射すれば、数学や物理が得意になる可能性が高いと思うのだが、さすがに実行する女性はいないであろう。

男子がスポーツ観戦するときは、いろいろなデータを見るのがとても好きである。数字や指標をチェックするのがスポーツ観戦の楽しみのひとつなのである。やむを得ずデータを見るのではなく、いろいろ調べながら見ることが大好きなのである。女子は無頓着である。活躍しているスポーツマンを憧れの目線で見ているだけであり、データには関心を持たない。

このところ、息子より娘の方が欲しいという風潮が高まっているように思える。女子だとノーベル物理学賞は取れないだろうし、天才数学者になることもないが、もはやわれわれは科学者には何の憧れも抱いていないし、単なるアスペルガーだと考えている。一昔前だと、近代科学の発達に未来を託していたし、息子が博士になるのを期待していたのだが、もはやそういう時代ではない。近代科学がどうでもいいとなると、女子の可愛さの価値が高まってくるのである。機械を分解して調べるようなことは、男子なら得意であることが多いが、女子は機械への苦手意識を持っているのが普通であり、女子は科学的思考に不向きであると断じてよいが、それ以外のスキルは男子より優秀だったりする。また、男子の方が科学に適性があると言っても、数学が出来ない男子の方が多数派であろうし、優秀な科学者になるのは一握りであるから、馬鹿が生まれてくるリスクが高いし、仮にニュートンみたいな頭脳の息子が生まれてきても、何を考えてるのかわからないから気持ち悪いはずである。女子で可愛くないとすれば、かなり稀である。ほとんどの女子は何らかの可愛さがあると考えると、近代科学への希望が潰えた社会では、女子の可愛さを愛でる方向に行くのは自然であろうかと思われる。少なくとも20世紀後半の「自立した女性」の末路を見たわけであるし、フェミニズムも衰退したから、われわれも宗旨替えする自由を得たし、生物学的な性差に根ざした女子の可愛らしさが普通に肯定されるようになったのである。
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