ラオパンです。
今回も前回に引き続き、田中社長の教えに従い倒産パターンを学んでいきたいと思います。
倒産パターンを学ぶのに参考にする本は、今回もこちらです;
この二冊の事例を、私なりに幾つかの倒産パターンに分類してみました。
数回に分けて各パターンと事例を紹介しますが、今回がその3回目です。
あなたが経営者として一歩でも田中社長の領域に近づけるよう、手っ取り早く倒産パターンをインプットするのに役立ててください。
倒産パターン3:経営者に理念や目的がない
「目的と手段」を履き違えた時、組織や集団はあらぬ方向へと突き進んでいってしまう
「大きな嘘の木の下で」(田中修治氏著)
田中社長は『失敗の本質』という本を読んでこのことを理解されたそうです。
私も随分前に同じ本を読みましたが、そこまでの学びには至りませんでした😓
また、目的・目標・手段という3つの言葉を田中社長が以下のように整理してくれています☟
「目的」=実現しよう、成し遂げようと目指す事柄。最終的に到達すべきこと。
「目標」=意図している事柄を達成する為に設けた目当て、具体的に達成するべきこと。
「手段」=目標に到達する為に、とるべき具体的な方法。(中略)
「目的」=「関わる人たちを豊かにする」
「大きな嘘の木の下で」(田中修治氏著)
「目標」=「売上1000億円、利益100億円」
「手段」=「メガネを販売する。世界的なアイウェアブランドを作る」
この3つの言葉のなかで、社内で目的について語られることって少なくないですか?
目標はやたらと耳にするけど、目的ってあまり耳にしないのは、私の会社だけでしょうか?
私は、目標を掲げるメリットより、目標を言い過ぎるデメリットの方が大きいって考えています。
昨年、台湾子会社社長を任命されたとき、私は業績目標を社内で掲げないって決めました。
で、昨年の本社での会議中、私は「台湾子会社は社内で業績目標を掲げません」って宣言しました。
そしたら・・・社長に怒られました😰
この社長にいつか反撃してやろうと、自分なりに業績目標の弊害を示す事例を集めてみました。
すると、それらの事例の経営者には共通して、理念や目的が感じられないことに気付きました。
いずれの事例も、経営者に理念や目的がなく、でも業績目標は高く強く掲げていたのです。
ということで、経営者に理念・目的がなくて会社が倒産した事例を紹介します。
エンロン
エンロンの経営破綻は、当時、米国史上最大の企業破綻として大きなニュースになりました。
巨額の粉飾決算に関与していたとして、大手監査法人のアンダーセンも解散に追い込まれました。
また、これがきっかけとなり、企業の不祥事への厳しい罰則を盛り込んだSOX法が誕生しました。
エンロンの繁栄から倒産までは、ざっくり以下の通りです;
エンロンは、米政府の規制緩和の流れを背景に、金融工学を活用して「ニューエコノミー」を創出しガス・電力・水道取引事業を拡大、全米が注目する急成長企業に飛躍した。
しかし、粉飾決算疑惑が報道され、株価は一気に急降下〽
粉飾決算疑惑報道から1年も経たずに、300億ドル超の巨額の負債を抱えて倒産しました。
ちなみに、エンロンの創業から繁栄の歴史は下記の通り;
- 1985年に創業、元々は地味なガスパイプライン会社
レーガン政権の規制緩和の流れを背景に事業拡大 - 1989年にガスバンク事業を本格的スタート
デリバティブを活用して安定的な価格で天然ガスを提供する仕組みを組成
その後、金融工学と契約手法を組み合わせた仕組みを電力や水道にも活用し事業拡大 - 2000年度には売上高で全米第7位の1000億ドル超え
全米が注目する急成長企業に飛躍
一方、エンロンの繁栄からの転落は下記の通り;
- 2001年4月に財務諸表に疑問を持ったアナリストからの質問にまともな回答せず
危うさを感じたヘッジファンドが空売り、株価は一気に急降下 - 2001年10月にウォールストリートジャーナルが粉飾決算疑惑を報道
- 2001年12月に連邦倒産法第11条(チャプター11)の申請
粉飾決算などの不正がダメなことくらい、誰でも知っています。
なのに、なぜ、エンロンは粉飾決算に手を染めたのでしょうか?
「世界倒産図鑑」のなかでエンロン社内について以下の通りに述べられています。
結果に対する強烈なプレッシャーが存在していた
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
(略)
半年に1回の評価があるのですが、その評価で5段階のうち最低ランクに位置付けられた人(下位15%)は、追放されるという仕組みです。
(略)
一連の不正を仕組んだ張本人と言われるファスタウCFOは、スキリングCEOからクビにされるという焦りを常に感じていたと言われます。
こうしたエンロン社内のプレッシャーや焦りって、エンロンだけのものでしょうか?
あなたの会社でも、当然、業績評価がありますよね?
あなた自身も、業績や結果に対して少なからずのプレッシャーを感じたこともあるでしょう。
資本主義社会で生きている限り、ビジネスで結果が求められるのは避けられません。
社内での役職が上位になればなるほど、重い結果責任がのしかかってきます。
逆にそれが快感になり、私は社内で「結果で評価してくれ」って息巻くこともたまにあります😓
けど、業績という結果だけを評価する成果主義の人事評価制度はやり過ぎです。
会社の理念や方針に沿った行動をしているかも含めた総合評価制度にすべきです。
以前にも紹介しましたが、私は台湾子会社で総合評価制度を採用しています。
では、このような成果主義の人事評価制度を作った経営者はどういう人だったのでしょうか?
エンロンの経営者が描く会社の理念や方針はどういうものだったのでしょうか?
「世界倒産図鑑」でエンロン経営者について下記のような記述があります。
SPEを隠れ蓑にして、損失隠しや幹部陣が私腹を肥やすための不正を働いていたこと
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
いやあ、見事なまでに最低の経営者ですね😱
こんな経営者に理念や目的などあるはずないですよね。
エンロン経営者は結果だけを追い求め、社員にもそれだけを求めていた、ってことでしょう。
経営者が結果だけを求めると、会社は暴走する。
そんなことを教えてくれる事例ですね。
山一証券
山一と言えば、社会人一年目に参加した某合同新入社員歓迎会を思い出します。
その中で、スーツをバシッと着た山一の新入社員がとびきりイキっていたのが印象的でした。
当時ゼネコン社員の私は作業着で参加だったので「あいつら何であんなにイキってんねん」って😠
今考えれば、単なる私の嫉妬でしたね🤣
それから数ヶ月後に山一倒産のニュースを見てビックリ😮社会の厳しさを知りました。
山一証券の繁栄から倒産までは、ざっくり以下の通りです;
山一は資金調達に悩む企業のパートナーとして「法人の山一」のポジションを確立した。
大手四社最下位からの脱出を目指し、バブル期に企業の財テクを一任する「営業特金」を積極的に受注し業績向上に成功した。
しかし、バブル崩壊により、株価が急落し、営業特金が元本割れした。
顧客とのトラブル回避のために損失補填と飛ばし(赤字を子会社に付け替え)を行った。
1997年4月にその損失補填と飛ばしが発覚し、同11月に自主廃業を発表した。
ちなみに、山一証券の創業から繁栄の歴史は下記の通り;
- 1897年に創業、「個人の野村證券」に対して「法人の山一證券」というポジションを確立
- 戦前、重工業化のなか、企業側の資金調達ニーズに寄り添い證券会社のトップに上り詰める
- 戦後、高度経済成長期に日本の株式市場で空前のブームで業績復活
- ブームの反動で1961年から1965年までの証券不況のなか経営危機に陥る
この経営危機は日銀特別融資で救済され、1965年から1970年のいざなぎ景気で復活 - 1985年のプラザ合意でバブル期に入り、株価が高騰
企業が有り余る資金の財テクを一任する営業特金の受注に邁進
大手4社最下位からの脱出を目指す
1987年から1990年には毎年1000億円以上の経常利益を計上
一方、山一証券の繁栄からの転落は下記の通り;
- 1992年3月期に1964年以来の赤字を記録
その後も、1993年3月期、1995年3月期、と赤字を記録 - 1997年3月期に約1700億円の過去最大赤字
- 1997年4月に週刊東洋経済が損失補填と飛ばし疑惑を報道
- 1997年7月に総会屋の利益供与事件で東京地検の強制捜査、会長及び社長が引責辞任
- 1997年11月に自主廃業を発表
山一証券のバブル期の飛躍そしてバブル後の転落の主要因が営業特金です。
この営業特金は山一にとって正にも負にも働いたのですが、負の面の仕組みはこの通りです☟
この営業特金には問題を孕んでいました。
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
本来事前に利回りを約束することは違法でしたが、やがて競争がエスカレートすると、内々に名刺の裏書きなどで利回りを約束し(=「握り」)、その利回りに届かずに損失が発生した時には事後に損失を補填する
当時、他の証券会社も同様に営業特金の受注合戦に邁進し、同様に「握り」をやっていました。
しかし、山一が他社よりも営業特金に入れ込み、損失を拡大させたのはトップダウンの号令です。
山一は引き続き大手の4社の最下位という位置付けから脱しようと、法人顧客を頼りに売上を伸ばそうとします。その施策の一つが「営業特金」という仕組みでした。
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
(略)
バブルの中、具体的な運用方法を決めずに、証券会社に運用を任せるものが出てきました。これが「営業特金」です。
(略)
山一は、「営業特金を1兆円集めろ」というトップダウンの号令により、この営業特金で全社の6割に当たる利益を上げることに成功します。
(略)
営業特金の「握り」の危険性を顧みずに最後までアクセルを踏み続けた
こうして膨らんだ営業特金の損失という問題に対して、山一の経営者は問題解決ではなく問題先送りを選択してしまいました。
当時の社長だった行平次雄氏は顧客とのトラブル回避のために補填を指示し、そこで抱えた赤字を子会社に付け替えること(=「飛ばし」)を決定します。
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
つまり、表面的なトラブルを回避して隠すことにしたのです。
この対応について興味深い考察を見つけましたので、ここに紹介します☟
90 年 2 月の段階で(略)営業特金運用金額は 1 兆 8000 億円程度,そのうち評価損(含み損)は 1300 億円程度
「山一証券の経営破綻とコーポレート・ガバナンス」(服部泰彦氏著)
(略)
バブル末期の 90 年 3 月期,山一の経常利益は過去最高の 2336 億円で,経常利益の半分強で簿外の含み損を帳消しにすることができたはずである。
行平たちは,「大手四社」のメンツにこだわり,経営責任を問われることを恐れるという自己保身から,この損失を表面化させ問題を完全に処理することを回避した。
えっ、嘘~~~😱って思いました?
含み損を出しても今年度は経常黒字。
でも、大手4社から脱落してしまうし、経営責任を問われるかもしれない。
だから・・・隠す!!
当時の山一の社長はこんな思考回路だったんでしょうね。
営業特金に注力したとき、山一の経営者は大手四社最下位からの脱出を目指しました。
営業特金の含み損を隠したとき、山一の経営者は大手四社のメンツを保つことを重視しました。
けど、疑問ですよね😞
山一の経営者は、誰の、何のために、大手四社最下位から脱出したかったのでしょうか?
そして、誰の、何のために、大手四社のメンツを保ちたがったんでしょうか?
山一の経営者のトップダウンの号令の背後に理念や目的はなかった、って思いませんか?
経営者が理念や目的もなく掛ける号令は、会社を破滅に向かわせる。
そんなことを教えてくれる事例ですね。
北海道拓殖銀行
山一と同じく拓銀も私が社会人一年目に倒産しました。
証券会社や銀行など華やかに見えた金融機関さえも安泰ではないってことに、ゾクッとしました。
北海道拓殖銀行の繁栄から倒産までは、ざっくり以下の通りです;
北海道拓殖銀行は、道内最大手の銀行としてブランドを築き、地元経済基盤を支える道内のリーダー企業として成長した。
バブル期の金利低下による「金余り現象」に対応するため、道内の新興企業を育成するインキュベーター案件に活路を見出し、1990年には最高益を出した。
しかし、バブル崩壊によりこれら融資先の担保割れが続出し不良債権化した。
1996年に投資不適格と格付けされたため預金の流出が始まり、翌年に営業譲渡を発表し倒産した。
ちなみに、北海道拓殖銀行の創業から繁栄の歴史は下記の通り;
- 1900年に北海道開拓資金提供のための国策特殊銀行として設立
- 戦後は民間銀として再スタート
- 1955年には都市銀行の仲間入り
道内最大手の金融機関として道内での信頼・ブランドを築く - 1985年のプラザ合意後のバブル期に度重なる金利低下により「金余り」現象
道内の新興企業を育成するインキュベーター案件に活路を見出す - 1990年に最高益を出す
一方、北海道拓殖銀行の繁栄からの転落は下記の通り;
- バブル崩壊後の1991年に融資先会社の担保割れが続出し不良債権化
- 1994年には9600億円もの多額の不良債権を抱える
- 1996年にはムーディーズの格付けが「投資不適格」となる
信用力低下により預金の流出が始まる - 1997年11月に経営破綻、北洋銀行への営業譲渡を発表
北海道拓殖銀行が倒産した主要因は、インキュベーター案件の多くが不良債権化したこと。
つまり、バブル期のインキュベーター案件への融資審査が甘かったことが原因です。
「世界倒産図鑑」に、当時の拓銀審査機能が形骸化していた様子を以下の通りに描述されています。
バブルの真っ只中に設けられた「総合開発部」という組織にあります。
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
これは従来、別の組織に置かれていた「営業機能」と「審査機能」が一体化された組織体制です。当時は何とか貸出先を見つけたいし、それがノルマ化されていたので、一般的に審査は甘くなりがちです。それが同じ組織の中に入れば、結果は火を見るより明らか。
(略)
「一刻も早く融資案件を取ってこなくてはならない」という焦りが、審査という重要な機能を形骸化させる組織体制を作ってしまったわけです。
焦りが審査機能を形骸化させたのです。
では、拓銀の経営者は何に対して焦りを感じていたのでしょうか?
当時の拓銀には、(略)「焦り」があったのだと思われます。
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
都銀としてのプライドと地銀との競争、道内他行との競争、(略)
拓銀の経営者の焦りは競争だったようです。
でも、拓銀の経営者は、誰の、何のために、競争していたのでしょうか?
拓銀が焦りを感じていた競争は、顧客を置き去りにしていなかったでしょうか?
その競争は、拓銀との取引が自社ブランドを高めると喜ぶ顧客が求めていたことなんでしょうか?
市場での競争は、確かに存在しています。
しかし、顧客を置き去りにした自己満足な競争は、暴走し歯止めが効きません。
「ライバルと張り合うことに専念するのをやめ、顧客と併走できるように思考を改める」
私たちは、拓銀の例を反面教師にして、DX時代に必要な思考を手に入れましょう。
では、ライバルのことはどのように捉えれば良いのでしょうか?
私は、競争相手ではなく学習対象としてみるようにしています。
ライバルの良いところを吸収しようと、ライバルが何をどうやっているか研究しています。
ライバルと競うのではなく、ともに学び、より良いものを顧客に届ける、って感じですね。
経営者が顧客を置き去りにした競争をしていると、会社の暴走は止まらなくなる。
そんなことを教えてくれる事例ですね。
千代田生命保険
生命保険不要派なので千代田生命保険って知りませんでした。
っていうか、ただの勉強不足です、スイマセン😓
今はプルデンシャル・ファイナンシャル傘下のジブラルタ生命保険に継承されているそうです。
因みに、破綻した国内生命保険会社8社のうち6社がプルデンシャル・ファイナンシャル傘下に吸収されているそうです。
千代田生命保険の繁栄から倒産までは、ざっくり以下の通りです;
千代田生命保険は業界初の商品を次々と発売し、業界の先駆者的役割を担った。
一方、保守的経営のため、徐々にシェアを落とし、大手から脱落〽
バブル期に就任した「営業のドン」と呼ばれたカリスマ社長のもと、積極的な営業攻勢と投融資先開拓により、再び8大生保入り。
しかし、バブル崩壊によって、株価が値下がり続け、融資先も軒並み回収不能に陥った。
1990年代後半に中堅生保が次々と破綻し信用不安が広がり、契約者の解約が相次いだ。
2000年に更生特例法の適用を申請し倒産した。
ちなみに、千代田生命保険の創業から繁栄の歴史は下記の通り;
- 1904年に創業の歴史ある生命保険会社
戦前は全国行脚で代理店を開拓し幅広いネットワークを築き5大生保入り - 戦後は業界初の商品「団体定期保険」「団体年金保険」「団体信用生命保険」を発売
業界の先駆的役割を担い大手の一角に入り続ける - 「財務の千代田」と呼ばれる保守的な堅実な経営だったが、徐々に競争の中で大手から脱落
- 1982年に「営業のドン」と呼ばれたカリスマ社長が就任
営業職員大量採用、高利率・高配当の新商品開発、ハイリスク・ハイリターンの投融資先開拓、等の積極策により8大生保入りに成功
一方、千代田生命保険の繁栄からの転落は下記の通り;
- 1990年のバブル崩壊、株価は下がり続け、融資先は軒並み回収不能状態
運用はマイナスになり、加速的に悪化 - 1994年には経常赤字を計上
利益を捻出するために経理操作にまで手を出し始める - 1990年代後半に中堅生保が次々と破綻
信用不安が増大、契約者の解約が相次ぐ - 2000年に更生特例法の適用を申請
千代田生命保険倒産の主要因は、バブル期の新商品や投融資がリスク許容度を超えていたこと。
リスク許容度を超えるような商品や融資は、ガバナンスが形骸化したことにより生まれました。
当時の千代田生命保険内でのガバナンス形骸化は以下の通りです☟
「多少リスクのある融資先をスピーディーに開拓しなくては競合との競争には勝てない」(略)
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
審査の意思決定システムを大胆に変えます。
千代田生命は、それまでは融資の実行部門と審査部門を分け、牽制機能を持たせていましたが、この機能を取り払いました。
かつて「財務の千代田」の時代には融資対象にならなかったような企業への投資や融資を次々と実現していきます。
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
(略)
リスクの高い「怪しげな」事業に融資を進めていきます。
なぜ、保守的な堅実な経営をしていた会社が、このようにガバナンスを形骸化させたのか?
それは、「営業のドン」と呼ばれたカリスマ社長の掛け声です。
「量を増やすことが全て」という掛け声
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
「営業のドン」はどうしてそんな前のめりな掛け声をしたのでしょうか?
「私が入社した終戦直後は、生保の中でもトップクラス。しかしうちがボヤっとしている間にズルズルと下がってしまった。」と語る神崎氏にとって、(略)自分たちがかつていた「大手のポジション」への復帰は必須の命題。
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
かつて大手だったにもかかわらず、今や中堅生保という立ち位置に甘んじ、さらにトップとの差が開いていく、ということに対する焦りと屈辱。
「世界倒産図鑑」(荒木博行氏著)
またまた焦りです。
大手のポジションへの復帰という焦りが「営業のドン」を前のめりにさせてしまったのです。
でも、「営業のドン」は、誰の、何のために、大手のポジションに復帰したかったのでしょうか?
拓銀の例で見たのと同じように、顧客を置き去りにした競争をしていたんじゃないでしょうか。
だから、最終的には顧客のほうが千代田生命保険から離れていったのではないでしょうか。
経営者が顧客を置き去りにした競争をしていると、最終的には顧客に置き去りにされる。
そんなことを教えてくれる事例ですね。
今回紹介した倒産事例は、いずれも、経営者が目標を前面に出し過ぎて暴走しました。
暴走の形は、粉飾決算などの不正、又は、ガバナンスの形骸化、のいずれか。
こうした暴走を抑止する取組みや仕組みづくりは、多くの会社でやられているはずです。
しかし、それは対処療法に過ぎません。
対処療法は100%ではなく、また新種のバグが発生すると対応できなくなる恐れがあります。
なので、暴走に走らせた元凶を突き止め、そこを突き詰める必要があると考えます。
それが、理念や目的です。
今回紹介した倒産事例会社には、経営者が掲げる目標の背後に理念や目的が見えませんでした。
「誰の、何のために、この会社があるのか?」
「誰の、何のために、この競争をするのか?」
彼らは、経営者として、そんなことを考えたことがなかったんじゃないでしょうか。
私たちは、彼らを反面教師として学びましょう。
会社の存在目的を考え、そして、それを社内・社外で語りましょう。
それが企業文化の素となり、育まれた企業文化は如何なる身勝手な暴走も許さないはずです。
あなたの会社は、誰の、何のために、存在していますか?
ということで、ラオパン、経営者に理念・目的がなくて会社が倒産した事例を紹介しました。
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