彼らの救世主、金と銀

彼らの救世主は決してくる事はないだらう。といふのは、かれが「少しの間」おいでにならない筈のこ
とが、大変に長い期間になってしまっているのであって、この事は決して何も起こらないという事なの
である。なぜなら、預言は「少しの間」といっているのであって、「長い期間」とは言っていないのだ
から。

しかし、彼らはそれを、以下のような方法で言い逃れる。つまり彼らは「少しの間」を否定できないの
で、「諸国民の欲望」ヘプライ語でヘムダートという表現をとってそれを抑えつけるのである。その言
葉が「救世主」を意珠せず異教徒のすぺての金銀を示しているというのだ。何故なら文法書によれば、
「ヘムダート」といふ言葉は異教徒の望むものとか愛するものというように、本当に「何物かへの欲
望、愛」を意味するのだから。そして今や、この文章は次のように読む事ができるだらう。「ほんの少
し後には、すぺての異邦人達の欲望が姿を表わすであろう」。一体これは何なのか。異邦人達は何を望
むのか。金、銀そして宝石を。あなた達は、ユダヤ人達がなぜこのような解釈をこの箇所に挿入したの
かを聞きたくなるかもしれない。私は次のように言おう。「彼らの吐く息は、異教徒の金や銀に飢ゑて
悪臭を放っている。太陽の下にいるいかなる者も、高利貸しという呪われた業によってわかるように、
ユダヤ人達ほど貪欲な者はかつていなかったし、現在も、そしていつの世でも存在しないだらうから。
彼らは又、次のような事に満足を見出している。「救世主がやってくる時、その方は世界中の全ての金
と銀を所有し、それをユダヤ人の間に分配するであろう」。かくして彼らが飽く事を知らぬ貪欲へと聖
書をねじ曲げる事ができる所ではどこでも、ユダヤ人達はよこしまな事にそうするのである。あなた方
は神と神の預言は、ユダヤ人達の計り知れぬ貪欲がいかに異教徒達の金銀によって滞足されたかという
事以外には何も預言しなかったのだと思うであらう。子供のころから、彼らは両親及びラピ達から、
「ゴイム」(異教
徒)に封するこのような有害な憎しみの言葉をむさぼるやうに吸収し、いまも休みなく吸収しており、
詩編一○九篇によれば、それは彼らの肉体と血液、骨と骨髄の中にまで浸透しつづけて来ており、彼ら
の生命と存在そのものになっているのである。そして、彼らが肉体と血液、骨と骨髄をほとんど変える
事がてきないのと同様に、彼らは、このやうな高慢と妬みを変える事ができない。神が特別の奇跡を起
こさぬ限り、彼らはただそんな有り様のままでいて、破減して行くしかないのだ。
 
 

強い敵意を持つ有害な敵

我が親愛なるキリスト教徒よ。それ故、心よりユダヤ人たらんとしているユダヤ人ほど敵意を持ち有害
で強力な敵は、悪魔以外には誰もいないといふ事を知らなければならない。彼らの内には午やアヒルが
信じる事を信じる者もいるかもしれない。しかし、彼ら全員が、彼等の血と割礼の信仰の中に包まれて
いるのだ。それ故、歴史上彼等はトレントやワイセンシー等におけるが如く、しばしぱ井戸に毒を投げ
込み、子供違を誘拐、殺害したとして有罪を宣告されているのてある。もちろん彼らはこれを否定す
る。しかしながらそれが事実であるにせよ無いにせよ、もし彼等が秘密であるにせよそうでないにせ
よ、そうした事を行動に移す事が可能な場合には、彼等には、それらの事をなすのに十分用意のできた
意志があるという事を私はよく承知しているのである。こうした事をしっかりと知って欲しい。そし
て、それに従って行動して欲しいのだ!時折、彼等は何か善き事を為すかもしれない。しかしそれはあ
なた達への愛によるのでも、あなた達の福利の為になされるのでもないという事をよくよく承知してお
かねばならない。我々のあいだで住んでいける余地を手に入れる為に彼等は当然何かをしなければなら
ないだけなのだ。しかし彼等の本心は私が概に述ぺたごとくであり、また依然としてそうであり績けて
いるのだ。あなたは私の言う事を信じたくないのか。それならリラ、プルゲン、そして、その他の高潔
で信頼できる方達の書物を読んで見て欲しい。萬が一にも彼等がその事を書いていなかったと仮定して
も、聖書は蛇と女性といふ二つの子孫が他の誰よりも、キリスト教徒と封立しており、神と悪魔の間に
はいかなる妥協も存在しないという事を明らかにしている。こうした事は彼等の著書や祈祷書にもま
た、粗野な形で描かれている事なのである。

悪魔を知らぬ者は、なぜ彼等が他の誰よりもキリスト教徒に封してそれ程までに敵意を抱くのか不思議
に思うであらう。私達は彼等に封し善行のみを施すのだから、彼等がそうなる何の理由もないのだ。彼
等は我々の祖国で、私達の庇護の下に住んでおり、土地や公道を用い、市場や街を使用している。

王侯や政府は、みすみす傍観し、いびきをかき、口を空けたままでいるので、彼等の財布やたんすから
ユダヤ人達が思いのままにとったり盗んだり、奪いとるのを許しているつまり王侯や政府は自ら及ぴ臣
下の者達がつけこまれ、スッカラカンになるまで吸い取られ、自分達自身の財宝で乞食にさせられてし
まうという事態を許しているのだ。というのは、ユダヤ人達は外国人として、間違いなく何も持ってい
る筈が無いのである。彼等が現在所有している物は確実に我々の物であるに違いないのだから。彼等は
働かず、働いた報酬を我等から得たわけでもない。また我々が彼等にそれを寄贈したわけでも、与えた
わけでもない。それにもかかわらず、彼等は我々の金銭や財宝を所有し、亡命先である我々の国で主人
となっているのである。

もし盗人が一○グルテン盗めば、この者は絞首刑にならねばならない。もし彼が街道て略奪を行えば、
彼の首ははねられてしまうのだ。ところがユダヤ人となると彼等が高利貸しによって一○トンの金を盗
んだ時でも、神様よりも大切に扱われるのである。
 

密かにユダヤ人達は、我々クリスチャンを呪う

そして顕著な特傲として、彼等は自分達の間で次のように言い合う事で彼等の信仰と我々への激しい憎
悪を強めているのである。「いかに神が我等と共にあるか、そして流浪の身である我々を見捨てていな
いかを見守り続けよ。我々は働かず、よき怠惰な日々を満喫している。そして、呪われたゴイムは我等
の為に働き続けねばならない。我々は彼等の金銭を手に入れる。それ故我等は彼等の主人であり、彼等
は我々の召し使である。イスラエルの子供達よ、事態は更に善くなって行くであろう。もし我等がかく
の如くし続け異教徒達の「ヘムダート」(ヘプライ語の欲望、財産)を高利貸しによって我々のものに
して行くなら、我々の救世主がやって来られるであろう」と。これら全てが我々が彼等を保護している
間に彼等から被っている事なのである。彼等は、かくの如く我々を呪っているのだ。

一歴史的な聖書注解の長い論述の後で、ルーテルがこの時代において既にタルムード及びシュルハン・
アルクを知っていた事がわかる、大変輿味深い一節が続いている。この事が、ルーテルのユダヤ問題に
対する変化を説明するのである。ー

ユダヤ人達のタルムードやラビ達は次のように著述しなかっただろうか。もしユダヤ人が異教徒を殺害
したとしても、殺す事は罪ではない。しかし彼がイスラエルの兄弟を殺すならそれは罪である。もし彼
が異教徒に封して彼の警約を守り続けなかったとしても罪ではない。それ故異教徒から盗んだり略奪し
たりする事は(彼等が高利貸しにおいて為すのと同様に)神聖なる仕事なのである。というのは彼等は
自分達が高貴な血筋であり割礼を受けた神聖なる人間であり、一方我々は呪われたゴイムであるが故
に、我々キリスト教徒に封し罪深くあり過ぎるという事は決してあり得ないという風に考えているので
ある。そして彼等は世界の主人であり、我々は彼等の召し使、そう、彼等の家畜なのである。

要するにラビ達が彼等に教えたように、そしてまた福音書の著者達が我々に告げたようにユダヤ人達
は、父母を祝福する事に関する第五の戒律を廃止したのである。(マタイ伝一五:六「あなた方は『父
又は母を敬わなくてもよろしい』と、言っている。こうしてあなたがたは自分達の言い伝えによって、
神の言葉を無にしている」。また、マタイ伝二三:一三(「偽善な律法学者、パリサイ入達よ。あなた
がたは、わざわいである。あなたがたは天国を閉ざして人々を入らせない。自分も入らないし、入ろう
とする人々を入らせもしない」マタイ伝五:二八(「しかし私はあなた達に言う。誰でも情慾を抱いて
女を見る者は、心の中で既に姦淫をしたのである」)も、言うに及ばぬ事である。彼等は何と十戎を狡
滑に説教し解釈した事であろうか!そして彼等は神殿の中にお金の両替所や商人及びあらゆる種類の貪
欲な商取引を持ち込んだ。それは主キリストが彼等は神の家を盗賊の巣となしたといった事である。神
が御自身のお住まいを盗賊の巣と呼ぱねばならぬとはなんと名誉な事であろうか。何とそのお住まいは
栄光に輝く事であらうか。今やあなた達自身で思い描いてみると良い。何故なら非常に多くの魂が貪欲
で偽りの教義、即ち二重の偽善によって殺害されたのであるから。

こんにちまで、ユタヤ人達はこのような教義にしがみつき、彼等の先祖達と同様に振舞っている。可能
な所ではどこでも、そして彼等の子供達に教え続けられる所ではどこでも神の言葉を曲解し、貪欲で、
高利賃をし、盗み、殺人を犯している。