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2013年6月 7日 (金)

凡庸の弁

「中庸」というやや難しい概念がある。

この儒教の中心思想を編んだのは、孔子の孫の子思とされている。

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不偏不奇、過不及などが柱になっていて、中庸であれば世の中は丸く収まるとされる。

それで、両極端を足して二で割れば良いとか、調和や中和と理解されがちでもある

この国は聖徳太子の「和をもって貴しとなす」国だから、それは受け入れ易かろう。

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例えば私だって、凡庸にして平均人だから中庸の道を歩いていると思い込んでいた。

大食いでもなく、かと言って特別に少食と言う訳でもない。

酒だって某さん達のような酒豪ではないし、だがまったく飲まない訳でもないからだ。

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だがそれは中庸とは何の関係も無くって、只の「普通」と言うことらしい。

兎に角、平凡が中庸ならこの世の中苦労することはない。

すべからく無関心で平凡に生きることが正しい訳じゃない。

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前向きに取り組もうとすれば、幾ばくかの障害が必ず起こる。

事なかれ主義は決して中庸の道ではないと思うのだ。

とまれこの国の政党の様に我田引水してたんじゃ、

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とてものこと進歩は望めない。

尖閣や竹島も結局は、何らかの力でしか解決できないだろう。

一頃流行った「自己責任」だって、とどのつまりは弱肉強食と紙一重だった。

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かく言うように、実際には中庸の道を探そうとしても容易ではないのだ。

だけどどうだろうか?

誰もが「自分こそ正(中庸)しい」のだと思って生きているのではないか。

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だからこそ対立も起こるのだが、一面で中庸は作られるものだと思う。

これこそ正しいのだと言う道を示して、大向こうの納得を得られればそれが中庸だ。

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つまり中庸の道とて、自ら切り拓く道なのだ。

自分の歩み行く道を確かめつつ、一歩一歩着実に進むことだ。

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「中庸」は、我が中学・高校の校訓である。

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