お慕いしたこともないのに何故わたくしが嫌がらせを?
「キルシュ様、また、」
「…あぁ、またですの。」
側近であるイレナが硬い声を出す。彼女の視線の先には、もう見慣れた光景が広がっていた。王太子殿下と、可愛らしい男爵令嬢の逢瀬。イレナ含め三人の側近達が顔色を悪くしながらわたくしの様子を窺うけれど、どうもしない。ただはしたない、と嘆息する以外の感情はない。あの御二方はここが学園内だと理解されていらっしゃるのかしら。
「行きましょう。」
「ですが、よろしいのですか?あのまま…、」
「わたくしの知ったことではありませんわ。良識ある殿方ならば、ああした軽率な行動を人目もはばからずなさらないでしょう。」
王太子に対して不敬もいいところな発言だけれど、わたくしの立場からすれば許される。それに何より、わたくしはこの場から早く立ち去りたいのだ。開けた場所で恥ずかしげもなく睦み合う二人から目を逸らしたいのではなく、騒動に巻き込まれたくない、ただその一心。
溜息混じりのわたくしの遠回しな『放っておきなさい』に、生真面目なイレナがぐっと言葉を飲み込む。それに一つ頷いて、さりげなく足早にその場を立ち去った。
───キルシュ・フォン・ラドフォード。ラドフォード公爵家の長子で、亜麻色の髪にラドフォード公爵家の後継である証のエメラルドの瞳を持つ令嬢。そしてこの国の王太子デルメルク・バロン・アータートン様の婚約者。それがわたくし。
デルメルク様との婚約は、王家たっての希望で結ばれた。けしてラドフォード公爵家の望みではない。お父様たる現ラドフォード公爵は、最後の最後まで拒絶する道を模索していた。理由は簡単、娘可愛さだ。
宰相であるラドフォード公爵は、王妃になるのが娘の幸せに繋がるとは思えなかったらしい。我が父ながら、権力こそ全てという考えではないあたり、公爵家当主でありながら娘の父という立場で考え抜いてくれた点、流石の一言だ。それにラドフォード公爵家は、自由恋愛を尊ぶ。故に、当時六歳のわたくしがデルメルク様以外の殿方に初恋と呼べる感情を抱いていたことで、余計に婚約に反対したそうだ。だが王家たっての希望、ご命令。お父様も宰相という地位のせいもあり、最後には折れざるを得なかったらしい。涙をこらえた父に膝をついて謝られたのを、十年たった今でも鮮明に覚えている。
「キルシュ、君がプリシラに嫌がらせをしているという噂は本当か?」
デルメルク様の何度目かもわからぬ不貞の現場を、見て見ぬふりをした明くる日。図書館で借りた流行りの小説を数冊、学園内の庭園で読みふけっていた放課後の事だった。デルメルク様は側近のうち騎士団近衛のお二人だけを連れて、わたくしの元へ現れた。
嫌がらせの被害者として名前の挙がった、プリシラ・ハイマン男爵令嬢。デルメルク様のお気に入りの娘だ。ヒールのある靴を履くとデルメルク様と身長の並んでしまうわたくしに比べてだいぶ小柄で、大ぶりなサファイアのような瞳が愛らしいと噂の娘。
よくある恋愛小説のように、噂の真相を確かめにわたくしの元へやってきたデルメルク様が、彼女を連れてきていないのだけが救いか。わたくしは隠すことも無くため息を吐いた。
「恐れながら王太子殿下、わざわざわたくしにご質問なさるということは何か証拠がおありでしょうか?」
「…プリシラから幾度も相談を受けている。」
「被害者本人の証言のみ、ですか?他には?」
「リチャードが、君とプリシラが言い合うのを目撃したと言っている。」
「リチャード様が?」
リチャードとは、デルメルク様の側近の一人だ。尤も、リチャードの忠誠心はデルメルク様にはない。何故わたくしがそれを知っているかといえば───いけない、今は目の前のデルメルク様へ返答して差し上げなければ。
デルメルク様は、彼の視点で見ればか弱き乙女に仇なす毒婦たるわたくしを、断罪なりしてやろうと目論んでいらっしゃるのだろう。だから側近の中でも騎士の二人しか連れてきていないのだ。文官の側近には、ラドフォード公爵家と縁深い者が含まれる。彼らに止められるのを懸念したのだろう。
尤も、わたくしに断罪されるいわれはないのだけれど。
「リチャード様が何と王太子殿下に申し上げたかは存じません。ですが、わたくしはキルシュ・フォン・ラドフォードの名において、プリシラ・ハイマン男爵令嬢に嫌がらせなど一切行っていないと申し上げますわ。」
「ラドフォード公爵令嬢、プリシラ嬢から何度も陳情が上がっている!それにも関わらずシラを切る気か!?」
「キルシュ、本当の事を言ってくれ。そうすれば私も、君の罪を問おうとは思わない。」
「…わたくしに、無実の罪でハイマン男爵令嬢に頭を下げろとおっしゃいますの?」
騎士のうち一人が、わたくしの態度に苛立ったのか声を荒らげる。確か彼は伯爵家の者、しかもわたくしは正式な挨拶を受けていないため、彼からわたくしに声をかけるのは無作法に当たるのだけれど。そんな自分の騎士を諌めることなく、デルメルク様は自分自身が正しいのだと微塵も疑わない様子。これが未来の王とは、国の行く末が心配になるわ。いえ、彼がこの国の王になれるかは、たった今揺らいだけれど。
一方的になじられている状況のわたくしは、イレナをはじめ護衛役も兼ねている側近たる令嬢達を片手で制しながら、彼らに向き合っている。これではどちらが悪役か、傍から見たら困惑するのではないかしら。
「デルメルク・バロン・アータートン王太子殿下。僭越ながら申し上げますが、わたくしは殿下がかの男爵令嬢に入れ込み始めた時点で、いわれの無い嫌疑をかけられることを懸念し、陛下に直訴しております。」
───王家の影を、わたくしにつけていただくようにと。
はなから貴方様は信頼に足るお人ではなかったと暗に伝えて差し上げる。真意が伝わったか否かは分からないけれど、わたくしの言葉にデルメルク様は息を飲んだ。騎士はわたくしの発言の意図が分かりかねるようで、わたくしを睨みつけながらも必死にデルメルク様の様子を窺っている。デルメルク様の顔色がじわじわと青ざめていくのを眺めつつ、わたくしはあえてにっこりと微笑んで差し上げた。
「そもそもお慕いしていない殿方のために、何故わたくしが嫌がらせなど画策せねばならぬのです?」
デルメルク様を小馬鹿にするようなわたくしの発言に、不敬だ!!と叫んだデルメルク様の騎士が剣を抜こうとする───直前、どこからか現れた王直下の私兵が騎士たちの手を打った。剣を取り落とした二人の腕を背後で縛り上げると、私兵の一人が温度のない声でデルメルク様に言葉を掛ける。
「陛下より、すぐに城へ戻るようにとご命令です。」
「……わかっ、た。」
デルメルク様は呆然とした様子のまま、私兵に連れられ去っていった。私兵達はわたくしと側近達に見事な礼を見せ去っていく。それを見届けて、ようやくわたくしも息を吐いた。
「キルシュ様、あの…。」
「イレナ達には怖い思いをさせましたわね。ごめんなさい。」
「いいえ!ですが…あの、ご説明を頂いても…?」
「もちろんですわ。」
側近達が混乱するのも無理はない。わたくしは順を追って説明してやり、それが終わる頃には、先刻まで高くにあった陽がだいぶ落ちていた。随分時間がかかってしまったと息を吐くわたくしに対し、皆はわたくしの時間を奪ってしまったとどこか申し訳なさそうな表情。問題はないと微笑んでみせたのだが早く帰るべきと諭されては致し方ない。借りてきた本は彼女達に任せ、わたくしは急ぎ屋敷へ戻る馬車へ乗り込んだ。
「キルシュお嬢様、お帰りなさいませ。」
「ただ今戻りました。お父様はお戻りね?」
「はい。旦那様より、執務室へおいでになるようにとご伝言を預かっております。」
「…わかりました。このまま伺います。」
「かしこまりました。」
馬車から降りると、落ち着かないと言わんばかりの様子の家令がわたくしを迎え入れた。ソワソワとする彼の様子は本当に珍しいもの。つまり、と予想をした上でわたくしはさっと辺りを見回す。視界の端に今朝お父様がお仕事へ向かうのに使った馬車があるのを確認し、家令の様子に合点がいった。どうやら城から既に何らかの連絡が、お父様に届いているのだろう。
これは身支度だなんだと言ってはいられない。学園の制服姿ではあるが、元来わたくしは制服も着崩すことがないため、最低限見苦しくはないだろう。そう判断し、家令に先導され、お父様の執務室へ向かった。重たい通学用の鞄は、侍女の一人が部屋へ運んでくれるというので有難く託した。中に詰め込めるだけ詰めた本と資料のせいで、わたくし以外が持てた試しがない重さだ。何人かで協力してくれればいいのだけれど。
「旦那様、キルシュお嬢様をお連れしました。」
「失礼いたします。」
「入りなさい。ああ、皆下がって良い。キルシュと二人だけにして欲しい。」
「かしこまりました。」
家令が執務室の扉を開けると、お父様は執務机の上、山と積まれた書類から顔も上げずに指示を飛ばす。座りなさいと言われるがまま、執務机の真正面のソファーに腰掛けた。家令の他にお父様の事務官たちも退席すると、お父様はすぐさまペンを置き、わたくしの元へいらっしゃった。
「キルシュ、大丈夫か。」
「はい、お父様。」
「すまない…私は不甲斐ない父親だ。最早王家への愛想は尽きた。デルメルク様との件が落ち着き、王都に用向きがなくなった暁には領地に戻ることも考えている。」
「お父様からは十年前にもう十分謝っていただきました。それに領地に戻ったところで、城の文官が苦労するだけで陛下達への影響、そこまでインパクトはありませんわ。」
「…それもそうだが。」
心底悔しそうなご様子のお父様。王家に今回の一件で多少なりともあった愛想が尽きたらしい。今までどんな理不尽なご命令があっても、さすがに領地に戻られるなんて仰ったことはなかった。ただそれは、王家への意趣返しにはなり得ないでしょう。指摘すれば、そもそも分かっていらしたようでぐっと奥歯をかみ締めていらした。
「……まさかデルメルク様がここまで愚かとは。」
ため息を吐きながら苦々しげに絞り出されたお父様の言葉に、わたくしはただ苦笑を浮かべ頷くしかなかった。
「キルシュ・フォン・ラドフォード。国王陛下のご命令により馳せ参じました。」
「ラドフォード公爵令嬢、よく来た。顔を上げよ。」
翌日、わたくしは学園を休み国王陛下の御前に馳せ参じた。側近達は休んでいないため、恐らく昨日の様子を囀るだろう。お父様が彼女達を止める様子はなかったので、とことんデルメルク様にお怒りらしい。
陛下に促されるまま、顔を上げる。わたくしが招かれたのは両陛下のプライベートエリアの中にある来賓室だ。国王陛下と王妃様、わたくし、それから護衛騎士とあの日わたくしを守ってくれた王家の私兵達しかいない。普段であればここに宰相であるお父様や、他の大臣達がいらっしゃるはず。微かな疑問符を浮かべるわたくしに気付いたのか、両陛下は微苦笑を浮かべていらした。
「まず初めに。この場は非公式な場だ。文官もおらず、後に記録を起こすことはない。」
故に楽にせよ。続く陛下のお言葉に、今度はわたくしが苦笑を浮かべるしかなかった。このあとの展開が読めてしまったから。
「ラドフォード公爵令嬢…いや、キルシュ嬢。愚息が、すまない。」
「キルシュさん、わたくしからも謝らせて。そして貴女はわたくし達の謝罪を受けなくて良いの。ただ、わたくし達のために、謝らせて欲しいの。」
「…陛下、お顔をお上げください。王妃様、ではお言葉に甘えさせていただきます。」
王妃様は嘘偽りの感情を嫌う方。そしてわたくしには、もうすぐ娘ができるのが嬉しいと何度もお茶会に招待してくださった。だから労しげな王妃様の表情も、お言葉も、本心だろう。その思いやりに素直に甘えれば、王妃様は寂しげに、それでいいとしっかりと頷かれた。
対する陛下は、未だ頭を下げ続けていらっしゃる。尤もわたくしがもし怒りを覚えるならば、デルメルク様に対してでは無くやはり陛下へだと思うのだ。
「陛下。恐れながら、わたくしとデルメルク様の婚約、我が公爵家と王家、どちらの望みであったか覚えておいででしょうか?」
「それは…。」
「わたくしはデルメルク様との婚約から十年、ただ王命に従ったのみ。此度の婚約、ラドフォード公爵家からの破棄とさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
令嬢としてはしたない事だとはわかっているけれど、公爵家の面子のためには致し方ない。人生初の啖呵を切った。王妃様はそれでいいわ、としきりに頷いていらっしゃるが、みるみる陛下の顔色が悪くなっていく。それはそうでしょう、婚約の解消ならいざ知らず、身分が下の我が家からの破棄ともなれば、デルメルク様側に瑕疵があったと囀るようなものだもの。
「王太子の婚約者だぞ!?ラドフォード家には有益ではないか!!」
「我が父、ラドフォード公爵は最後まで反対しておりましたがお忘れで?」
「だが、キルシュ嬢にとっても名誉だろう!」
「陛下、いい加減になさって。」
まさかお父様の反対を、本気とも思っていらっしゃらなかったのか。陛下の言葉はわたくしにはとても信じがたいものだったけれど、なるべく淡々と反論する。けれどわたくしの逆鱗に、まさか陛下が触れられるとは。棘のような反論の言葉を紡ごうとしたわたくしより一寸早く、王妃様の冷たいお声が響いた。
「本当に貴方様は人の感情の機微がお分かりにならない。そんなことでは、わたくしも二人の婚約を反対したことなどお忘れでしょうね?」
「王妃…?いやだが、王妃も娘ができるのが嬉しいと…。」
「キルシュさんは望まぬ婚約を結ばされたのよ?せめてわたくしくらいは心から彼女を迎え入れたかったの。それに彼女は本当に良い子よ。貴方様の思い付きでなく、デルメルクと想いあった上での婚約だったならと何度思ったことか…。」
「王妃様…ありがとうございます。」
王妃様は思いやりで娘と呼んでくれただけでなく、真に思ってくださっていた。その事実は、わたくしの胸を温かくしてくれるものだった。王妃様の怒涛のお叱りに何も言い返せず、口をパクパクさせている陛下に、わたくしは今度こそ落ち着いて申し上げる。
「わたくしがデルメルク様の婚約者の地位を望んだことは、これまでに一度もございません。わたくし達の婚約は、陛下が望まれ、『ご命令』されたが故に結ばれたものです。」
この事実をしっかりと陛下にご認識頂かなければ。後々で、デルメルク様のお気持ちをしっかり繋いでおけなかったわたくしが悪いとでも言われようものならば、お父様以外に騎士団長をはじめ高官の方々に同席いただいて陛下の記憶違いを正さねばならなくなる。わたくしとしてはそれでも構わないけれど、王家の面子を考えれば、デルメルク様の不貞以上の醜聞になりかねない。
「……キルシュ嬢は、一切デルメルクを思っていなかったと?」
「婚約の顔合わせの際にも申し上げましたが、わたくしが想う方は十年前から変わらずただおひとり。それはデルメルク様ではございません。」
「そんなの、キルシュさんが影をつけて欲しいとわたくし達に言ってきた時にも分かりきっていたことでしょう。キルシュさんは端からあの子を信頼に足るとすら思ってくれていないのに。」
「…………すまなかった。」
陛下が、絶望にかられたようなお顔で頭を下げられる。
「今からでもその者と婚約を、」
「今度はその方のご都合も鑑みず、でしょうか?」
謝罪の舌の根も乾かぬうち、ふざけたことを言われようとする陛下の言葉を遮る。陛下がわたくしと婚約せよと、わたくしの想い人たる方に仰ったとして。あの方にはもしかしたらもう別に想う方がいらっしゃるかもしれない。いいえ、きっといらっしゃるでしょう。十年、十年だ。けして短くはない時間が経っているのだもの、わたくしが十年前の陛下のような身勝手をしてはならない。
「…陛下のお心遣いには、感謝いたします。」
王妃様に下がってよいと許しを頂き、退室する。このまま帰っても良いけれど、せっかくの王城だ。来賓室の前に待たせていた侍女に声をかけ、久しぶりに庭園に足を運ぶことにした。
庭園へ続く回廊を歩きながら考えをめぐらせる。陛下は政には天才的なお方だが、王妃様の仰る通り、人の心の機微がお分かりにならない。息子たるデルメルク様も、その婚約者だったわたくしも、政治というチェスの盤上で、組み合わせた方が良さそうに見えた駒同士でしかなかった。陛下は指し手でしかないために、駒に心があるのを見落とされる。だからこそ、王妃様の心労が計りきれないのだけれど───あの御二方は、あれでどうして、お互い真に想いあっていらっしゃる。
久しぶりに足を踏み入れた庭園は、やはり王城のもの。見事なまでに大輪のバラが咲き乱れていた。足を向けるのは、奥にある噴水だ。噴水の中央には、紅水晶が飾られたモニュメントがある。王位継承権を持つ王族の殿方たちは、魔力を紅水晶にこめ、結晶化させるのが決まり事だ。そしてその魔力は、国の中央に位置するこの噴水のモニュメントから、国中に行き渡り、結界の役割を果たす。王族から臣下に下るなど継承権を破棄する時に、紅水晶を壊すのが習わしだ。
紅水晶は、今は三つ。陛下と、デルメルク様。そして、
「キルシュ!!!」
「えっ…、」
久しく聞くことの叶わなかった方の声が、わたくしを呼んだ。
「ウィル、フレッド様…!」
「キルシュ、久しぶり。」
「っ…お久しぶりです、ウィルフレッド王弟殿下。」
現れたその方に、慌てて礼を取る。
ウィルフレッド王弟殿下は、かつてお許しをいただけた愛称で呼ぶことも叶わず、ただ距離をとって接するしかできないわたくしの姿に、あの日から寂しげにいつも微笑まれるばかりだった。それが今は、急いできてくださったのだろう、息を切らして、明るい笑みを浮かべていらっしゃる。
「ウィルだ、キルシュ。」
「ですが、」
「義姉上の使いの者から聞いた、デルメルクとの婚約を破棄するんだろう?」
「ええ、そうです、が…。」
「ならば今は、十年前の続きだ。ウィルと呼んでくれ、キルシュ。君の心がもしまだ、俺に欠片でもあるのなら。」
ウィルフレッド王弟殿下の言葉に、わたくしは息を飲む。十年前の続きだと、王弟殿下は、ウィル様は仰った。
十年前、デルメルク様の婚約者になると決まったその日。あの日、ウィル様と約束した。もしも、この先の未来、わたくし達が隣り合って歩むことができるのならば、その時は、今日の続きとしようと。
「ウィル様…っ!!」
視界が潤む。わたくしの腕を柔らかく掴んだウィル様の胸に、引き寄せられる。頬を寄せるそこは、十年前と違って大人の殿方のもの。あたたかくて、包み込まれ、守られていると思える、ウィル様の腕の中。
「ずっと祈っていた、キルシュをまたこうして抱きしめられる日が来るのを。」
「っ…わたくし、わたくしもです、ウィル様。デルメルク様の婚約者となっても、わたくしの心はあの日、ウィル様に預けたままでしたの。」
「……俺もだ。」
王妃様にだけは、わたくしとウィル様の想いをお伝えしていた。十一年前、お父様の忘れ物を届けるお母様の付き添いで訪れた王城で、ウィル様と出逢った。お互いにひと目で恋に落ちて、それから幾度かお会いして話をする度に、ますます想いは募って。ウィル様からお父様に、婚約の打診を頂いた矢先、陛下からデルメルク様の婚約者となるようご命令があった。あの時の絶望を、今も覚えている。
「デルメルクが王位を継げば、俺はその時ようやく王籍を離れ、臣下となる。幸いにも手柄はこの十年で立てることが出来た、公爵位を賜る予定だ。キルシュに苦労はかけん。」
ウィル様は現王陛下の腹違いの弟君だ。この国は、王族であろうと側室を持つことは許されない。だが前王妃様は陛下をお産みになってすぐ儚くなられた。王太子は生まれた、だから王妃は不在でも構わない───とはならないのがこの国。
テアモーロ王国は、純愛を尊ぶ処女神の加護を受けている。庭園の紅水晶のモニュメントは、王族の殿方の魔力を込めて作られるもので、国の結界。魔法なるものは失われて久しいけれど、唯一愛情だけは魔力を増幅することができる、らしい。故に王族の方々は、心から愛せる運命のお相手を見つけ出すことが、お生まれになって一番最初の公務となる。
そして、愛された側は。王妃となる日、国と王に永遠の愛を誓い、加護を与える処女神の力をその身に降ろすのだ。愛によって増幅された魔力で結界を張り、国外からの災いを避ける王。王妃は守護神の力の一端で国中を王城から遍く照らし、憂いを払う。王族と王妃が対となって初めてテアモーロ王国は泰平の世を得る。
前王妃様がお亡くなりになられて、前王陛下は守護神の加護を失われた。国がすぐに傾くわけではない、愛の化身たる王太子は前王陛下の腕の中に。だが国として、不安要素は取り去る必要があった。そこでほぼほぼ先例のない側室選びが始まり───お生まれになったのが、ウィルフレッド様だ。
現王が即位されて、本当であれば幼かったウィル様はすぐにでも継承権を破棄される予定だったらしい。だが前王のような悲劇がいつ起こるとも限らない。王位を継げる者は、王権さえ争わなければ、言い方は悪いがストックがいるに越したことはないのだ。そうした各所の思惑により、ウィル様はまだ王位継承権をお持ちになっている。そしてデルメルク様が王位を継がれる時こそ、ウィル様は自由になれる。
「王太子の婚約者が務まらなかったわたくしでも、迎えて頂けますの?」
「当たり前だろう。それに端からデルメルクにキルシュをやるつもりはなかった。十年も俺からキルシュを奪っておいて、それでいてキルシュを愛さないなど。」
「仕方ありません。デルメルク様は…ラドフォード家をよく思われておりませんし。わたくし個人の問題ではありませんもの。」
「…まだデルメルクの考えは変わらないか。」
浮かんだ涙を誤魔化すために冗談めかしてウィル様に問いかければ、存外本気で苛立ってらっしゃるお声が返された。致し方ないこと、と二人同時に溜め息を吐く。
デルメルク様はラドフォード公爵家が王家に進言できるほどの権力を持っているのを、よく思っていらっしゃらなかった。過激な思想だが王家こそ絶対で、そこに意見するような者は不届き者だとお考えだったのだ。それを体現するように、耳触りのいい言葉を述べる者だけを側近にされている。尤もデルメルク様の思想は何代か前の王族では当たり前のものだったらしい。
ともかく、そうした思想のデルメルク様にラドフォード公爵家の令嬢が婚約者として宛てがわれた。陛下の思惑の中には、わたくしと接する中でデルメルク様の意識を変えていくことも含まれていたけれど───デルメルク様ご本人が、わたくしの粗を突き、婚約者のすげ替えを狙う可能性は元より高かった。そこにハイマン男爵令嬢の存在。わたくしは更に邪魔者となり、愛されるどころか憎まれる対象だ。
「けれどもデルメルク様のお考えが変わらなかったからこそ、わたくしも此度の件に対処できました。」
「……そうだな。キルシュがうまく立ち回ってくれたおかげで、俺はもう一度キルシュを表立って愛せるようになった。キルシュのおかげだ。」
「いいえ、ウィル様。ウィル様が十年前、わたくしにお心をくださったからこそ、わたくしは動くことができたのですわ。」
お互いに引かず、お互いの手柄だと褒め合っていることにはたと気付き、思わず目を見合わせて同時に吹き出した。やわらかい風が髪を揺らす。本当に十年前に戻ったよう。緩くお互いの手を握りあって、わたくしはウィル様の胸に頬を預けている。そうして、どれだけ時間が経ったろう。
「キルシュの元に来る前に、ラドフォード公爵には使いを出した。公爵が城にいてくれてよかった。キルシュが頷いてくれさえしたら、十年前をやり直させて欲しいと。」
「なんとお早い。」
「他の有象無象にキルシュが奪われるかもしれないなど耐えられない。」
「ウィル様…。」
情熱的な、どこか焦れたようなウィル様のお声は十年前だって聞くことは出来なかった。改めてウィル様のお顔を見上げる。十年、十年だ。青年どころか壮年の男性となられたウィル様は、あの頃にはなかった色気を存分に湛えていらっしゃる。
「ウィル様、ご婚約はされませんでしたの?」
「王位継承権を返上するまでは、謀反の意ありとされてはたまらない、と逃げてきた。」
「あら、それではわたくしは不相応では?」
「…キルシュ、少し意地が悪くなったな?」
「ふふ、何でしたか…ああそう、小悪魔?というやつですわ。」
「……これ以上俺を惚れさせてどうするつもりだ。」
するり、と頬を撫でられる。優しい手つきに促されて視線を上げる。ウィル様の煌めく瞳の中にわたくしが映っているのが、見えた。本能的に瞼を下ろせば、柔らかい感触が唇を掠めた。
「もう離してやれない。離すものか。」
「ええ…離さないでください。」
触れた温もりは一瞬。でもそれで十分だった。
「ウィルフレッド様!ラドフォード公爵令嬢!」
二人きりの空気に浸っていたわたくし達を、不意に聞きなれた声が現実に引き戻す。自分たちの体勢に気がついて慌てて離れようとするわたくしの肩をぐいと掴んで、ウィル様は声の主に不機嫌そうな顔を向けた。
「何の用だ、リチャード。」
「おっと、いい所を邪魔したらしい。すまん。」
「用件は、なんだ?」
茶化すようなリチャード様に、ウィル様はあからさまに不機嫌な低い声を出して威嚇する。リチャード様は慣れたように、ああ怖い!とひとしきりウィル様をからかってから、すっと表情を正された。
「用件の前に、ウィルフレッド殿下。本日この場をもって、殿下の側近として再び侍ることと相成りました。末席に加えていただき、以降この不肖の身、お使い下さいませ。」
「…そうか。リチャード、また、頼むぞ。」
「はっ。」
ウィル様の足元に傅くリチャード様。十年前も見たお姿だ。リチャード様はウィル様のご生母様───前側室様のご実家の分家筋に当たる方。ご本人もお家も、ウィル様にお仕えする心算が、陛下の鶴の一声でデルメルク様の側近へと鞍替えされてしまったのだ。
あるべき姿、あるべき立ち位置に戻ったとでも言おうか。リチャード様がずっとウィル様に忠誠を誓いながらデルメルク様の下にいたのを知っているだけに、まるで同士のような心持ちで、とても嬉しい。けれど。
「だがリチャード。デルメルクはどうした?」
そう、そうなのだ。わたくしは婚約破棄を行ったため、デルメルク様の婚約者からウィル様の婚約者となることに問題は無い。だが王命で決められた側近が、主を己の意思で変えることは不可能だ。
「その答えのために、お二人にお声がけ致しました。陛下並びに王妃様が、謁見の間でお待ちです。」
にこり、と含みのある笑みを浮かべるリチャード様の姿に、ウィル様と顔を見合わせる。先程御前を辞したばかりだというのに、リチャード様に次いで現れた王城の侍女に連れられ、再び両陛下の御前、今度は正式な謁見の間へと足を運んだ。
「お呼びですか、兄上。」
「キルシュ・フォン・ラドフォード、陛下がお呼びと伺い馳せ参じました。」
「来たか。ウィルフレッド、ラドフォード公爵令嬢。」
普段通り気取らない態度のウィル様と、陛下の御前、平伏するわたくし。謁見の間には、両陛下以下、宰相であるお父様、他の大臣の方々、騎士団長───この国の重鎮たちが揃っていた。ちらりと不敬にならない程度に視線を滑らせる。王太子たるデルメルク様は、いらっしゃらない。
「…此度、ラドフォード公爵より、我が息子デルメルクの婚約が破棄された。」
重鎮たちだけが揃う場とはいえ、令嬢側からの婚約破棄の言葉に、空気がどよめく。わたくしも態度には出さなかったけれど驚いた。だって、わたくしは提案までしかしていない。それもほんの数刻前の事。両家の婚約破棄の調停は、まだ成されていないはずなのだ。なのに、陛下は破棄が済んだと仰った。
「ウィルフレッド、ラドフォード公爵令嬢に婚約を申し込んだそうだな。」
「流石は兄上、耳が早くいらっしゃる。」
「ラドフォード公爵より聞いた。お前が本気なら、我は止めぬ。何せ我慢を強いたラドフォード公爵令嬢と公爵が乗り気なのだからな。」
「失敬、ウィルフレッド王弟殿下は、今しばらくご婚約はされないのではなかったかな?そして、ご令嬢が我慢を強いられていたとはどういう事で?」
不意に、一人の大臣が手を上げる。ベネル伯爵。財務大臣で確か御息女をウィル様の婚約者にと長年推していらしたはず。他の大臣たちも困惑を隠しきれていない。最も苛立ちのような色を浮かべているのはベネル伯爵だけだ。陛下に伺いつつ、ウィル様の隣に立つわたくしに時折敵意ある視線を寄越す。その視線には、ウィル様も気付かれそうなものだけれど。
「俺の発言の真意をベネル殿ほどの方がお分かりにならないとはな。」
「王弟殿下、今なんと?」
「分からないのか?体のいい女避けだ。尤も、キルシュが我が妻とならないならば全くの嘘、という訳でもないが。」
「ラドフォード公爵令嬢は我が命令により、ウィルフレッドと引き離しデルメルクと婚約させた。次の国母に相応しいのはラドフォード公爵令嬢だと考えたからだが…デルメルクは愚かにも、不貞を重ねたのだ。」
今度こそ隠しきれないどよめきが謁見の間に広がる。ベネル伯爵はウィル様の女避け発言にこそ不快感を滲ませていたけれど、続く陛下の発言に口をパカリと開けて驚いていらっしゃった。
「デルメルクはこの国の王族として、恥ずべき行いをした。婚約者たる令嬢を蔑ろにし、別の娘を囲い、だがその娘を王妃に召し上げるつもりもなく婚約者とそのまま結婚しようとしていた。」
嗚呼、と思う。陛下の声には深い落胆が滲んでいた。不貞を不貞のままにせず、ハイマン男爵令嬢を真実の愛のお相手として王妃に据えるおつもりだったならば。わたくしと婚約を解消するお考えが少しでも、デルメルク様にあったなら。
この国の守護神は純愛を尊ぶ。そんな女神が、不貞を悪びれず堂々と行う者を、王として認めるものか。
「此処に、デルメルクを廃嫡しウィルフレッドを次期王と任命する!!」
陛下のお声が謁見の間の空気をビリビリと揺らした。恐らく、お父様以外の重鎮達には寝耳に水でしょう。当事者であるわたくしですら驚きを禁じ得ないもの。ああ、騎士団長だけは予想の範疇かもしれない。わたくしに影を付けるために尽力してくださった方だし、不貞を行う王太子が許されるものかとわたくしの代わりに憤っていらしたもの。
「また、ウィルフレッドにはラドフォード公爵令嬢との婚約を認める。公爵からは既に許しを得ており、二人は真に思い合っている。結婚に関してはラドフォード公爵令嬢の卒業を待つこととする。」
「王命、しかと心得ました。兄上。」
「陛下、お心遣いありがとうございます。」
陛下に頭を下げたあと、ウィル様は人目もはばからずわたくしの手を握る。陛下の御前だけれど、思わずわたくしも頬を緩めてしまった。顔を見合わせて微笑み合うわたくしたちの姿に、お父様が真っ先に拍手を始める。騎士団長がそれに続き、謁見の間は次第に拍手で溢れかえった。一人、ベネル伯爵を除いて。
「承服いたしかねます!」
鋭い叫びのようなベネル伯爵のお声に、拍手がピタリと止まる。陛下は胡乱気な表情で、ベネル伯爵を見遣った。伯爵はぐっと何かを飲み下すような表情を浮かべてから、今度こそわたくしをキッと睨みつける。
「そも、デルメルク様の不貞の詳細とは?婚約者たるそちらのご令嬢の力不足であったなら、デルメルク様を廃嫡されるのは女神の機嫌を損ねるとはいえ如何なものか。しかもかのご令嬢は、デルメルク様の想い人に嫌がらせを繰り返していたと聞き及んでおります!そしてそんなご令嬢が、婚約者だけをすげ替えて王太子妃の地位はそのまま手にすると?馬鹿馬鹿しい!」
「陛下、恐れながら発言をお許し頂けますでしょうか?」
陛下とお父様が、悪い意味で良い笑顔に変わっていくのを見て、思わず細く溜息を吐いた。ベネル伯爵に続く声はなく、彼は孤立している。そして気付いていない。放っておけばウィル様の婚約者に相応しいのはわたくしではなくご息女だと声高に発言なされるのだろう。ウィル様の手を一度、ぎゅっと力を込めて握ってから、陛下を見上げる。
「発言を許そう、ラドフォード公爵令嬢。」
「ありがとうございます、陛下。」
ウィル様の手をそっとほどき、ベネル伯爵に向き直る。伯爵は、まさかわたくしから仕掛けるとは思っていらっしゃらなかったのか、小さく息を飲んでいた。
「ベネル伯爵、貴殿はいつから陛下のお許しなく、陛下に意見出来うるだけの地位と信頼を得られたのでしょうか?」
「何を…令嬢が!無礼な!所詮貴女はデルメルク様の不貞に癇癪を起こし、当てつけで王弟殿下を巻き込んだのだろう!!」
「わたくしがデルメルク様をお慕いした事実は一度もございませんが。」
がなり立てるベネル伯爵の動きが、止まる。わたくしの想い人は十年前から変わらずウィル様ただおひとりであること、これは婚約者となる以上重鎮達に周知させる必要もあるし、話しても問題ないでしょう。
「わたくしは十年前、元々ウィル様と婚約する予定でおりました。陛下よりご命令を受け、致し方なくデルメルク様と婚約致しましたが…何故わたくしがハイマン男爵令嬢に嫌がらせをする必要が?むしろわたくしとしてはデルメルク様に、早く彼女を選んで頂き、わたくしを解放して頂きたかったのですが。」
「キルシュが件のご令嬢を損ねる理由はない。そして、キルシュはデルメルクから疑いをかけられる可能性を考え、早くから王家の影を自分に付けさせていた。…ところでベネル伯爵、キルシュが嫌がらせをした…という情報は、どこで?」
わたくしの淡々とした発言と、それに続き煽るようなウィル様の発言に、ベネル伯爵の顔色が白くなっていく。きょろきょろと忙しなく、周りに視線をやり味方を探しているようだが、他の重鎮たちはわたくし達同様に彼に冷たい目線を向けるばかりだ。
とはいえさすがウィル様。わたくしが気になった点を単刀直入に聞いてくださった。わたくしが聞いたところで、謂れのない揚げ足を取られる可能性があって突きにくかった点だ。
「王弟殿下の問いについては、私からご報告がございます。陛下。」
「リチャード、発言を許す。」
「はっ。ベネル伯爵より、今後の私の進路について口利きを行う代わりに、キルシュ様が嫌がらせをしたように工作せよと持ち掛けられました。証拠はこちらに。」
「なっ!?」
リチャード様が提出したのは、ベネル伯爵家の家紋が透かしで入った羊皮紙に記された契約書だった。また別で提出された書類には、他にベネル伯爵が便宜を図りハイマン男爵令嬢とわたくしが争っているよう工作する命令を受けた者たちのリスト。
「我が主は、王命によりすげ替えられようとウィルフレッド王弟殿下ただおひとり。ウィル殿下の想い人たるキルシュ様も、私からすれば忠誠を誓うお方です。よりによって私にこの話を持ちかけるなど…愚かの極み。」
「リチャードが俺の母上の生家と繋がりがあることくらい、大臣の座につくならば知っていて当然だろうにな。」
そこからは一瞬だった。デルメルク様の不貞はさておき、それ以外は全てベネル伯爵の画策により起きた騒動───判明した瞬間に、自らの策が穴だらけだったことに崩れ落ちる伯爵を騎士団長がすぐさま捕縛した。陛下のご命令により、ベネル伯爵は証拠が全て揃っており、また次代に禍根を残しかねないと一族郎党爵位を落とし、王都へ足を踏み入れる事を禁じると命じられた。ベネル伯爵、もといベネル男爵はわたくしよりご息女の方が余程王家の妻に相応しいと叫びながら、謁見の間から退けられた。
「さて、場を荒らしてしまったな。」
ふう、と息を吐く陛下の様子からするに、ベネル伯爵を炙り出すのはこの場において最初から決まっていた流れなのだろう。お父様も平然としていらっしゃる。尤も他の大臣達はベネル男爵の行いについて苦言を続けていたけれど。
「デルメルクの廃嫡はすぐに発表しよう。理由は不貞、それだけで十分だ。そしてウィルフレッド達の婚約も合わせて発表する。ウィルフレッド、其方の即位は二年後。これは確定事項だ。」
「急展開すぎませんかね、兄上。」
「致し方ないだろう。人の心が分からず、愛する者達を悪戯に引き離した我を、守護神が王として認め続けるはずがない。」
疲れたように笑う陛下に、嗚呼、と謁見の間全体がやるせない空気に包まれた。デルメルク様の不貞だけならば、陛下が退位する必要はなかった。ただ陛下は、自覚してしまわれた。自覚した以上、愛を引き裂こうとした者を王と、守護神が認め力を与えるはずがない。だがわたくし達にも準備が必要だ。そのための二年の猶予なのだろう。むしろ猶予がある、と考えるべきなのかもしれない。わたくしももうじき卒業だ、二年詰め込めば王妃教育も完成しよう。
一旦今進んでいる政策の棚卸しを行い、そこから即位について話し合おうと、ウィル様とリチャード様、わたくしは謁見の間を下がることとなった。ベネル男爵と向き合った際に離したはずの手は、再びウィル様から繋がれた。
「キルシュ?叔父上?」
帰るだろう、送る。ウィル様に言われ城内を進んでいると、聞きなれた声がわたくし達を訝しげに呼び止めた。ほとほと、今日は色々な事に巻き込まれる日だ。
「デルメルク、彼女は俺の婚約者となった。今後キルシュを馴れ馴れしく名前で呼ぶことは許さない。」
「は…?叔父上、何を?何故キルシュの手を!貴方が握っているのですか!!」
「デルメルク様、婚約はわたくしより破棄させて頂きました。ハイマン男爵令嬢とお幸せに。」
「破棄だと?待ってくれ、キルシュ、違う。彼女は違うんだ。」
ハイマン男爵令嬢は遊びだった。婚約を破棄とはなんだ、精々解消ではないのか。そもそもすぐに叔父上と婚約するなど、お前が不貞を行っていたのではないのか───。騒ぎ立てるデルメルク様の声に、近衛が駆け寄ってくる。
「キルシュは元々俺の婚約者となる予定だった。お前に無理に奪われたんだ、奪い返して当然だろう?そしてデルメルク、この国の守護神が何を尊ばれるのか…不貞は王家にとって最低最悪の瑕疵だと、何故分からない。」
ウィル様の淡々とした指摘に顔を青白くしたデルメルク様は、ぶつぶつと何事かを呟く。段々と大きくなるその声は、声量こそ大きくなるけれど、最早何を仰っているのか、内容がまるで分からない呪詛のような言葉だった。
「連れて行け。すぐに兄上からこいつにもお声が掛かるだろう。」
「───僕が王位を継げないなど、有り得るものか!!」
近衛に命じるウィル様の姿に触発されたように、デルメルク様が金切り声を上げた。瞬間、ウィル様に庇うように抱き寄せられる。近衛によって素早く動きを押えられたデルメルク様は、床に伏せるようにして拘束された。
「兄上から、聞いていたか。謁見の間へ連れて行け。まだ皆揃っているだろう。キルシュを送り次第、俺もすぐに戻る。」
「かしこまりました。」
狂ったようにのたうち回るデルメルク様は、ご自身が廃嫡されるのをご存知だった。知っているのと知らないのとでは、逆上したにせよ処分が異なる。デルメルク様は知っていて、ウィル様かわたくしに危害を加えようとされた。次期王への謀反と取られる行動だ。
彼はそこまで愚かだっただろうか。十年婚約者の地位にありながら、知らなかったデルメルク様の姿に、わたくしは息を飲むことしかできなかった。
ウィル様とわたくしが、改めて想い合うことが許されて数ヶ月経った頃、デルメルク様は廃嫡され、ハイマン男爵家の婿養子となられた。プリシラ嬢は、王妃の座に興味はなかったらしい。ただデルメルク様を心からお慕いしていたそうで、元よりデルメルク様が一時でもお心を下さるなら、とタイムリミット付きの愛を慈しんでいたのだという。王家から縁切りされたデルメルク様でも喜んで結婚された。
一方ハイマン男爵ご当主は、事の次第を知り、爵位返上をいの一番に奏上したという。またデルメルク様を迎えることで王家の不興を買うのではないかと案じられたそうだが、それは決してないと言い含めたところ、プリシラ嬢が心から想うお相手ならばと歓迎されたらしい。聞けばハイマン男爵は貿易業のため長く国外におり、デルメルク様とプリシラ嬢が親密になられたことをご存知なかったらしい。
デルメルク様はあの後、一時的に幽閉の憂き目に遭われた。三日間貴族用の牢に入れられ、徐々に正気を取り戻したそうだ。その後すぐに学園を退学、ハイマン男爵家と話し合いが纏まると同時に婿に入られた。庭園の紅水晶は、わたくし達と相対していたのと時同じくして砕けていたらしい。それこそ守護神の怒りだと、デルメルク様もようやく自覚され、大人しくなられたとか。様子を見に行ったリチャード様いわく、抜け殻のようだと。ただプリシラ嬢が献身的に支えているそうなので、そのうちに元に戻られるのではないかと内々に送り込まれた医師たちは見ている。
「キルシュ。」
「ウィル様、執務は終わられましたの?」
「ああ、カタがついた。」
「ではお茶にいたしましょう。」
わたくし達は、デルメルク様の廃嫡の発表とともに婚約を国内外に発表した。陛下の元へ、ウィル様の婚約を不服とする申し立てが内外の貴族から多く寄せられたそうだけれど、すぐに退けられた。理由は簡単、庭園のウィル様の紅水晶にある変化が見られたからだ。
「先程神官たちが騒いでいた。紅水晶の中で、蔦薔薇が咲いたらしい。」
「昨日まではまだ蕾でしたものね。わたくしも見に行かなければ。」
「気になるか?」
「ええ、ウィル様のわたくしへの愛なのでしょう?」
「勿論だ。」
ウィル様の紅水晶の内側で、蔦薔薇が芽吹いたのだ。無機物である結晶の中でどうして、どのように、と疑問は絶えないが、十年もの間密やかに想い合っていた誠の愛が芽吹いたのだ───と、陛下が発表なされた。そして恐らく、その発表と認識は正しい。わたくし達が愛をささやきあう度に蔦薔薇が成長していると気付けば、ウィル様と二人、顔を見合わせて気恥しさに吹き出すほかなかった。
離れていた十年は長い。けれど、ようやく掴んだ愛をわたくし達はこれからも枯らすことなくお互いに注ぎ続けようと誓った。もうじき、結婚式と即位の儀が執り行われる。実はもう守護神の力を感じ始めている───と、ウィル様に告げたらどんな反応が返ってくることか。柔らかく降ってくる口付けに目を閉じながら、わたくしはようやく手に入れた愛に酔いしれた。