まだあなたには理解できない
流れ込んでいたクイーンとの古い記憶が終わっても、そこは白く輝く何も存在しない場所だった。
ただ俺の横に寄り添うように、二十代半ばの姿のクイーンがいるだけ……
どうやらまだ俺はまだ精神世界にいるようだ。
「ダーリン、約束通り『枷』をひとつ外すね」
俺が取り込んだ芦屋と名乗る陰陽師の霊体を、クイーンは何もない空間から取り出して大口を開けるとペロリと平らげた。
「腹を壊すぞ」
ため息交じりにそう言うと、
「うーん、でもこれ、腹痛を起こせるほどの力もないかな? ダーリンの因縁の相手じゃなかったら、握りつぶしても良かったんだけど」
確かに魔力の存在も知らなかった頃の俺じゃなければ、あんな簡単な罠にはまったりはしなかっただろう。
「これでダーリンに掛かってた呪いが取り除けるし、ご褒美のひとつとしてもらっとこうかなーと」
切れ長の赤い瞳を細め、舌で唇を舐めとる姿が妙にエロい。
「仕方ないな、約束の報酬も今回はちゃんと弾んでやるから安心しろ」
例の鉱物を換金したおかげで懐も温かい。
クイーンがいくら底無しの大食漢でもなんとかなるだろう。
「やったね! じゃあこの世界のスイーツってやつを所望しようかなー」
喜ぶクイーンを眺めていたら、
「じゃあ、ちょっと待ってて」
俺の頭の上にそっと手を置いて、小さく呪文を唱える。
「これであの瞳の親子とかも喜ぶかもだけど…… ダーリンの一番近くにいるのはあたいだからさあ、きっと負けないよー」
そんなことを言いながら、クイーンは俺の肩にそっと首を載せた。
身体が徐々に覚醒し、目を覚ますと俺はまだリトマンマリ通商会の支部長室にいた。
抱きしめていたクイーンが淡く輝き姿を消し始めている。
目が合うパチリとウインクして実体を消したので、チェスの駒に変えてすくい取った。
「大丈夫かい」
唯空が俺に走り寄る。
「もう問題ないよ。それで俺はどのくらい気を失っていた」
「ほんの数秒だが……」
周囲を見回しても、意識を失う寸前とあまり変わりがない。
見上げると天井に大きな穴が開いている。
アリョーナさんの縄は唯空が断ち切ったのか足元に落ちていて、服の乱れを戻しながら苦笑いしていた。
念のため周囲を魔法でサーチしたが、下神の気配も異世界の気配もこのビルからキレイに消えていた。
ただ屋上に十数人の気を失った人間がいるだけだ。
一階を確認しても、麻也ちゃんたちの撤退は完了しているようだった。
頭痛や寒気もなくなり、気になっていたサーチ魔法のズレもない。
むしろ前より魔法が安定して力がみなぎっているぐらいだ。
――あの怨霊をクイーンがエネルギーに変えて、呪いを完全に消去したようだな。
俺がとりあえずの作戦終了にため息をつくと、
「屋上で倒れてる奴らは俺に任せてくれ、この後の本山や下神との交渉に便利だからな。お前さんは避難した嬢ちゃんたちや、ここの従業員たちの面倒を見てくれねえか?」
唯空が笑いながら俺の肩をポンと叩き、
「そうそう、それから甘いモノの店は俺が探しとくよ」
俺の耳に寄せて、アリョーナさんに聞こえないように小声でささやいてきた。
× × × × ×
それから五日経ったが、異世界の奴らの動きがつかめない。
奴らの性格からして、間を置かず再度仕掛けてくると踏んでいたが、どうやらあちらにも事情があるようだ。
アンジェのことが気になり焦る気持ちもあったが、ここはこちらも体制を立て直して、もう二度と逃がさないようにする準備に没頭するするしかないだろう。
今朝も襲撃の後片付けや今後の打ち合わせの為にリトマンマリ通商会に寄ったが、
「ドン・サイレント、同士アリョーナは只今電話対応中です。大変申し訳ありませんが、しばらくこちらでお待ちください」
金髪黒スーツさんたちの対応が、あれ以来更に物々しくなって、おかしな方向性に暴走している。
今も支部長室の横にある超豪華応接に通され、お茶ではなく濃厚な香りのするブランデーとキャビアが出された。
黒革のソファに腰を沈めながら朝からアルコールは無いだろうと首を捻ると、
「お気に召しませんでしたか…… ウラジミー、ドンペリのプラチナがまだ残っていただろう、すぐお持ちしろ!」
ウラジミーと呼ばれた若い男が走り出そうとしたので慌てて止めると、アリョーナさんが応接室に来てくれた。
黒服の金髪さんたちが頭を下げて部屋を出ると、
「ごめんなさいね。あの子たち、ちょっとはしゃいでて…… 内戦や侵略戦争で多くの同士が命を散らして、なかなか心から尊敬できる男に出会えなかったから、きっと嬉しいのよ」
はしゃぐ方向性に同意は得られないが、
「ドン・サイレントって何のことだ」
気になっていたことを聞くと、アリョーナさんは対面のソファに腰掛けて、俺が手をつけなかったブランデーグラスを優雅に傾ける。
「日本の古いコミックのヒーローだそうよ。まるであなたのようだってミハイルが言いだして、内輪ではもう、あなたはその名で通っているのよ」
ミハイルさんは初めて弟と一緒に襲撃に来た際に同行していたマフィアさんで、この組織の現場のトップらしい。
俺が小さく首を左右に振ると、
「唯空から連絡をもらったわ。あたしたちもただで殴られたままではメンツが立たないからね、是非協力させて」
アリョーナさんは小さく呟いて、グラスをローテーブルに戻した。
「また迷惑を掛けるけど」
「迷惑なんて掛かってないわよ。建物もあなたの魔法で全て修復されたし、同士の怪我も全て癒えたわ。むしろ皆元気になりすぎたぐらい」
アリョーナさんはエルフのように整った美しい顔を俺に寄せると、
「それに、この国の異能者たちの頭を押さえるチャンスなの。これがどれ程大きなことか、まだあなたには理解できないでしょうけど」
またグラスを手に取って、とても楽しそうに笑った。
リトマンマリ通商会と弟の勤め先には念の為俺の手持ちのチェスの駒を振った。
色々と悩んだが
弟の勤め先である『明るい都市計画』も無事再生したが、社長が今回の事件にビビッて退任したがっているそうで、リトマンマリ通商会が拠点のひとつとして買い取るそうだ。
「まずあの社名と下品なマスコットを変えなきゃ」
と、アリョーナさんは愚痴っていたが……
× × × × ×
午後から
「ご主人様、こっちですこっちー!」
魔法で飛行中の俺を見つけた猫耳を出したままのメイド服の春香が嬉しそうに手を振った。
すると同じように社内で掃除や食事の準備をしていた巫女服の美少女たちが顔を上げる。今、下神に強制的に使役されていた妖魔や少女たちはこの温泉稲荷に避難していた。
「簡単な隠ぺい魔法をかけていたのに、良く気付いたな」
春香の頭を撫でてやると、
「ご主人様の匂いがしましたから」
嬉しそうに二本の尻尾を振る。
異世界でも鼻の利く獣族はいたが、この距離でしかも飛行中の俺に気付く奴はいなかった。戦闘センスも高いしリーダーシップもあるようで、伊達に最近『姉御』と呼ばれている訳じゃないようだ。
「ボス、こんにちわです!」
総勢二十人を超える美少女が同時に頭を下げるのは壮観だが……
リーダーの春香の指導で、彼女たちは俺のことをボスと呼んでいる。
「どうしてボスなんだ?」
以前春香に聞いたら、
「ご主人様はあたしだけのご主人様なんで」
微笑みながら俺の腕をとり、嬉しそうに良く分からないことを言った。
腕に伝わる春香の形の良い胸の感覚に、最近の持病であるドキドキが発生したが……
深く突っ込んだら負けのような気がして、それ以上追及はしなかった。
下神の上官クラスは唯空が、
「交渉材料にもらっていっていいか? 安心しろ、悪いようにはしねえ」
と、とっても悪い顔で双子の弟たちと
彼らのその後が気にならなくもないが……
しかしそんなバタバタの稲荷の現状に、千代さんは、
「皆様元気で礼儀もよくて、毎日楽しいですよ」
そう言ってくれた。
しかしいくら生活費は俺が負担してるとはいえ、それほど長く厚意に甘えるわけにいかないだろう。
「春香、これからの作戦と今後の件についてアリョーナさんの了解が得られたよ」
俺が春香に今朝打ち合わせた内容を伝えると、
「もうバリバリに任せまくってください、ご主人様!」
ドンと胸を叩いた。
何故か少し不安になったが、まあ実力的には問題はないだろうから、
「詳細は唯空と直接連絡を取ってくれ」
そう伝えて稲荷を後にした。
千代さんにも会っておきたかったが、最近『愛情の枷』を外したせいか、あの巨乳アタックに対抗できない。
「御屋形様、こんなところにゴミが……」
昨日も二人きりになるとそんなことを言いながら、例の破壊力の高いブツをボインと押し付け、上目遣いで見つめてきた。
おかげで千代さんを押し倒しそうになる自分を止めるのが精一杯で、話もろくに出来なくなってしまった。きっと稲荷にいるモーリンから異世界の事情を聴き、俺がなかなか動かない相手に業を煮やしていることを心配して、千代さんなりになぐさめてくれたのだろうが。
あれ以来魔法は安定したが、私生活のリズムが崩れている。
まったく、クイーンは何をしたのだろう?
俺は頭を捻りながら、目下最大の悩みの種である……
加奈子ちゃんの家に帰った。