不都合な真実

社会の不都合な真実を語ります。

国立大学二次試験の中止について

予備校講師の方が、二次試験中止等の決定で「受験生の気持ちを」などと言ってましたが、皆さんも大人になればわかると思いますけれど、純粋にメリットとデメリットを考えたときに、基本的に大学は受験生に興味ないですからね。

 

日本社会が特殊なのでみんなが受験に興味を持ち、さも大学が受験を中心に回ってると考える人もいるかもしれませんが、残念ながら大学の先生からしてみたら入学試験なんて自分にとっては何のメリットもないので極力「波風立てたくない」だけなんですよね。

 

そのような構造を理解しないで感情論で話しても何も生まれません。

 

繰り返しますが、大学の先生にとって入試なんてどうでもいいことですからね。

 

試験委員なんて掃除当番やらされてるみたいな感覚です。

 

研究の役に立つわけじゃなくて名前が出て評価されるわけでもない。

 

メリットゼロです。

東大理系の直前勉強法

 

このポストでは、東大理系受験生を対象に直前期にやるべきことを勉強したいと思います。

 

当たり前ですが、直前期は過去問演習と苦手分野の克服に集中しましょう。

 

基本的にはどんな人もこれが一番合計得点を上げるのに効率が良いはずです。

 

私立の併願がある人はそちらの過去問も(よほど余裕でもない限りは)多少はやりましょう。

 

しっかり取り組むのも時間が勿体ないので、余りそちらに時間をかけないように。

 

(個人の裁量ですが) 1ヶ月ありますし、前半で過去問を消費してしまうのは勿体ないので、直近5年分ぐらいの過去問(数学と理科)は直前1週間で消化できるように残しておきましょう。

 

それまでは残っている過去問があればそれを、なければ模試の過去問(東大実戦など)を使って演習形式でこなすことを繰り返しましょう。

 

あとは、問題集の間違えた部分、苦手な部分を潰していきましょう。

 

余程余裕があるかやる問題がない場合を除いて新しい問題集に手をつける必要はありません。

 

これをこなして行く中で自分が苦手となる分野や暗記間違いが露呈してきますから、そこを抑えて直前に再確認できるようメモするなどして、苦手な部分を試験直前2,30分に確認できるぐらいに凝縮できると望ましいです。

 

数学であれば、やりがちなミスや定理を使う際に記述することなどをメモします。

 

例えば中間値の定理の連続性の確認忘れなどはやりがちなミスではないでしょうか?

 

他にも「このような問題にはこの解法!」など箇条書きでメモしておきます。

 

このようなミスで点を落とすのが一番勿体ないですから。

 

皆さんの健闘を祈ります。頑張ってください。

なぜシグナル効果として学歴が重要か

 

受験生の皆さんの多くは、特に考えることもなく有名大学・一流大学に行った方が良いのではないかと考えてるかもしれませんが、あえて「なぜ一流大学に行く意味があるのか?」を考えてみましょう。

 

まず、一流大学で立派に学問がしたいのか?

 

これに関してはもちろん、大学の研究者等を目指して本気で大学で勉強した人もいるでしょう。

 

しかし、一流大学と言えど、学生の9割位はあくまでも就職予備校として大学を捉えており、特に文系学生のほとんどは本気で学問をしようなどという気概はなく、有名大学のブランドを生かして一流企業に行ければいいというのが本音でしょう。

 

つまり、特に日本の場合は、大学でどのようなことを学んだかというのは、社会的に全く無価値であり、入学大学の価値がイコール学歴の価値といってもいいでしょう。

 

入試でどれだけパフォーマンスを上げたか、が社会的に圧倒的に重視されるわけです。

 

ここで、「ではなぜ入学試験でパフォーマンスを上げた人が社会的に評価されるか」を考えてみましょう。

 

タイトルにシグナル効果という言葉を使いましたが、これは経済学の用語で、要するにブランド的な価値ってことです。

 

絶対的ではないですが、一般論で、難しい入学試験を突破してる人間は、(本当かどうか分かりませんが)論理的思考能力が高かったり文章能力が高かったり、端的には知的能力が高いとみなされるわけです。

 

例えば皆さんも迷ったら駿台予備学校のようなブランド力がある予備校に通うはずです。

 

チョコレートにしてもメディー製菓よりは森永製菓や明治のチョコレートを買うでしょう。

 

これが「ブランド力」であり、結局のところ「確率の問題」です。

 

みなさんの多くは受験生なので、特に考えるまでもなく「早稲田より東大の方が上だ」とか思うかもしれませんが、例えば30歳とか40歳になった時にもはや試験はナイわけで、特に試験をしない中で学歴的な序列が30歳とか40歳段階での序列と正比例であるはずがありません。

 

昔野球が得意だった人が、野球が不得意だった人より今チャーハンを作るのが上手いとは限らないってくらい自明な話です。

 

ただ、個人としては正比例ではないといっても、全体として比例してるのも事実です。

 

つまり、個人レベルで早稲田卒より東大卒の方が仕事ができるとか論理的な文章が書けるとかそんな保証はないわけですが、おそらく東大卒1000人と早稲田卒1000人を比較したときには有意差があり、東大卒の方が優れているでしょう。

 

学歴が有用なのは、必ずしも個人としての優秀さを保障するわけではないですが、判断の確率を上げてくれるところです。

 

例えば皆さんが本を買うときとか人を採用するときに、学歴を使えば確率を上げることができます。

 

上で述べたように、個人レベルで東大卒が早稲田卒より必ず優秀とかそんな事はないわけですが、確率を考えると早稲田卒より東大卒を優先させたほうが間違いがないわけです。

 

要するにワインのラベルと同じです。

 

ラベルが素晴らしいワインが絶対においしいとは限りませんが、おいしい確率を高めることはできます。

 

逆の場合も然りです。

 

日大卒で優秀な人もいるかもしれない。

 

ブランドじゃないワインでおいしいワインがあるかもしれない。

 

それでもブランドやラベルを使うことによって確率を高めることができますからね。

 

逆に言えば、ラベルや学歴も含めてブランドなんて所詮その程度のものです。

 

絶対的なものではなく確率を高めるもの。

 

それとこれと関連する話ですが、このような確率的な判断に馴染むために、学歴はしばしば足切り的な要素として使われます。

 

例えば皆さんが社長だとしてあなたの会社に10000人の入社希望者が来ると仮定しましょう。

 

当然物理的な限界で10000人と面接をすることはできません。

 

「誰と面接をするべきか」を定量的に判断しないといけません。

 

このような時に学歴なり資格は非常に有用です。

 

10000人の中から東大京大早稲田慶応卒の500人を選抜して、その500人から最終的に必要な50人を選ぶことができます。

 

学歴がないと不利なのはこのような形式的で定量的な判断をされるときに、学歴だけで実質的な判断をされることなく門前払いに遭うってことです。

 

「学歴だけで判断するな」という嘆きはわかりますが、皆さんの人生に寿命があるように、社会にも個人にも物理的な限界があります。

 

10万人と面接をすることはできませんから、肩書やブランドで足きりをするのは必要悪です。

 

このように、社会にはリソース的な限界があるが故に、確率的な判断を高めるためにどうしても学歴は必要悪として存在します。

 

個人レベルで人を判断するときに極端に学歴にこだわるのは愚かですが、社会的な文脈で必要悪として学歴を重視するのは仕方ない話。

 

このような理由から、シグナル効果として学歴は重要なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東大受験生の一橋対策

受講生で共通テストの結果を受けて東大から東工一橋に志望変更しようという生徒がいるのですが、東大から東工一橋に志望変更する方は結構多いので、東大から一橋東工大に変更するときのコツについて簡単に述べます。

【一橋編】

 

英語・・基本的には東大対策で問題ないですが、東大ほどバリエーションはなく、シンプルな問題が多いので、高得点の勝負になります。受験層は一枚落ちますが、それでもみんな6,7割はとってきますから、最低8割は欲しい。

 

数学・・東大文系以上に圧倒的に出る問題が決まっているので、整数や確率といった頻出問題を落とさないことが大切。問題の難易度は高いですが、英語と違い、逆に受験層を考えると低得点勝負。
社会学部は3割、他の学部でも5割目標で充分です。実際もうちょっと低くて受かります。

 

国語・・本格的な古典ではなく、近代文語文が出題されますので、その対策はしっかりと。駿台文庫から文語文対策が出ています。普通の現代文に関しては、東大受験生ならかなり簡単に感じるはずです。もちろん英語と同じで他の受験生も同じく簡単ですから、油断はできませんが。

 

地歴・・地歴は東大と一橋の適性を分ける大きなカギです。ご存知の通り東大はオーソドックスな問題で2科目ですが、一橋は極めて難しい問題で1科目なので、人によって一橋の1科目の方がキツい人すらいるかもしれません。

一橋の地歴は、世界史・日本史・地理・倫政からの選択ですが、どの科目も圧倒的に難しい。難しい年に当たったら、本当に2割とか3割とか、地歴ではまず取らない点数を取ります。
なので、地歴をがんばりつつ、難しい年というか難しいセットを引いたら諦めて他の科目で取るしかありません。笑

 

得意科目にもよりますが


経済学部と商学部


英語7割
数学6割
国語6割
地歴3割

 

法学部と社会学部は


英語8割
数学4割(社は3割)
国語6割
地歴5割

 

を目安にすると良いでしょう。

 

一橋は就職もめちゃくちゃ強く、在学生の安定感も高いので、インキャで早慶に馴染めそうな人にはお勧めです。

 

 

残念ながら甘い蜜を吸える人間は少ない

 

「受験は相対評価だから」といつも申し上げておりますが、厳密には「社会的な卓越性はすべて相対評価」と言えます。

 

世の中には給料が高い仕事と低い仕事がありますが、それは別に仕事の大変さが反映されているわけではありません。

 

広告代理店や総合商社に就職して、きれいなオフィスで椅子に座りながら1時間働くのと、道路工事現場で1時間働く場合、おそらく大変さという意味では後者の方が上でしょう。

 

ダイヤモンドが自然界で価値を持っているわけではなく、あくまでもその希少性によって価値が生まれているように、年収や給料も仕事の大変さによって決まっているわけではなくあくまでも希少価値によって決まっています。

 

医者や弁護士の時間給が高いのも、総合商社の人間の給料が高いのも、仕事そのものが大変だからではなくその仕事にありつくのに相対競争で勝つ必要があるからです。

 

これが経済原理です。

 

相対評価である以上、最初から敗者が出ることは決まっています。

 

皆さん全員が共通テストの平均点を100点上げても、合格者は一人も増えないですから。

 

皆さんも、負ける人間がいるからこそ勝って嬉しいわけ。

 

運転免許みたいに医学部や東京大学に合格してしまったら、今度は医学部や東京大学の価値がなくなります。

 

どれだけ綺麗事を言っても、社会は相対評価で希少価値が高いものを評価します。

 

港区タワマンにせよ、みんなが住めないから価値があります。

 

身長も「180cmだから高い」というのは自然界にあるルールでも何でもなくて、あくまで170cm未満の低身長の人がたくさんいるから「相対的に高い」わけで、オランダやドイツで身長180cmなら「普通」です。

 

180cmの人が優越感を感じるのは168cmや172cmの人がいるからです。

 

周りが皆190cmなら相対的な優位はなく、むしろ180ならチビです。

 

不都合な真実ですが、特に先進国の社会というのは「不幸な人がいるから幸福な人がいる」構造になっています。

 

みなさんの多くが東大や京大、国立医学部に行きたいのは、多くの人が羨ましがってくれるから。

 

運転免許のように東大に合格してしまったら東大には運転免許程度の価値しかありません。

 

落ちた人間が自分にコンプレックスを持ち、死ぬほど悔しがってくれるから自分は幸福なわけです。

 

漫画『カイジ』にあるように「セーフティーという名の愉悦」があるから最難関大学の合格者は気持ちが良いわけです。

 

みんなが難関大学に合格してしまっては意味がない。

 

いや、表現がおかしい。

 

みんなが合格しないから難関大学なんですよ。

 

医師免許や弁護士の免許も一緒。

 

憧れてる人のほとんどがなれないから価値がある。

 

みんなが弁護士や医師になれてしまったら、残念ながら調理師免許程度の価値しかありません。

 

港区のタワマンにみんなが住めたら価値がない。

 

多くの人間が指をくわえて見て羨ましがってくれるから、港区タワマンには価値がある。

 

いろいろ具体例を挙げてきましたが、結局先進国の社会というのは「相対評価で他人に勝ち、それにより承認欲求を味わう」ことにより少数の人間が幸福感を享受できる仕組みになっています。

 

このように、原理的に多くの人が苦渋を舐めることが最初から原理的に決まっているわけですから、大切なのは腹を括ること。

 

相対評価で上位1%レベルで勝つ

or

・承認欲求の世界から降りて、相対評価で勝とうと思わない

 

これぐらいの割り切りが必要です。

 

中途半端に承認を求めて、マーチや関関同立位の大学に行って、年収400-500万くらいのゾーンを彷徨い、自分より優れた人にマウンティングされて不幸になるほどコスパが悪い人生もありません。

 

メディーが最難関大学の受験生にしか興味がないのは、このような社会の仕組みを考えたときに、ほとんどの受験生は受験によって不幸になる運命だから。

 

マーチやニッコマレベルで彷徨ってる受験生のマジョリティーが中途半端に東京でマウントの合戦に巻き込まれて不幸になる。

 

これは港区で人間観察をしていたら簡単にわかる話です。

 

ほとんどの人は港区的な価値観でマウント合戦に勝つよりも、地方で自給自足的な生活をして年収300万円の生活をしている方が幸福度が高いと思いますからね。

 

マーチやニッコマを出て、そこそこの企業に勤めて年収500万とかで東京にいても、東大や京大を出て総合商社や広告代理店に勤務して年収1500万円や2000万円の人間が近くにいてマウント取られて、不幸でしかない。(もちろん年収1億、2億とか上を見たらキリがないですが、さすがに世の中にそのレベルはほとんどいないので)

 

中途半端に勉強を頑張って、中途半端に稼いでも相対評価で全然上には上がいて欲求不満でしかありません。

 

港区的な世界でマウントとって気持ちよくなれる人なんてほとんどいないわけです。

 

だから、中途半端に勉強して中途半端な会社に入って相対的には不幸でしかないってことです。

 

もちろん、「自分はそこそこの大学、そこそこの企業でいいです」と割り切れる人はいいですが、ニッコマなりマーチなり下手したら早慶あたりの中途半端なところは、「中途半端に負けず嫌い」で「中途半端に能力がある」点。

 

中途半端に勝負して中途半端に負けず嫌いだから不幸になりやすいわけです。

 

このゾーンの受験生が最も不幸であり、東京でいまいちくすぶっている人のマジョリティーだと感じますね。

 

圧倒的に勝てる人以外は、他人からの承認欲求をあきらめることが最も幸福になる道なのですが、中途半端にあきらめられないのが学力上位5%から30%くらいのゾーンです。

 

この社会が相対評価であるってことに気づいて、

圧倒的に勝つか

相対評価で勝つことを諦め、承認欲求から解き放たれるか。

 

このような発想の転換が必要です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インキャ受験生の生きる道

インキャ・ヨウキャという話を何度もしてきましたが、インキャだと自覚がある受験生が幸せになる方法は「インキャ道」を極めることです。


文系の民間就職で慶応あたりのウェイ系と競争するから苦渋を舐めるわけです。

 

医学部や理工系などでインキャがマジョリティのところに行くのがベストです。

 

オススメは医学部、東大理一、東京工業大学京都大学理学部です。

 

ここに行けば、相対的に自分がインキャではなくなりますので。

 

こういったところで、整数論なり素粒子なりを探求しようと勉強していたら、インキャ・ヨウキャなんて枠組みすらどうでもよくなります。

 

インキャはインキャで突き詰めるのが最もいい。


メタ認知能力という話を何度もしてきましたが、一番困るのはメタ認知能力が低いインキャです。

 

インキャなのに何とかがんばって大学デビューしようとして、慶応のイケメンヨウキャと競争しようと思うから不幸になるわけで、インキャはインキャとしてインキャ道を極めるのがベスト。

 

中途半端にモテようとか思わないのがミソです。

 

中高とヨウキャになれなかったという事は、残念ながらそちらの才能はないって事ですから、スパっと諦める事です。

 

別にインキャが劣ってるとか間違ってるとかそういうわけではないわけですから、インキャらしく幸せに生きることを考えましょう。

 

 

あくまでも優劣は基準によるって話

この話は生物の進化論とか政治哲学とかの視点があれば一瞬でわかる話です。

 

ピンとこない人にはピンとこないでしょうが、非常に重要なことなので何度も説明します。(受験には全くどうでもいい話ですが、皆さんのように21世紀をエリートとして生きる人にはぜひ知ってほしいってだけです)

 

多くの人はわかっていませんが、基本的に強い人間というのは特定の基準があるからこそ強いわけです。


例えば、皆さんの序列ならば偏差値です。


偏差値が高いと「あいつはすごい」となりますが、これはあくまでも我々の社会が偏差値を重視してるからです。

 

頭が良くても小柄で体力がなく、足も遅かったりしたら、原始時代では不利でしょう。


つまり優劣というのは基準によるわけで、その基準自体が時代や場所によって違うわけです。


極めて「恣意的」ってことです。


顔がイケメンや美女であるかどうかっていうのも基準によって決まります。

 

冷静に考えてください。目が大きくて鼻が高い顔を皆様は評価しますが、この基準もあくまでも西洋中心主義的な考えでしかありません。


現在の価値基準がヨーロッパ中心だから、目が大きくて鼻が高い西洋的な顔が美しい顔だと評価されているだけです。

 

つまり、申し上げたいのは、人間の優劣というのがアプリオリに存在してるわけではなくて、あくまでもレースのルールによって人間の優劣っていうのは決まるわけです。


だからこそ、皆さんのように今の社会のルールで比較的勝ちやすい人ほど、この点を謙虚に受け止めてほしいと思います。

 

皆さんが優れているから評価されてるのではなくて、皆さんが有利なファクターをたまたま社会が評価してるからこそ、間接的に皆さんのように偏差値が高い人が評価されてるわけです。


東大入試で学科試験が200点、100メート走や背筋力が300点になったら、不利になる人もいっぱいいるでしょう。

 

「いやいやそんな配点ありえないよ」と言う人もいるかもしれませんが、英数国理社が重要だというのも所詮一つの価値判断にしか過ぎません。


アプリオリの価値ではないわけですから。


自分の能力が高く評価される幸福を謙虚に感じてください。