現在このページは批評中です。
序章
欠伸をしたくてたまらない。
大森信介は、これ以上我慢するのをやめた。持っていたシャープペンをノートの上に置き、空いた手を口元へそっと持っていき、欠伸をした。ほんのりミントの香りがする。やはり海外から取り寄せた歯磨き粉は市販のよりちゃんとミントの香りがする。昨晩、寮の自室でこの歯磨き粉を楽しみに使ってみたが、やはりいい。取り寄せて正解だった。
「いいか、ここは特に重要なとこだ。ちゃんと覚えておけよ」
質素な教室に響き渡るその声に、大森は口元から手を離した。シャープペンを握り直し、前方にある黒板へと目を向ける。黒板の辺りにいるのは機動部隊-12の隊長であり訓練官、斉藤は、手にしている出席簿を睨みながら続けた。
「そこ、誰だ?松山か。早く来い」
「はいっ」
右隣の席にいた松山綱紀の返事は、緊張のせいか上擦っているように聞こえた。前へ出て教壇に上がった松山に、斉藤は背を向けた。
「始め」
松山が斉藤に近づきレプリカのハンドガンを取り出した。「あなたは何者ですか?」
「はぁ」斉藤が振り返った。「いきなり何ですか、私は今日ここに配属された研究員ですよ」
「失礼、少し聞きたいことがあるので」
「何ですか」
「あなたの職員コードを見せてもらいます」
「私の職員コードですか?何故あなたに教える必要があるのですか」
松山は目を泳がせたまま口を閉じたままだった。短いようで長く感じる沈黙がこの教室に続いた。
「まぁ、いいでしょう」
斉藤は、胸ポケットから職員コードが記された名札を松山に見せた。「これが私の職員コードですよ」
「では、あなたの持ち物を見せてもらいます」
斉藤が、手にしていたファイルを自分で見せるような素振りを見せる。
「拝見させてもらいっ……」
ファイルの中身を見ようとした瞬間だった。斉藤は足首辺りに隠していたナイフを松山の首──頸動脈がある辺りに突きつけた。
「……十点だな。甘めにみても」
松山は固まった。その他の訓練兵も咄嗟の出来事に声を出せずにいた。
「ここまでだ」
斉藤がナイフをしまうと、皆弛緩した。
松山は瞬きを何度かしたあと、息苦しくなったのか、深呼吸を数度した。
「松山。言っとくが、いきなりナイフを突きつけられて何も出来ないようじゃあ、部隊兵として情けないぞ」
「すいません……」
「ところで、俺がナイフを隠していたことを知っていたか?」
無言のままの松山に、斉藤の表情は険しくなった。
「どうなんだ」
「……分かりませんでした」
「何度か言ったはずだよな。ひ弱な研究員だからと言って、相手の行動や服装から敵の工作員か予測しろって。本当だったら死んでいたぞ」
「本当にすいません」
「まぁ、席に戻れ」
そう言ってから、再度訓練兵たちに向き直った。
「よく聞けよ。機動部隊は敵性オブジェクトを鎮圧や抑制するだけではない。財団の機密情報の漏洩防止や有力研究員の防衛も任務の一つとなっている──」
ここで一度咳払いをして、言葉を切った。唾が気管に入ったのか、腰を曲げ本格的に咳き込んでいた。
ふと、大森は教室のドアを見やった。
またいる。昨日もドアの小窓から教室を覗いている。五十後半。茶髪混じりの頭。何かを監視しているような鋭い目…。昨日の発砲訓練でも発砲場の隅に立っていた、先週の基礎訓練時も、校舎の窓からグラウンドにいるおれたちを覗いていた。この人が質疑想定実習の授業に現れたのは、少なくても二回だ。最後に見たのは終了五分前に、覗きに来ただけだったか。けど、三十人を五つの班に分けて行う質疑想定実習となった今日の訓練では、一班の代表者が実施したときには、既にあの人は窓から覗いていた。いったい誰なんだ。ここの訓練校の上官なのか……。「えぇ、つまりだな」咳払いを止めた斉藤が、後ろで手を組ながら続けた。
「質疑はエージェントだけの仕事ではないことだ。決して侮ったり、楽観視するな。いいな。──次、三班。誰だ、代表者は?」
「はいっ」
大森は起立して、教壇に向かった。
「失礼、あなたは誰ですか」
背を向けた斉藤にレプリカのハンドガンを向けながら近づくと、微かに日本酒の臭いがした。明日から禁酒する──昨日の一限に訓練兵の前で高らかに宣言した誓いは、一日も持たずに破られたようだ。教官のくせに情けないと心の中で思った。
「誰って、私はここの研究員だ」
まだ唾が気管に詰まっているのか、大声を出しすぎたせいなのか、振り向いた斉藤の声に先ほどまでの強みはなかった。
「あなたが持っているファイルを拝見します」
「やめてくれないか。この中には機密性の高い情報が入っているんだ。財団の職員だからといって見せるわけにはいかない」
斉藤は誰にも取られないような仕草をする。
「失礼、これも業務のため……」
「さっきも言ったが、財団の職員だろうが業務だからって素直に渡すわけがないだろう」
大森は口をつぐんだ。
「まったく。まぁいいよ、ほらご自由に」
斉藤がファイルの中身を取り出した。大森がその様子を黙って見てると、斉藤はふいにファイルを取り上げ、静かな声で言った。
「気をつけ」
大森は背筋を伸ばした。
「銃を置いて、向こうを向けろ」
斉藤が顎で示したのはドアの方だった。言われたとおりにすると、窓越しにあの人と向き合う状態になった。あの人と初めて目が合ったことだった。
「腕立ての姿勢だけをしろ」
その場で腕立ての姿勢をしながら、心の中ではどこか安堵していた。腕立て百回と言われたらどうしようと思ったが、確かに斉藤は腕立ての姿勢だけをしろと言ったのだ。よし、と声がかかったのは腕立ての姿勢を保ってから一分後ぐらいだった。
「そのまま三分間耐えろ。姿勢が崩れた場合、連帯責任として全員腕立て百回をしてもらうからな」
「……分かりました」
「話を変えよう、大森。おれがファイルの中身を一つ抜いたのを気がついたか」
「…すみません。気がつきませんでした」
「もしその中身が既に盗まれた機密情報だった場合どうする?異常ありませんで終わったら一貫の終わりだ。違うか?」
「…そうです。すみませんでした」
教壇の底に顎がつきそうになる。腕に十分な力が入らないからだ。昨夜、日課である筋トレで右肩を痛めたことがここに響くとは。
「さらに言えば、ファイル類やバック類を相手に開けさせる馬鹿がいるか。警察学校でさえ厳しく指導されていることだ」
斉藤がしゃがんだせいで、酒臭さがさらにきつくなった。
「お前が警察学校で学んだことは──」
頭をひぱったかれた。視界が揺れる感覚を覚えた。
「何のためにあるんだ。さっきも言ったが盗まれた情報が機密性の高いものだったらどうするんだ。お前が全責任を負えるのか?負える訳がないだろう」
「…申し訳ありません」
「五点。甘めでつけてな。生易しい所じゃないんだぞ、ここは」
斉藤が遠退いた。そしてあるものを目の前に置いてきた。
「これは…?」
「除隊届。さっきも言ったがここは警察学校ではない。俺たちが相手するのは世界を滅ぼす化物たちだ。お前がいても隊の邪魔になるだけだ」
「…やめる気はありません」
「やめてしまえ、お前には無理だよ」
今度は背中に重い負荷がかかった。斉藤は徐々に自分の体重を乗せてくる。
「…いえ、やめません。絶対に…」
「はぁ……」と酒臭い溜め息をついた斉藤は少し考えてから、体重をかけることを止めてこう告げた。
「ならその姿勢を次の授業まで続けろ。崩れた場合、すぐ除隊手続きをとるからな。──いいな」
次の授業まであと十五分。苦しさを少しでも紛らわすため、大森はドアの小窓ヘと目を向けた。そこにあの男の姿はいなかった。