館林市の紹介
館林市は、「鶴舞う形」といわれる群馬県の東南部、ちょうど鶴の頭の部分にあたり、関東地方のほぼ中央に位置しています。
北には渡良瀬川、隣接する邑楽郡明和町を隔てた南には利根川と、南北に大きな河川が流れ、城沼、多々良沼、近藤沼や茂林寺沼といった多くの池沼が点在するなど、豊かな水資源と自然環境に恵まれ、多様な動植物の生息地となっている館林。
城沼と多々良沼で越冬した白鳥たちが北の大陸を目指し始め、桜の花とこいのぼりの競演で春が幕を開けると、つつじ、花菖蒲、花ハスに彼岸花と、色鮮やかな花々が四季折々に館林を彩ります。
浅草まで約70キロメートルと県内で最も東京に近く、東北自動車道や東武鉄道により約1時間でアクセスできることから、都心へ通勤するかたの通勤圏としてじゅうぶんな役割を果たし、日帰りでも楽しめる観光地としても多くのかたが訪れます。
館林市の位置図
市の位置・面積
- 東経:139度32分32秒
- 北緯:36度14分41秒
- 市域: 東西15.5キロメートル 、南北8.0キロメートル
- 面積: 60.97平方キロメートル
- 海抜: 20.1メートル(市役所)
アクセス(道路・鉄道案内)
- 電車:浅草駅から東武伊勢崎線 特急で60分
- 自動車:東北自動車道館林インターチェンジより
人口及び世帯数
最新の人口と世帯数はこちらからご覧になれます
市章(昭和31年6月2日制定)
周囲の輪廓は、弧状三日月が三つと、同じく三日月形の上部に尖端のついているものとから成ります。これは漢字「立」を模様化したもので、上部の尖端は点を示しています。
中部には、「木」の字が二つ直角に交差して円の中心を成しています。これは「林」を模様化したものです。
この二つの模様によって、「立林」を表現しています。
市の木・花・鳥(昭和49年4月1日指定)
市の木:クロマツ |
市の花:ヤマツツジ |
市の鳥:カルガモ |
館林市の歴史
原始時代から現代までの館林市の歴史について、概要を紹介します。
原始・古代
館林市域に人が住み始めたのは、少なくとも約1万年以上も前のことです。人々は縄文時代にはすでに集落を作って生活していたと思われ、市内各所から当時使用された縄文式土器や石器類が出土して、住居跡なども発見されています。
また、古墳時代には代表的な遺跡として山王山古墳などがあり、50年ほど前には市内に少なくとも67基の古墳があったとされています。
本市は、かつては邑楽郡内の一部にあり、平安時代初期に作られた「延喜式」によると“ヲハラキ”または“オホハラキ”と呼ばれていたことがわかります。
中世
鎌倉時代になると、佐貫庄と呼ばれた邑楽地域を支配したのは佐貫氏一族でした。佐貫氏は、鎌倉幕府の御家人として勢力を持っていましたが、室町時代になると有力庶子家の舞木氏が力を持ち、その後、赤井氏が勢力を張ることになります。
館林の名が古文書に初めて出てくるのはちょうどこの頃で、15世紀の中頃、館林城をめぐって大きな戦乱がありました。更に、越後の戦国大名上杉勢によって館林城は攻められ、足利長尾氏が城主となります。次いで北条氏、そして榊原氏へ領主が変わり、榊原氏所領の時代に10万石の館林藩が成立するのです。
近世・近代
江戸時代、館林城主は徳川四天王の一人榊原康政によって整備されます。その後、城主は榊原氏から松平(大給)氏、徳川氏、松平(越智)氏、太田氏、井上氏、そして最後の城主秋元氏と代わり、いずれも徳川家とのかかわりの深い大名家が館林を治めてきました。特に、5代将軍徳川綱吉が将軍になる前の20年間、館林城主となっていたことは、この館林が江戸幕府にとって重要な拠点であったといえます。
明治4年の廃藩置県により、館林藩は邑楽郡一円を区域とする館林県となりますが、間もなく栃木県に編入、更に明治9年には群馬県に編入されるに伴い、館林町は邑楽郡に属することになりました。
そして、明治40年に開通した東武鉄道こそ、館林の今日の発展を約束した事業だったのです。
現代
東武鉄道は、館林町に経済上の効果をもたらしました。そのうえ、館林町は上毛の穀倉地帯と呼ばれる邑楽郡の中央部に位置していたところから、早くから近代都市として形態を整え、明治末期には人口2万人を超えていました。
その後、大正、昭和の暗い世相を乗り切った館林町は、昭和29年4月1日、館林町、郷谷村、大島村、赤羽村、六郷村、三野谷村、多々良村、渡瀬村の1町7か村の合併により、館林市として新たな船出を迎え、さらなる飛躍を期すことになりました。