広瀬いくとの発掘!B面ドラゴンズ史

山崎武司vs.ナゴヤドーム 異種格闘3年間の記録

2020年8月28日


反骨の’99年

中日―ヤクルト1回戦 1回裏バックスクリーン右へ2号満塁ホーマーを放ち雄たけびをあげる山崎武司=1999年 ナゴヤドームで ©中日新聞社

中日―ヤクルト1回戦 1回裏バックスクリーン右へ2号満塁ホーマーを放ち雄たけびをあげる山崎武司=1999年 ナゴヤドームで ©中日新聞社


 ドラフトで福留孝介、岩瀬仁紀、FAで武田一浩と強力な新戦力を得て迎えたこのシーズンは、キャンプ時点からドラゴンズを優勝に推す声が多く聞かれるなど、最下位予想が多数を占めた前年とは打って変わって下馬評も上々だった。

 山崎はと言うと、ライバルになるような大砲タイプの外国人の補強もなく、自分に求められているのはホームランだという自覚を新たにして筋力アップに着手。60万円もするメルセデス製の高級ロードバイクを購入し、足腰を徹底的に鍛えあげた(ただしこのロードバイク自体は春季キャンプ中に2度も故障するなどあまり具合がよくなかった)。

 その甲斐もあってか開幕から山崎のバットは好調そのもの。4月13日にはナゴヤドームでは自身初となる満塁ホームランを放つなど火を噴き、セ・リーグ新記録となるチーム開幕11連勝にも大きく貢献した。4、5月で早くも13ホーマーと順調なスタートを切ったかのように思えたが、周囲の評価は決して高くはなかった。その原因のひとつが、試合ごとに調子が変わるムラっ気の強さにあった。

 たとえば5月7、8日の広島戦では合計7打数6三振とからっきしダメかと思えば、その翌日には3ホーマー7打点と爆発したりと、良くも悪くも波が激しく計算し辛い選手というイメージが付いてしまったのだ。そんなことから6月に入るとスタメンを外れる試合がちらほら見られるようになり、ますます調子を落とすという悪循環に陥った。

 特に屈辱的だったのは、いよいよリーグ優勝が現実味を帯びてきた中、本拠地で迎えた8月17日からの巨人戦だった。「真夏の天王山」と騒がれた、首位中日と2位巨人が4.5差で迎えた直接対決。結果を明かすと、投打が噛み合ったドラゴンズが3連勝を飾り、優勝へと大きく近付いた分岐点として語り継がれている名勝負だ。ところが山崎はこの3連戦、スタメン出場はおろか3試合目に代打で1打席に立っただけ。盛り上がるベンチと観客席を、ひとり蚊帳の外から眺めていたら、ふと“引退”の二文字が脳裏を過ぎった。「もう終わりだなと思いました。引退する選手というのは、こうやって野球人生を終えていくのかなあと」。

 登録名を旧字体の「山﨑」に変えたのもこの時期だ。長男の字画が姓名判断によれば宜しくなく、そういえばと戸籍を調べると正式な苗字はこちらであることが分かった。この字なら長男の字画にも合うし、「だったらスコアボードもきちんと直した方がいい」と思ったのが理由だが、「何かを変えたい」という想いもどこかにあったのではないだろうか。

 登録名を変更してから不思議と調子もグンと上がったが、9月に入っても相変わらずスタメンを外されることがしばしばあった。打つ自信はあっても試合に出られない、もどかしさと怒り。その両方がマグマのように山崎の中で煮えたぎるのをよそに、快進撃を続けるチームは優勝マジックを着実に減らしていた。気の早いテレビや新聞では、優勝日予測も始まっていた。

 しかし山崎はこの頃、星野監督から「もし優勝しても日本シリーズでお前は使わん」と毎日のように“口撃”を受けていたという。星野流の檄だったのだろうが、山崎のフラストレーションは限界にまで達していた。

 思えばナゴヤドーム移転後、いつも山崎は逆境にばかり立たされてきた。“かつてのキングの凋落”はメディアにとっても格好のネタになり、不振をあげつらうような記事を厳しく書き立てられることもあった。苦節10年の末にようやく掴んだ栄光をいとも簡単に奪った新球場ーー。キング戴冠後の3年間は、ナゴヤドームとの戦いだったと言っても過言ではない。

 9月26日、マジック6で迎えた阪神戦は、奇しくもそのナゴヤドームでのシーズン最終戦だった。

恩讐の彼方に

中日×阪神25回戦 9回裏左翼スタンドへ逆転サヨナラ3ランを放ち喜ぶ山崎武司=1999年 ナゴヤドームで ©中日新聞社

中日×阪神25回戦 9回裏左翼スタンドへ逆転サヨナラ3ランを放ち喜ぶ山崎武司=1999年 ナゴヤドームで ©中日新聞社


 打った瞬間、それと分かった。高々と舞い上がる打球の行方を確かめるまでもなく、山崎はその場で雄叫びをあげ、力強くバンザイをした。ちょうど「X」字のような格好で2、3秒静止したあと、今度は腕をぐるぐると回し、快哉に満ちた表情でベンチの一点を指差しながら、こう叫んだ。

 「どうじゃー! ぼけ、おっさん! 俺を使えば打つんじゃ!」

 奇跡の逆転サヨナラ3ランホームランを打ったヒーローの言葉としてはあまりに品がない。しかし山崎が抱えてきた鬱憤がすべて詰まった、魂からの叫びだった。言うまでもなく、“おっさん”とは星野仙一を指す。おそらく合計11年間に及ぶドラゴンズでの監督生活で、星野のことを面と向かって「おっさん」、「ぼけ」呼ばわりした選手は山崎だけだろう。それも大衆の面前で、指を突きつけながら。

 まるで優勝を決めたかのように異様な歓喜で包まれるスタンドからは、五色のテープが次々に投げ込まれた。溢れんばかりの拍手喝采を味わうようにしてダイヤモンドをゆっくりと一周した山崎は、チームメイトからの手荒い祝福を受けたあと、ホーム後方で涙を浮かべながら待ち構えていた星野監督と抱擁を交わした。

 恩讐の師・星野との戦いに勝った。同時にこれは、ナゴヤドームという“魔物”に一矢報いた瞬間でもあった。「プロ生活1,2番の当たり」と自画自賛した快心の一打は、あれだけ苦しめられ続けてきたナゴヤドームの高いフェンスを悠々と超え、レフトスタンドに突き刺さった。いかにも山崎らしい豪快な打球だった。3年間に渡る格闘の末に、最後の最後で山崎はキングの意地を見せつけたのだ。

 興奮さめやらぬ中でのヒーローインタビューで語った「ぜったい優勝してナゴヤに戻ってくる」という高らかな宣言どおり、この4日後に神宮球場で11年ぶりのリーグ優勝を決めたドラゴンズは、日本シリーズを戦うべく再びナゴヤドームに凱旋したが、そのメンバーの中に山崎の姿はなかった。

 9月30日の優勝決定試合の4回表、ファースト守備の際に打者走者と交錯し、左手首を骨折。出場はおろか、試合後のビールかけにすら参加できない重傷を負い、山崎の’99年シーズンはひっそりと幕を閉じたのだった。
 

キングのプライド

ヤクルト×中日 山崎左手首骨折 1999年 ©中日新聞社

ヤクルト×中日 山崎左手首骨折 1999年 ©中日新聞社


 患部が固定され、ようやくバットを握れるまで回復したのは、故障から約4ヶ月後、翌年1月に入ってからのことだった。実は’94年にも左手の有鈎骨を折っているが、「あの時よりひどい」と認める重傷は、バッティング・スタイルそのものを変えざるを得ないほどの深刻な影響を及ぼした。「思い切ったスイングができない。これでは野球にならんなあ、ブンブン振り回すのは難しいなあ」ということで、手首の負担が少ない確実性を重視したバッティングに転換した。

 その結果、ホームランが減った代わりに打率が上がり、’96年以来となる3割打者の称号を手にした(打率.311、18本)。このあたりに元々山崎が持っていた非凡な野球センスの一旦が垣間見えるが、周囲が山崎に求めるものはやはり長打であり、ホームランだ。柄に合わない成績はあまり査定には繋がらず、山崎は提示された金額を渋々受け入れたものの、心中穏やかでいられなかったのも確かだろう。

 ’00年からトレードで去るまでの3年間、山崎はナゴヤドームでトータル16本のアーチをかけたが、この頃にはもう、昨年までのような「なんとしてもナゴヤドームを克服し、監督を見返してやる」といったギラついた反骨心は、ファンの目から見ても感じられなくなっていた。あの奇跡のような一打で燃え尽きたのか、あるいは怒りの矛先が球場や星野監督よりもフロントへと向いたのか。

 いずれにせよ、ホームランキングとしてのプライドを剥きだしにした山崎を見たのは、あの打席が最後だったように思う。

 

 失意、逆襲、反骨ーー。山崎がさまざまな激情を抱えながら格闘したナゴヤドームは、今日も何食わぬ顔でそびえ立ち、相変わらず多くの打者を泣かせている。選手として脂の乗り切った時期にこの球場を本拠地として戦わなければならなかった山崎は、あまりにも酷だった。

 ただ、苦労したイメージばかりが付きまとうが、’97年から3年間のOPSは.797、.838、.873と、今になってみれば十分健闘していたことが分かる。当時は打撃三部門の数字だけで評価される時代。もしこうした指標で正当に評価されていれば、まったく違った未来があったように思えてならない。

 とは言え、やはり山崎といえばホームランだ。後年、楽天で再び花開き、39歳にしてホームランキングに返り咲いたのは周知の通りだが、やはりドラゴンズのユニフォームを着てガンガン打ちまくる山崎の勇姿をもっと見たかったのが本音だ。

 いまドラゴンズには、将来が有望視されるスラッガーの卵が何人もいる。できればこの選手たちには、伸び伸びと本拠地の打席に立って欲しい。山崎のホームランに魅了されてドラゴンズのファンになった人間としては、切にそう思うのである。

中日-楽天 オープン戦  引退試合のセレモニーであいさつする山崎 =ナゴヤドームで  ©中日新聞社

中日-楽天 オープン戦 引退試合のセレモニーであいさつする山崎 =ナゴヤドームで ©中日新聞社


 
【主な参考資料】

・中日スポーツ

・週刊ベースボール(ベースボールマガジン社)

・月刊ドラゴンズ(中日新聞社)

・山﨑武司『さらば、プロ野球〜ジャイアンの27年』宝島社、2014

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