山崎武司vs.ナゴヤドーム 異種格闘3年間の記録
2020年8月28日
「付けるべきか、付けざるべきか?」
いま名古屋の至る所で喧々轟々の大激論を呼んでいる最もホットな話題といえば、ナゴヤドームのホームランテラス設置をめぐる賛否を置いて他にあるまい。
ホームランテラスは2015年にソフトバンクホークスの本拠地・福岡ヤフオクドーム(当時)に付いたのを皮切りに、昨年は千葉ロッテマリーンズの本拠地・ZOZOマリンスタジアムが採り入れ、思惑どおり両球団のホームラン本数は設置前と後とで顕著に増加した。こうなると、黙っているわけにはいかないのが中日ファンだ。
12球団で最もホームランが出にくい球場であるナゴヤドームを本拠地とするドラゴンズは目下、チームホームラン数でリーグ最少を独走。ここ5年間でも4度ワーストに沈むなど、“野球の華”と言われるホームランとは縁遠い状況が続いている。
「行った!」と思った打球がフェンス手前で失速し、「入れ!」と念じた打球が青い壁に跳ね返されるたび、深いため息と共にこんな言葉が口をついて出るのだ。「テラスがあればなあ」と。
そんなわけで私はテラス設置を熱望している“賛成派”だ。理由は単純で、ホームランがたくさん出た方が楽しいと思うから。ナゴヤ球場時代の、いわゆる強竜打線を見て育ったという野球観戦の原体験も少なからず影響しているだろう。
背番号22のヒーロー
私が野球を熱心に見るようになったのは’96年のこと。まだ細かいルールは分からなかったが、東海地方に住んでいたので中日の試合は必ずどこかのチャンネルで放送していた。父親が中日ファンだったので、私もなんとなく青い方を応援するようになっていた。そうやって毎日観ていると、いつのまにか選手の名前や特徴も覚えていくものだ。
すると打線の中にひとり、まるで白球をピンポン球のようにスタンドインさせる選手がいることに気付いた。背番号22。ふてぶてしい面構えのその選手の名は、山崎武司といった。昔から巨人ファンで地元の中日には入りたくなかったとか、元々キャッチャーだったが1試合で正田耕三に5盗塁を許して失格の烙印を押されたとか、諸々のエピソードを知ったのはずっと後のこと。
小学生だった私の瞳にはただ、誰よりもたくさんのホームランをかっ飛ばすこの山崎という選手がまぶしく、ヒーローのように映っていた。しばらく経つまで「ヤマ“ザ”キ」だと思っていたのはここだけの話だが。
この年は巨人松井秀喜、同僚の大豊泰昭との熾烈な争いを制し、初のホームランキングを獲得。ウエスタンリーグで2年連続二冠王に輝き、星野監督から「将来クリーンアップを張るのは大豊と山崎だ」とホープに名指しされてから既に6年もの歳月が経過していた。長い下積みを経て、ようやく幕が開けたかに思われた山崎の栄光ロード。
しかしそこに立ちはだかったのは、相手チームによる研究でも強力なライバルの存在でもなく、あろうことかピカピカの新本拠地・ナゴヤドームという名の“魔物”だった。
失意のドーム元年
「しっかりしたバッティングがあれば、球場の狭い、広いは関係ない」
タイトルホルダーの称号を引っ提げて迎えたドーム元年、山崎は自らにそう言い聞かせて開幕に臨んだ。実際にグラウンドに下りてみて「東京ドームより広いかな」と感じた新本拠地だが、バッティング練習をしてみたところ「しっかり当たれば予想より飛ぶ」という感触も得た。当時、ドームは気圧や空調の関係で屋外球場よりも飛距離が出るという言説が、それなりの科学的根拠らしきものをもって大マジメに広まっていたのだ。
表情には出さないものの、内心期するものはあった。「今年が本当の勝負」と気を引き締め、苦手な走り込みも手を抜かなかった。球界きっての大食感で知られるが、オフの祝賀会など誘惑も多い中で減量を敢行してキャンプに入った。2年連続のキングへ向けて、準備は万端ーーのはずだった。
ところがいざ実戦に入ると、山崎はこの球場の怖さをいやが上にも思い知らされることになる。まずオープン戦でわずか1ホーマーに終わると、シーズンに入っても昨シーズンのような豪快なスイングは影を潜め、ようやく本拠地1号が出たのはチーム39試合目、5月22日の阪神戦まで待たなければならなかった。「やっと打てた。もうここでは打てないのかと思った」との言葉が、悩みの深さを物語っている。
こんなはずはないと焦れば焦るほどドツボにハマり、ホームランだけではなく昨年3割を超えた打率も2割6〜8分と低迷した。外野が広くなった影響は守備にも表れた。8月16日のヤクルト戦。同点で迎えた5回、ふらふらっと上がった打球を追いつけずにヒットにし、さらに脇に逸らす間に打者は二塁へ進んだ。このあと、星野監督は山崎をベンチにひっこめた。決して俊敏ではない山崎にとって、広大なナゴヤドームのレフト守備はあまりにも負担が大きすぎた。
夏場になっても状態は思うように上がらず、「2人でもらいすぎた分(年俸)を返そう」と同じく不振に陥っていた大豊と冗談を言って慰め合うのがやっとだった。結局キングどころか昨年の半分以下の19ホーマーに終わり、そのうちナゴヤドームで打ったのはわずか9本。ある程度は覚悟していたものの、ナゴヤドームという魔物は山崎にとって思っていた以上に厄介な難敵としてそびえ立った。
さらに追い討ちをかけるように、全日程終了から間もない10月12日、失意の山崎の元にショッキングなニュースが飛び込んで来た。なんとつい1年前、キングを競った大豊が阪神にトレード放出されたのである。山崎以上にナゴヤドームに苦しめられた大豊は、前年の38ホーマーから3分の1以下の12本にガクンと数字を落としていた。
ダブル主砲の共倒れがチーム最下位という結果を招いたのは明らかだ。こうなれば、やるときはやるのが星野流。このトレードは再建のためには生え抜きスター放出も辞さずという覚悟の表れでもあった。大豊が去り、前年まで3年連続首位打者を獲得していたアロンゾ・パウエルもたった1年の不調であっさりと切られた。同じく不振にあえいだ山崎が残れたのは、おそらく29歳と若かったためだろう。ただし、「来年もダメなら、今度は僕の番ですから」とあらためて覚悟を決める契機にもなった。
季節はまだ初秋。山崎の’98年シーズンは、休む間もなく始まっていた。
逆襲の’98年
「最下位覚悟で優勝を狙う」と宣言し、敢えて十八番の大型トレードを封印。ほぼ入れ替えなしの現有戦力で臨んだドーム元年は、星野監督が覚悟していた通り’92年以来5年ぶりの最下位という結果に終わった。こういうときの星野の動きは素早い。さっそくチーム改造に着手した星野は、手始めに大豊、矢野輝弘と関川浩一、久慈照嘉+金銭補償の大型トレードを敢行。また“韓国のイチロー”の異名を持つ天才打者・李鍾範、条件が合わずにMLB移籍を断念したロン毛の異端児・サムソン・リーの獲得に成功し、“打ち勝つ野球”から“守り勝つ野球”への大胆なシフトを図った。
さらに変革のメスはコーチ陣にも容赦なく及んだ。打てないだけならまだしも、チーム防御率リーグ5位と投壊した投手陣の責任者・小松辰雄に代えて宮田征典を外部招聘。外野守備走塁コーチにはシニアリーグで指導者として実績を残した二宮至が就任し、打撃コーチには若い頃に腎臓を患い、以来“ジンちゃん”の愛称で親しまれてきた水谷実雄を招聘した。水谷は広島コーチ時代にドラフト5位の江藤智を強烈なしごきでホームランキングに育て上げ、近鉄でも中村紀洋を付きっきりの猛特訓で一人前に成長させた、熱血スパルタ系の名伯楽だ。
その水谷に課された使命はズバリ「山崎再生」。秋季キャンプが始まった頃、マンツーマンで徹底的に話し合い、「とにかくバットを振る、バットを振って体の軸を作る」という結論に至った。山崎自身、成績が落ちたのは球場のせいではなく「自分の打ち方が悪かった」ためだと分析。原点に返り、秋も、春のキャンプでもとにかく素振りをやりまくった。
シーズンが始まると、鍛錬の効果はすぐにあらわれた。開幕4試合目、本拠地初戦の阪神戦でいきなり第1号が飛び出したのだ。昨年はこの壁を超えるのに1ヶ月半もかかったことを考えると快調な滑り出しといえた。しかし喜んだのも束の間、すぐにスランプに陥り、4月のホームランは結局この1本だけ。6番ファーストで固定起用されながら月間8打点では首脳陣も、何よりも本人も頭が痛い。その後も低迷から抜け出せず、前半戦終了時点での成績は打率.244、13ホーマーと前年よりも悪い数字でシーズンを折り返した。
それでも使い続けた星野監督の期待に応えるように、かつてのキングは夏場に入り遂にその打棒を発揮し始めることになる。8月に6本、9月に7本と順調に本数を重ね、気づけば横浜との熾烈な優勝争いを繰り広げる中にあって、レオ・ゴメスを抜いてチームのホームラン数トップに躍り出たのだ。ひたすら失意を彷徨った昨年とは違い、この頃には「心地よいプレッシャー」を感じながら、優勝争いを楽しむ余裕も生まれていた。
最終的に打った数は27ホーマー。惜しくも30本には届かなかったが、巨人松井、広島江藤に次ぐリーグ3位の本数は前半戦の不甲斐なさを思えば驚異的なV字回復といえよう。また無類の勝負強さを発揮し、リーグ最多勝利打点16を稼ぎ出したことで最優秀JCB・MEP賞を受賞。このとき会場で飛んだ「本当はダウン査定だったが、アップに修正しないといけないな。 ワッハッハ」との佐藤毅球団社長の“鶴の一声”により、年末の契約更改では2千万円アップ+タイトル料5百万円(金額は推定)の提示で実質的に1億円プレーヤーの座を掴み取り、すっかり自信も取り戻した。
一見すれば山崎はナゴヤドームを克服したかのように思えたが、その内訳を見ると、残酷な数字が浮かび上がる。27ホーマーのうちナゴヤドームで打ったのは、なんと前年を下回る8本だけ。ビジターでは打てるようになったものの、肝心の本拠地で打てない状況はまったく変わっていなかったのだ。
もしあと数本でも打てていれば2年ぶりの30ホーマー到達となり、年俸もさらに増えていたのは間違いない。2年続けて山崎は、ナゴヤドームに泣かされたのである。
次ページ≫ そして’99年 奇跡の逆転サヨナラ「X」ホームランが生まれる