平成18年1月18日 伊豆下田の唐人お吉は、ペリーの次にやってきたアメリカ総領事ハリスの愛妾だったという ことになっている。日米親善の為の人身御供になったお吉の哀話は下田観光の目玉である。 ところが、これはでたらめな作り話で、実際のお吉は母と一緒に洗濯女として暮らしていた小 娘だった。ハリスが幕府役人に斡旋を依頼したのは、洗濯女や妾ではなくて有能な家政婦だっ たから、彼は三日でこの役立たず女に暇を出してしまった。 下田の町役場にはお吉の母が役人に出した嘆願書が残っている。「私と娘は今までお上がく ださる洗濯仕事で暮らしてきたのに、行けと言われた異人の家で暇を出され暮らしていけない のでなにとぞお助け下さい。」 これは穂高出身の外交評論家清澤洌が書いた史実である。清澤は続けて次のように書い た。 ◇ ◇ 日米親善のために誠心誠意つくしたハリスだが、日本の男尊女卑、蓄妾の風習、酒宴での 猥褻等々については強い嫌悪感を抱いて日記に記していた。 彼は非差別・非戦・非暴力主義の敬虔なクェーカー教徒(清教徒)で、清廉・簡素な生活をし ていた人物だったのである。 こういう十八・十九世紀アメリカ・ピューリタンの精神を知らない役人は、ハリスが家政婦を雇 いたいと言ったのに、妾を求めたと深読みしてお吉をさしだした。人々は彼とお吉の肉体関係 を想像して噂話をした。お吉は酒色に溺れて身投げした。 あろうことか、新渡戸稲造までもがこの下世話な話を真に受けて、お吉は日米の架け橋にな ったと讃え、末路を憐れんで地蔵を建てた。(清澤洌著『時代・生活・思想』昭和十一年刊) 清澤はこの論説で新渡戸稲造を揶揄したが、これは、新渡戸のズレた外交感覚に対する揶 揄でもある。彼は日米の架け橋を自任して米国各地で日本の満州侵略の正当性?を講演して 冷笑をかい、失意の裡に客死した。 ◇ ◇ じつは、清澤は遙か前にハリスの業績に関する本格的な論説を発表している。彼は日米双 方の資料を丹念に調べて書いた。
際世界から孤立化し始めた頃に国際的視野からみた日本の独善性と危険性を説いた本であ る。 清澤にはこの類の著作が二十数冊もある。当時は右翼からも左翼からも批判され、世論に は無視され、政府からは弾圧されたこれらの著作物の内容は、今日からみればみな正しかっ た。清澤は当時の日本では破格の国際的視野と醒めた判断力をもった外交評論家だったの である。 平成18年2月17日 清澤洌② 清澤洌と石橋湛山 雪の降る夜は楽しいペチカ、ペチカ燃えろよ…、という唄を聴くと、郷愁というか哀しみという か複雑な想いにかられる。ペチカとはロシアふうの暖炉のことで、ロシア人が作った都市ハル ピンに住む幸せな日本人家族の夜の団欒の唄である。 絵葉書で見る満州の都市ハルピンや新京は東京より近代的で美しかった。満鉄特急アジア 号は美しい流線型の列車だった。みな、満州には日本に無い開放感や希望を感じたものだっ た。 満州国は日本が作った傀儡国家である。政府は満州を王道楽土だと宣伝し、それに乗て大 勢の日本人が満州に移住した。 日本の敗戦と同時に満州国は消滅した。この属国作りに深く関わってきた甘粕正彦(大杉栄 一家殺害の犯人!)は、「大ばくち 元も子もなく すってんてん」という戯れ句を遺して服毒自 殺したが、戯れ句にするにはその後の事態が悲惨すぎる。在留邦人たちはソ連の侵攻で筆舌 に尽くしがたい苛酷な運命を辿った。命からがらの逃避行、集団自決の阿鼻叫喚、シベリヤに 抑留されての塗炭の苦しみ。そして、今も中国が抱いている日本への恨みと憎悪・不信…。 司馬遼太郎はテレビ番組でこう言った。「満州を取って何をするつもりだったのでしょう。私は そのころの偉い人たちに聞いてみたいのです。アジア人のすべてから憎まれ、我々の子孫ま でもが小さくならなければならないことをやっていながら、いったいどれだけの儲けがありました かと。」(1986.5.21) こんなことは戦後の今だから言えることで、当時こんなことを言ったらただでは済まない。「非 国民め何を言うか。満州の権益は日露戦争の戦死者一〇万の血であがなったものだ。満州 は日本が生きる為の生命線なんだぞ」といっていじめられる。 ◇ ◇ ところが、その非国民?がいた。清澤洌と石橋湛山である。戦後に首相も務めた湛山だが、 じつは経済誌『東洋経済新報』の社主だった。この専門誌は昔から「満州も朝鮮も台湾も日本 の莫大な負担ばかりで、実質的な利益をもたらしてはいない。経済的にも道義的にも放棄した 方が賢明だ」と主張していた。(これを小日本主義という) 清澤は同誌の社説を湛山よりたくさん書いていた時期もあったほどだから、似たような考え の持ち主で、投資額や軍費と収益とを比較して、満州政策の膨大な赤字構造を解説してい る。 それだけでなく、満州に対して特権があるという日本の主張を中国側からみれば「手前勝手」 で正当性がないと説明し、武力で満州へ侵出すれば中国の抗日活動暴発に口実を与え、国 際社会を敵にまわすと説いた。 そもそも日露戦争は英米の強力な支援があったからやっと勝てたのである。その事実を忘 れ驕り高ぶって満州の権益を独占しようとすれば、英米との軋轢を生む。日本は英米と提携し て平和的な対中外交をしなければ国益を損ねる、というのが清澤の対中政策論だったのであ る。満州事変二年前の論説である。 ----------------------------------------------------------------------------- 平成18年3月20日 清澤洌③ 黄禍論への対応 日本はナンバーワンの経済大国だと皆が浮かれていた頃、来日したフランスのクレッソン首 相が言った。「日本人は蟻みたいだ」。日本の官房長官も言った。「蟻はキリギリスよりマシ だ」。長官はイソップ寓話で反撃したつもりなのだろうが、「蟻」の意味を知らなかった。 ドゴール大統領も日本人は蟻だと言っていた。彼らが蟻と言ったのは働き者という意味では ない。日本製品が世界中にはびこり、観光ツアーの日本人がルイ・ヴィトンの店に群がる…。 世界中に日本人が蟻のようにはびこり群がるという嫌悪感の表現で、現代版黄禍論なのだ。 黄禍論というのは、黄色人種が世界に禍をもたらすという思想で、黄色人種に対する嫌悪感 や蔑視感の表現である。 旧日本軍兵士・横井庄一さんが発見された時、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが言った。「日本人 はもっと自分たちの黄色人種としての位置を自覚すべきだ。第二次世界大戦が人種差別の戦 争だったという自覚がないのは悲しいことだ。」 これは彼らがベトナム戦争批判と併せて語った言葉である。 アメリカ映画『地獄の黙示録』は、ベトナム戦争がレイシズム(人種差別)の戦争であったことを 巧みに「黙示」している。ジョン・レノンの名曲『イマジン』は黒人差別と闘ったキング牧師の名 言「私にはこの世から差別と争いが無くなるという夢がある」と同じ夢の歌なのだ。 ◇ ◇ 清澤洌は移民先のアメリカ・シアトルから故郷穂高の友人に次のような手紙を書いた。 「…ここでの日本人への待遇は驚くほど低いのです。ジャップ、スケベイ、彼らはあらゆる侮蔑 の声で迎えてくれます。…」 清澤は労働移民としてのアメリカ生活で、日本人に対する人種差別を味わいつくし、黄禍論 の脅威を身にしみて覚った。 その後、アメリカは排日移民法をつくって日系移民受け入れを拒否したが、これは人種的な 黄禍意識yellow perilだけによるものではない。日本が第一次大戦後にドイツから得た南洋諸 島が、アメリカのフィリピンやグァムを取り囲んでアメリカ本土から遮断する型になったことによ る恐日ノイローゼJapan perilと防衛意識の発露でもある。 (太平洋戦争中の日系移民強制収容は恐日の極限的な現象だといってよいであろう) 清澤 の論説の底にあるのは、「日本は黄禍論の的であることを自覚して自制した方がよい。感情的 な欧米の黄禍論に火をつけるな」という姿勢である。 昭和二年以後の日本は、山東出兵、田中メモランダム、満州事変、上海事変等々、中国へ の武力侵出の姿勢を露わにした。 清澤は言った。「日露戦後の黄禍論は売られた喧嘩だ。国運を賭けて争う程の事ではない。 だが、その後の日本の膨張主義は欧米の黄禍論に火をつけ、確証を与えてしまった。これ は売った喧嘩である。日本の唱える皇国精神やアジアの盟主というスローガンは欧米諸国か ら気味悪がられ敵視されている。」 ----------------------------------------------------------------------------- 平成18年4月20日 清澤洌④ 日本人の対米劣等感と敵愾心 十六歳の労働移民だった清澤洌がアメリカでレスラーと日本の柔道家との興業試合を見た。 日系人たちは柔道家に期待し声援を送ったが、試合開始のゴングと同時に投げ飛ばされてし まった。もう一度やったが同じだった。賭け試合だったから大勢の日系人観客が損をした。 (この試合の興行主は、当時ワシントン大の学生だった植原悦二郎で、彼は大損をした。二人 の自由主義者は昵懇の間柄で、清澤は植原の仲介によって結婚した。同郷出身の先輩で政 治学者の植原が清澤洌の人生や思想形成に与えた影響は大きい。) 清澤は後年にこの試合の経過を詳しく説明したうえで、「日本人は他を知らずに天下無敵だ の世界一だのと思いたがるが、そんなのは心の奥底にある劣等感の表れで、はたからみれ ば、大人の真似をしたがる子供みたいで滑稽だ」と論じている。 また、彼が仕事でアメリカ滞在中にロサンゼルス・オリンピックが開催された。出場選手は 「決死の覚悟」を述べ、負けた者は切腹の前ぶれのような慙愧の涙をしぼった。 清澤の言うには、スポーツ試合にまで決死の覚悟をもちだしたり、国をあげての大騒ぎをする のは、劣等感のなせるわざである。対等な相手ならそんなことはしない。 これは清澤だけの見解ではない。戦前の駐日米国大使ジョセフ・グルーは、「日本人は未熟 な子どものようなものだから子どもとして扱わねばならない」と日記に書いていたし、チャーチ ルとルーズベルトは、日本に対する最上策は「あやす」ことであると話し合っていた。 当時の日本では、アメリカへの敵愾心や日米戦争説の本がたくさん出版されていた。 清澤は「外国から帰ってきて目につくのは、日本人の劣等感である。日米戦争説などもこの 劣等心理の一つの表れではないだろうか」と言い、対米交渉は敵愾心を持たずに冷静な姿勢 で臨むべきことを説いている。 「日本でさえやっていないことを米国にのみ強いて、この点だけから米国を非難するのは公 平ではない。」例えば、日本は移民を受け入れてはいない。それなのにアメリカの排日移民法 に悲憤慷慨するのは理屈に合わない。しかも、日本からの対米移民は年間せいぜい一五〇 名程でしかない。国運を賭けて争う問題なんかではないのだ。 それに対して、日本の輸出入の主要な相手国はアメリカである。アメリカ無しには日本経済 は成り立たないし、安全もありえない。日本は好むと好まざるとにかかわらず、政治的にも経 済的にも米国と相たずさえて生きねばならない。日本には国際協調以外の活路はないのだ …。 ◇ ◇ 近頃、「日本は経済封鎖をされ、最後通牒に等しいハルノートを突きつけられたのだ。対米 戦争に踏み切ったのも当然だ」という言説が流布しているが、これらは日本が国際協調体制 から逸脱して招いた結果である。 清澤洌はそうならないようにと政府の外交策を糺し続けていた外交評論家だったのである。 ----------------------------------------------------------------------------- 平成18年5月20日 清澤洌⑤ 清澤洌と植原悦二郎 清澤洌は愛妻家だった。その愛妻と娘を大正十二年の関東大震災で亡くした。四十九日法 要が済んでから郷里の友人・斉藤茂に宛てた長文の手紙は、故人への愛情と哀しみに満ちた もので読む者の胸を打つ。 「四カ年の結婚生活…、口喧嘩すらしたことのなかった平和な家庭生活は終焉を告げ…、私 は西陽に面して新しい墓標を見つめながらそこを動けませんでした。…種々の社会を知る私 は今の世にこういう正直で善良な女性のいることが、時々不思議に感じられる程でした…。」 この女性を清澤に引き合わせたのは、同郷・安曇野三郷出身の政治家・植原悦二郎だっ た。 清澤はその後に年月を経て再婚したが、相手は日本女子大での植原夫人の教え子で、その 時も植原夫妻が媒酌人を務めた。 清澤は晩年に至るまで植原家に礼を尽くし、家族ぐるみのごく親しいつき合いをしていた。 ◇ ◇ 清澤は十六歳で労働移民として渡米し、シアトルで植原と昵懇の間柄になった。当時の植原 はシアトルのワシントン大学で政治学を学ぶ学生だった。 清澤は大正デモクラシーの旗手・植原から影響を受けたが、この点を考究した研究者はまだ いない。植原が「忘れられた思想家」だからであろうか。 植原はワシントン大学卒業後にロンドン大学大学院で学んで政治学の学位を取得し、明治 四十三年に帰朝した。日本の政治史と憲法を分析した彼の博士論文はイギリスで出版され た。 この論文は、明治維新の過程や明治憲法制定過程の特徴を分析し検討したものである。 その内容が、英国の学者↓米国の学者↓国務省の役人へと伝授され、降伏勧告のポツダ ム宣言や日本国憲法に活かされた事実を、最近の研究が明らかにしている。(原秀成『日本 国憲法制定の系譜』日本評論社刊) ◇ ◇ 昭和三年に実施された初回の普通選挙の時に、内務大臣が議会には期待しないと発言し た。 世論は憤ったが清澤は皮肉った。「内相はさすがに司法省の役人出身だけのことはあ る。憲法どおりのことを言った」。 そして、そもそも明治憲法自体が議会軽視の憲法であることを詳しく解説し批判した。(『自由 日本を漁る』p234) 清澤のこの憲法論議は明らかに植原の憲法論に拠っている。 また、清澤は日本人の判断の仕方や物事への処し方について多くを述べているが、その問 題意識は植原の指導教授だった高名な政治心理学者・ウォーラスのものであり、植原は清澤 よりも先にそれをやっている。(『立憲代議政体論』十四章) 労働移民として渡米した清澤洌だったが、イギリス政治学者植原悦二郎との邂逅が機縁とな って、英米の政治思想に造詣の深い評論家になったのである。 (註、植原の憲法論『立憲代議政体論』「我憲政発達の九大障害」等は、長尾龍一・高坂邦彦 共編『日本憲法史叢書・植原悦二郎集』信山社刊に所収) ---------------------------------------------------------------------------- 平成18年6月21日 清澤洌⑥ 清澤洌の自由主義 「近頃の若者は勝手でいけない。自由を履き違えている」と世間の人々は言うが、もともと自 由という言葉は気儘で勝手という悪い意味なのだから、いちがいに履き違えだと言い捨てるわ けにもいかない。例えば徒然草にもこう書いてある。「盛親僧都は世を軽く思ひたるくせものに て、よろず自由にして、人に従ふといふことなし。」 ◇ ◇ 明治初期に、日本には無かった西洋の概念がたくさん入ってきた。だから新しい翻訳語を作 った。「社会」「恋愛」「哲学」等々は新造の日本語である。 ところが、ミルの訳者がリバティーという単語に対して「自由」といういやな言葉を当てはめ た。そのことを福沢諭吉は次のように批判している。 「リバティーを自由と翻訳したのでは本来の意味を正しく伝えてはいない。自由という言葉は 我儘放蕩で国法をも怖れぬという意味だから不適切である。 だが、自主、自専、自得、自若、自主宰、任意、寛容、従要等々の文字を使っても原語の意 味を伝えることはできない。」 つまり、現在の「自由」という言葉には、勝手という悪い意味と、リバティーという良い意味とが あり、しかもそのリバティーの意味は一語の日本語で言い表せない。右に列記した言葉の全て の意味をもっているということになる。 それ故か、自由民主党、自由主義、新自由主義、自由主義史観、…それぞれの自由は似て 非なる意味で使われている。 ◇ ◇ 清澤洌は自由主義(リベラリズム)を標榜していた評論家だが、この場合の「自由」は自由党 とか自由民権運動という類の自由とはニュアンスが違う。 清澤は、「自分の自由主義は何らかの政治的立場のことではない。心の姿勢(フレーム・オ ブ・マインド)のことである」と繰り返し述べている。彼はそれがどういう姿勢なのかを何度も書 いているが、「我が子に与う」での説明がいちばん簡にして要を得ている。 「お前にお願いがある。…相手の立場に対して寛大な大人になっておくれ。…学理や思想を 決して頭から断定しない心構えをもってくれ。…お前は一生の事業として真理と道理の味方に なっておくれ。道理と感情が衝突した場合には躊躇なく道理につく気持を養っておくれ。」 こういう精神をリベラルという。リベラリスト清澤は、右翼と左翼の両方から責められた。英米 嫌いの右翼からは非国民呼ばわりされ、マルクス主義者たちからは「非学問的だ」「時代遅れ の自由主義だ」といって批判されたのである。 清澤は、英国の哲学者バートランド・ラッセルや米国の哲学者ジョン・デューイの社会哲学を 旨として、自らの自由論を展開していた。リベラルな精神とは無縁の左右の思想家たちがラッ セルやデューイの哲学を咀嚼する筈もなく、的外れな批判を繰り返していたのである。 今となれば、まともだったのは清澤の方だった。 ---------------------------------------------------------------------------- 平成18年7月22日 清澤洌⑦ 清澤洌の社会思想 映画『誰がために鐘は鳴る』の美男美女ゲリー・クーパーとイングリット・バーグマンの愛は素 敵だ。舞台背景がじつにいい。二人はスペインの内戦でファシズムと闘う人民戦線の勇士だか ら、観客は、二人の強い使命感と極限状態での愛に感動を覚えるのである。 恋物語は創りごとだが、右翼と左翼が壮絶に闘ったスペイン内戦は実話で、小説家ヘミング ウェイはそれを舞台に『誰がために鐘は鳴る』を書いた。 ◇ ◇ 話は替わって日本のこと。 昭和初期の首相たちは、全員が暗殺されるかその未遂、あるいは暗殺計画の対象にされ た。 浜口雄幸(昭五・重傷) 若槻礼次郎(昭六・予備) 犬養毅(昭七・既遂) 斉藤実(昭十一・既遂) 岡田啓介(昭十一・未遂) これらの人々は昭和初期に首相にのぼりつめたのだから、大正政界の成功者たちである。 その彼らがこういう悲劇に遭ったのは、大正デモクラシーの政治体制を一掃しようという世間 の風潮の表れに他ならない。 大正デモクラシー運動は藩閥政治への反対運動であった。運動が成就して、大正末期には 衆議院の優位、議院内閣制、普通選挙法が実現し、西欧的な政治体制がほぼ実現しかけて いた。 ところが、ようやくこうなった頃に国内外の情勢が変わってしまっていた。ロシア革命によって 共産主義国が誕生した。中国や朝鮮ではナショナリズムに目覚めた抗日運動が起こった。 それとあいまって、日本にも今までの藩閥批判勢力よりも過激な左翼勢力(社会主義・共産 主義)が勃興したのである。 これらに国民大衆が感覚的に反作用して、右翼の国粋論を支持し軍の中国侵略を喝采し た。大衆社会のこの気運で大正デモクラシーはいっきに崩壊した。 清澤洌は大正七年に帰国し、そういう歴史の転換期の渦中で評論活動を展開したのであ る。清澤は右翼や軍の対米認識・外交策を強く批判していたが、彼は左翼だったわけではな い。 彼はスペイン内戦に関する論説で「右翼、左翼双方の理想がいくら高くても、どちらにも加担 する気持ちは起こらない」と述べている。なぜならば、「互いに自分たちの理想の為に相手を殲 滅しようとする。いつ来るのか、本当に来るのかどうかも分からない理想社会の為だと言いな がら、今生きている人間を抑圧し抹殺するのは間違いだ。」それに「極左勢力が強くなれば、 極右勢力が支持を得て極右ファッショ政権が生まれる。」 こういう考えの清澤は、右翼に対してだけでなく暴力革命を唱える左翼への批判者でもあっ た。また、彼をいちばん批判したのは左翼思想家たちだった。 清澤は社会主義の必要を言ったが、これは英国自由党・労働党的な社会施策で、当時の英 国新自由主義のことであり、マルクス主義とは全く別物である。(この新自由主義は、貧富の 格差是正に努める福祉国家策で、現政府の新自由主義と名称は同じでも内容は正反対であ る。) --------------------------------------------------------------------------- 平成18年8月22日 清澤洌⑧ 清澤洌のアメリカ観 ひと頃のマスコミはホリエモンや村上某をセレブリティー(名士)だと讃えていた。息子だと持 ち上げた政治家もいた。日銀総裁も「支援」していた。 高名なドイツの思想家マックス・ウェーバーは、こういう手合いを賤民と呼んで軽蔑した。働き もせずに金を転がすだけで暴利をむさぼるやり方を、道義も品格もない賤民資本主義であると 批判したのである。 ◇ ◇ 元長野県教育委員長の笠原貞行氏は、清澤洌の兄が婿入りした笠原家の新宅(分家)の生 まれである。東京で学生生活を送っていた笠原氏は、日米戦の最中に清澤の身近にいた。清 澤は言った。「新宅の息子ゃ、この戦争は日本が必ず負けるよ。」 日米間の工業力や経済力の圧倒的な差を考えて、日本の敗戦を予想した人たちはいくらで もいた。真珠湾奇襲を計画し敢行した山本五十六元帥でさえそう判断していたという。 ところが、清澤が説明した理由はそれとは違っていた。
ている。マックス・ウェーバーは次のように説いた。 ◇ ◇ 社会の気風が低劣で、利益本位の資本家と賃金奴隷のような国民だけの専制政治の国に は、まともな資本主義が育たないことは歴史が証明している。 健全な資本主義は健全な気風の社会だけに育った。健全な気風とは、労働を尊び、節制倹 約に努め、公共のために尽くす等々の宗教的気風のことである。 アメリカは信仰心のあついピューリタン(清教徒)たちが創った国である。建国の父祖の一人 ベンジャミン・フランクリンの自伝にみられる数々の徳性、とりわけ、勤労の精神、節制節約の 習慣、自律の精神は、アメリカでは有識者だけでなく農民や労働者の特性でもある。 それぞれの人々はそれぞれの職業を、神の召命、神に捧げる天職として勤勉に誠実に励 む。 (『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1920年) ◇ ◇ 清澤は「神に近い生活をなし得る農民になるか、キリスト教の伝道師になるか」と志して渡米 したが、彼にとって二者は同じものだった。伝道師も農民も神に仕える天職(Beruf)としては同 等だからである。 この天職という観念はルターの教えである。当時のアメリカにはこういう高尚な気風がまだ残 っていた。清澤はその事実を笠原氏に語ったのである。 (註、今のアメリカは当時とは全く異質な賤民資本主義の国になってしまった。ホリエモンたち はそういうアメリカへの盲従経済政策が生んだ賤民である) ----------------------------------------------------------------------------- 平成18年9月22日 清澤洌⑨ 地の塩、世の光 「アーメンはゴーメンだ。」清澤洌は村の悪童たちにからかわれた。小学校を卒業して研成義 塾へ通っていた頃のことである。(明治三六年~三九年) 研成義塾は、無教会派キリスト教信者の井口喜源治が安曇野穂高で経営した私塾である。 当時は耶蘇教と呼ばれ敬遠されたキリスト教主義の塾だったので、生徒は必ずしも積極的な 動機で入学したわけではない。鉄道の開通前で、松本中学への通学が困難だった安曇野の 中等教育機関はここしかなかったのである。彼は述懐している。 「この研成義塾には先生が一人しかいない。七つの学年にわたる生徒を一人で教え、地理も 歴史も代数も英語も一人で教える。…壁は砂土である。屋根は板屋である。天井はない。…」 「…春になるとよく聖書と賛美歌を持って万水という水足ののろい川のほとりに行って、若草 の上に腰をかけて井口先生の話を聞いたことを思い出す…。 …ピアノやオルガンで習得したのではない賛美歌は間のびがしていて、正式のものとは余程 違ったものになっている…。」 先生の賛美歌には閉口した清澤だが、教えには深く魂を動かされた。塾を訪れた内村鑑三 や山室軍平らの人格にも学んだ。 ある日、清澤少年は有名なキリスト教指導者・山室軍平の講話を聴いて感涙にむせんだ。 「僕らはその熱弁に感涙が出てどうにも止められなかった。それ以来、僕は一貫して山室氏の 支持者であり、かつてその人格を疑ったことはない。」 井口先生は、立身出世を目ざさず善き人を目ざせと説いた。 「少年の心は大臣・大将・博士を描く夢のような野心に燃える。他方、先生の教える宗教は、そ うした地上の栄達は野花にしかぬソロモンの栄華のごときものだという。僕はそのころ深い煩 悶に落ちたものであった。 その後、僕は自ら固く決意して、神に近い生活をなし得る農民になるか、キリスト教の伝道師 になるかの一つを目がけてアメリカに渡った。」 清澤のこの志がルターの天職という精神であることは、先月のこの欄で説明したとおりだが、 アメリカのピューリタンは天職の精神に徹して生活した。 このピューリタンの精神は日本の武士道の精神との類似点が多い。旧藩士の内村鑑三や新 渡戸稲造がピューリタニズムに傾倒したことや、井口喜源治が武士道的キリスト者と言われた ことも、故なきことではない。 ◇ ◇ 現実にうとい者の理想主義は現実の嵐に吹き飛ばされるが、逆に、理想なき現実主義は現 実の波に振り回され迷走する。 清澤洌の評論は常に現実的で具体的だったが、彼の現実主義はその奥に高い理想主義が 宿っており、現実に押し流されないバック・ボーンがあった。それは、この世が腐るのを防ぐ為 に尽力する「地の塩」としての生き方である。「幸いなるかな、義の為に責められし者。汝らは 地の塩なり。世の光なり。」 聖書のこの教えを、清澤は少年の日に研成義塾で学んだ。 ---------------------------------------------------------------------------- 平成18年10月24日 清澤洌⑩ 満州某重大事件の顛末 たちの悪い相手を批判するとやぶ蛇を招く。本筋とは無関係な秘書の不祥事だの少額の贈 収賄だのという類のやぶ蛇に噛まれて、批判した側は失脚し、された側の方が生き残る。虎の 尾を踏むには度胸がいる。 清澤洌が筆禍事件で新聞社を退社するはめに陥ったのは、論説「甘粕と大杉の対話」の思 想内容を右翼から攻撃されたからである。しかし、どうやらこの攻撃はもっと困った問題を隠す ためのカモフラージュだったようだ。彼が踏んだ本当の虎の尾は同じ著書に掲載した「張作霖 の最後」かもしれないのだ。 昭和三年に満州で張作霖が列車ごと爆殺された。軍は「満州某重大事件」だ、犯人は阿片 中毒の中国人だと発表した。 事件の報告を受けた天皇(大元帥!)は、陸軍が犯人だろうからと田中義一首相に軍紀粛 正と犯人の厳重処罰を指示した。 けれども、元陸軍大将の田中は何も処置せず一年間も放置しておいたので天皇を怒らせ た。「辞任したらどうか」とまで言われて田中内閣は崩壊し、彼は急死した。自殺との噂もあ る。 じつは、この重大事件は軍首脳も関わっていた組織的な謀略だった。清澤は取り寄せて定 期購読していた外国の新聞や雑誌で事件の一部始終を知って、大胆にも陸軍の犯行だと書い た。 当時、軍が犯人だと指摘したのは清澤洌だけである。大きな虎の尾を踏んだものだ。 ◇ ◇ この張作霖爆殺事件はその後の政治史に大きく影響した。
明治の陸軍大将・児玉源太郎は、日露戦争後に元勲・伊藤博文にこう叱責された。
体制をワシントン体制という。 清澤は政友会総裁田中義一がこの体制の反対者であることをかねてから批判していた。案 の定、昭和二年に生まれた田中内閣は日本単独で中国を軍事支配する露骨な政策をたて た。ワシントン体制からの離脱である。 そして、その政策案どおりに中国に対する武力介入を始めた。張作霖の爆殺はその流れの 中の一事件だったのである。 清澤は伊藤博文のような認識を基本とし、ワシントン体制下での日本の立場と外交のありよ うを説いていた、国際協調論者で国益論者だったのである。 ---------------------------------------------------------------------------- 平成18年11月23日 清澤洌⑪ 清澤洌の真価 人に毀誉褒貶はつきものだが清澤洌ほどそれがはなはだしい人物も珍しい。没後に発刊さ れた『暗黒日記』という書名のせいであろうが、彼を反戦平和イデオロギーだけの人、あるい は、反体制的な評論家だったと思っている人も多いようだ。 じっさいの彼は過激なことや狂信的なことが大嫌いな醒めた人間で、真の国益を考えて現実 的な政策を提言していた穏健な外交評論家だったのである。 だが彼は、昭和十六年二月、内閣情報局によって評論活動を封じられた。封じたのは東條 内閣ではなく近衛内閣である。清澤の外交論(対外政策論)は、近衛文麿のそれとは根本的に 相容れなかったからである。 近衛は対中認識や対米認識を誤っていた。中国は彼が考えたような「一撃すればすぐに敗 ける」国ではなかった。米国は、国際協調体制に背いて中国を侵攻中の日本と妥協するような 国ではなかったのに、彼は対米交渉が可能だと錯覚していた。 それに比べれば、清澤の対米認識はまったく醒めていた。日本は国際協調体制に反する中 国侵略をやめなければ国際的に孤立するし、日米間の軋轢も解決しないことが分かっていた のである。 今だと当然のような清澤の考えだが、当時の日本ではきわめて少数の異端説だった。 当時は誰もが、朝鮮や満州は日本の生存のために必要な属国であり、日本の領土のようなも のだ感じていたのである。 国際協調派・親米派の中核的存在だったあの新渡戸稲造でさえ、日本の満州占領が日米関 係の根幹を危うくするとは考えもしなかった。彼は、「よく説明すればアメリカは必ず日本の満 州占領を理解するはずだ」という幻想を抱いてのアメリカ講演行脚中に客死した。 そのことを考えあわせると清澤の的確な対米認識は特筆に値する。同時代を生きた政治評 論家・馬場恒吾(戦後は読売新聞社長)が戦後に述懐している。「戦前戦中に正確な対米認識 を持っていたのは清澤洌ただ一人だけだった。」 北岡伸一教授(東大)は清澤の真価を次のように説明している。「清澤の外交評論は今日ほ とんど忘れられているが、彼の言説を当時の国際関係と世論の文脈の中に置いてみなければ 清澤を論じることはできない。 満州事変以後の日米関係は直線的に破局に向かったのではなく、複雑で曲折に満ちてい る。この間の清澤の論説は極めて洞察に富んだものであり、日米関係の重要なターニング・ポ イントの全てについてその意味と帰結とを明確に指摘していた。」右のことを詳細に説明してい るのが北岡教授の『清澤洌』(中公新書)である。 蛇足ながら、当時の国際情勢とそれに対する日本政府の相次ぐ失政の経過を詳しく説明し ている入江昭『太平洋戦争の起源』(東大出版会)と併せて読めばいっそう分かりやすい。某漫 画家が巷間に広めた近頃の傲慢な戦争史観がいかにでたらめであるかもよく分かるであろ う。 --------------------------------------------------------------------------- 平成18年12月25日 清澤洌⑫ 『暗黒日記』の今日的意義 アメリカに留学して反米家になった人がたくさんいる。東京裁判や戦後憲法を批判する保守 派の江藤淳や西部邁、革新派の都留重人やべ平連の小田実等々は、留学中によほどの屈 辱感を味わされたのだろう。松岡洋右はそれがもとで日本破滅への外交を行った。(松岡につ いては三輪公忠著『松岡洋右』が詳しい。著者は松中・松高出身) 「清澤洌は労働移民だったから舐めた辛酸は留学生の比ではなかった筈ですが、反米家に ならずに冷静でいられたのはなぜでしょうか?」小生の問いに笠原貞行氏が答えた。「清沢お じさんはのんきというか、どうでもいいことにカリカリしないおおらかな人だったのです。『暗黒日 記』のきつい表現とは別のおおらかで優しい人柄でした。見識と平衡感覚が豊かで、筋の通っ た話を聞くたびに私は気持ちがよくなったものです。」 また、意外に思う人がいるかもしれないが、清澤は吉田茂とも昵懇の間柄だった。清澤が書 いた『外政家としての大久保利通』を吉田が高く評価し謝意を表したのがきっかけである。吉田 は清澤の没後も遺族に丁重な礼を尽くしていた。(吉田の妻は大久保利通の孫である。)だか ら、清澤が戦後まで生きていれば、戦後派知識人たちは彼をオールド・リベラリストなどと批判 したかもしれない。 こういうことを知った上で『暗黒日記』を読むと、読み方も変わってくる。そもそも、この日記は 戦争終了のあかつきに歴史書を書く為の資料として記録した『戦争日記』であった。彼は終戦 の三ヶ月前に急逝したので予定の歴史書は書かれずに終わったが、この資料を基にしてどう いう史観の歴史書を書くつもりだったのかということは、歴史認識の問題かまびすしい昨今ひと きわ興味ぶかい。 『暗黒日記』の編者・橋川文三は次のように述べている。 「清澤は当時の政治指導者たちに対して忌憚のない批判を続けて倦むことがなかった。しか し、一見冷然と日本を批判するかのような姿勢の根底にあったのは国士といってもよいほどの 烈々たる愛国者の気概である。『ああ天よ、日本に幸いせよ。日本を偉大ならしめよ。皇室を 無窮ならしめよ。余は祖国を愛す』という言葉は彼の真情である。…現在この日記を読み直し て胸をつかれることの一つは、『敗戦によって日本国民はもっと賢明になれるであろうか』とい う清澤の憂慮である。彼はむしろ敗戦を経験しても、なお日本人は真に覚醒することはないの ではないかという疑念を抱いていたとさえ思われる。 この日記は日本人の権威主義、形式主義、あきらめ、感情中心等々の欠点を指摘し、日本 の再生を熱烈に希求した愛国者の記述であるだけに、自己批判の模範として現代の我々に 生々しく迫る。自分が、国民が、国家が、戦後にどの程度成長をとげたか、もしくは元の木阿 弥であるかを省察する多くの手がかりが示されている。」(ちくま学芸文庫版『暗黒日記』解題) ----------------------------------------------------------------------------- 清澤洌○ 犬養毅の晩節 五・一五事件で殺された犬養毅は筋をとおした立派な政治家だった、と誰もが思っている。 ところが、清澤洌は後年の犬養毅が大嫌いだった。犬養がまだ存命で活躍中だというのに、 「犬養を葬る辞」という過激な新聞コラムを書いた。 「朝起きて自分の使おうとした歯ブラシがもう濡れていたような不愉快な気持ちだ。」 清澤が 犬養に対してこういう嫌悪感を抱いたのは、少数野党の党首犬養が長年の政敵だった政友会 に寝返ったからである。 「犬養は憲政を擁護し、金権を排して、少数政党ながら純理と主義のために年来の政友とも 袂を分かってきたのに…。人間だ、大臣になったら気がゆるんだ。政権の柔らかい手が完全 に彼を魔し去った。…われらはこういう私情に屈しない彼に公人としての尊敬を払ってきたの に今やそれが裏切られた。」 犬養に対する清澤の洞察は的確だった。やがて政友会党首になった犬養は相手政党から 政権を奪うために軍と結託したのである。軍を治める権限を統帥権というが、犬養や鳩山一郎 は、「浜口内閣が軍縮条約を結ぶのは、統帥権干犯(違反)だ、憲法違反だ」と主張した。 憲法学者の美濃部達吉は、「何ら違憲ではない。鳩山や犬養の憲法解釈の方が間違いだ」 と批判した。(美濃部のこの批判は後に彼が天皇機関説事件で逐われる原因の一つになっ た。) 軍が始めた満州事変や支那事変は、天皇が知らぬ間にやったことだから、軍は天皇の統帥 権を侵したのである。軍の方が統帥権干犯をやったのだ。軍はこのように統帥権規定を誤用 し悪用して日本を戦争禍に陥れたが最初に政治的悪用をしてみせたのは犬養毅だったのであ る。 陸軍省や海軍省の首脳たちさえ軍縮条約に賛成していたのに、野党の犬養や鳩山らは海軍 内の軍拡派と共謀してこの条約に反対した。テロで重傷を負った浜口首相を連日深夜まで国 会で責め続けて死に至らしめた。 やがて首相になった犬養は極右の荒木中将を陸相に据えた。犬養内閣は始めから軍強硬 派との連携内閣だったのである。 清澤はその荒木を次のように公然と酷評した。「謙遜ということを知らない荒木が盛んにしゃ べる皇道精神とアジア精神、東洋の盟主等が外国で紹介され日本への恐怖を生んでいる。ム ソリーニでさえ、日本人は不思議な論理をもてあそぶ国民でインチキ臭い、と言っている。」 ◇ ◇ 犬養毅は議会政治を守ろうとしたので殺されたというのは事実に反する俗説である。 彼は統帥権干犯問題を政争の具として軍の政治支配をもたらし、議会政治の墓穴を掘ったの である。 しかも、彼がやったのは軍縮条約反対演説、つまり国際協調体制反対の意思表示である。 結果的に彼は軍を煽り、国際情勢を知らぬ国民の好戦気分を煽って、日本が国際的孤立の 道を辿る地ならしをしたのである。 「犬養は策士森恪幹事長に曳きずられて晩節を汚した。」松本清張の厳しい評価である。 ---------------------------------------------------------------------------- 清澤洌○ 清澤洌と松岡洋右 国際連盟総会で満州事変を責められた松岡洋右は、「世界は義人日本を十字架に架けるの か」と叫んだ。日本の新聞は「会場が水を打ったようにシーンとなった」と報じたが、実際はハ ハハという哄笑が起きたのだ。 松岡はリットンの調停案を蹴って国際連盟を脱退した。彼は哄笑を浴びながら会場を出た失 敗を恥じて直ぐには帰国せず、しばらく意気消沈していたが、後で国内世論の予想外の喝采を 知って有頂天になった。 清澤洌は帰国した松岡全権に対して、一万字を越える渾身の公開書簡「松岡全権に与う」を 論壇誌『中央公論』に載せた。 ◇ ◇ 国際連盟会議全権の貴方と二十七年前の日露講和会議の小村寿太郎全権とは全く違う。 小村全権は帰国して息子に会った時に、「アッ、お前はまだ生きていたのか」といって息子の 手をとった。彼は講和条件に不服な民衆が日比谷公園で暴動を起こして彼の自宅を取り巻い たことを知りながら、講和を纏めて帰国した。日本が国際的に孤立しないように家族の危険も 覚悟で献身したのだ。彼には大衆迎合の政治では国家百年の計は立たぬという信念があっ た。 それに比べて貴方は国民の絶大な喝采をうけている。だが、国民は複雑微妙な国際関係を 理解できるわけではない。国家百年の計を考える能力はない。 それなのに貴方は、キングモブ(俗論の勢い)に平伏して人気を博している。世論の趨向だ の国民の総意だのといって大衆に迎合し、強硬外交による国際的孤立の責任を国民に転嫁し ているではないか…。 ◇ ◇ 松岡はその後、欧米諸国にとっては蛇蝎のごとき独裁者・侵略者のヒトラーと同盟を結んで 日本を欧米諸国の敵にした。 彼はまた、スターリンと中立条約を結んで南進論(東南アジアへの侵攻)を主張していたの に、いきなり北進論(ソ連への侵攻)を主張した。 このような松岡の強硬外交策と迷走ぶりは、天皇をして「松岡は頭がおかしいのではないか」 と言わしめたほどである。近年では、司馬遼太郎が「松岡洋右は医者(精神科医)の研究課題 のような人だ」と評している。 ◇ ◇ 松岡については松中・松高出身の三輪公忠教授の著作『松岡洋右』(中公新書)が詳しい。 同著によれば、松岡は十三歳で単身渡米し人種差別の中で屈辱的な生活をしながら無名大 学の夜間部を卒業した。彼の屈折した感情や出世欲・名誉欲はこういう不幸な育ちが原因で ある。 だとすると、松岡洋右と清澤洌の前半の人生はじつによく似ている。けれども、後半の二人 の生き方は全く次元が違う。 清澤は安曇野穂高・研成義塾の恩師の一周忌の席で語った。 「私は井口喜源治先生から、世の中には金や地位や名誉よりも大切なものがあることを学び ました。それは信念です。私は自己一身の不利は承知のうえで、愛する国家の為に正しいと思 うことを主張しているのです。」 ---------------------------------------------------------------------------- 清澤洌○ 「第三党の出現」 今も昔も日本の政治評論家たちは政策についての解説や論評はせずに、政治家の人間関 係や人事を得意げに語る。政界の内情に詳しいだけで、政治哲学や社会思想に造詣が深い とは思えない。 清澤は政治評論家だったが、あえて外交評論家と自称していたのは、自分をこういう凡百の 政治評論家たちと区別する為だったのであろう。清澤の論説「第三党の出現」は、彼が学者な みの政治哲学や社会哲学を持っていたことを思わせる。 ◇ ◇ 昭和九年に軍が国民に対する宣伝のために『国防の本義と其の強化の提言』という冊子を 発行した。俗に陸軍パンフレットと呼ばれたこの冊子は、「戦いは創造の父、文化の母」で始ま り、個人主義、自由主義、国際主義を排して挙国一致の精神を持つことが国防だというもので ある。つまり、ヒトラーばりの国家社会主義の提唱である。 憲法学者・美濃部達吉はこれを次のように痛罵した。 「国際主義の放棄は世界を敵にする。世界を敵にしてどうして日本が存立できるというのか。 陸軍が排除しようとしている国際主義、個人主義、自由主義は明治維新以来の国是であり、 我が国の進歩発展の基だった。個人主義・自由主義こそ、創造の父であり文化の母であ る。」 ◇ ◇ 美濃部達吉が天皇機関説事件で葬られたのは、この批判が主な原因だが、清澤による批判 はもっと根本的かつ痛烈である。 「このパンフレットは経済機構や農民の貧困救済についてなどあらゆることについての政策 が盛り込まれている。これは強力な第三党の出現という以外にない。しかもこれはおそろしく左 翼主義的な公式論である。」 痛いところを衝いている。このパンフレットの執筆者はマルクス経済学に精通した統制経済 論者の池田純友少佐だった。 『プラウダ』はソ連共産党の機関紙だが、当時、アメリカのジョン・ガンサーは、「この陸軍パ ンフレットは『プラウダ』の論説によく似ている。どの国でも陸軍は保守派の牙城だが、日本で は革新派であることに注意すべきだ」と指摘している。 清澤がガンサーを読んでいたかどうかは定かでないが、社会主義勢力がやがて軍に期待し 同調するだろうと論説に書いた。 この予測はその後あまりにも見事に的中した。社会大衆党の浅沼稲次郎らは憲法蹂躙の国 家総動員法に大賛成し、西尾末広は国会で提案者・近衛文麿に対して、「ヒトラーの如く、ムッ ソリーニの如く、スターリンの如く確信に満ちた政治をやるべし」と激励したのである。 清澤は「第三党の出現」の最後を、「考えてみれば政党は愚かであった。政党がこの第三党 に対抗するには同程度の熱意と理論がいる」と締めくくった。 清澤は、国民の信頼や期待が軍に向かってしまったことを嘆いたのである。保守的な二大政 党が、国民の経済的困窮に対する解決策も考えずに、過大な軍事予算を許し、政権闘争に明 け暮れていたからである。 ----------------------------------------------------------------------------- 清澤洌○ 目的不明の日中戦争 小泉元総理は脈絡のつかぬことをよく言った。「心ならずも戦争に行き、国のために犠牲とな られた英霊に…」もその例である。国民は心ならずもという気持ちで戦争に行ったのではない。 みな、真剣にお国の為だ、聖戦だと信じて逝ったのだ。 それなのに、政府は終戦後に「国の為にならなかった。一億総懺悔しろ」と言った。 では何の為の戦争だったというのだ。 何のための戦争なのか、じつは政府だってよく分かってはいなかった。国会で斉藤隆夫議員 が次のように質問した。 「中国との戦争をもう三年も続けている。正義だ聖戦だといいながら、いったい、いつまで戦争 を続けるつもりなのか。どうやって終わらすつもりなのか。 しかも、政府はたとえ戦争に勝っても領土も賠償金も求めないし中国の主権は認めると宣言 しているではないか。それなら何の為に戦争しているのか。」 この質問に誰も答えられない。質問者を除名して幕を閉じた。 答えられないわけだ。政府は戦争と言わずに日支事変だと言っていた。すぐに片がつくと思 っていたのだ。それに、戦争だなんぞと宣言すれば、
だから、戦争ではなく事変だと言い繕った。戦争ではないのだから、たとえ勝っても領土や賠償 金は取れないのである。 その上、近衛首相が「蒋介石政権を相手にせず」と宣言したから停戦交渉の相手がなくなっ た。永遠に戦争し続けなければならなくなってしまったのだ。 ◇ ◇ 喇叭のマークの正露丸は征露丸という名で日露戦争の年に発売された。進軍喇叭の征露丸 で露西亜を征するというわけだ。 日露戦争後の日本はロシアの報復に備えねばならなかった。 満州国はその為の戦略拠点として作ったもので、王道楽土や五族協和という「大義」は建国後 に作った表向きの標語である。 当然のことながら中国で不買運動やテロなど抗日活動が生じた。それで日本は侮日抗日の 暴支膺懲だといって侵攻した。 ところが、日清戦争の時と違って中国はなかなか負けない。戦争は泥沼化した。日本はナシ ョナリズムに目覚めた中国をなめすぎていたのである。 ◇ ◇ 日中開戦の前年に雑誌『中央公論』が、識者に「日中は妥協できるか」とアンケートした。 清澤洌の返答は次のとおり。
今日からみれば、清澤の返答はことごとく的確だった。 --------------------------------------------------------------------------- 清澤洌○ 人気政治家の思想と「業績」 極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「アメリカと戦争するつもりはなかった」と弁明した被告た ちは嘘を言ったわけではない。ムシのいい本音を言ったまでである。日中事変がアメリカ相手 の「大東亜戦争」に発展するとは思っていなかったのだ。 日中開戦当時の首相だった近衛文麿は、戦後になって「自分は日中事変についての責任は あるが、対米戦争についての責任はない」と言って自殺した。 なるほど対米戦争を始めたのは東條内閣だった。しかし、対中・対米認識を誤って日米開戦 に至らしめたのは近衛である。 彼は、死傷者がいたわけでもない廬溝橋での事件を日中戦争にまで拡大した。じつは、参謀 本部はこの事件を拡大しない方針だった。だから、事件発生の四日後には現地の日中両軍間 で停戦協定が結ばれて、両軍は後退し始めていたのである。 近衛はその事実を知った日の夜に、大量派兵と巨額予算を記者会見で発表した。つまり、日 中戦争は近衛が先導して拡大させたのであって、陸軍の独断専行による満州事変とは違う。 更にその上、蒋介石政権を無視するとの声明を発して停戦交渉の相手を失くし、終わりの無 い戦争にした。諏訪出身の政治家・小川平吉が近衛からじかに聞いている。「声明発表に反対 して講和を唱える参謀本部を、威嚇して黙らせた。」 近衛はその後、憲法無視の国家総動員法を作り、また、大政翼賛会を作って議会政治を封 じた。ヒトラー、ムッソリーニとの三国同盟を結んで英米を敵に廻し、昭和十六年七月には南部 仏印(サイゴン)に侵攻した。その結果ABCD(英米中欄)から経済封鎖された。ムシがよすぎ たのである。 彼のやったこととやり方をみれば、「近衛は優柔不断で軍のロボットだった」という世評は虚 像である。戦後の彼の自己弁護と責任転嫁の手記『平和への努力』の遁辞に騙されている。 ◇ ◇ そもそも近衛文麿は当時の国際協調体制に反対で、「英米中心の平和主義を排す」という思 想の持ち主だった。「国際協調体制は植民地や資源を持っている英米の現状維持の為の体 制だから、持たざる国・日本はそれを打破して東亜新秩序を作るのだ。」「満州事変、日中事 変、大東亜戦争は日本の辿る必然の運命である」と書いている。 近衛は当時の人気政治家だったが、清澤は近衛が政権に就く前年(昭和十一年)に次のよ うに痛烈に近衛を批判していた。 「歯に衣着せず評すれば、近衛公(爵)の議論は他国人には納得できない。日本は人口が多 いのに領土が少ないと近衛公はいうが、そういう国は他にもいっぱいある。日本だけが生きて 他国はその犠牲になってもよいという話は他国には通じない。 戦争は経済問題だけで起こるものではない。国民に対して他国への敵愾心を煽る近衛公の 思想は世界の平和を危うくする。 …国家間は戦争するより握手する方が得策だ。外交による解決を考えるべきなのである。 …」 ---------------------------------------------------------------------------- 清澤洌○ 「三選ルーズベルトの肚」 清澤洌は満州事変直後の昭和七年に、著書『アメリカは日本と戦わず』を上梓した。 当時、日本の新聞はリットン調査団の調停案を「リットン卿はスットン狂」などという感情的な表 現で批判していた。 こういう反英米的な風潮を危惧し、アメリカ側には領土欲も戦意もないことを説明して、日本 の自重を促したのが『アメリカは日本と戦わず』である。 「…アメリカは中国に対するイギリスのような権益を持っていないから、自由な立場で原則論 を宣言しているのである。 日本ではアメリカが日本に戦争を挑むとの風説があるが、アメリカは国民の支持と議会の裁 決がなければ開戦できない国である。アメリカは遠い日本に軍を送って戦っても実益がないか ら、日本が国際秩序に則って理知的な外交をしているかぎり、アメリカから先に日本を攻めてく ることはありえない。…」 ところが、その後の日本は自重どころか暴走した。リットンの調停案を蹴って国際連盟を脱 退し、国際協調路線に背を向けて中国へ侵攻し、無類の侵略国ナチス・ドイツと同盟を結び、 フランス領インドシナ(現ベトナム)へ進駐した。 英米の新聞には南京や重慶に対する日本軍の無差別爆撃や兵士の残虐行為が写真入りで 掲載された。アメリカの読者たちは日本に対して憎悪と敵意をいだき、ナチスドイツに対すると 同じ不信感と危惧感をいだいた。 清澤にしてみれば、事ここに至れば行く先は見えている。彼は今後のアメリカの出方を予測 した論説「三選ルーズベルトの肚」を発表した。 「…誰からみても三国同盟の仮想敵国は米国である。ルーズベルト大統領は、このことを選挙 戦で強調して圧倒的多数で三選された。したがって、今後のルーズベルトは国民の強い支持 のもとに次のような対日政策を進めるであろう。…」(雑誌『改造』昭和十五年十二月号) こういって清澤は幾つかの強硬的な対日政策を予想して列挙したが、ルーズベルトは全くそ のとおりのことをやった。 ①アメリカの日本資産を凍結し、鉄、石油の対日輸出を止めた。(アメリカによる経済封鎖は 日本が招いたことなのである。) ②蒋介石に戦闘機やパイロット等を与え軍事支援を強めた。 ③フィリピンに極東アメリカ陸軍を創設した。英国、中国、オランダ、オーストラリア と組んで対日防衛策(いわゆるABCDライン)を講じた。 ◇ ◇ 清澤はこの論説を発表した直後に内閣情報局から雑誌への論説掲載を禁止された。政府は アメリカ通の国益論者・清澤の言論活動を封じたのである。 アメリカでは日米開戦と同時に大学に日本研究科を増設して大勢の日本専門家を育成し た。 逆に、日本ではアメリカ通を排除した。ルーズベルトの対日政策を正確に見透かすほどの洞 察力を持っていた清澤が、政府の政策ブレーンやシンクタンクの一員とされなかったことは、 日本にとっての不幸であった。 ------------------------------------------------------------------------ 清澤洌○ インパール戦・大東亜戦争 日本は占領したビルマ(現ミャンマー)を経て、インドのインパールに侵攻した。清澤洌は日 記に「インド作戦は悲しむべき悲惨を生ずるは明瞭だ。インパールをとってどうするのだ。戦線 は釘付けになる。犠牲は非常に多くなろう」と書いた。そのとおりになってしまった。 兵隊は強力並の重い荷物を背負わされて国境の山を越え、英軍の重火器相手に死闘した。 食料補給は無く、栄養失調でマラリヤやアメーバー赤痢にかかった。血便をしたたらせながら 敗走し、熱帯豪雨の中で泥濘に倒れ息絶えた。蛆の群がる屍累々の道は白骨街道とよばれ た。 司令部は三万七千名以上が戦死した後に撤退を決めた。 川辺司令官が戦後に弁解している。「余は自分に言い聞かせた。この作戦にはインドの運命 がかかっている。チャンドラ・ボーズと心中するのだ…」 チャンドラ・ボーズは、中村屋のビハリ・ボーズが日本でしてきたインド解放運動を引き継い だ人物である。東條英機にインド侵攻作戦を工作した。 中村屋にビハリ・ボーズを預けたのは右翼の頭山満だが、清澤洌は頭山を「愛国心の名の もとに最も罪悪を行った」「ゴロツキ」で、「日本人の弱点を代表している」と酷評している。 清澤のいう「日本人の弱点」とは、心の底にあって折りにふれては噴き出す攘夷感情のこと である。当時は幕末期の攘夷論とは違って、「米英をアジアから駆逐する」という大東亜イデオ ロギーとして噴き出した。 対米戦争はアジア諸国を開放する大東亜戦争だというのは、開戦後にきめた自己欺瞞の標 語である。日米開戦の詔勅では自存自衛の為の戦争の筈だった。 ところで、インドの独立は大東亜イデオロギーや日本とボーズの軍事力(暴力)に拠ってでは なく、ガンジーらが非暴力の闘争と交渉で獲得した。イギリスは徐々に植民地から撤退してい たからである。ボーア戦争で植民地維持の困難と不利を覚ったイギリスでは、一九〇六年の 選挙で「小英国主義」を掲げるホイック派自由党が大勝し、それ以後の国策だったのである。 清澤洌の外交論はそういう事情を熟知の上でのものである。 ◇ ◇ 林房雄の『大東亜戦争肯定論』は対米戦争を正当化する人たちの論的根拠になっている が、この論を法哲学者・長尾龍一教授は次のように透視している。 「一見巨視的・大局的にみえる議論だが、ソ連の宣伝に踊った後に軍国主義の宣伝に踊った 転向者の議論である。米英との戦争は日本の宿命だったと林は論じているが、戦争は宿命で はない。さまざまな誤った政治決断の結果である。林の議論は、中国を隷属化する政策が米 英に阻害されたので作った偽善的な大義「大東亜戦争」を本質と誤解し、それをマルクス主義 に由来する宿命論(歴史的必然性)や独裁論で飾りたてた倒錯した議論である。かようなもの が需用される背景には、現代日本の深刻な自己認識の問題がある。」(『諸君』2002/3.P219) ---------------------------------------------------------------------------- 清澤洌○ 陰謀史観の自己欺瞞 喉元過ぎれば熱さ忘れる。近頃は、あの戦争は日本が正しかったのだ、アメリカに嵌められ たのだとか、コミュンテルン(国際共産主義)の陰謀だという陰謀史観を大臣までもが語る。 ①ルーズベルト陰謀説 米国大統領ルーズベルトはドイツに負けそうなイギリスを助けるために参戦したかった。しか し、孤立主義的なアメリカ世論も議会も参戦を許さない。 そこで、日本に経済封鎖や無理難題のハルノートを突きつけて窮地に追い込み、日本を暴 発させることによって、米国内の世論を参戦に導いたのだ。 東京裁判でインドのパル判事が言ったように、ハルノートみたいな無理難題をつきつけられ れば、ルクセンブルグやモナコのような極小国でさえ刃向かうだろう。日本はルーズベルトにう まく嵌められたのだ。 ②コミュンテルン陰謀説 太平洋戦争が終わってみたらアジアの大部分が共産主義国になっていた。莫大な費用をか け多数の青年を犠牲にして損したのはアメリカで、漁夫の利を得たのはソ連だった。日米共に スターリンの陰謀に嵌ったのだ。 近衛首相のブレーン尾崎秀美は国際共産主義者だった。尾崎は政府の情報をスパイ・ゾル ゲに伝え、ゾルゲはソ連に伝えていた。近衛首相周辺の戦略機密はソ連に筒抜けで、尾崎は 近衛の政策を左右した。だから、近衛はゾルゲ・尾崎の逮捕前日に突然首相の座を降りたの だ。 近衛がやったことは、蒋介石の国民党軍と戦って八路軍(共産軍)を有利にした。また、陸軍 を南方に向けて満州防備を空にし、スターリンの対独戦と満州攻略を有利にしたのである。 ◇ ◇ 陰謀史観は、桶屋が儲かったのは風が吹いたからだと言うにも等しい単純な論じ方をする。 だが、史実の経緯を知れば知る程、戦争は単純な一原因によって発生するものではなく、多 くの要素の錯綜、多くの人間の不見識や錯誤や業による失政の結果であることが分かる。 そういう史実をよく知らないか、あえて無視しているのが陰謀史観であるが、その根底にある のは、自分たちは悪くはなかったという自己弁護と、相手の方が悪かったという責任転嫁、つ まり自己欺瞞である。 例えば、ルーズベルト陰謀説は史実の前後関係や因果関係をすべて逆転させた責任転嫁 論である。経済封鎖は日本の仏印侵攻が招いた結果である。また、日本が一方で平和交渉を 続けながら、他方で奇襲艦隊が出撃していたことは、アメリカ側にしてみれば騙し討ちである。 それに日本がハルノートを受け取ったのは、すでに攻撃艦隊が真珠湾に向けて出発した後だ った。 ルーズベルトが日本の暗号無電を解読した情報を知っていたのは事実だが、奇襲したつもり の開戦だったのに相手の戦略に嵌っていた、などという国辱的なことを声高に強調するのはそ れこそ自虐史観というものだ。 陰謀史観で民族の自尊心を守ろうとしても、その自己欺瞞は他国からは丸見えである。 |