今日のロリババァ
1月2日











 謹賀新年。

 日中は参拝客でごった返していたここも、深夜の二時をまわると、人気は皆無。遠く自動車の排気音が響く限り。僅かに残った線香の香りが、昼の喧騒を思わせては、殊更に夜の静けさを印象付ける。

 暦が変わって一日、元日を今し方に見送って間もない頃合のこと。

 俺は近所の神社まで初詣に来ていた。自宅から徒歩数分の所在だ。

 共連れはない。そもここ数年は年末年始を一人に過ごす身の上、一緒に詣に出かける間柄の友人知人も、今や縁遠くなってしまった。だから、こうしてわざわざ、人気の少ない時間帯を選んでの参拝である。

 今年で三十路を数えるというに、何をやっているのだろうか。

……静かだなぁ


 正門を抜けて、大堂を目指し境内を歩む。

 途中、右手の側に出店の連なりが見られた。もちろん、既に店は終われた後だ。ビニールシートを頭から被せられて、上から縄にぐるぐる巻き。

 明日になればまた賑やかにも客を集めるのだろう。けれど、今この時間においては、酷く物静かで寂しげな風体を晒して思える。

…………


 特に何をするでもなく、そうした光景を眺めつつの散歩。

 石畳の道を進み、十数段からなる緩やかな階段を上る。

 数十メートルばかりを歩めば、すぐに大堂の前まで到着した。

 石から木へと作りが変わる。少しばかり急になった木製の階段を上り、本道正面までやってきた。昼には開かれていたのだろう、本堂正面の大きな観音扉も閉ざされて、今は延々と壁に同じく平坦が続く限り。

 何気ない調子に踵を返せば、今まで歩んできた境内が見渡せる。

 段を上る前より数メートルの上に所在する壇上、見晴らしが良くて、気分も良い。

 そこから眺める光景は、とても閑散としていて、何の動きも無い、時折、風に吹かれて樹木の葉が流れる限りの、極めて物静かなものであった。月の明かりの他、正門の先、遠く雑居ビルの照明が、僅かばかりの光源である。

 都会での生活に慣れた身の上には、目が夜に慣れた今であっても、十分に暗い。

……なんか、出てきそう


 深夜の神社という状況が所以か、自然とそんな下らないことを呟いていた。家を出るまで酒を飲んでいた為もあるだろう。酔い冷ましにしては、この上なく上等な散歩。心地良い気分だった。少なからず調子づいていた。

 だからだろうか――――。

なんかとは、なんだろうなぁ?


 阿呆な俺の言葉に、相槌が添えられたのは。

っ!?


 それを耳として、びくり、両の肩が跳ねた。

 どくん、心臓が痛いほど脈打った。

 俺の何気ない呟きに応じるよう、脇から声が上がったのだ。

なっ……


 まさか、他に人が居るとは思わなかった。何の前触れも無く上がった物音に、全身の筋肉は萎縮して、それまでの穏やかであった心持ちも、途端に緊張する。こんなに驚いたのは久しぶりだ。

 振り返ると、人が一人立っていた。

なんかとは、なんだった?


 届けられたのは、妙に淡々とした問い掛け。

……こ、子供、子供だった


 そこには子供が居た。

 驚きのあまり、阿呆なことを口走ってしまう。

そうか、子供だったか

…………


 今に居るのは、本殿の正面に設けられた階段。これを登った地上より二メートルばかり高い、総木作りの壇上でのこと。太い柱の幾つも並んで、頭上には幾重にも木々を組み上げ作られた屋根の、その下に生まれた影の薄暗がりへ隠れるよう、人の姿があった。

 和服を着た、小学生くらいの女の子だった。

マジかよ……


 足が床から浮いている。ふわふわと地上十数センチのあたり。

 まさかと天井から糸に釣っているのかと、頭上を見上げる。けれど、それらしいものは見つけられない。衣服にも不自然なシワは見られない。かといって、足下に支えを確認することもできない。

しかもお化けだ。幽霊だ。浮かんでる……

そうか。
子供でお化けで幽霊か。
浮かんでいるのか


 俺の言葉を受けて、相手は同じことをオウム返しに口とする。

 語る調子は不気味。声色には抑揚がなく、加えて妙に低い。表情もこれに倣うよう、感情の感じられない無表情なもの。ただ視線はジッと、こちらを見つめて止まない。指先一つ動かさずに、眼差しだけを向けられる。爛々と輝く瞳。

 日本人には有り得ない色白な肌が、暗がりにジットリと浮かび上がる様子は、今に口としたとおり、まるで幽霊のよう。時代錯誤なオカッパと相まり、外見は極めて浮き世離れして思える。

 血液のように鮮やかな朱色の着物。僅かな光の反射から、地紋の存在が思われるものの、周りが暗いのでよく分からない。ところどころに淡い白い花の散らしが窺えた。

 最近に見た映画だと、この手のタイプの幽霊は、穏やかな登場からしばらく、緩急付けて、突発的な奇声と共に襲い掛かってくるのが常だ。凶器は包丁だろうか。和服の下に忍ばせては、何気ない調子に近づき、サクっとやるのだ。

 映画や漫画の見過ぎだろうか。

……なんで浮いてんだよ?


 思わず地で問い掛けてしまう。

 これに相手は、律儀にも言葉を返してくれた。

羨ましいか?

…………


 正直に言えば、割と羨ましい。俺も宙に浮かんでみたい。

……少し


 素直に言えば、浮かべるものなら浮かんでみたい。わずか数十センチでも浮かぶことが出来たのなら、俺の人生も少しはマシになるんじゃなかろうか。改善されるんじゃなかろうか。碌な使い道は浮かばないが、そんな気がする。

そうか、羨ましいのか。
そうか、そうか

わ、悪いかよ?


 冷たい風がひゅうと吹いて、幽霊の長い髪を揺らせる。

 少しばかり長めに切り揃えられた前髪の合間から、大きな瞳が、こちらを覗き見るよう、月明かりに照らされて輝く。

 夜の神社を背景として、この幽霊は、やけに綺麗に映る。

少しだけなら、いいぞ

……なにがだよ?


 相手が言葉を続けた。

浮かばせてやる

え? いいの?


 想定外の提案だった。

いい

本当かよ?

本当だ


 どうやら俺も、少しだけなら浮かんで良いらしい。

 まさか浮かべるとは思わなかったので、少し嬉しくなる。もしかしたら、俺の人生、今日を境に変わるかも知れない。何がどう変わるのかは、想像がつかない。ただ少なくとも、今晩の就寝時刻が少しばかりは後ろ倒しとなるのは、間違いない。

靴を脱げ

こ、これでいいか?


 言われるがまま、靴を脱いで靴下立ちとなる。

 多少汚れるだろうが、気にするべくもない。

 普段ならば絶対にしない。この阿呆も、恐らくは酒のせいだろう。

そのまま、両手を大きく上げろ

分かった……


 両手を大きく頭上に掲げる。

 ポキリ、小気味良い音を立てて、肩の関節が鳴った。

次ぎに両足を、大きく開け

こうか?

そうだ。そのまま大きく仰け反るよう姿勢を作れ

っ、これはちょっと厳しいな……

…………


 指示されるがままに身体を動かす。

 まるで体操でもしているような姿勢だ。

 けれど、これで浮かべるなら安いもんだ。

お、おい、次はどうすればいい?


 都合、視線は数メートル上に位置する屋根の裏側を見つめる形。少女の姿も視界の隅に消えて見えなくなる。切り妻造りに眺める破風板の裏側が俺に見える全て。

 この体勢にどういった意味があるのかは、まさか考えるまい。

 酒に酔っているが所以の振る舞いだ。

 ただ、そうして以後、しばらくを待っても、次なる指令は来なかった。

 数十秒ばかり、音の無い時間が流れた。両手を頭上に掲げて、大きく足を開いたまま、背を仰け反らせた姿勢。日頃の運動不足が祟り、早々のこと限界は訪れる。

 近く限界を感じて、俺は次なる姿勢を催促する。

なぁ、そろそろ辛いから……


 言いかけたところで、膝の裏側を何かに突かれた。

 勢い良く突かれた。

 ドスっと。

 自重を支えるにも不安定な姿勢だ。長くは持たないほど。だから、まさか耐えられる筈が無い。そのまま尻から床板の上へ崩れ落ちた。筋肉はおろか、反射神経までもが劣化した肉体は、満足に受け身さえ取れない。

ってぇっ!

ギャッ


 悲鳴は二つ。

 一つは俺。もう一つは、誰だろう。

 尻から崩れたのが幸い。頭や腰を打つことなく済んだ。

 加えて、何やら柔らかい感触が、尻の下にはある。

……お前、なにやってんだよ


 尻の下には、うつ伏せに倒れる幽霊の姿があった。手を突いた先、着物の柔らかな感触がある。恐らくは、これが今に俺の転倒した理由だろう。

 両手を前に伸ばした姿勢のまま、床板に顔面を付ける形で潰れている。

これは痛いから、すぐに退くといい


 尻の下、相手は潰れた姿勢のまま、淡々と命令してくる。

 表情は知れない。

 仕方がない。尻の痛みに耐えつつ、立ち上がることとした。どうやら俺は、幽霊の背中へとへたり込んでいたらしい。自身の両足で相手の頭部を背面から左右より跨ぐ形だ。

 後頭部がよく見える。

 こちらが立ち上がると、彼女もまたゆっくりと、その場に身体を起こした。

 パンパンと軽い調子で、着物に付着した土埃なぞ払って見せる。かなり入念にパンパンしている。きっと大切な着物なのだろう。袖裏を見たり、裾端までを確認したり。

 仕方ないので、黙ってその様子を眺める。

 淡々と衣服に付いた土埃を払うことしばらく。数十秒の後、相手が満足を見せた頃合を見計らって、俺は言葉を投げかけた。

なんで膝カックンしたんだよ?


 俺が倒れた原因は、間違いなくコイツだ。

 懐かしい感触だった。かれこれ二十数年ぶりか。

……前に子供が遊んでいた

…………


 そうか、子供が遊んでいたのか。

悪いけど、俺は子供じゃない

……大人も遊んでいた

嘘言うなよ

…………

おい


 そろそろジムにでも通った方が良いのだろうか。勤め先でも、定期的な運動を始める同期、同年代が増えてきている。プールだのマラソンだの、アプローチ方法を数えれば切りが無い。皆々、健康を大切にしている。

 今の一件を受けて、俺も少なからず自分の身体が心配になった。背を逸らした際、腰や肩から乾いた音がなったのには、少なからず危機感を抱いた次第である。もう若くはないのだ。

……聞いてるか?

やってみたかった。
人体に対する知見を深めるべく計画した

……深まったか?

大層のこと


 それなら仕方ない。俺も深まった。主に自身の老化に対して。

…………

…………


 手を伸ばせば触れられる距離に、話し相手の身体はあった。先程までの五メートルが、今は一メートルもない。そして、話をしている最中のこと、ふわり、再び浮かび上がる少女の肉体。

 決して見間違いではなかった。

俺、ちゃんと浮かんだか?

倒れる瞬間に少し浮かんだだろう。
間違いない

……そうか


 浮かんだらしい。

 なら良かった。これで人生、少しは良い方向に変わるだろう。

どうだ。大したもんだろう

あぁ、ありがとうな


 一応、礼は言っておくとしよう。

 頭を打たなくて良かった。腰も無事だ。少しばかり尻が痛むが、下敷きが柔らかかったので、これも問題ない。まあ、多少ばかり驚いたが、幽霊と遭遇した事実に比べれば、大したことではないだろう。

うむ


 尊大な口調に頷いて見せる幽霊。

 両者の身長差を鑑みれば、本来であれば、こちらの方が頭数個分だけ上の筈だ。けれど、宙に浮かんだ幽霊は、俺と対等な位置に顔を置いている。そして、視線の高さを同じく晒すのは、無表情な中にも、少なからず満足した様子の表情だ。

 真正面から眺めては、少しムカついた。

お前、怪我してないか?


 俺は無事だが、コイツはどうだろうか。

 成人男性にのし掛かられたのだから、少なからず痛めた箇所などありそうなものだ。

怪我?

俺の下敷きになっただろ


 かなり豪快に押しつぶした感触があった。

 幽霊の癖に柔らかかった。暖かかった。

…………

どこか痛いのか?

強いて言えば、鼻が痛む

……大丈夫か?

お前の尻に押しつぶされて、きっと臭かった

そ、そうかよ


 心配して損をした気分だ。

 相手の鼻先を確認しても、かすり傷一つ見当たらない。他も取り立てて庇う素振りも、痛がる様子も窺えない。問題ないだろう。自称幽霊であるからして、身体の作りが人間とは異なるのかも知れない。

…………

何を見ている?

見てちゃ悪いかよ?

ワタシに惚れたのか?

一目惚れってやつだ

……ならば仕方ない。もっと見ろ

ああ、もっと見る


 目と目が合う。

 これだけ近い距離に異性と向き合うのは、もしかしたら初めてではないだろうか。相手が子供らしからぬ落ち着きを伴っているので、そんなことを考えてしまう。つい先日のこと、童貞は墓場まで持って行くと決めたばかりだ。

 伊達に正月を一人で過ごしていない。人付き合いが苦手と言えば、その通り。人付き合いが嫌いと言えば、その通り。けれど、人は一人では生きていけないと強く思う。そんな自分が愛おしい。

 だからこそ、こうして見ず知らずの幽霊と、阿呆なやり取りを続けている。

うむ。なかなか悪くない気分だ

そりゃ良かった


 変わらず無表情のまま、頷き見せる幽霊。

 真っ赤な瞳は、近くで見ると殊更に赤く思えて、とても綺麗だった。

 そして、これを収める顔の作りもまた、極めて整い思える。

 もし、この神社の脇にゲームセンターがあって、そこにプリクラの筐体が置かれていたのなら、ちょっと一緒に一枚と、お願いしていただろう。それくらいに美しい。子供には違いない。だが、傍らに数年を待つ価値は十分にあるだろう。

お前、名は何と言う

名前?

名無しか?

あるよ

ならば言うといい


 自己紹介を催促された。

 個人情報を幽霊に渡して良いものか、一瞬のこと躊躇する。

光源氏


 適当を言っておいた。

 昨今、何の見返りも無く自らの名を伝えるなど、とんでもないことだ。

光源氏、その名前を覚える。覚えた

覚えちゃったか


 良かった、本名を言わないで。

どこかで聞いたような気がするが……

気のせいだろ?

そうか。気のせいか


 最近の幽霊は物知りだな。

 ところで、光源氏は人の名前として、苗字込みの名前だっただろうか。それとも苗字を含まない名前だけの呼称だっただろうか。正直、国語の点数は良くなかったので、覚えていない。家に帰ったら、インターネットで調べることとしよう。

光源氏。膝は大丈夫か?

膝?

そうだ。膝だ

……いや、別に

そうか、ならば良い


 幽霊の視線が、俺の顔から俺の膝へ、そして、また顔へ。移ろう。

 もしかして、幽霊に気を遣われたのだろうか。

 どちらかと言えば、心配するべきは尻や腰だろうに。

そういうお前は大丈夫なのかよ?

大丈夫だ。すこぶる大丈夫だ

……なら良かった


 こちらからも訪ねてみるも、案の定、問題ないだそうな。

 まあ、社交辞令というやつだ。

……夜露という

夜露?

そうだ。それがワタシの名だ。どうだ


 どうだと言われた。

 どうだ。

 どうなんだろう。

素敵な名前じゃないか

そうだろう。そうだろう


 どうやら、当たりらしい。

 さっきと同じ顔をされる。

覚えておくといい

きっと、忘れることはないと思う


 酒に酔っていても、流石にこれは忘れない。これが事実であろうと、なかろうと。仮に夢であろうとも。恐らく記憶に残り続けることだけは、確証が持てた。目の前の相手がどのような名前であろうとも。

ならば良い


 俺が頷くと、彼女もまた深く頷いて応じた。

 思えば自己紹介など、何年ぶりだろうか。

 自然と次なる言葉が口をついた。

趣味は?

人間観察だ

なるほど


 すぐに返ってきた。

 ただ、割とどうでも良い。他人に夢の内容を読んで聞かされるのと、同じくらいにどうでも良い趣味だ。伊達に幽霊をしていない。生前に未練たらたらといった具合なのか。あぁ、そう考えると合点がゆく。

観察日記とか付けてる?

……なるほど、日記とは盲点であった

付けてなかったのか


 何かを閃いたよう、また関心したよう、唸り声を上げる幽霊。

紙と鉛筆が欲しい

そこにコンビニあるけど

お金が無い

じゃあ無理だな

…………


 先刻より続く無表情な中にも、少なからず悲しげな色を垣間見せる夜露だ。

 俺はこういう自らの可愛らしさをアピールする類いの動物が、この上なく嫌いだ。具体的に言えば、猫が大嫌いだ。可愛いから餌を貰える。可愛いから駆逐されない。可愛いから、可愛いから、可愛いから。

買ってきてやる

本当か?


 可愛いものは、可愛いのだ。

 あぁ、なんて可愛いのだろう。

本当だ。宙に浮かばせてくれたお礼だ

そうか……


 そして、これは少しばかりの意地悪だ。

 すると相手は、酷く気を悪くした様子で、顔を伏せた。その表情が妙に儚げに写って、どうしたものか。俺は悩む間もなく、早々のこと踵を返した。

 ここからコンビニエンスストアまでは、目と鼻の先である。寺の正門前に設けられた交差点を一つ越えて、数十メートルを歩めば、ファミリーマートがある。

 鉛筆の一つや二つ。ノートの一冊や二冊。取り立てて問題になるような額では無い。むしろそれを理由にして、自らの言葉に気を揉ませての逃げだった。

 歩み早に境内を後とする。

 向かった先は今に挙げた最寄りのコンビニエンスストアだ。

 自動ドアを越えて入店。


 店内には店員が一人。他には誰の姿も無い。深夜だからだろうか、一人で回して思える。幾ら夜遅いとは言え、元旦翌日である。シフトを組んだヤツは、なかなか大したものだろう。経費削減とは言え、思い切った決断をする。

 入店後、手早く鉛筆とノートを確保だ。鉛筆の購入に差し当たっては、鉛筆削りも付けておくこととした。ビニールに包装された鉛筆が、全く削られていなかったのだから仕方が無い。ついでに言えば、あの古風な幽霊が、シャープペンシルなど使えるとは思えない。

 ついでに目に付いた菓子を幾らか腕に抱える。

 そうして、品出しの最中にあった店員に声を掛けて、レジを対応して貰う。

 ありがとうございました、気の抜けた挨拶を背に受けて、店を後にする。


 戻る歩みは、出てくる際にも増して、急いで思えた。何故なのかは、何故なのか、自分にも分からない。どうして、駆け足にコンビニのビニール袋をガサゴソと、鳴らせているのだろうか。

 距離にして百数十メートル。

 途中に挟む交差点は、赤信号を無視する形で通過。車が一台も走っていなかったのだから、今日くらいは勘弁して貰いたい。

 境内に至っては、いつの間にか駆け足となり、本堂前へと急いだ。

おい、買ってきたぞっ


 走るなど、何ヶ月ぶりだろう。多少ばかりを急いだ限りにも関わらず、俺は息が上がってしまっていた。情けなくも、ハァハァ、呼吸を乱しての問いかけだった。やはり、少しは運動した方が良さそうだ。定期的にジムへでも通うべきだろう。反省する。

 ただ、幾ら反省したところで、その声に応えるものはなかった。

 そして、シンと静まりかえった境内には、阿呆な男の叫びが響く限り。

 つい今し方まで、彼女が立っていた場所には、何も残っていなかった。

…………


 右を見て、左を見て、本堂前の壇上に目的の姿を探す。

 けれど、目当ての幽霊は見つからなかった。

 ガサガサ、風に靡かれて手にしたビニール袋が音を立てる。それが妙に大きく響いては、俺の心をざわめき立てる。

 どこへ行ったのだろうか。

おーい……


 或いは、全て俺が酒に酔った結果の幻だと、そう結論づけるべきなのではと考えた。声を掛けられた際の驚きだとか、宙に浮いている姿を目の当たりとした驚きだとか、膝カックンをされた驚きだとか、驚いてばかりだな。

 この短い時間に三度も驚いたのだから、きっと、嘘幻ではあるまい。

…………


 随分とメンタルの弱い幽霊だろう。人間観察も良いが、もう少し自らの心を鍛えることに時間を割くべきではなかろうか。そういうことなら、最初から悪戯などしなければ良かったろうに。なんて堪え性に欠ける性格の持ち主だ。

 とかとか、心中、小さく呟いては愚痴る。

 それら言葉はきっと、今の自分に対して帰るべきものだ。

 酷く自分勝手な言葉たちだ。

……レシートは袋の中に入ってるから
いつか返せよな


 短く呟いて。手にしたビニール袋を足下に置く。

 これは豆腐メンタルな俺の、せめてもの抵抗だ。

あぁ、お菓子の分は奢りでいいぞ


 明日もまた、ここへは大勢の参拝客が訪れることだろう。本堂前に置かれた、持ち主不明のコンビニ袋など、朝一番にゴミ箱行きだろう。中身を確認されることすらなく、捨てられてしまうだろう。

 けれど、他に行き場など無いのだから、仕方が無い。

…………


 俺は手ぶらに寺を後とした。

 ちょっと寂しい気分だった。