いまさら やめては だめなのだ

反宿坊板、及びそれに類する掲示板へのリンクはご遠慮ください。 串投稿もご遠慮ください。 他者に対する発言は充分な根拠を示してください。



カテゴリ:[ ビジネスと社会/経済 ]


1026件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[952] 『法華仏教研究』第29号

投稿者: ヨーゼフ:クネヒト 投稿日:2020年 4月26日(日)14時35分31秒   通報   返信・引用

https://hokkebukkyoukennkyuu.theblog.me/posts/8040476?categoryIds=1855426

>日蓮「一天四海」の用法と変容………丹治正弘

何百万だか何千万だか巨額の不正流用が発覚して左遷された元・学会本部職員が寄稿しています。
普通なら刑事告訴されて法の裁きを受ける身のはずですが・・・某掲示板では約6年にわたり厳しい糾弾に晒されています。

ところで、同誌編集長で発行元の法華仏教研究会を主宰する花野充道氏は現在、
菅野博史創大教授などとともに法華コモンズ仏教学林の教学委員を務めています。

そして法華コモンズに創設当初から関わり、今は総務担当の運営スタッフの任にあるのが、
皆様お馴染み、かつて「広宣部のエース」と謳われた某ユーチューバーのあの御仁です。。




[951] 4.24異見

投稿者: ヨーゼフ:クネヒト 投稿日:2020年 4月24日(金)14時13分58秒   通報   返信・引用   編集済

歴史家・色川大吉さんの朝日新聞「声」欄への投稿
https://6027.teacup.com/situation/bbs/72858

この年10月の自自公連立政権発足に向けて「本当は怖い小渕恵三」(by週刊プレイボーイ)内閣主導のもと、
次々と悪法が制定されるなか、色川さんのような長年にわたる聖教購読者で創価学会との共闘者にしてみれば、
例の随筆を目にして「今この時期に20年前の会長交代劇を云々している場合か!?」と切歯扼腕されていたであろうことは想像に難くない。

まこと世の中の大きな流れが全然視野に入らずに、部外者にとってはどうでもいい内輪の話、「コップの中の嵐」に現を抜かすのは十年一日のごとし。。

かつてはアカだブサヨだプロ市民だ…などと自分たちが揶揄していた人々の集うデモや集会に、
三色旗を振って意気揚々と現れたのはいいが、こうした人々との間での共通言語に乏しいから、
すぐに内輪ばかりで固まって、秋谷が~原田が~みたいな話に終始してしまう。。

そんなんだから若い世代はついていけないの。

「池田先生の創価学会を取り戻すぞ~~!」と、加齢臭にまみれたオジンオバンが気勢を上げるのも虚しく、
事の賛否は措くとして、十年も公の場に顔を出さない老人は、今の青年部諸氏にとってはすでに死んだも同然な無価値な存在なんだから…



[950] おぼえがき①

投稿者: ヨーゼフ:クネヒト 投稿日:2020年 4月17日(金)16時09分37秒   通報   返信・引用   編集済

世の中の出来事を何でもかんでも牽強付会にブッポーにこじつけて解釈するな。
創価学会員だとか信仰者だとか仏法者だとか、属性ありきで言葉を紡いでいるうちは、
己れの信仰の外に居続ける人たちとの間で永久にコミュニケーションが成り立たない。

「功徳」やら「福運」やら「宿業」やら、普通の人が一生の間、そうそう口にしたり書いたりはしない日常的日本語ではないフレーズを濫用するな。
独善的・排他的な宗教コミュニティの中だけで無造作に飛び交う、本来の語義からかけ離れて独り歩きするマジックワードに翻弄されてはいけない。

信心あろうがなかろうが、ぶっ壊れた原発から漏れ出す放射性物質は平等に人々の健康を害し、死に至らしめる。
信心あろうがなかろうが、刻々と変異を遂げる未知のウイルスに、どんな防御策を取ろうとも感染する時はする。

2011年3月…

すべてを呑み尽くし奪い尽くした津波が引いた後で、
轟音とともに原発が続けざまに爆発する光景を見て、、、

創価学会のみならず、特定の宗教やイデオロギーで塗り固めた価値観や世界観といったものを、誰もが一旦はリセットしてみなければいけなかったのだ。。



[949] 宿坊板のなりすまし投稿

投稿者: ヨーゼフ:クネヒト 投稿日:2020年 4月15日(水)19時47分38秒   通報   返信・引用   編集済

波田地グループの蓮虎サイト管理人を騙る"なりすまし投稿"のようですが、
おそらく同掲示板を追い出された(ことになっている)京都乃虎なる人物もしくはユニットの類いが書き込んでいると思われます。

しかしご多分にもれず波田地氏と法華コモンズの関係には全く触れません。
宿坊運営によるアラシ自演と断定して良いでしょう。。



[948] 「創価学会員として生きていく」というブログ

投稿者: ヨーゼフ:クネヒト 投稿日:2020年 4月11日(土)16時12分10秒   通報   返信・引用   編集済

ユーチューバー教祖・波田地克利や金原明彦らが陥った自縄自縛
https://lifewithsoka.hatenablog.com/entry/jibaku

何故か理由は分かりませんが「花野充道」という個人名を伏せて「●●●●」表記にしています。
下で何度も貼り付けているスクショ画像と併せて、波田地氏が花野氏ともども法華コモンズにて
菅野博史氏ほか創大教授陣や学術部の諸先生方と協同関係にあることをメールで質問しましたが
十日以上過ぎて当方には何の返答もありません。

当該ブログもグルというか、波田地氏の正体を隠蔽する目くらましのスピン要員と見るのが妥当でしょう。
台本を書いているのはもちろん信濃町官僚です。




[947] ついでにもう一つ

投稿者: ヨーゼフ:クネヒト 投稿日:2020年 4月 7日(火)19時58分53秒   通報   返信・引用   編集済

先の削除投稿の前に書き込んだものです。

京都乃鬼という輩とその一派は、例のoni-oni-clubなる集団と何か関係があるのでしょうか?

犀角独歩氏のブログと前後して、金原明彦氏が彼らの集まりで戒壇本尊が日禅授与本尊のコピーであるとの所説を披露したそうですが?

そのあたり、どなたか詳しくご教示いただけますと幸いです。



[946] 宿坊板削除

投稿者: ヨーゼフ:クネヒト 投稿日:2020年 4月 7日(火)19時41分17秒   通報   返信・引用   編集済

ホストアクセス投稿制限を掛けられているので、
外出したついでに書き込んでみたら、ものの数分で消された模様です。

反執行部派会員に偽装した信濃町職員だかバイトだかが、
交代勤務で四六時中、投稿をチェックしているのが丸わかりですよね。



[945] おかしな非難?

投稿者: ヨ―ゼフ:クネヒト 投稿日:2020年 3月18日(水)11時35分55秒   通報   返信・引用   編集済

https://6027.teacup.com/situation/bbs/110687

少なくとも波田地氏に関しては、下記投稿が某人の言う「おかしな非難」に該当するとは思えないが…?
ちゃっかり「はたちチャンネル」のリンク貼りしている時点で立ち位置が分かるが、、、

"反逆者"と関係を持つ菅野、中野、宮田氏らが査問対象になっていないのが、
波田地氏と原田執行部との対立が欺罔であることを逆証明しているわけですが。。

せっかくですので、どうぞ皆さん拡散していってください。
↓   ↓   ↓



[943] 管理人のM様、無作法をお許しください。

投稿者: ヨ―ゼフ:クネヒト 投稿日:2020年 3月11日(水)23時14分44秒   通報   返信・引用   編集済

一日集中記念講義・開校式-法華コモンズ
https://hokke-commons.jp/2016/05/28/

法華コモンズ仏教学林の開講に当たり主要スタッフの紹介がなされましたが、、、
教学委員3名のうち、花野充道氏は正信会結成時の中心メンバーにして程なく大石寺側に寝返り、
第二次宗門問題の頃は学会攻撃の急先鋒。だが阿部日顕法主との確執から僧籍を剥奪され、
還俗した今は宗教研究者を名乗り、法華仏教研究会なる団体の主宰です。
もう一人、菅野博史氏は創価大学文学部教授で法華経研究の第一人者。
信濃町執行部が今進めている教義改変にも多大な影響を及ぼす人物であるのは周知の事。

そして講座担当者の中に波田地克利氏の名が……
この時点で波田地氏の創価学会除名が確定して二年余が経過しています。

ちなみに法華コモンズには中野毅・創大名誉教授ほか創価学会学術部から数人が講師として参加しています。

かつての“仏敵”花野氏ばかりか、破和合僧の“反逆者”として今なお苛烈な糾弾対象にされている波田地氏までもが、
このような形で創価学会関係者と協同・連携の場を設けていることについて、
菅野教授ら法華コモンズに参加する創価学会学術部の面々が信濃町サイドから今日までに何らお咎めなし。
教学部ブレーンとしては不適切な関係性に、譴責もしくは懲戒、厳重注意を受けた形跡はうかがえません。
それこそ巷間囁かれるところの「査問」とやらの槍玉に挙げられてもおかしくはないのに、
この呉越同舟は現場会員の目から見ると極めて不可解な光景です。。

宿坊の掲示板にて、この件について問い質す内容の投稿をすると完全スルーどころか投稿を即削除され、
挙げ句の果てに昨年4月末以降、ホスト規制をかけられ、自宅兼仕事場のWi-Fi経由では書き込めません。
宿坊2、反宿坊板、ふわふわ飛ぶクジラ板、そして日顕御用達板でも同様の措置を取られました。。

除名者たる波田地氏と学会関係者が法華コモンズにて接点があるとの指摘は、
当人たちにとって何か疚しい事でもあるのでしょうか?

さらに付け加えれば、添付画像にもあるように波田地氏は講座担当のボランティア・スタッフから、
昨年あたりに総務担当の運営スタッフにシフトした模様です。
(法華コモンズの令和元年度後期「開設講座一覧と受講の手引き」の記載より)

学会本部と波田地氏が本当に対立状態なのかを今一度検証する必要があるものと思われます。



[942] テスト

投稿者: ヨ―ゼフ:クネヒト 投稿日:2020年 3月 8日(日)21時25分48秒   通報   返信・引用   編集済

串投稿ではありません。
宿坊板は現在ファイル添付ができない仕様になっていますので、
取り急ぎこちらにスクショ画像を貼らせてもらいます。

波田地克利さん、法華コモンズの講座担当者からいつの間にか運営スタッフに異動したみたいですね。

後日改めて事の仔細を書き留めておきたいのですが、管理人様よろしいでしょうか?



[940] 変革の理論と実践

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2020年 1月20日(月)18時09分49秒   通報   返信・引用   編集済

『なぜ人と組織は変われないのか
ハーバード流自己変革の理論と実践』

という2013年発刊の本を現在読んでいる。

この場を借りて仏法を絡めながら考察してみたい。

本の中で人間の大人になってからも成長し
段階的にステップアップする知性について言及されている。

ここでの知性とはIQのようなものとは違い
世界(依報)の理解の仕方と
世界で行動する際の基本姿勢(正報)の
認識の仕方、捉え方である。

本の中では三つの段階が示されているが
著者の本の外の情報を合わせると五段階がある。

<>第一段階は言葉を覚えたての子供。
なので成人の知性は第二段階以降。

<>世界と自己を認識する最初の段階において欲求と願望がある。
他者は自分にとって役に立つか?の利害関係であり
役に立たない者は無関係の別世界の人間のように見なされる。
五眼で言うと肉眼の段階。
日興遺誡置文によれば
例えばもし時の会長が「学会の中で一番偉い存在になりたい」
という願望にのまれ己義をかまえるならば従ってはならない。

この二つまでは有益な知性以前であり本の中には語られていない。

では次に本の中に語られる三段階の知性に入っていくが
全ての人が自然にステップアップしていくものではなく
上の段階ほど到達する人は稀である。

<環境順応型知性>
帰属意識をいだく対象に従い忠実に行動する自我。
五眼で言うと天眼の段階。
組織の打ち出しをそのまま実行し続ける学会員。
組織の中で認められることに立脚した勇気を持つ。
組織と自己の同化があり皆と違ったことを思ったり言ったり行ったり(三業)するのを恐れたりする。
まずは日蓮仏法を習う。

<自己主導型知性>
自分自身の価値観やイデオロギー、行動規範に従い一人立つ自我。
五眼で言うと慧眼の段階。
組織に依存しない信心の確信をつかみ、おかしいものはおかしいと声を上げることの出来る勇気を持つ。
価値観やイデオロギー、行動規範に同化しており、そのベース自体を客観視できないゆえの不備も起こりうる。
日蓮仏法を自分のものとして立脚する。

<自己変容型知性>
自分自身のイデオロギーと価値基準を客観的に見て、自由に使いこなしながらも、その限界を検討できる。アウフヘーベンを模索できる。
五眼で言うと法眼の段階。
枠に囚われず物事を俯瞰し、必要な手を打っていく池田先生のような姿勢。
もしこの次元に到達する者があるならば、世界の超一流を学び交流する。
日興遺誡置文に「一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事。」とある。

五眼で言う仏眼は他の四の眼の全部なので、どの段階の人も仏の生命と互具している。九界即仏界。

さて人がそのように人間革命の方向に成長し
組織が広宣流布の方向に発展することを「何が」阻害しているのか?

あえてここでは「誰が」とは問わない。
どの段階の誰にとっても、次のステップへ自己を進めるのは困難であり、相互のサポートが必要である。

口では人間革命(あるいは、こんな自分になりたい)
広宣流布(あるいは組織や世界の発展や貢献)
と言っていても

どんな生命の傾向性が出てきて、それが進まないのか?

それは何を恐れ、どんな理屈によっているのだろうか?

そこに信じ込んでしまっている固定観念は何か?

人間革命と広宣流布の組織であるためには
リーダーが率先垂範して現場の最前線に入り

嘘やごまかしなしに素直にさらけ出して
そこにある人間の細やかな感情や感覚の起伏を知り
一人ひとりと向き合い寄り添っていく必要がある。

そうすることで停滞の原因を打ち砕くことが出来るのである。

http://www.balancedgrowth.co.jp/column/immunity-to-change_1.php
http://www.balancedgrowth.co.jp/column/immunity-to-change_2.php
http://www.balancedgrowth.co.jp/column/immunity-to-change_3.php



[939] 目を覚ませ?創価学会員?

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2020年 1月 5日(日)12時01分48秒   通報   返信・引用

https://youtu.be/AS0GdOBIxqQ

『平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない。』(『小説 新・人間革命1巻』より)

だが2008年原田会長はアメリカ大使館に「婦人部や青年部は【武力を用いない平和】の構築を信じている一方で、【武力を用いない平和】主義による方法が国際的な平和建設と平和維持への取り組みに最適でないことを知っている」と答え、国際的な平和建設と平和維持への取り組みに武力を用いる意欲を示した。

2014年、公明党は集団的自衛権の行使を容認する。

『相互防衛、集団安全保障という考え方は、侵略主義の脅威に対して防衛的な価値をもつものとして生まれたものでした。しかし、現実には何らの効果も発揮できなかったばかりか、むしろ、二度にわたる世界大戦を生んだのも、じつはほかならぬ、この相互防衛ないし集団安全保障という倫理でもあったということが、結果的にいえるわけです。』(「21世紀への対話」より)

との考えがベースにある池田先生の平和構想をひっくり返したのである。



[937] すりはんどくの気づき

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 8月26日(月)13時46分21秒   通報   返信・引用

お釈迦様の弟子の一人に
「すりはんどく」という人がいます。

何を教えても
聞いた話は右から左

とっても物覚えが悪い。

自分の名前すら忘れるっていうんだから
みんな呆れてしまうってもんです。

ある日お釈迦様が
純粋に求めることだけは立派なすりはんどくに

これだけを毎日やりなさいという
簡単な繰り返し言う言葉と

掃除する場所を与えます。

物覚えの悪いすりはんどくですが
それだけは覚えて毎日続けました。

それをしている中である日
ハッと深い気づきを得ます。

それは他の
どんなに教えを正確にたくさん覚えている弟子よりも
深い気づきだったのです。

このお話から、何を読み解くべきでしょうか?

「文句を言う暇があるなら
言われたことを疑わず実行しろ」

というような事でしょうか?

すりはんどく以外は勉強ばかりして
行動する人がいなかった?

いいえ、お釈迦様の教えをたくさん覚え
たくさん実行した人は大勢いたのです。

多くの弟子が、戒律を覚え実行していたのです。

では「難しいことを理解しようとする必要はない」

というような事でしょうか?

どうでしょうか?

すりはんどくは理解しようとしなかったのではなく
教えを求め理解したかったけど出来なかったのです。

そのことですりはんどくは
自分は出来の悪いダメな弟子だと思っていました。

すりはんどくは物覚えが悪いがために
覚えていれば囚われがちな概念が少なかった。

「私はすりはんどくです」にすら
囚われていなかった。

だけど
「自分は出来の悪いダメな弟子だ」
という思いに囚われていました。

お釈迦様はそれを見通して
その思いを祓う行を与えたんです。

では「何ものにも固執しない瞬間
大きな気づきが得られる」

というような事でしょうか?

言葉にすれば短い言葉です。

その言葉や概念自体は気づきそのものではないです。

掃除に集中して言葉を介して大きな気づきを得たのは
「止」と訳されるサマタ瞑想による禅定の気づきです。

今ここでは
「観」と訳されるヴィパッサナー瞑想に広げましょう。

自分の心の動きに注意を払う必要があります。

「何ものにも自分の名前やあらゆる定義にすら固執しない瞬間
大きな気づきが得られる」

という言葉に対して、自分の中でどのような心が動くか?

そうは言っても、譲れない思いや
大切にこだわりたい教えがある?

自分が何に囚われているかなんて
自分では分からない?

自分はダメな人間だから
そんな難しいことは出来そうにない?

どうでしょう?
どんな心が動くでしょうか?

それは人それぞれだと思います。

では実際に
「何ものにも自分の名前やあらゆる定義にすら固執しない」
をやってみて下さい。

自分に関するあらゆる定義を信じない

自分の名前、自分の性別、自分の肩書、自分の年齢
与えられただけ、分けられただけ、振る舞っているだけ、計っているだけ

そういう全部を手放してみる。

それが出来ましたら先ほどの
心が動き思いが起こっている状態と比べて下さい。

その動いた心は
「何ものにも自分の名前やあらゆる定義にすら固執しない瞬間
大きな気づきが得られる」

という言葉に、何を見ていたのでしょうか?

お釈迦様がすりはんどくに教えた言葉は
「塵を除く、垢を除く」です。

私たちは何に気づくべきでしょうか?

https://gozekou.net/brog/bd/hiyusetuwa/surihandoku



[935] 関西最高協議会1991.10.17 スピーチ(1991.10~)(池田大作全集第79巻)より抜粋

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 8月 4日(日)11時28分52秒   通報   返信・引用

 強盛な信心さえあれば、″最大の困難″の時こそ、″最大のチャンス″である。偉大な変毒為薬へんどくいやくがなされ、福運を無量に積みゆくことができる。ゆえに、何が起ころうとも、心配することはない。いよいよ「信心」を奮ふるい起こせばよいのである。
 対話を抜きにした、一方的な「処分」は権力者の手口である。開かれた話し合いを拒否しての「策謀」や、破門・追放などと脅す「脅迫」も、仏法者の行動ではありえない。しかし、大聖人が仰せのごとく、必ず「道理」は「権力」に勝つことを確信していただきたい。
 大聖人は、熱原の法難の際、「いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほう吼るなり日蓮が一門は師子の吼るなり」と仰せである。
 ──どのように人が脅しても、決して恐れることがあってはならない。師子王は百獣を恐れない。師子の子もまた同じである。かれらは野干(狐の一種)が吼ほえているようなものであり、日蓮の一門は師子の吼えるのと同じである──。
 憶病な狐が、遠くで叫んでいるような脅しなど、少しも恐れることはない。私どもが、師子の吼えるがごとく、正義の叫びを続けるならば、ネズミや狐狸こりのような輩やからは、必ず恐れて退いていくからである。


 「地涌じゆの義」といわれるが、時が来れば、民衆の中から、地域や社会に深く根を下ろした人材が出現する。使命を自覚し、広布を推進していく。これは、不思議というしかない。
 社会の大多数は、いわゆる「庶民」である。その民衆が、押しつけられた宗教的権威には何の実体もなく、かえって自分たちを搾取さくしゅし、苦しめる存在にすぎないと見抜いた時、偉大な変革が始まる。
 いつの時代の、いかなる宗教であれ、「改革」を必要とする場合の主要テーマは、常に「目覚めよ、民衆」「反省せよ、聖職者」なのである。しかし、権威によって立つ聖職者が、みずから目覚めて自己を変革することは、歴史的に見てもきわめて難しい。
 まず、民衆が自覚し、目覚めることである。正義によって「眼まなこ」を開いた、民衆の勇敢な前進があってこそ、大聖人が教えられた偉大な宗教革命の夜明けが始まる。


 以上、述べたことを前提にして、次に法難が本格化した時期の具体的経過にふれておきたい。現在の状況にあまりにも多く通じる面があるからだ。
 「謀略文書」に正しい情報で対応
 弘安元年(一二七八年)の五月ごろ、行智は、偽の御教書みぎょうしょ(幕府の命令書)を作った。「法華経を信じる者は、重罪にあたり、咎とがめがあろう、と鎌倉より下知げちがあった」と触れ回らせ、幕府の権威で人々を退転させようと謀はかったのである。
 大聖人は、すぐさま、真相を見抜かれた。直後にしたためられた窪尼くぼあまへの御消息に、このことが記しるされている。その中で、佐渡においても、三度にわたって偽の御教書が作られ、弾圧の口実にされたことを指摘され、今回の熱原の件も、同様の手口である、と教えられている。当然、日興上人に対しても、その旨の御指示があったと拝察される。
 大聖人の御指導によって、幕府の御教書が偽物にせものであり、恐れることも、従う必要もないことが、信徒の人々に徹底された。そのため、行智の謀略も、ほとんど効果がなかった。
 悪の謀略に対しては、常に本質をついた、正しい情報を、広く人々に知らせる必要がある。そのことによって、悪の意図を、いち早く挫くじき、打ち破っていくことができる。
 ″閉ざされた世界″にだけ通用する″閉ざされた論理″で、いかに詭弁きべんを繰り返しても賢明な民衆はだまされない。また社会的にも、良識ある人々の笑いものになるだけであろう。それでは法を下げてしまう。


 「魔」とは、梵語ぼんごの「マーラ」の略で、「破壊(はえ、はかい)」とも訳される。個人の信心を破るとともに、和合僧──信心の団結を壊す働きをする。魔とは「破壊者」なのである。
 暴力による肉体的迫害や、処罰や処分という社会的制裁、脅迫や情実などの精神的圧迫、利益をちらつかせる経済的誘惑などにより、個人の信心を破壊し、退転させるのは、魔の常套手段といってよい。
 ゆえに魔が跳梁ちょうりょうする時こそ、いよいよ信頼の絆を強め、異体同心の前進が肝要となる。「正義の団結」こそ、魔の謀略を遮さえぎる防波堤となるからだ。


 語りに語ることだ。声は力である。語った分だけ正義は広がっていく。広宣流布が広がっていく。
 ともあれ、″迫害する側″に、人々を納得させる道理がないからこそ、力によって正義を押しつぶそうとするのである。すなわち、権威・権力や暴力など、力による迫害を加える者は、本質的には、また仏法の眼から見れば、すでに″迫害される側″の民衆に敗北しているのである。やがて必ず、滅びていく。


 自己の権威をたよる者ほど、それに従わない者は許せない、という″修羅しゅらの心″が強い。これが″独裁者の心理″である。
 熱原の人々は教えてくれた。いかなる権威・権力も、正法を掲げ、不惜の信心で、固く団結した民衆の前には、まったく無力であり、やがては必ず敗北することを──。
 表面の姿だけを見れば、三烈士は処刑され、敗北したように見えるかもしれない。しかし彼らは、″信仰者としての誉ほまれ″を、″人間としての勝利″を勝ち取ったのである。そして、民衆の間に、確固たる信心が、深く根ざしたことを身をもって実証した。
 この法難を契機けいきに、大聖人は出世しゅっせの本懐であられる、「一閻浮提いちえんぶだい総与の大御本尊」を建立こんりゅうされる。ここに、三烈士の名は永久に残され、永遠とわに輝き続けているのである。
 私どももまた、同じ道を行く。今の戦いが、「一閻浮提広宣流布」の大いなる道を開いていくことを確信したい。
 日達上人「学会員には大御本尊願主の折伏の精神」
 そして、我が学会の牧口初代会長もまた、正法の命脈を護らんがために、不当な弾圧と戦い、獄死された。殉教のご生涯であった。
 当時、理事長であった第二代会長戸田先生も、ともに投獄された。陰険で執拗な脅しもあった。拷問もあった。
 しかし、一歩たりとも退くことなく、獅子のごとく戦われた。これが、学会精神の原点である。ここにこそ、大聖人が示された死身弘法の道があると確信する。
 熱原の三烈士が示した不惜身命の精神、いかなる権威・権力にも屈しない正義の行動は、初代・二代会長以来、創価学会の中に、厳然と生き続けている。脈動している。

http://gmate.org/gs/lib/gs041.cgi?sno=S79040000&dan=1&ori=&K=
より、研究目的において記し置く



[933] 千羽の鶴と経王殿御返事

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 5月28日(火)11時09分34秒   通報   返信・引用

色とりどりの千羽の鶴
その姿形は仮諦でしょうか

回復を祈ってますという
その込められた思いは空諦でしょうか

これを見、これを思う時
少しでも頑張る力を与える
存在である体は中諦でしょうか

「師子王は前三後一と申してありの子を取らんとするにも
 又たけきものを取らんとする時もいきをひを出す事はただをなじき事なり、
 日蓮守護たる処の御本尊をしたため参らせ候事も師子王にをとるべからず、
 経に云く「師子奮迅之力」とは是なり、」

姿と思いと、その存在の体を持って
その力に応じて、それを信じた時

守護と湧く力とがあります。

「又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、
 南無妙法蓮華経は師子吼の如しいかなる病さはりをなすべきや、
 鬼子母神十羅刹女法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり、」

千羽の鶴を折る時
不二の「師子」の力の一分をもって

我がこととして

守護したまえと
師子吼の力を込めているのではないでしょうか?

「さいはひは愛染の如く福は毘沙門の如くなるべし、
 いかなる処にて遊びたはふるともつつがあるべからず
 遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし、
 十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかかるべきなり、」

鶴は千年の時を行き舞います。

ここに師子王の心を入れれば
千年の畏れを無きものとする守護となります。

「但し御信心によるべし、
 つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし、
 法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし、」

しかし師子の中道を行くことをためらい

元気になったらまた一緒に戦おうよ、という思いに応えられない心では
どうして、これを頼もしく思い

力としていくことが出来るでしょうか?

師弟の道を誓うものにこそ
その激励は輝く王道となるのです。

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、
 仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし、
 妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給う。」

鶴の時は千年ですが
日蓮仏法の南無妙法蓮華経は
無始無終の時を行く無作三身の魂です。

人は励ましを送る時
その人に本来

それを乗り越える力が備わっていると信じ励ますのです。

受け取る人が
乗り越えられない壁は無いと、奮迅の力を出そうとする時

その顕本遠寿の魂は呼び呼ばれて
そこに顕れるのです。

御本尊とは
無始無終の守護を折り顕した
千羽鶴のようなものでもあるかもしれませんね。

身なりさん、回復を祈っています。



[932] 術後10日目

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2019年 5月25日(土)19時27分38秒   通報   返信・引用

傷口の痛みも和らいで、食事も普通食に近づいてきました。

旧知の学会員さんから千羽鶴が届いてふと思いました、よく学会員さんが「祈ってるよ」と恩着せがましく言う言葉はやっぱり必要みたいです。
祈ってくれる人が何処かにいると思うだけで少し頑張れちゃったりしますね?
蘇生さんもどうもです。(^O^)

そうこうしてると病理診断の結果がきになります。
ステージ1を祈って……



[930] EFT余談

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 5月21日(火)20時08分40秒   通報   返信・引用

あ、米国ではなく
イギリスでした。

治療法を医者や病院に提供する国立の団体が
EFTのリサーチに予算を付けている。

アメリカでは
TVで特集が放映されたり
している。

学校で取り入れて
実施したところもあるとか。



[929] (無題)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 5月20日(月)00時23分10秒   通報   返信・引用

身なりさん、早期回復を御祈念しました。

EFTという感情を流すテクニック
(米国ではマインドフルネスと並び研究支援対象)

があるのですが

身体の痛み等にも、
効果・影響がある場合があります。

少し辛いかもしれませんが
意識を向け、丁寧に感じ取っていきます。

痛みの感覚は、
何がどうなるような・されるような・どんな痛みの感覚でしょうか?
痛みの体感覚のイメージです。
ズキズキなのか、ズーンなのか、どうにかなるのか、
される・されているようななのか
あるいは重さや形や色のイメージがあるかもしれません。
しっくりくるものを捉えて下さい。

そうなる・される・○○とした痛みの感覚に意識を向けた時
そこにどんな感情がそこにくっついているでしょうか?
どんな感情があるでしょうか?
恐れなのか、不安なのか、悲しみなのか、怒りなのか
自分の言葉でしっくりくるものを感じて下さい。

そして、そこに口があればどんな言葉を発するだろうか?
感情のままに発される思いの言葉です。

それら「体感覚・感情・言葉」を
セットアップフレーズというものに組み込みます。
メインは「感情」になります。

例えば「ズキズキ痛い・怒り・触らないで」であれば
「傷口にズキズキ痛む触らないでという怒りがあるけれども
私は私を愛し受け入れます」というような感じになります。

リマインダーは「ズキズキ痛い・怒り・触らないで」となり
感情をメインに
「怒り・怒り・怒り・ズキズキ痛い・怒り・怒り・触らないで・怒り・怒り・怒り・・・・」
と言いながら感情の経絡をタッピングしていきます。

↓やり方の動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=P4N6PxTK0e8

ワークは個人差があり合う合わないもありますので
効果がなければ下手とかいうものでもなく

まぁ、ダメもとで気軽に一度どうぞ。



[928] 術後四日目

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2019年 5月19日(日)18時58分31秒   通報   返信・引用

清潔な身なりです。

胃を2/3切り落として四日目です。
傷口がひどく痛みます。



[926] 感情感覚思い三諦 微調整

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 5月 3日(金)02時16分7秒   通報   返信・引用

仏法というものは
気づきなさいというメッセージ性がある。

その中でも真に気づくべきものが
五眼三身の実際が法華経寿量品にしかない
ということが完全に含まれている
南無妙法蓮華経である。

ゆえに、法華経を下位に置く間違いに
気づきなさいというのが日蓮仏法でもある。

さて、気づくとはどういうことか?
この法が一念三千でもある。

例えば気づかないとどうなるか?

激しい感情に支配されたり
逆に感情がフリーズしたりすると
冷静に状況や立ち位置が見れなくなる。

信念体系や思考作業に入り込んだり
逆に自分で考えるのをやめてしまうと
自他の心の思いが置き去りで分からなくなる。

激しい刺激感覚に直撃されたり
逆に何の光音香味触の刺激感覚もなければ
自分の身体の置かれている空間次元が分からなくなる。

なぜ無明の中に苦しむのか
気づいていけば

安定した感情によって
状況を把握し衆生としてあるべき立ち位置が分かる。
それによって応答が成り立つのが仮諦である。

広く深く冷静に思考することによって
自分の本当の思いがどこにあるか
相手の本当の思いがどこにあるか知ることが出来る。
また思考の流れを俯瞰して空を知る。
それによって勇気や慈悲で声を出せるのが空諦である。

さて行に応じたふさわしい感覚に寄り添うことによって
その法の高低浅深を感じ取ることが出来る。
感応ともいう。
この感覚にしたがって進む道を中諦という。

まともな応答も出来ず
本当の勇気や慈悲を持たず
駄々っ子のように道を進まないとすれば

もはや、誰が相手にするだろうか?

逆にこの三諦三身の法をもってすれば
どれだけの人に抜苦与楽し
救っていくことが出来るだろうか?

池田先生が人に出会い相対した時
どういう気づきに立っていたのだろうか?

近づくためには足下を掘るのだ。



[925] 新しい時代への転換期

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 4月26日(金)12時47分19秒   通報   返信・引用

セラピー的に少し。

「烙印を押された」というのは解釈。
実際には何を見せられ何という言葉で説明されたか?

烙印を押されている自分は
どんな風になっているイメージか?

我々の信心で言うと、同じように宣告されても
「よし、これで信心を実証できる」と
いよいよ力のこもった目で生命力を湧き立たせる人もいる。

同じ宣告であっても、持つイメージが全く違う。

無理矢理にイメージを変えればいいというものではなく
烙印を押されるイメージの自分と対話をしてみる。

例えば何を心配しているのか?
例えば何を恐れているのか?

妻子に帰属させるのではなく
自分自身がどうなのか、という所を見ていく。

何をやり残しているんだろう?
何を表現できずにいたんだろう?

出てくるものを、
理性ではダメと言ってしまいそうなことも

そうじゃなく、ありのままに見ていく。

一つの可能性としては
理性でストップをかけていたからこそ
表現せず抑圧してため込んだものがあるのかもしれない。

それが「私の生き方」と思い込んで
そうすることが正しいと思い込んで
自分の本心を殺してきたのかもしれない。

それが病魔として現れてきているのだとしたら
その本源の深いところで
正しいと思っていたものが魔かもしれない。

自分が自分に課している正しさ
それを一度疑ってみる必要がある。

その課している正しさからして
間違っていると思うものが自分から出てきても

ありのままに掘っていく。

そこには必ず
つじつまの合う理由が存在する。

その最初のシーンに共感受容することは

それによって縛られていたエネルギーの解放になる。

自由になる、飛翔する。

そうすればどうして
蘇生しないことがあるだろうか?

仏法はちゃんとこのシステム(法)に通じているし
日蓮仏法ほど、これをシンプルに実現させたものはない。

学会員特有の「よし、これで信心を実証できる」という現証に
如実に現れている。

「いかなる病障りをなすべきや」である。

40年後の今、これからの未来を作っていくのは
私たち一人ひとりである。

未来を開いていきましょう。

南無妙法蓮華経



[924] ステージ

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2019年 4月23日(火)22時59分6秒   通報   返信・引用

蘇生さんどうもです。

バナナを食べて養生に努めます。



[923] リズム

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 4月23日(火)14時27分51秒   通報   返信・引用

完熟バナナの健康効果が凄い!免疫力を高めてガン細胞を抑制!2型糖尿病の予防にも利く!
https://medical-careerchange.com/blog-entry-343.html

たまたま偶然
こんな記事に出会いました。



[922] 観心は地道実直な気持ちの変化の気づき

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 4月23日(火)13時20分56秒   通報   返信・引用

身なりさん、お久しぶりです。

気持ちの変化をじっくり観察していくこと
本当に大切な事と思います。

宿業というと、どうしても悪いイメージがありますが
本来、宿業は善悪無記です。

私たちの心性・空諦というものは常に
業というエネルギーの様々な報いを受けています。

業報の関係性です。

だけれど、そのほとんどを
私たちは気づかずに過ごしているのです。

「遣使還告」あなたが気づき
法性の報いにあるためには
何に帰命するべきなのか?

そこに仏法があるのです。

あなたが求める美味しいバナナは
あなたの気づいていない腐ったバナナですよ。

告げられ、教えられ
実際に食べて初めて、それと分かる。

天気予報というと、実際にどんな天気の目にあうか
それを予測して依報の報いに備えるものです。

健康診断の結果報告というのは
実際にどんな肉体の目にあっているのか
その正報の報いを告げられ確認するものです。

「私」を「報い」の存在として見た場合
どういった悟りの方向になるのか?

仏法はそれを求めます。
雪山童子はその真実に通じる半偈を聞いて残りを求めました。

鬼神が言います、その命差し出すなら残りを教えてやろう。
雪山童子は言います、真実を知れるなら喜んで差し出そう。

その鬼神は物質世界の主である梵天の変身した姿でした。
雪山童子は命を失わず、その菩薩道を諸天から讃嘆されました。

四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)に
「経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文.あに自受法楽にあらずや、
 衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、
 所とは一閻浮提なり日本国は閻浮提の内なり、
 遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや」
とあります。

あなたも漏れることのない衆生とは正報です。
日本国も内にある所の一閻浮提とは依報です。

不思議なことに正報だから全部わかって思い通りになっているか
依報だから何一つ力の及ばない予測することも出来ないものか
そんなことはないのです。

だけれどこの不思議を不思議のままに遊楽するというのは

私たちが色心不二の一念三千の生命の法の現れであり
依正不二の自受用報身の仏であるという妙法蓮華経によるのです。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて
 南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、
 これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ」

四条金吾に宛てられた御書の直接の苦は四苦八苦の内
怨憎会苦… 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦… 求める物が得られないこと

という所が中心かもしれませんが
「生老病死」の四苦にある「病」が
その苦に入っていないことがどうしてあるでしょうか?

何に気づくために、それは告げられたのか?
報いを受けているのだろうか?

仏法は「思い出すもの」でもあります。

微細な気持ちの変化をじっくり観察していくこと
それが観心の本尊に通じていくのです。

感情と思いと身体の感覚を日々、書き出してみると良いです。

普段、普通の人は
それをそれと気づく前に同化して
こんなの遊楽じゃないと思っているのです。

何か説法臭くなってしまいましたが
回復を祈っています。



[921] 宿命転換?宿命受容!

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2019年 4月23日(火)09時09分5秒   通報   返信・引用

ご無沙汰してます。
清潔な身なりです。

腐ったバナナは私も大好きです。

この年度始めの健康診断で胃がんの烙印を押されました。

手術台が空き次第切っちゃいます。
人生分からんもんですね~
子ども3人まだ小学生なんでもう少し頑張りたいんですが

どうなっていくのか楽しみではないですが、気持ちの変化をじっくり観察したいと思います。
南無妙法蓮華



[920] 腐ったバナナ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 4月23日(火)04時31分18秒   通報   返信・引用

庶民列伝 by京都乃鬼 より

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)
http://oniyuri.fc2web.com/syominretuden08.html

査問を受けた後の友岡さんの話を
数回にわたって直接に聞く機会があった。

呂律が回らない中、それでも
みな真剣に耳を傾けた。

特に、信念の深い部分に関わる言葉が
すんなりと言葉にすることが出来ずにいた。

どれほど過酷な精神破壊の査問があったのか。

追撃は即、命にかかわるものでもあったろう。

池田先生との思い出
バナナの話をしていた。

阪神淡路大震災の時、兵庫入りした池田先生が
兵庫池田文化会館で唱題している。

通りかかった友岡さんを呼び止めて聞いた。

「私が今何を祈っていたか分かるか?」

友岡さんに池田先生がそのようにいう時は
なにか面白いことを言うのだという。

お供えしてある果物
見える側は綺麗だけど
見えない後ろ側は少し傷んでいる。

「私はあの、黒くなったバナナが食べたくて
落ちて来いって祈ってたんだ」

バナナというものは昔は今より高級品で
バナナのたたき売りなんていうものがあった。

若かりし頃の池田先生は、そこをよく通りかかったが
バナナを買うようなお金の余裕はない。

しかしある時、店の人が池田青年を呼び止めた。

「兄ちゃん、食べたいかい?バナナ?」
「そりゃ、食べたいけど、そんなお金はないんです」
「兄ちゃん、特別にバナナをあげるよ」

そう言って店の人は台の下から黒くなったバナナを取り出した。

「バカにしないでください、いくらお金がないからって
 そんな腐ったものを・・・」
「いや、そうじゃないんだよ兄ちゃん。台の上のバナナは
 そりゃ綺麗だけど、これはまだ熟していなくておいしくないんだ。
 オレらはそれを知っているから、きれいなバナナは食べない。
 こうやって黒くなったのを取っておいてそれを食べるんだ。
 これが本当においしいバナナなんだよ」

池田青年は半信半疑ながらもらって帰って食べた。
それが本当に美味しかった。

また、黒くなったバナナを食べたいんだけど
偉くなってからは体を壊してはいけないと食べさせてもらえないんだ。

だから食べたくて落ちて来いと祈っていたんだ。

そんな話だったそうだ。

そして後日、池田先生は黒くなったバナナに巡り合う。

思わず手を伸ばすが、止められる。

「違うんだ、これは友岡に送るんだ」

池田先生から友岡さんへ
黒くなったバナナが送り届けられた。

本当の池田先生はそういう人なんですよ、と。

その池田先生が切り開いて作り上げた関西。

池田先生が最初に入ったのが
日本一人口密度の高かった地域だ

という話をしてくれた。

池田先生も友岡さんも、庶民を愛する
聖道正器の人間ですよ。

やれ有名大学を出ただとかの人たちは
立派立派というところにしか目が向かないみたいだけれど

だからそれじゃ仏法からも
池田先生からも乖離して当然じゃないか。

直に薫陶を受けたから偉いんだとか
そんなんじゃ広宣流布は出来ないってことです。

地べたに立っている庶民の方が
この法華経において
比べるまでもないほどに
尊い信心をしているのだよ。

上の人たちは勘定・謀略ばかりなのだ。



[919] 法報応論三

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 4月 8日(月)05時25分49秒   通報   返信・引用

感覚だけで進めると
錯覚を是正できないもので

「こう見える」ということを
そのまま表そうとしてしまう。

だから、師や文証って大切だなぁ。

法・報・応と感情・感覚・思い
配置し直さなきゃいけないか。

そもそも日蓮仏法ベースでやろうとすると
一念三千
一身即三身、三身即一身、種・熟・脱
教相・文底・・・ややこしいのだよ。

これ正確に、説明・伝授・実践する人は稀でしょ。

まだ試行錯誤の段階かもしれませんが。
というか、一旦宗教教義的によるので

かえって心の仕組みの救済からの
視点ではないかもしれない。

ともかく、一度やってみよう。

脱益から考えてみよう。
これは至ってシンプルだ。
あとは、最終の悟りだけっていう段階だからね。

師としての応身、出世の釈尊(仏)が
教え授ける教法・戒律(法)によって
修行者(僧)は自身の五蘊の智慧(空)を開けばよいのだ。

次に熟益だが
今まで教えてきた教法・戒律は全部方便だ
本当の智慧は君たちには分からないという法華経迹門の釈尊。

つまり随他意の他受用の応身でなく
自受用の報身の智慧から見た法を随自意で示す。
始覚の随自意の報身の釈尊(仏)
一念三千の理(一心三観による境の法)
これの樹立と学びの個人・団体の人格(衆生世間・僧)

で、下種益、日蓮仏法日興門流文底独一本門

法華経本門の久遠教主釈尊が本仏というのが
日蓮大聖人から見た表現なんだけど
それは日蓮大聖人内証の己心のもの。

その時代に僧として生きた日蓮大聖人は一旦、上行菩薩の再誕
仏と見るとして三世十方諸仏の一人の応身凡夫仏になる。

日興上人・門流を僧として見た場合
妙法蓮華経の功徳の集まりと受持戒の実践になる。
そういう個人・団体の「思い・思想」の衆生世間の化諦・応身。

教相においては
妙法蓮華経は三世諸仏・応身の万行万善の功徳
釈迦牟尼仏は隨縁真如の智慧の報身・人本尊
多宝如来は不変真如の理の法身であり境・法本尊

文底においては
その教相を現実に展開する日興門流の僧
随自意の南無妙法蓮華経の報身の人本尊の日蓮
その智慧を境に書き顕した法身の法本尊の十界曼荼羅

衆生世間という個人・団体の人格の僧(団)
功徳の応身、思い・思想の満足を応身として中心に見れば
人法一箇の受持による境智冥合・境智不二として
一身即三身・三身即一身になる。

応中論三が主となれば教条主義になりかねない。
が、禅宗系のように悟りを衆生の中に説こうとすることを
悟りの迷いとしたり不立文字としたりし、言葉・思考を完全にやめることは
自他の錯覚が是正されない。

次に法中論三の場合の一身即三身・三身即一身。
妙法蓮華経を法の体と見る場合。
心法の信心の性
色法の十界本有の相
の色心不二によって一身即三身・三身即一身になる。

これは循環調和している宇宙生命の諸法実相の在り方の
国土世間となり、草木成仏の説かれる法華経本門に至って
初めて法体自体の成仏が示される。

草木は、思いや感情によらず、循環調和によって生滅する。
しかし循環調和であって何が生まれ何が滅するのでもなく
在り方が縁によって変わっていくだけである。

その循環調和の変化に伴う感覚だけがある。

それは観察によって思いや感情も同じように流れていると見れる。

そのあるがままの色心不二の一念三千の理法の体としてある。

法中論三が主となれば
境の解明であり、専門的な難しさがあり
理念と活用の智慧に伴う感情や自我の欲求で縮小や我見の改悪に陥る。

と、こう見てくると
衆生世間(化諦・応身)が思いであり
国土世間(中諦・法身)が感覚であり
残る五陰世間(空諦・報身)が感情である。

十界が各感情に配されるのは
観心した時の心(空諦・報身)に体の十界の法が
感情として現れているという見方になる。

衆生世間・国土世間・五陰世間各々にも相性体もあるし
視点の変化によって、配置や表現は変わり得るかもしれない。

応身が随他意、他受用であり
分かりやすく説明するために方便を用いるのに対し

報身は自分にしか分からない随自意、自受用の
意識でフォーカスしているそれ自体の自受である。

外からは見えない、不変の実体ではない隨縁の空である。
何かを意識でフォーカスする時
フォーカスをする私と、気づければあると認識される感情とは
別々の存在としてあるだろうかどうだろうか?

歓喜した時の出来事にフォーカスを向ける私と
その時の歓喜している感情が起こっている私は同じか別か?

その歓喜はいつまでもその出来事だけで味わい続けられるか?

ともあれ日蓮大聖人が法華経に歓喜した
そのままを御図顕された報身の御本尊と見る時
御本仏日蓮大聖人自受用報身の当体と見る。

自受法楽・自受用身である。他人ではなく自分自身に楽しみ用いる。

それはどこからもたらされるのかと言えば依報と正報とである。

依報とは一閻浮提という世界全体
正報とは衆生という言葉の理屈を伴う個人・団体の人格

娑婆の苦海に沈む凡夫から
使命の舞台と楽しむ地涌の菩薩へ

苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱える時にある
御本尊と自己人格に差別が無いフォーカス。

その依正不二の一念自体が一身即三身・三身即一身。

信念と法の一致
自身のフォーカス自体でそれを受け用い楽しむ。

報中論三に立てば自立した信仰者となり
着実な歩みを進めていくこととなる。



[918] パブロフの擬人一念三千

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 3月23日(土)05時17分55秒   通報   返信・引用

パブロフの犬って
まぁ、題材としては
定番ですよね。

犬がいて
お腹がすいてエサを食べたいという因がある。

ベルが鳴りエサが出てくるという縁がある。

食べて満足するという果を得る。

ベルが鳴った時エサをもらえるという記憶の報いがある。

身体の応答は空腹感から満腹感への変化。
これを起こす肉体の色相。

思考の報いは願望の思考から満足の思考への変化。
これを起こす心の性分。

感情の法界は餓鬼界の欠乏感から天界の喜びへの変化。
これを起こす経験の本体。

これは、そのエサを食べる行為が
その変化をもたらせる力用を持っており

実際にそれを行うことで
それが作用した。

これは、それが揃った時の必然である。

さて、ベルとエサの同時経験で関連付くことによって
ベルだけを縁としても身体の応答としてよだれが出る
というのがパブロフの犬だが

ベルが鳴った時エサを食べた経験という因になっており
因果の経験のセットは、次の因になっていく。

心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」である。

さて、ここで
「ベルを鳴らしたなら速やかにエサを出すべきだ」
という思考に執着すれば、様々な苦が生まれる。

考えに賛同されれば喜び
考えを持つことを認められていれば平穏であり
ベルが鳴った時ライバルがいれば競い
エサのためなら尻尾を振って芸を見せ
ベルがなかなか鳴らなければ渇望し
考えを否定され責められれば怒る

思考が自分と同一化していて
食欲という欲界の世法から抜けられなくなっている。

より高次の、色界か無色界の視点から
「ベルを鳴らしたなら速やかにエサを出すべきだ」
という思考の執着を解体することで
その苦を抜くことが出来る。

感情の起こる本体に高次の法を経験をさせることによって
その中で解体される。

心法も身法も法体の経験の中の両側面なので
ベルを聞いたらよだれが出るという反応も解体される。

思考で思考を上書きしたり矯正したりするのではなく
感情を伴う経験によって法界がある。

さて、そのように十界互具の諸法各種の経験は
十如是の実相として経験され
各種世間として現れている。

法が体であり世間は陰であるので
法の経験で変化させるのは根治的で
現れている症状に働きかけるのは対処的である。

「ベルの音(色)を聞いたら(受)
 よだれが出てくる(行)んです」
と五陰世間の不調を相談されたとして

よだれを抑える薬を出したり耳栓を渡したりしても
根本的な解決ではないのだ。

十二因縁的に順序をたどってみる。
あるいは九識論的に階層理解する。

無作三身の相・性・体は
あらゆる執着を所有していない元のままである。
本因本果、汚れの無い清浄な九識である。

それを見えなくさせる無明がある。
大きな貯えられた業の行(力・作)がある。
第八識。

無意識的に好ましい好ましくないの認識反応がある。
それを名色によって自動的に個別の対象化をする。
(生まれ育った文化の環境で色の認識等かなり違う)
第七識。

六処、触、受によって顕在的に
眼耳鼻舌身意で経験する。
第六~一識。

愛、取、有によって分離や同化した自分になる。

生、老死の未来を憂い苦を受けている。



[917] 大慈大悲

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 2月25日(月)12時33分1秒   通報   返信・引用

皆の望みが叶ったら素晴らしい世界になるかどうか?
そういう矛盾ってあるよね。

アニメとかの物語だと
一生懸命に戦って魔王を倒しに行こうとしている勇者が
自分勝手な利益を求めて他人を不幸にしている悪人を見て

「ねぇ、教えてよ、この世界って救う意味あるの?」
って悩んだりね。

悩みに負けたら人間を恨み憎む。
他人を救うために「我慢」してきたのにってね。
悪魔のような道に堕ちるキャラクターもいるね。

悩みに打ち勝つのは欲界から抜けることだよ。
自分の中にある「我慢」は何を抑圧しているのか?
自分の本当は、どうありたいのか?

小我を形成している煩悩の欲を
探し出し感じて流し落とせば

穢れの無い清浄な視点から見えるのは
あるがままの「それ」の活動である。

そうなると、魔王が囁く
「世界の半分をやるから手を打たないか?」
という取り引きにも
「そんなものに興味はない」ということになる。

あれが欲しいこれが欲しい
あれがしたいこれがしたい
ああなりたいこうなりたい

それが手に入っても喜びは一時的で
際限なく次から次へ欲する。

ああ、もう満足、となればよいが
ならなかったら、世界の全てまでをも手中にしたくなる。

織田信長は自ら第六天魔王と名乗ったが
欲界の頂点というのは、
その、世界の全てを手中にしたい第六天魔王なのです。

支配的な王、独裁的な権威、服従の強要。

対して、穢れの無い清浄な視点から
あるがままの「それ」の活動として
この世界のあるべき活動のうえに幸福を築こう。

そういう梵天の意識のためには
「慈・悲・喜・捨」の四無量心が必要になる。

「慈しみ」、相手の幸福を望む心。
「憐れみ」、苦しみを除いてあげたいと思う心。
「喜び」、相手の幸福を共に喜ぶ心。
「平静」、相手に対する平静で落ち着いた心。

欲で歪んだ見方の頂点に他者を自在にコントロールしたい
第六天魔王(他化自在天)があるのに対し

姿形のある世界(色界)をあるがまま見る頂点の梵天は
慈悲があり、共感の喜びがあり、歪まずに平等に落ち着いている。

慈悲のある平和の王である。

さて、仏法ではここからさらに
他人にも触れることの出来る質量の姿形の世界の上に
肉眼・天眼からは見えないような
欲への執着・色への執着の無い純粋精神世界の無色界がある。

つまり、エネルギー心理学のセッション等において
欲への執着から生まれる苦しみ・色への執着から生まれる苦しみ

から抜けるために、欲への執着・色への執着を解体して手放しても
自分の存在が消滅するわけではない安心安全は

この次元から担保するべきものとなる。

扱うのは「その人にとっての宇宙全体」という「一心」だ。

空にあり、その世界の仕組みをよく理解し、
純粋な気づいている意識にあって導く。

究極において、ここには自他不二が発生する。

一心に仏を求める心を一にして見れば、一心が仏となっている。

ゆえに無色界の主は仏である。

この世界が本体であり、色形のある世界、欲に歪んだ世界は
影や夢のようなものである。

とはいえ、色形のある世界に住んでいないかと言えば
色形のある世界に私たちは生きている間いる。

なので慈悲を想うよりも空を想う方が上だから
空をこそ想うべきで慈悲を想う必要がないなどと考えてはいけない。

この色形のある世界では慈悲をこそ
よりいっそう想い大慈大悲としていくのが仏である。

そして、どんな思い感情も
あるようにあって良い。



[916] 和楽へと

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 2月24日(日)22時58分57秒   通報   返信・引用   編集済

ある年代の学会員の二世・三世の多くは、子供時代に
主観世界を押さえる形での広宣流布のためという干渉
また、学会活動優先によるニグレクト(育児放棄)によって

深刻な複雑性トラウマを抱えている問題がある。

様々なトリガーによって
孤立感・自尊心の脆さ・希死念慮
信頼関係困難・社会不安・等々
引き起こされるのであるが

学会総体はこれへの有効な解決手段を持ち合わせず
目先を変えて、権威に魂を売り保身の路線を行っているとも取れる。

個別に、またインターネット等で自助的に
静かに創価学会と無縁になる、去る
執行部の矛盾を洗い出し声を上げる
等々が試みられているが

親がそれでも熱心な組織信仰のままならば
対処的でしかない場合もあろう。

そこで着目するところ、大きなくくりでの仏法と
最先端のエネルギー心理学には融和性があり

スムーズな根本的解決に導ける可能性がある。

このことは、日本的な隠蔽体質組織全般への
発展的活用の道しるべともなるかもしれない。

複雑性トラウマの発生のメカニズムとして
ハマってしまって子供達には自分でどうにもできなかった仕組みは

例えば、入学基準は低いが理想は高い学校があったとしよう。

簡単に入学できて「これで君の将来は安泰だ」と歓迎されたとしよう。
そこで嬉しくなって一員となる。

嬉しいのもつかの間
親たちは、学校の提供する理想に従いなさいと言って、自分を見てくれなくなる。
寂しくなっているところに教師たちは、独善的な理想で暴力的。

孤立感・自尊心の脆さ等が芽生える中

親たちも教師たちも、その理想を信奉している校長先生が
私を父だと思って、苦しいことがあったら何でも言ってきなさい等々と
大激励を重ねたとしよう。

その時には元気になって皆で楽しめたとする。

その校長先生が、優秀な人材になって、この学校を大発展させるのが君たちの使命だよ、
と言ったとする。

大きな夢を追うんだとも言っていた割に
その組織機構の中では優秀な人材の基準は勧誘や納金だったとしよう。

校長先生が過去の人となり
独善的で暴力的なだけの人物がその地位につき
理想を自分勝手に改編したとしよう。

ここにおいて、だが
良くも悪くも、最初の理想が良いものだったか悪いものだったかは
心の仕組みとして複雑性トラウマになった事とは関係ない。

この機構の中でした一連の経験によるものだ。

その上で、こうなった場合の
解決の方法が示されていたのならば
その校長先生の激励は生きるかもしれない。

その中に、独善的で暴力的なだけの人物がその地位につき
理想を自分勝手に改編するようなことがあれば
それに従ってはいけないとあって

新校長は、そういった一連の内容を
見ないように仕向けたとする。

泥仕合にもなりかねない。

ここに必要なのは
まず、トラウマの解除方法だ。

だが、日本の精神医療は未だ偏見も多い。

グローバルな本物の英知によってあたるのだ。

個々の蘇生を試み、理想を本物であるか精査し
機構を変えて、同じことを繰り返さないようにしなければならない。

活力に満ちた未来を開くのだ。

抜苦与楽の慈悲で円満の世界を。



[915] 初心回帰

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 2月16日(土)02時20分11秒   通報   返信・引用

ここに、確か一度上げたと思うが

宿坊の掲示板に投稿を始めるより
アルベアさんを知るより
執行部が既にそうであると気づくよりも前に書いたもの。

今にして思えば
今も探求を深めている抑圧の仕組みとか
この時すでに
その方向性でスタートしていたんだな。

しかし自我というのは我見で頑張りたがるもので
ついつい、何か大切な部分を
忘れて進んでいたりするのかもしれない。

私の大切な思いが詰まった
私にとっての大切な視点だ。

私に帰り私のエネルギーを輝かせよう。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
 あきらめて幸せになるとは?
  2015.7.6
 たとえどんな事が起きても、いよいよ信心のチャンスだ、なんてありがたい使命なんだろうと感謝し、みなぎる生命力で前進していく。そういう境涯には一体どうすればなれるのだろうか?
 それを考える時、頑張れば何でも乗り越えられると信じて、頑張る事が信心だと思っている場合があろうかと思いますが、本当を言うと、少し違うということを知っておいてほしいのです。
 もちろん、私個人としては、人間一度は限界まで頑張ってみるべきだとは思いますし、草創の頃で言えば、時代背景や学会の成長段階、遭っている難によって、求道心や指導の行き渡り方が違ったこともあり、「頑張りましょう」と言うだけで伝わる事の内容が深かったのかも知れません。ですがもし、通り一遍の指導や教学だけになり、成果主義が表になってしまい、自分を押し殺して成果のために奔走することが「頑張る」ことになってしまえば、「こんなに頑張っているのに、なんでこんな目に合うんだ」「何か自分が悪い事をしたとでも言うのか」となってしまい、それはいくらでも悪いとも言えるし、いくらでも悪くないとも言える、答えの無い信心になってしまう危険があります。
 本当の信心の深淵の事はなかなか言葉には出来ないけれども、頑張れば何でも乗り越えられると言うよりは、南無妙法蓮華経で開けない人生はないと言う方がまだ本来の意図に近いのではないかと思います。
 どういう事かと言いますと、頑張り続けようとして何かしらの抑圧の中に自らを置き、まだまだ自分は至らないと思い続ける事で、すでに得られている事への感謝が薄れ、いろいろな事を明らかに見る事ができなくなり見失う。さらには、その抑圧は「自分はこんなにも正しい事を頑張っているのに、あなたは何をやっているんだ」という思いに至り、敵意となり、おどす心と現れる。それは即ち謗法の心へと直結してしまうのです。
 この事への対処によって、幸福への一歩を踏み出すか、あるいは不幸への一歩を踏み出すのか大きな分かれ道となるのです。
 自分の中に生まれた敵意、それさえも押さえ込んで、さらに頑張ろうとした場合、今度は、周りの人が自分へ敵意をもっているように感じられるようになります。そうなってしまえば、もう頑張る事が出来なくなったり、広布のために戦っているつもりが広布破壊の結果を招いたりしてしまいます。この事はよくよく注意しなければなりません。
 では、どうすれば良いのか?という事ですが、まず、今を明らかに見る必要があると思います。仏法上、明らかに見るという意味で「諦(たい)」という字がよく使われますが、訓読みすれば「あきらめる」となります。その「諦めて忘れる」という意味と、「諦めがついて心が決まる」「今までの常識に囚われず大きく踏み出す」との両面の意味を持つのが「思い切る」という言葉です。「ただひとえ(一途)に思い切るべし」です。
 では、何を諦めて何を明らかに見るというのでしょうか?その前にまず、上に述べた危険性のある頑張るとはどういう事だったのかを考えてみましょう。それは「今の自分や環境を否定」し「現実を変革しようとする事」ではないかと思います。
 今を明らかに見る必要があると言いましたが、逆に「現実を変革しようとする事」を諦めるのは念仏ではないかと思います。娑婆世界が苦しいのは仕方ないので、死んだあとの世界で救ってもらおうという教えだからです。
 それでは「今の自分や環境を否定」する事を諦めるとはどういうことなのでしょうか?例えば、社会の最小単位であり社会の出発点である“家族”。その中にいる“自分”。それはどんなに否定しても、家族は家族、自分は自分であり変わりません。まして仏法の目で見れば、また同じ家族の元に、また同じ自分として生まれてくるのです。それを否定し続けることは、無価値な人生を歩み続けることになってしまいます。無理をして受け入れろということではありません。一心に信心をして境涯革命をするならば、自然、受け入れられないはずが無いじゃないかと言っているのです。全部良くなる、安心して信じなさいと言っているのです。そして、まずはありのままの自分の感情、頑張れないなら頑張れない、寂しいなら寂しい、目立ちたいなら目立ちたい、遊びたいなら遊びたい、どんな自分でもそのまま、ありのままを、唱題で、信心で、我が胸中の御本尊に迎え入れれば、南無妙法蓮華経の力で、智慧や功徳へと変換されていくのです。
 そして、師弟もまた久遠の誓いにより共に生まれてきます。ゆえに、同志たちも、久遠からのいつもの顔ぶれです。「今の自分や環境を否定」する事を諦めて明らかに見るのですから、即ち、どんな風に見えたとしても、それが池田先生が作り上げた創価学会の姿であるし、どんな風に感じたとしても、それが御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えた自分自身の姿です。戸田先生がよく「諦めて幸せになれば良いのです」という様な事を言っていました。今、生死流転のある九界の姿で生きている自分が、九界の姿をした世界の中にいる事こそが、大成功の願った通りの南無妙法蓮華経に合致した姿であり、無始無終の仏界の証明であり、歓喜の中の大歓喜である。自分のちっぽけな正義をかざそうとして今を否定して頑張っても、その大真理には敵わないのだから、諦めて受け入れて信じて幸せになりなさい。という事だと思います。
 それを信じる事が出来たならば、自分の内にも外にもある南無妙法蓮華経の力で、世界という大生命をさえ刻々と変化させていく事が出来るのであり、それこそ喜びであり、起こりくる様々な出来事に、ありのままの自分の姿で対処する事にも感謝していけるのです。
 だから、少しでも信心ある人、ただ一遍の題目を唱えた人をも最大に賛嘆する事こそあれ、自分の小さな正義のために至らない自分を責めたり、純真な学会員をおどしたり、出会った小さな壁に逐一腹を立てたりやる気を削がれたりしている場合では無いのです。
 今これからが、大事な時です。少しでも、日蓮大聖人と同意の信心、創価学会初代・二代・三代の会長と不二の信心に立てる人が必要です。
 と言うのも、池田先生がいなくなった後を虎視眈々と狙い定めている勢力が、外にも内にも、少なからずいるであろう事は、想像に難くないからです。
 学会や池田先生をおとしめる方向の事や、逆に、池田先生だけが唯一絶対の指導者で、その魂は私だけが受け継いでいると謳う者も現れるかも知れない。池田先生の本当の弟子は、そんな事に微動だにせず、純真な学会員を守り抜くべきだと思います。皆が仲良く楽しく信心深く団結して、何が起きても簡単に弾き飛ばす組織を、願わくは一人も欠けることなく歩んで行きたい。それにはまず、あなたが楽しく信心しているべきで、最後まで信心しきった人が勝利者です。



[914] 三身

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 2月 7日(木)12時37分47秒   通報   返信・引用

仏と一口に言っても
種類があります。

菩提樹の木の下で悟りを開いた
釈迦牟尼仏は、一個人格の仏である
応身如来にあたります。

彼岸に渡り仏果を得た師である人格の仏であり
此岸にいる弟子たちはその教えによる修行を因とし
阿羅漢の悟りを目指すのが上座部の仏教です。

仏そのものになるための実践者を菩薩と言います。

それに対し、その二者各別を超克している法そのもの
宇宙の法理法則としての法身如来があります。

奈良の大仏である盧舎那仏や大日如来などです。
しかしこれもまた、一個人間には及ばない
広大な法理の世界を統べる荘厳の仏です。

万人の仏性という場合
菩薩の修行の苦労の報いとして得られるべき
智慧として現れる報身如来です。

釈迦牟尼仏が菩提樹の木の下で悟りを開いた
という極近の始まりがある限りにおいては
応身如来・法身如来・報身如来は別々のものになります。

法華経如来寿量品には
誰にも計算しきれない遠大な過去から
仏であったという釈尊、久遠釈尊が説かれます。

涅槃・入滅は仏の智慧によるものであり
宇宙と生命、生死の法の現れであり
一個人格の釈迦牟尼仏と現れているという

三身を兼ね備えた仏です。

一個人格として現れているのは仮諦と言って
目に見えてあるものが認識されるそれであるという
有のストーリーの登場者です。

涅槃・入滅、無我・空の智慧は空諦と言って
目に見えて認識される以前には固定的実体ではなく
二ではない世界である存在です。

縁起によって双方に一貫する諸法は中諦と言って
覚者と覚者によって認識されている世界の在り方は
このようであるという実相です。

その三つを一心に一息に観ることを
一心三観と言います。

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」

生死一大事血脈抄の有名な御文です。

「久遠実成の釈尊」は三身具備の応身です。
「皆成仏道の法華経」は三身具備の法身です。
「我等衆生との三つ全く差別無しと解り」は三身具備の報身です。

天台の一念三千では法身が中心となる法中論三で
理解することが得度となる方向性になります。

対して「妙法蓮華経と唱え奉る」修行の中に因果倶時の智慧を顕す
能動の変革の主体者であることは報中論三になります。

「我等衆生との三つ全く差別無し」の「解り」とは
観心の本尊です。

応身の教相の本尊に対して

報身の報身による報身のための
一身即三身の観心の本尊です。

功徳は無量無辺です。

ただし、十四誹謗によっては
反転することになります。

自他の謗法に対して対峙し、
「一念に億劫の辛労を尽くせば、
本来無作の三身念々に起こる」のです。

「所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」なのです。



[913] 「私に」起こったことの反省と視点

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2019年 1月30日(水)12時17分18秒   通報   返信・引用

アルベアのブログ及び
カタカムナムーブメント→びっくりポン運動クラブ
に対して

これは批判のためのものではなく
反省のためのものです。

カタカムナ、ソマチド、等は
その真偽において私に検証確認できたものではなく

しかし、ネット上のかかわりの中で
感覚をフルに使って欺瞞を覗くことを
宿坊の掲示板でやってきた身として
ごまかしの自己矛盾を防止するため
全面的なリスペクトは中断します。

慢を廃し上でも下でも同等でも無い所に置きます。

これは単に見方の一つですが

池田先生の指導にもふれられたことがある通り
批判者の多くは、自身の中にある醜さを投影して
相手を攻め立て、それはそのまま跳ね返ります。

アルベア氏が他者にする批判には
「自分でも気づかぬ内に異次元意識体に憑依されているのだ」
「思い込み信じ込みで思考概念の循環に陥っているのだ」
「体感による現象化がされていない」
「見分け区分けが出来ていない」

等々がありますが
現在か過去かの自分自身を表現しています。

びっくりポン運動クラブでの証言に
アルベア氏は話している途中で
いきなりトランス状態になる

とか

これはガンも治るかもしれない(←未現象化)

というようなものもありました。

「リズム運動」等は、エクササイズに分類されるものです。
どれだけ効果を追求してもその枠を越えません。

もちろん効果の高いエクササイズを生活の中に習慣づけるのは
何もしないのと比べれば格段にプラスです。

しかし、これだけを実践すれば何もかもが上手くいくというのであれば
いささか過大評価ではないかとも思います。

また、俯瞰の視点、悟り非二元、死の教育等々においての
その知的探求の成果は目を見張るものがあると思っています。

私自身、決して自分一人では抜けられなかったであろう思考循環を
いくつも越えさせてもらったと思っています。

私にとっては「仏教の本来の本質による救済」の目的でしたが

「高次元の意識体によるニューマンという救済」という
宗教を否定しながら新宗教化しているようにも見えます。

しかしこれは「何が正しいか」を論じても
いくら正しいものを用意したとしても
人間は自分の都合の良いところしか読み取れないので
慢を廃することが必要です。

なので「正しいものを見る」より「正しく見る」ことの方が重要で
それには投影に気づくことが必要です。

それには実は非二元を見抜くのとは別の
個々別々に宿しているものへの丁寧な対応の必要があります。

それによってようやく感情開放がなされ物語解体がなされ
我見なくあるがまま物事を見られるようになっていきます。

過度な、不調和な反応が減っていくのであり
批判も減り、争いも減り、平和安穏な調和が期待できます。

しかし、言うは簡単、実際には気づきにくい。
「これが自分」と思っている自我にとって
物語の解体は死を意味するように感じ必死に抵抗します。

現在私は、非二元(法華経一心三観に類似)をベースとした
セラピーテクニックによる自身の構成の癒しを学んでいます。

アルベア氏は、この部分に反応し抵抗しています。
普通のことです。誰にでもあります。
自我が「見たくない」と必死に抵抗しているのです。
例えば積み上げたものが大きいだけに
それが失われるような気がして守って蓋をしているのです。
個別に問いかけ検証しなければ
どういう理屈でどうしているのか分かりませんが
私は当事者になってしまっているので
これを問いかけるには不向きな立場です。

心身の不良不全の解消に必要と思われる

論理的な探求・検証
静的・動的なエクササイズ
感情開放・物語解体

の内で、感情開放・物語解体が未熟なゆえに
仏教に足るを知れず
高次元意識体の物語から抜け出せていない
のかもしれません。

私は思い込み信じ込みすぎていました。
信じていた世界がまた一重崩れ落ちました。

対象化しているものは崩れて良いのです。
なるようになっています。



[912] 抜苦で本心、蓋苦は毒気

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年12月24日(月)21時20分54秒   通報   返信・引用   編集済

完璧な人間などいない
しかし人間として生きる以上
より高みを目指すのだ。

これは良い悪いじゃなく
この出発点は三界(六道)です。

相対的幸福への挑戦です。

人はみな、何かしら不足感や欠落感を
抱えているものです。

何に立脚して挑戦し
それが本当に根本からの解決や向上につながるかです。

苦難による自己受容等によって
自己自身に生ききる深い信仰に目覚め
本当に問題の本質から解決したならば
その同じ根っこによる問題は
もう問題ではなくなるという
宿業転換が起こるものであるが

自身の思いの完璧ではない欠落感に対して
それを補ってくれるもの

根底からの解決ではない何か別の恍惚感や達成感等によって
本当の問題を忘れさせてくれるような関係の時は

思いのままにならない苦がまたぶり返した時
もう一度その恍惚感や達成感等を味わいたいと
期待依存をし、整合性が無くても繰り返すようになる。

元々ある問題に対して
それを見ないように蓋をするわけです。

この時、その蓋を取り除かれることは
元々の問題に対して感じた苦しみよりも
圧倒的に強い苦しみを感じるようになります。

この仕組みは、無意識にやっている場合が多いし
たとえ、意識して警戒していても、ハマってしまえば

ダメな事だと思っても自分では抜け出せなくなるし
与えないぞと脅されると恐怖し懇願してしまうのです。

思考概念の仮説解釈によっては正当化され
それこそが良いことだとさえ信じ込み思い込みます。

学会においては強く集団的・集合意識的に
そういう正当化が起きたのではないかと危惧します。

ともあれ学会に限らず普通の世界(三界・六道)の中では
こういうことが、しょっちゅう起きます。

相対的・思考概念の世界で
仮説解釈・思い・感情・習性の上書きをしているのが常です。

アルコール依存・ギャンブル依存・恋愛依存・仕事依存
功徳依存・組織依存・師弟依存・・・

自分のニーズを満たしてもらいたい
スペシャル・リレーションシップの関係です。

そういう関係性にある時
本当の問題から目をそらす蓋が機能を果たしてくれない危機

期待・依存する相手がニーズを満たしてくれなくなると
スペシャル・ヘイト・リレーションシップの関係に変化します。

相手が悪いという思いに駆られ攻撃をします。

不平不満が噴出するわけです。
三悪道四悪趣の生命が現れるのです。

普通の人の求める関係性は
スペシャル・リレーションシップがほとんどです。

ですから仏教教団の運営者はニーズに応えない対話拒否など

三悪道四悪趣へ堕ちると分かっていてそれをするのは
立派な仏法指導者とは言えませんから

良い組織運営のためには
不平不満に聞く耳を持ちニーズに応えていかなくてはなりません。

それも、それぞれの現実に心を砕き
仏法の智慧をもって良い方へ向かうようにです。

私が来たからもう大丈夫だよ。
その問題は全部解決してあげるよ。
池田先生はそう抱きしめて手を打ったのです。

その上でより高い次元
欠落感の穴埋めを求め合う関係性から
満たされた歓喜の境涯を与えあう
ホーリー・リレーションシップの関係性へと導くのです。

満たされた歓喜の境涯とは絶対的幸福境涯の軌道です。
仏法が一貫して説いた法の
より深い自己においての体感覚知です。

何が起きても、ただあるがまま、動じることのない境涯です。
理の上では諸法実相、事の上では本尊と現れる信心です。

それは思考概念による結びつきでも
期待依存による握りしめでもありません。

柔らかく開いてなお、何も失わないのです。

ぎゅーっと握りしめるような池田先生以外と
柔らかく開いて包むような池田先生の違い。

同じ時代に生きた私たちが
次の時代に継承していく師弟不二とは

平和を実現させていく人の振る舞いとは

そういう池田先生が見せたような法華経の慈悲に
帰し基づくものじゃないでしょうか?

もちろんその上で
慈悲はすぐに出るものではなく
勇気がこれに代わります。

明らかな誤りとは恐れず毅然と戦うのです。

起こることによっては
「池田先生 見ていてください
私たちは 戦います」
の本当は
「池田先生 苦しいんです
私たちを 救けて下さい」
ではないかということ
(仮に言うもので
それぞれの現実の上で一概ではない)

「自分にとっての本当の問題は何か」
その問いかけは観心に通じます。

ここに書いたのは
思考概念の範疇からのアプローチの一つです。

アルベア論の律動法のような方法は
余分な仮説解釈を飛び越えて
在る実感を思い出すことが出来ます。

思考概念に法があるのではなく

自己機能をエネルギー変換して
人に伝えているものを説法と呼んでいるのです。

この違いを知るには
アルベア法(論ではなく呼吸法やリズム運動などの方法)の
「継続的な実施」が早いです。

自分が本当は何を受容できず苦しんでいるのか知りたい方は
スペシャル・リレーションシップなどのワードから
プロの方にお願いしてみるのも一つかもしれません。
https://ayukablog.wordpress.com/

いくら概要を説明しても
それぞれの内面世界は一筋縄ではいかない複雑なものだからです。

それも、自分で見たくないものは
自分一人では見つけるのは困難だからです。

上手くすれば信心の深まるきっかけになるかもしれません。
本人の気づいていない本当の思い次第です。

本当は、どんな事でも
それぐらいのレベルでばっちり信心指導できる幹部が
たくさんいればよかったんだけどね。

無能幹部たち、期待するだけ無駄。
ちょっと良さそうのでも、ずいぶん止まったまま、古い。

一般会員は、それぞれ賢明に価値的にいきましょう。



[911] (無題)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年10月12日(金)03時31分55秒   通報   返信・引用

例えば、まさか自分がなるとは思っていなかったような
大病を患ったとしよう。

その時に、精神の在り方というものが
病の進行、また寛解に向かうかに大きく影響することは
昔から言われることであり
時として目の当たりにするものであり
研究としても報告されているところだ。

「治るのも治らないのも運命だけど信じれば救われる」
というのでは思い切って委ねようというのに足るだろうか?

「助かる」というだけのための「これをすれば」「これを買えば」なら
それで助かったとして、どれだけのプラス、成長があるだろうか?

「絶対治るよ」という言葉に
宿業を自分らしく輝く使命に変えるんだという意思があれば
それは一体、どんなにか素晴らしいことだろうかと思う。

同じ御本尊に、同じく南無妙法蓮華経と唱えたとして
そういう生命の力強さを思い出せないような風土になってしまったら

どんな正しさを謳いあげてみようと
救いあげるのではなく
引きずり込むという形になってしまう。

もちろん、創価の現場組織には
様々な体験を持った人間が、まだ生存しているので
100%信仰が失われたという事はないだろうが

「戸田先生の獄中の悟達の体感が解るだって?
キミ頭大丈夫?」とか言いかねないような
世襲の連中が幹部になっていくような
貴族仏教化が深刻化すれば、
本当にいろんな角度で瓦解するだろう。

本部職員に近いほど信仰体験をオカルトだとバカにする場面が
感じられる気がする。

いつ誰がどんな大病になるか分からないというのに
彼らはその時、ただギャーギャー騒ぐのだろうか?

もちろん正しい信仰があれば死なないなんてことはない。

臨終氏正念というものが信仰の大きなテーマでもある。
それは生涯の信仰の決着点でもある。

他人がその死相をどう語ったとして
本当の信仰の大勝利の死であるならば
それは勝利の中の大勝利なのかもしれない。

それのそのままを生死不二として
この瞬間に体感するならば、
それは歓喜の中の大歓喜であるかもしれない。

しかして、ヨーガの達人の如く
自らの鼓動までをもコントロールして
生死の感覚を味わい得たとして
その先に転じるものは何か?

小乗的と大乗的
使命と躍動の違いがある。

ありったけのありのままの感動で
世の中の心を耕し花を咲かせていきたい。

この現実の世界を素晴らしいものにしたい。

そういう連動した活動を続ける創価であってほしい。

組織の幹部の連中が、分からず屋ばかりなのなら
そんな連中はもう放っておけ。

一人ひとりの勇気によって
世界を変えていくのだ。

人間革命とは、そういう事じゃないのか?

本当の声なら、今の若者にだって届く。
そう信じる。

老いというものは誰にでも徐々にやってきて
逃れられないそれは、
見つめれば思想の深みを与える。

年甲斐の無い年の取り方はしないようにしよう。
生涯青春の上に深みを重ねていくのだ。

我々は物心つき気づいた時には生まれ生きている。
だが、人間のそれは
そう易々となされたものではない。

勝手に卵から孵るようなものではないし
他の霊長類と比べても、極めて難産である。

その生死においての一大事に目覚めよというのだ。

南無妙法蓮華経とは何を打ち破るものなのか?
まさに無明を打ち破るものなのだ。

そういう、三代の会長の取り出だした日蓮仏法なのだ。

難しく言っているけれども
在るということを何の解釈も付け加えず見つめれば
それは壊せるものの無いものだと気づく。

そのまま律動によって昇華させていくのだ。



[910] (無題)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年10月 9日(火)02時57分12秒   通報   返信・引用

ちょっと久々に開けてみれば、ちょうど身なりさんの投稿がありました。
お久です。

常に先頭を走る特攻隊長のようなのが突き抜けているのか

いやいや、私は皆さんの後ろから支えますと言いながら
大きな視点から大きなことを成すのが突き抜けているのか

ふとしたモブキャラの小さな勇気が突破口を開くかもしれない。

御本尊を信じ、御本尊が正しいと言う。

それは宿業も無明も打開する勇気の信心。

使命ある大切な一人ひとりの生命と
日蓮大聖人の仏法を向き合わせる対境。

南無妙法蓮華経と唱え「磨く」のだから
迷いを拭い晴れ渡らせていくのが信心だ。

一時のものではない永遠の
晴れ晴れとした勝利。

そこへ向けて一歩を踏み出し波動を広げていく。
その一人ひとりが主役。

池田先生から教わった信心を実現していく
曲げさせない。

公明党の変節に伴い
「それでいいのか?学会員?」という目が
社会から向けられている。

沖縄の選挙はブレイクスルーとなるだろうか?

評価は他人からの表面の二元的比較。

当人は己の表現の二元性の超克をするのが
迷いの打開となる。

地震、豪雨、酷暑、台風、

学会の勝利(打ち出しの達成)
=民衆と日蓮仏法の勝利

であったならば

主観世界であるが少なくとも私が
意識体次元で心を折りに来た
と感じるものではないと思うけれど

誰も不幸にならない
より素晴らしい未来へ向けて
祈り突破したい。

「力」は如是力なんだから
必要ならば祈って出ないはずがない。

悩みがあるから祈れて力になっていく。

視点を変えれば
中途半端と感じる自分にも感謝だよ。



[908] 突き抜ける力

投稿者: 清潔な身なり 投稿日:2018年10月 8日(月)01時38分52秒   通報   返信・引用   編集済

皆さまご無沙汰しております。
清潔な身なりです。

つくづく私は突き抜けるる勇気が持てない男どと感じて生きてました。(中途半端というか)

しか~し見る人からしたら、とんでもなく突き抜けてるらしい。

ということは私が羨んでる突き抜けてる人もまた満足してない可能性が高い?

人間の欲と嫉妬のなせる業ですね。

誰かが欲求は満たせるが、欲望は底なしと言ってたのを思い出します(^_^;)

あ~突き抜けたい??(*_*)



[907] 教団組織を考える

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 7月19日(木)23時31分42秒   通報   返信・引用

<宿坊の掲示板>日興門流・教団組織を考える  投稿者:飛翔こそ蘇生
https://6027.teacup.com/situation/bbs/85782

教団の指導者を育成する中心道場は、どのような機能を備えているべきか。
まず日興遺誡置文から行学二道の精進の部分を見てみよう。

一、才能のある弟子においては、師匠に仕えるための諸(もろもろ)の用事をしなくてもよいようにし、
  御書をはじめとして仏法のさまざまな教えを学ばせるべきである。

一、(仏法の)学問がまだ完成していないのに、名聞(みょうもん)や名利(みょうり)を考える僧侶は、
  私(日興上人)の末弟ではない。

一、 私(日興上人)の後代の弟子たちは、仏法の権教と実教の勝劣を知らない間は、
  父母や師匠の恩を振り捨てて、生死の苦しみから出て仏道を証得するために、この寺に登って
  学問をすべきである。

一、大聖人の正法を会得せずして、天台の法門を学んではならない。

一、日興門流においては御書を心肝(しんかん)に染め、極理(ごくり)を師から受け伝えて、
  その上で、もしいとまがあるならば、天台の法門を学ぶべきである。

一、(仏法についての)論議や(正法の)講義、説法を好むべきであり、
  それ以外のものは慎まねばならない。

一、広宣流布は成就しない間は、身命を捨て、おのおのの力に随(したが)って妙法弘通に励むべきである。

次に、法華初心成仏抄の次の箇所
「法華経を持つにおいては深く法華経の心を知り止観の坐禅をし
一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は実に即身成仏し解を
開く事もあるべし、其の外に法華経の心をもしらず無智にしてひら
信心の人は浄土に必ず生べしと見えたり」

通解「法華経を持つにあたっては、深く法華経の心を知り、止観
の坐禅をし、一念三千・十境・十乗の観法を一心に行う人は真実
に即身成仏し、悟りを開くこともあるであろう。
そのほかに、法華経の心も知らず、無智であっても信心一途の人
は浄土に必ず生まれるであろう」

この部分を指導者側の責任と一般信徒側の在り方として
仏法の四力(三妙・三大秘法)に配してみよう。

指導者側は、例えば摩訶止観の陰入界(現代的に言えばダイレクトパス)
等によって実質的に仏力・法力のエネルギーを開く(悟る)必要があり
(本果妙(釈迦一代の真髄)・本尊)

多くの信心一途の一般信徒らの信力・行力によって蘇らせていき
(本因妙(日蓮仏法の真髄)・題目)

揃って円満な教団になり、広宣流布の浄土を実現していく。
(本国土妙(広宣流布の組織)・戒壇)

例えば、御義口伝の内容というものは実に
文章を追って思考概念で理解するものではなく
止観の確認の対鏡のようになっているのは
それを実践すれば体感できるものだ。
(アルベア法の実践)

しかし近くで学んで修行段階によって悟りが得られる仕組みや
教団組織の普遍的な幹部育成が上手くいかないのは歴史の常で
多くは早々に破綻する。
日蓮大聖人の直弟子ですらのことである。

実質、広宣流布の飛躍には難の中で心身を削り、頼るものの無い中で
一人開く並々ならぬ人間革命の指導者の出現が待たれた。

つまり、その雛形として戸田先生の出現があり
飛躍的に我がものとして発展させた池田先生の出現があった。

で、それを継承する次がいない。
54年の再燃の法難が起こっている。

全員が会長の思いで日興遺誡置文の仏法護持の根本精神を
読まなくては断絶し広宣流布がなされない事態である。

一、我が身は軽く法は重しとして仏法実践に励んでいる者に対しては、たとえ下劣の法師であっても、
  「当(まさ)に仏を敬う如くにすべきである」との道理にのとって、その人を敬うべきである。

一、妙法を弘める法師は、
  たとえ身分の低い者であっても、(修行を積んだ)老僧のごとく思って敬うべきである。

一、たとえ位の低い者であっても、自分より智慧がすぐれている人を、師匠と仰いで仏法を学ぶべきである。

一、たとえ、時の貫首(一宗の法主)であっても、仏法の正義(しょうぎ)に背いて、
  勝手な自説を立てた場合には、これを用(もち)いてはならない。

一、たとえ宗内の多数で議決したことであっても、
  (大聖人の)仏法と相違があるならば、貫首(一宗の法主)はこれを打ち砕くべきである。

つまり、創価学会内の多数で議決したことであっても
仏法と相違があるならば、全員が会長の思いでこれを打ち砕くべきである。

がしかし、思考概念の思いだけで早まっても
作用反作用に翻弄され当たって砕けてしまうだろう。

まずは反応に対して俯瞰し、意識として
事の一念三千を実現していくのだ。

連携し、信行学を深めて
充実と健康と功徳を取り戻して体力回復をするのだ。

彼らは焦り、我らは楽し。

自受法楽で行くのだ。



[906] (無題)

投稿者: 投稿日:2018年 7月19日(木)12時50分25秒   通報   返信・引用

カバラと塚を使いアミノ酸の配列を狂わせて私を老化させる気らしい。
never?noyume?睡眠時の夢も使って老化せせる気か!決死の覚悟か?
あと夢の中で女の色仕掛けを使う気か!2018/07/19のお昼12:31。

7/19早朝深夜、カラスの類が私に悪い事を言ってるらしい。朝、人面犬が見えた。

7/18の夢で明石家さんま関係から究極に汚いイツァムナーを送られた?
私にやさしく悪い奴に接するようにさせたいのだろうが絶対ごめんだね!
2018/7/18の18:58

尻穴に忍者がいるらしい。2018/7/18の18:39

音楽でも私のかっこいい要素を奪ってたらしい。アブラメリンでやってたらしい。
究極の汚物とか使ってたらしい。2018/7/18の17:50



[905] 側と側と非二元

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 7月19日(木)12時46分50秒   通報   返信・引用

南無妙法蓮華経と唱える側の問題と
南無妙法蓮華経と唱えられる側の問題がある。

例えば日本円を使う側と使われる側がある。
市場の大きさ、健全性、安定性、将来性
といったものが信頼できることによって
安心して使うことが出来る。

それらにヒビが入りそうな時には
まず日本政府が責任をもって対処するだろう。

その相互の関係性によって
日本円をベースにした安定した生活を営むことができる。

日本円の経済活動に加わり働くことで
衣食住を安定させることが出来
余剰分で不測の事態に備えたり
文化的向上に回すことが出来る。

日本政府の側も医療や教育や雇用の制度や
インフラの整備、福祉の充実などを行う。

敗戦の時、日本はギリギリのところで
アメリカ軍が発行するB円の流通を
沖縄などの一部地域に抑えたが
それで流通されてしまっていたら
日本政府の手でその価値を担保できなくなってしまっただろう。

さて、南無妙法蓮華経だ。

この題目が思い、情動、実存に対して
安定させることが出来
死に対してまでのあらゆる事態への正念の確保
平和・文化・教育の化儀の広宣流布を実現させるためには

御本尊を授ける側は
どんなことに精通し、担保としなければならないか?

それはもちろん、法華経、一念三千、日蓮仏法の
三種の法華経を心とした一切経の仏教である。

それが無ければ
本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目でなく
権門のB本尊、権門のB戒壇、権門のB題目となってしまう。

権門のBという邪宗に堕とさせないためには
発迹顕本した人間による化導が必要である。

化法に精通する悟達し思い出した人間
あるいは師弟不二によって受け継いだ人間である。

華厳経には無く法華経には有るのは
「久遠実成」と「二乗作仏」である。

探求者や仏弟子らが永久に法を説いている仏と
同じ化法を開いて化儀へと還元するのだ。

思い、情動、実存に対して安定の方法を現代的に言うと
内観、エクササイズ、ダイレクトパスといった手法があるが

これを一息に観ることが一心三観であり
これによって「I am(that)」であることが
I=一念、that=三千の一念三千である。

この一念三千を開く
師弟不二とはつまり二乗作仏と不可分である。

このことを師弟共に語り展開していくのが
南無妙法蓮華経である。

この事がしっかりあればこそ
深く意味を知らずとも、
そこにいる民衆は唱題によって功徳を得られる。

しかし、体裁ばかり教団が存続しても
「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、
何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ」である。

化法が都合よく改竄され失われようという時
その化法を護らずして、いかな成仏も広宣流布もあるだろうか?



[902] まぁまぁ、いりませんとかつれないこと言わずにさ(^^)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 6月15日(金)03時34分41秒   通報   返信・引用   編集済

まぁ、見る角度によっては
私の方がよっぽど変な事ばっか書いてるのかもしれないしね。

しかしさぁ
であるならば、あなたはどうしたいわけだい?

ちゃんと文章にはなっていないけど
ここに書くことは出来ている。

あなたは、それが出来ているあなたを発見できますか?

あなたは安全にここに表現できている。

嫌われていることに気がつかないといけないと。

気がついてもらえないと、あなたはどうなりますか?
どうなってしまうと思いますか?
どんな感情がありますか?

その感情があっても、あなたは大丈夫です。
身体をポンポンとタップしながら、その感情を味わってみて
深呼吸してみて下さい。
(例えば悲しみがあれば
悲しみ、悲しみ、悲しみと確認しながら
鎖骨の下あたりをポンポンとタップする)

一つの感情が落ち着いたら
さらに身体の感覚を追いかけてみて下さい。

いつ、何を経験しましたか?
具体的な出来事と、
それで自分がどうなるように感じるのかが明確な方が効果があります。
無理のない範囲、
直接の経験がきついなら、その直後、直前にある感情感覚を
タッピングしながら味わってみて下さい。

呼吸に意識を向けて下さい。

大きく深呼吸してください。

本当はどうしたかった?
どうであってほしかった?

イメージの中で
それが実現しているところを思い浮かべて下さい。

そのイメージを焼き付ける気持ちで
大きく深呼吸してください。

生命現象~ゴールデンワールド~の動画を眺めて下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=NfdgKZ7HR4U

好きでも嫌いでもないけれど
生きていくために必要なものを一つ思い浮かべて下さい。
(例えば「空気」)

パンと両手を合わせ、チョキ、オッケー、やぁ
の動作をしながら
連想を繋げていって下さい。
(空気→酸素→植物→光合成→太陽・・・・など)
(動作見本https://www.youtube.com/watch?v=GdlnX_seOOw

毎日、プルプル気功を5分間やって下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=23Tvu1VdntQ

一か月ぐらいすると分かってきます。

誰でも同じなのです。

あなたがあるだけです。
そこにいればいいだけです。

これ以上なく安全なのです。



[900] Re: Re: 見分けて区分けてくま幾子にちれんしょうしゅう

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 6月 7日(木)09時09分24秒   通報   返信・引用

>>と言えば、私には御本尊赤沢の生命が無く無慈悲なようだし

「赤沢」??
検索してみると御本尊謹刻問題が出てきますね。

http://norimaki.faithweb.com/mokoku2.htm

紙上座談会というのは基本的に架空なんですけれど
内容からして、赤沢猛さんへの聞き取りは行われたのでしょう。

平成5年というタイミングで
そういうものを出しているんですね~。

https://ameblo.jp/kingdog136/entry-11709963921.html

色々と意図思惑が乱れています。

「神聖」と「タブー」ってので
人間を権威に隷属させ

そういう意図思惑の渦巻く中に
「折伏だ、啓蒙だ」と煽られたら

感じ取れる人間にとっては辛く
頭で理解・整理し論陣をはるより前に病んでしまうかもしれない。

精神の自由・信教の自由
それはそれ以外の何ものをも持たない時でさえの
人間の根底、存在からの自由でなければならない。

誰かからの指図など、そこにはいらない。
気にするな。

自身のために自身を見つめ
自らを解放せよ。

妙法のために妙法を見つめ
妙法を唱えよ。

一切の現象が妙法だと悟った時
それが円満具足の功徳聚となる。

指図された何を手に入れようとしたって
気に病む以外の何かが手に入ることはない。

妙法を唱えた瞬間に始めから
それ以上に手に入れるものなんてない。

全て蘇生され手に入れているのだ。

その全受容の癒しに、ただ気づけばよい。
そこにいれば良いのだ。



[898] 見分けて区分けて

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 6月 3日(日)03時02分30秒   通報   返信・引用

例えば境涯革命五項目というのがある。

* 他人に言えば愚痴になる
ご本尊に訴えれば祈りになる

* 世法で苦労すれば苦しみが残る
信心で苦労すれば喜びと歓喜が残る

* 感情をぶつけると怨嫉になる
題目で包容すれば成長できる

* 方法ばかり考えると迷いになる
決意して祈ると智慧が湧く

* 出来ないと決めると出来なくなる
やろうと決めて祈ると力が出る

なるほど、様々な信仰体験の
最大公約数的なシンプルな指針なのかもしれない。

振り返りの実感としてはそうなのだろう。
今、ブレていないかズレていないかの確認にもなろう。

しかし他者に対して発信する時には注意が必要だ。
自然のままの発露を無視すればろくなものではない。

「そんな愚痴を私に言っていないで御本尊に祈れ」
と言えば、私には御本尊の生命が無く無慈悲なようだし

「生活を犠牲にしても学会活動を頑張れ」
と言えば、活動が苦しみになっていくかもしれないし

「方法ばかり考えていないで決意を固めろ」
と言えば、何をどうして良いのか混乱するかもしれないし

「何を弱気になっているんだ、やるのかやらないのか」
と言えば、収束されるべきだった力が出なくなっていくかもしれない。

こちらとあちらに分離のある段階のままでは
作用反作用の反転が起こり

条件付けの隷属化に堕する。

形骸化が起こり疲弊していく。

そうならないために
自我機能・自己機能・意識機能の見分け区分けが必要になる。

エネルギー変換すれば作用反作用が起こり
エネルギー還元すれば非二元の現象化になる。

呼吸に意識を向けることや
坐禅を習得するように

題目にも唱え方によってある深い変容に気づくべきチャンネルがある。
そうでなければ九識心王真如の都とは言っても有名無実となるではないか。

これからいよいよ空仮中の現象化という時に
創価はその師から組織の実権を無くさせてしまった。

在家に悟られては立場の無い宗門に付け入られて
空仮中の体得の道から外れてしまった。

人と人との間に、その方法の実体が実現されていくべきであったが
池田先生の周りが、そのような人間たちになってしまったことで
機根に応じて、概念として、どう伝えれば伝わるだろうかということになっている。

池田先生は、ただ自身、行動を貫いた。

自我機能・自己機能・意識機能というものを
人間が自然に経験する発露、恋愛を例にして考えてみよう。

誰かを好きになる片思いの状態。
場合にもよるが、理屈よりも先に感情がある時
どこをどう好きなのかの内容の言葉は後付けになる。
状況状態そのものが感情のエネルギーとして起こっている。
恋い焦がれる荒ぶるエネルギー。
言葉にして付き合ってほしいと伝える。
作用反作用が起こり一喜一憂する。
いずれにしても、どこかで上手くいかないことが起きる。
幻滅し、現実に目覚める。

片思いの感情感覚はこちらの世界に起こっていることである。
あちらには、そうではない世界がある。
こちらの感情感覚の世界はあちらを手に入れなくてもこちらにあり
あちらの世界を手に入れたとしてもこちらの感情感覚で望んでいたものが
あちらの世界にそのままあるわけではない。
むしろあちらの世界にアクセスすることでこちらの望みは崩れる。
それは一時うまくいっても長期的に見れば滅さないものはない。

ではこちらの片思い感情感覚はどうだろうか?
縁にふれてステージに起こったものである。
私はその時に生まれただろうか?否、それ以前からある。
それなのに「私は貴方が好きだ」という私は、一つの縁起に同化しきった小我である。
それは私を抜き差しならない状態へ追い込むことになる。
それは意図思惑となり、作用反作用となる。
「なんでこんなに好きなのに分かってくれないの」という不足感に苛まれる。

私に、あなたを好きという感情感覚が起こっていると見れば
一歩引いて見ることになる。
「貴方が好き」おわり。何も求めない。

その、起こっていることに気づいているだけの私はいつからあるだろうか?
この問いの意味するところが分かるだろうか?
起こったことの全ては私そのものではないのだ。

DNAを元に身体の生成が起こっている。
それは私そのものではない。

私は、あらゆる記憶よりも前からある。

その発見できない発見の私が空であり大我である。

これは頭で理解することではなく
実際にやってみることだ。

私が気づいていることの全ては
私に起こっていることであり
ただ起こっていることの全ては
同列に自然に起こっている。

選択次第ではあるが、それでない人はいない。

アルベアさんはその交流にある。

「ん?」と思うところを
アルベア論に思考概念を合わせるのではなく
なぜ選択したのだろうかという自身を静かに味わってみる。

という条件付けさえ疑問の中に消し去って良い。

ただ、御書を読み法華経を読む時
同じ言葉を読んでいるのに
全くするりとそれであることが
始覚即久遠になっていく。

そうであるならば信仰者として
どうして避ける必要があるだろうか?



[897] 「21世紀文明と大乗仏教」趣意

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月23日(水)02時53分25秒   通報   返信・引用

創価学会の会則の前文には
創価学会は、「三代会長」を広宣流布の永遠の師匠と仰ぎ、異体同心の信心をもって、池田先生が示された未来と世界にわたる大構想に基づき、世界広宣流布の大願を成就しゆくものである。
とある。

池田先生とトインビー博士との対談が題名を『21世紀への対話』としていることもそうですし
「21世紀への」等と題されたものは赤胴鈴之助さんが投稿した『21世紀への選択』などいくつかあるが
現在の執行部は、その大構想に従っているだろうか?

今回は「第三の千年へ、新生の一歩を踏み出しゆくことを、私は願うものであります。」と締められた
「21世紀文明と大乗仏教」と題された1993年の池田先生のハーバード大学での講演から
どんな法を広めていくのが池田先生の広宣流布の大構想なのか考え

現在の執行部が「三代会長」を広宣流布の永遠の師匠として名前だけ利用し、
執行部の方針に従うことが「異体同心の信心」だと吹聴して惑わし、
池田先生が示された未来と世界にわたる大構想を隠し反故にして、
世界広宣流布の大願を破壊しゆくものであることを再確認する。

なるべく平易にかいつまむので、
原文は各自で見比べて確認してほしい。
考察を交えていこうかと思っていたが
趣意の抜き出しにとどめる。
https://blogs.yahoo.co.jp/rightrevolution2004/7621329.html
https://blogs.yahoo.co.jp/rightrevolution2004/7622019.html

無限の「富」や「権力」を手にしても人は必ず死ぬ。
有限性を自覚し、死の恐怖や不安を克服するために
人類は何らかの永遠性に参画し宗教と共に生きてきた。

近代の文明は死を闇雲に嫌っている。
20世紀が「メガ デス(大量死)の世紀」となったことは、
皮肉にも「死を忘れた文明」の帰結であったとは言えないか。

死は単なる生の欠如ではなく、生と並んで、
一つの全体を構成する不可欠の要素なのだ。

仏教では 「法性の起滅」を説く。
法性とは、現象の奥にある生命のありのままの姿。
生死など一切の事象は法性が縁に触れて「起」、すなわち出現し、
「滅」すなわち消滅しながら、流転を繰り返していく。

「戦争と革命の世紀」の悲劇は、
人間の幸・不幸の決定的要因が外形のみの変革にはないという教訓を明確に残した。
次なる世紀にあっては、従ってこうした生死観、
生命観の内なる変革こそ第一義となってくるであろうと私は確信している。

大乗仏教が21世紀文明に貢献しうる視点を3点に要約。

1、平和創出の源泉

釈尊の生涯は、一切のドグマから解放された
「開かれた心」による「開かれた対話」に貫かれていた。

釈尊の最後の旅は、戦争への意図を、
言論による説得で思いとどまらせたエピソードで始まる。

また、いまわの際の釈尊が弟子たちに向かって、法や修行のことなど
聞き残して悔いが残らぬよう、二度、三度と対話の勧めを行っており
「言葉を自在に使う人」の面目を躍如とさせている。

克服されるべき悪、すなわち「一本の矢(差異へのこだわり)」は、
外部というよりまず自分の内部にある。
人間への差別意識、差異へのこだわりを克服することが、平和と普遍的人権の創出への
第一義であり、開かれた対話を可能ならしむる黄金律である。
それでこそ、相手の性分や能力に応じて法を説く"対機説法"という自在な対話も可能。

日蓮大聖人は、改宗すれば日本の国王にしようと誘惑されても、
また、改宗しなければ父母の首をはねると脅迫されても、
「智者に我義やぶられずば用いじとなり」(「開目抄」 御書 232頁)と。
まことに言論にかける信念の強固なるや金剛のごとし、です。

創価学会は、真っ向から日本の軍国主義に対抗し、
牧口常三郎初代会長はじめ多くの同志が、投獄。
取り調べの検事や看守にさえ、毅然と仏法を語りながら、
平和を語りながら、牧口初代会長は73歳で獄死。

遺志を継いだ戸田第二代会長は、2年に及ぶ獄中闘争の後、
「地球民族主義」という理念を掲げ、悩み苦しむ民衆の中へ飛び込んで、
座談の波を広げていった。

この歴史的淵源を原点に「平和」と「文化」と「教育」の運動を展開し
世界の良識との対話を、更に続けてまいる決意。

2、人間復権の機軸

はたして宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、
善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか、
という判断を誤ってはならない。

マルクスの宗教阿片説が全く無意味であったとはいえず
相互依存と文化交流の進展を逆行する閉鎖的、独善的なものも多い。

仏教で言う「他力」「自力」、キリスト教流に言うと「恩寵」「自由意志」との問題
その両者のバランスの在り方を改めて検証してみたい。

大まかに俯瞰してみれば、物事の決定権がもっぱら神の意志にあった、神中心の決定論的世界から、
その決定権が人間の側に委ねられ、いってみれば、「他力」から「自力」への主役交代があった。

確かに科学技術を中心に大きな成果を積み上げてきたが、理性万能主義が、
人間が自力ですべてを為しうるという思いあがりを生み、
現代文明を抜きさしならぬ袋小路に追い込んでいる。

自力と他力の一方へ偏重するのではなく、今や「第三の道」を模索しているといえる。
その点「自力も定めて自力にあらず、他力も定めて他力に非ず」( 「一代聖教大意」御書403頁)
と精妙に説く大乗仏教の視点には、重要な示唆が含まれている。

近代人の自我信仰の無残な結末が示すように、自力はそれのみで自らの能力を全うできない。
他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全に働く。
しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったものである――
こうした視点こそ、宗教が未来性をもちうるかどうかの分水嶺。

仏教者に限らず全宗教者は、歴史の歯車を逆転させないために、
この一点は絶対に踏み外してはならないと思います。
そうでないと、宗教は、人間復権どころか、
再び人間をドグマや宗教的権威に隷属させようとする力をもつからだ。

仏の命の力用が「君よ、強くあれ。君よ、善くあれ、賢明であれ」との、
人間復権へのメッセージであることは申すまでもありません。

3、万物共生の大地

仏教では「共生」を「縁起」と説きます。「縁起」が、縁りて起こると書くように、
人間界であれ自然界であれ、単独で存在しているものはなく、
すべてが互いに縁となりながら現象界を形成している。
すなわち、事象のありのままの姿は、個別性というよりも関係性や相互依存性を根底としている。

因果律を例にとれば、縁起論でいう因果律は、近代科学でいう、
人間の主観から切り離された客観的な自然界を支配している機械論的因果律とはおよそ異なり、
人間自身を含む広義の自然界に渉っている。

災害に遭ったのが「なぜ私なんだ」という類の問いも真正面に受け止めて、「一念三千」論のように、
近代科学とも十分に整合性をもつ、雄大にして精緻な論理を展開している。

現代の生態学、トランスパーソナル心理学、量子力学等は、それぞれの立場で、そうした仏教的発想と親近しつつある。

関係性や相互依存性を強調すると、ともすれば主体性が埋没してしまうのではないかと思われがちだが、
そこには一つの誤解がある。
仏典には、「己こそ己の主である。他の誰がまさに主であろうか。己がよく抑制されたならば、人は得難い主を得る」
「まさに自らを熾燃(=ともしび)とし、法を熾燃とすべし。他を熾燃とすることなかれ。自らに帰依し、法に帰依せよ。他に帰依することなかれ」
(『真理の花たば 法句経』宮坂宥勝 筑摩書房)等とある。

いずれも、他に紛動されず、自己に忠実に主体的に生きよと強く促している。
ここに「自ら」「己」というのは、エゴイズムに囚われた小さな自分(小我)ではなく
時間的にも空間的にも無限に因果の綾なす宇宙生命に融合している大きな自分、すなわち「大我」を指している。

大乗仏教で説くこの「大我」とは、一切衆生の苦を我が苦となしゆく「開かれた人格」の異名であり、
常に現実社会の人間群に向かって、抜苦与楽の行動を繰り広げるのであります。
こうした大いなる人間性の連帯にこそ、いわゆる「近代 的自我」の閉塞を突き抜けて、新たな文明が志向すべき地平がある。

日蓮大聖人の「御義口伝」には、「四相 (=生老病死)を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」( 御書740頁)とあります。
21世紀の人類が、一人一人の「生命の宝塔」を輝かせゆくことを、私は心から祈りたい。
そして、「開かれた対話」の壮大な交響に、この青き地球を包みながら、
「第三の千年」へ、新生の一歩を踏み出しゆくことを、私は願うものであります。



[896] ラポール

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月13日(日)13時21分41秒   通報   返信・引用

ラポール(ラポート)という信頼関係は

内面からの本質的な気づきの変化を促すにあたって
非常に重要なファクターではないかと思います。

人と向き合うにあたって
ポリヴェーガル理論を踏まえて
自分の感覚を追ってみますと

警戒をする時には
戦う・逃げる・閉じて心を出さないという
交感神経と背側迷走神経の選択が
優位になっているのではないかと思います。

この人は私を認めてはくれないかもしれない
ここぞという時に無視をして手を放すかもしれない

あるいは、私のことをしっかりと知りもせずに
一方通行の考えによってジャッジするかもしれない。

倫理として「他人を自分のオルガノン(道具)とし
て利用してはならない」というものがあるのは

何も学び身につけない状態では人は
他人を自分のオルガノン(道具)とし
て利用してしまいがちだということでもある。

心を開くという事は弱点を晒すという事にもなる。
それを握られることは、気づかないうちに
良いように利用されてしまうかもしれないのだ。

恋心にかこつけて隷属させられたり
救われたい思いにかこつけて貢がされる時
正常な判断が難しくなり抜け出せず苦しむだろう。

そのような事があるから人は
得体が知れていないものに対して警戒する。
人や社会からの信用を得ていくというのは
非常に地道なことなのである。

どれだけ徹して、誠実でいられるかという事だ。
建設は死闘、破壊は一瞬なのである。

虚栄で作ったものは、いつか崩れ去る。

戦後の日本で急速に発展していった
創価学会という組織の指導性を見ると
昭和48年という躍進中の時には少なくとも
このような内容にも、注目する先見性があったようだ。

40年以上前のものであり、この分野自体にまだ、
思考へのウエイトがあったものと思いますが
一部、引用してみたいと思います。

~~~ ~~~
ウマが合うとか、相性がいいなどという表現がありますが、これは「互いの自我が
結び合った状態」を示しているのでありまして、英語ではこの結び合いを「ラポート」といっ
ております。この「ラポート」は友好のうえではきわめて大切なことと思うのであります。こ

れについてある本では「積極的に、心のベルトをかけようとするには、どんな手を打ったらよ
いか。その第一歩は、相手への関心を示すことである。その示し方は二通りあって①わたしは
あなたを認めている、無視していない②あなたについて知っている、この二つである」という
意味のことをいっております。
~~~ ~~~
http://6027.teacup.com/situation/bbs/84170

伝統の宗教に学び
革命家や文豪の詩に学び
歴史小説や歴史自体に学び
最新の学問の研究に学んでいた。

目を見張るような発展の成果も
そういう、地道で誠実な積み重ねのうちにあったのだ。

それは人類の英知を、温かい
腹側迷走神経の社会性の魂に結集するようなベースを作り
会う人に心を開かせる人徳を形成する方向があったのだ。

池田大作会長(当時)・創価学会・公明党が
道を開くことに一役買った日中国交正常化が昭和47年

しかし、この時すでに
池田大作会長(当時)の構想に創価学会本部も公明党も
ついていけていない面々が多数であったという話も
聞こえてくる。

腹側迷走神経の社会性の魂を身体に感じ定着させる方法
(まだポリヴェーガル理論は無かった)が
その面々の中では、偉くなれたと油断して
実施されきっていなかったのだろうか?

池田大作会長(当時)だけが個人的に得ていて
方法論自体が、無かったかどこかでおかしかったのだろうか?

あるいは、そんなことではどうにもならないぐらい
政界に関わったり、社会に影響力のある巨大組織になることは
他人を自分のオルガノン(道具)として利用する方向に
人を狂わせていくものなのだろうか?

ともあれ、ミイラ取りがミイラになった面々が
上位の責任を持った者にほど現れた感が否めない。

そのミイラによって傷付けられた魂に
再び信用してもらい心を開いてもらうというのは

困難な作業であるが
それが心のケアというものである。

この身体に何が起こったのか
何が起こるのか?

その人がその人の本当に目覚め気づくために
どんなサポートをしていくことができるだろうか?



[895] ポリヴェーガル理論の基本的なところ

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月11日(金)11時13分5秒   通報   返信・引用   編集済

ポリヴェーガル理論について
理解が届いていないとかいうのより
理解した基本を伝えずに、独自理論を展開したことが
より、まずかったようです。

なので、基本的なところを伝えます。
交感神経と副交感神経の通説に対して
~~ここから引用~~
スティーブン・ポージェスによって、多重迷走神経理論(ポリ・ヴァーガル理論)が提唱され、注目を集めています。

ポージェスは、従来副交感神経として分類されていた神経を腹側迷走神経複合体、背側迷走神経複合体とその他に分け、腹側迷走神経複合体、交感神経、背側迷走神経複合体の機能について、次のように説明します。

腹側迷走神経 もっとも新しい。哺乳類が発達させた、 社会性。定位反応
交感神経 2番目位に古い 逃げるか、戦うか(逃走・闘争)
背側迷走神経 もっとも古い 消化・吸収・排泄・睡眠・深い瞑想・凍りつき
~~引用ここまで~~
http://alexanderdiscovery.jp/document/forall/what-is-stage-flight.html
(レッスン等をすすめるものではありません、ポリ・ヴァーガル理論の説明部分を注目してください)

もう一つリンクを付けておきます。
比較検証してください。

https://secure-base.tokyo/多重迷走神経理論とは/
(こちらはより、ポリ・ヴァーガル理論が抜き出されて説明されています)

生命は進化の過程において
複数経路の自律神経系を発達させてきたようです。

単細胞から多細胞へ
そして機能が複雑化していくと
消化・吸収・排泄といった基本的な生命維持の
背側迷走神経を初めに手に入れたようです。

次に手に入れたのが
生き残りのために戦うか逃げるかを選択するような
交感神経です。
弱肉強食を勝ち残って多様な進化をしていきます。

さて、その時、完全に力が及ばない相手に対して
戦うとか逃げるとかいう、体力をフルに使う選択ではなく
身体を感じ体力を使う交感神経をシャットダウンし
基本的な生命維持の背側迷走神経だけの活動になるような
凍り付きという事で生存率を上げるケースが存在し
そういう仕組みが自律神経に形成されています。

腹側迷走神経は哺乳類が発達させた
もっとも新しい社会性との関り
群れの中での序列や役割を穏やかにこなし
そこに築かれている安全によって
安心しリラックスするような自律神経系です。

もしかしたら、母乳を与え子を育てるような
腹側のそういう進化と関係があるかもしれないというのは
今ちょっと思っただけの事なので、不確かです。


さてこのポリヴェーガル理論ですが
検索するかぎり、心のケアに関連するような
分野において、急速に取り入れられているようです。

「頭では、そうしなければならないと思っているのに
どうして私は、こんな風になってしまうのでしょう?」

そういう悩みに対して、従来の思考重視では
では考え方を矯正していき、
不安を考えないようにしたり
意志を強くしていきましょうという方向で
上手くいかなかったものが

考え方じゃなかったんだ
身体の自律神経の反応として起こることだったんだ
と分かってくることで、
凍り付きからの適切な解除方法が見えてきた

あるいは、方法としてはあったけど
それが理論として証明されてきた
という事ではないかと思います。

~~~
草食動物たちは、凍りつきから出てくるときに、小刻みに震えて(凍りつき反応のために生体内に滞留したエネルギーを放出して)、凍りつきから出てきます。再び交感神経が極限まで高まった状態になります。
~~~

プルプル気功や呼吸法によって
凍り付きから脱しながら
生理反応の自己機能に意識を向け
瞑想で得られるものを得ていき
生きるエネルギーの深さに
自由に生きていく
アルベア法は理に適っているように見えます。
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12274170762.html

非二元をベースにした心理学を展開している
溝口あゆかさんも、ポリヴェーガル理論に
非常に注目しています。
https://ayukablog.wordpress.com/2018/02/03/傷つくのがほとほと嫌になったとき♪/

個人として生きていることと
集団の中で生きているということの狭間で

安心を得ることよりも
ストレスを受けることの方が大きくなっていることが
多々あると思います。

この中で、人はどのようにしていけば
それを解決していけるだろうか?

私たちの身体に意識を向けることなく
頭で考えた事を押し付けようとしても
それは長続きしないのではないでしょうか?



[894] (無題)

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月 9日(水)16時22分39秒   通報   返信・引用   編集済

ポリヴェーガル理論について使い方が間違っているようなので、後で編集します
(少し注釈を入れました)



[893] ポリヴェーガル理論に見る「人天」「修羅」「三悪道」

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月 9日(水)11時57分51秒   通報   返信・引用   編集済

仏法の修行・瞑想には止と観がある。

止は不可思議という思議すべからずの
妙は死というものがあるままにあるものの覚知である。
死は、それを知らない時には恐怖の対象であるが
それを知る時には生も歓喜 死も歓喜になる。

観は見ていくという意識の働き成り立ちを見ていく。
なぜそう見てしまうのか見えているのか
なぜそう行動してしまうのか行動しているのか
その生活の中の活動、生であるところの法を
深く心に問い直していくことを観心という。

妙法を口に唱え、自身の名字に頂くことは
その両面が良く見える位置に、
自身が立つことの宣言・定着である。

いい加減だったり弱々しい題目では立つ力が弱く、
あっちへフラフラこっちへフラフラと
定まらない生活になるだろう。

観について専ら十二因縁に対してであるが仏法には
成立順の構築を見ていく順観と
逆順で解体を見ていく逆観がある。

妙法を学ぶという時
まずは、相対論の順に構築されている正しさを順観で見ていく。
一通りこれを学ぶだけでも大変なことで
邪義を入れない峻厳さ、清浄な僧伽、宗教枠が必要になる。

一通りそれがなされたならば、次は、天台の一念三千等へ
相対論の成立の逆順で、仏教全体の正しさ
宗教というものが求めているもの
人類の生命というものの在り方
仮に「妙法即生命論」といった場合の「即」の中身を
丁寧に見ていくことになる。
日興遺誡置文にその入り口が示されている。

これを、自身の生命の上に実現させていかなくては
「南無妙法蓮華経には全ての修行が含まれているんだ
他は全部 邪宗邪義なんだ、いらないんだ」とだけ言い続けたら
構築されている土台である仏法の本義を自ら破壊してしまう。

どうです立派な船でしょ?
1000万人乗ってちゃんと水に浮くんですよ。
え?エンジン?帆?推進力?そういうのは邪宗が付けるものです。
え?舵?目的地?何言ってんですそんな邪義を唱えるんですか?
この船に人が乗ることが広宣流布なんです。
え?食料?トイレ?居住施設?
贅沢言ってないで乗せてもらえたなら感謝して言われた通りに働いて下さい。

そんな風に何かが狂っていく。

さて、話は変わる。
最新の心理神経学にポリヴェーガル理論というものがある。

(ここで取り上げるのは、概念の中で出てくる言葉を使うだけのもので
実際のポリヴェーガル理論の効果や考え方とは、異なっています)

従来の、交感神経による緊張状態と
副交感神経によるリラックス状態の
相互作用によって人間は活動しているというものに

第三の状態の発見を付け加えたものだ。

交感神経の、生き残るための選択として緊張感のある闘争や
腹側迷走神経(従来の副交感神経)の
社会的つながりを促進する落ち着きやリラックスなどとは違う

人間が精神的に追い詰められてしまった時の
フリーズしてしまったり感情を爆発させてしまうもの。
このいかんともしがたいような状態を
背側迷走神経という、不動化や凍りつきなど解離反応を起こす
第三の自律神経系とする理論だ。

してみれば交感神経によって人間が勝敗を意識する修羅の時
相手を死か、それに準ずる背側迷走神経に追いやれば勝利感を得られる。

敗北は背側迷走神経の経路が刻まれ強化され
心の傷として残り、抱えていくことになる。

交感神経を修羅
腹側迷走神経のリラックスを人・天とすれば
背側迷走神経の経路を抱えることは三悪道の契機になりやすい。

つまりこれは元々あり
縁にふれて現れるんだな、
と見ていくのが仏法の入り口の二乗になる。

題目を唱えることは、それが見える位置に立ち
見て正し、磨いていくことだ。

誰でもその三パターンを持っているのだという立場から
他人に対しても導き包み込んでいくのが菩薩の道になる。

妙は死、理屈ではどうにもならないような背側迷走神経の苦しみも
妙法の中から決して外れているものではない。

静かに「考え」ではなく「感覚」を追っていけば
本来、その自律神経系も、歓喜にとってプラスのベースにすることが出来るのだ。

「地獄の苦しみぱっと消え」とは言っても
背側迷走神経が人間の中から突然消えて無くなるのではない。

全ての神経の奥底から湧き上がるエネルギーによって
その背側迷走神経が存在していることさえ歓喜へと再生するのだ。

背側迷走神経は進化の上で他の神経より古くからあるが
魚には一切歓喜はないかと言えば
生命であることの実感をする時は歓喜であり
神経はそれを感じることの出来るものなのだ。

「生も歓喜 死も歓喜」とは言っても
全生命による全生命への歓喜への蘇生なのである。

どうすればこの我が心身を
より歓喜そのものとして実感することが出来るか?

呼吸が大事、学び実践することが大事、信心が大事
人との関りが大事、誠実が大事、
環境との関わりが大事、平和が大事
文化が大事、教育が大事・・・

おかしなところに拘ったら
大事なものを狂わせてしまう。

狂いを取り除く、あなたの心の幸せが
目指すところ(果)であり
スタートとしていくところ(因)である。

結局は、正しく見える位置に立つことに
因も果も含まれていくのである。

また、目指すところは師の境涯であり
スタートしていくのは弟子の境涯である。

真剣な一念で題目を唱えることに
師弟不二の師子吼はなされるのである。



[892] 同心円と臨終正念

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月 7日(月)12時43分31秒   通報   返信・引用   編集済

<宿坊>階層的な同心円の仏法モデルで考えてみる  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/83848
「師匠(仏)がいて教え(法)があって
平等な学び合う弟子たち(僧伽)の同心円がある。
師弟が完全な不二になるためには
その上位の仏法において保障された
平等の関係になることが条件になる。」
このロジックで言うと 正しく日蓮本仏を言うためには
日蓮直属の僧伽(そうぎゃ)でなく 次の階層の僧伽が必要になる。

日蓮直属の僧伽のままやると
「私の内証も本仏だ、他の信徒とは違うんだ」と時の法主が言い出し
法華・涅槃の皆成仏道・一切衆生悉有仏性が不平等なものになる。

<気楽非活>日蓮正宗の方の私へのカン違い。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/25/060400
これは日蓮正宗への否定的内容として書かれている記事だが
客観的資料が書かれている。

大御本尊は弥四郎国重をリーダーとする法華講衆が願主となって
造立されたという事だ。

ロジック的には
弥四郎国重をリーダーとする法華講衆というものが
独立した僧伽の位置になる時に、
日蓮大聖人を本仏にしなければならない。

つまりその造立した本門戒壇の大御本尊を一大秘法とした
日寛教学において、次階層の民衆の独立僧伽のための教学が完成したのだ。

その教学において、日蓮本仏が確定する。

不思議なロジックだが
日寛教学は宗門が使用するよりも
次階層の僧伽である創価学会が使用した方が正しくなる。

創価学会が出現しなければ日寛教学は
おかしな異端になり下がる危険が高いのだ。

だから、創価学会の正しさを論議する時
日蓮直系の僧伽の、どの宗派どの教義が正しいかという論議とは
別の階層の事として考えなければ、
全く話が矛盾して堂々巡りになってしまう。

釈尊の本当の教えは
どの経典にあるのかという論議が
また別の階層の論議であるようにだ。

日蓮正宗に対しての否定が
そのまま創価学会の否定にはならない。

日寛教学の肯定は創価学会の独立によって
仏法の必然、魂の独立となる。

まぁ、池田先生の弟子たちが
池田先生についていかない中でなされたので
突っ込まれどころ満載の部分もあるし

せっかくのものを
自ら破壊していっているがね。

ロジックはロジックとして
この創価学会において師弟不二とはいかにして受け継がれるか。
それは師弟不二の殉教の精神によってだろう。

<宿坊>広宣流布された世界、その景色を見る時、人は悟るのかも知れない。  投稿者:蘭夢
http://6027.teacup.com/situation/bbs/83852

殉教とは言っても、広宣流布のために死ぬことという見方ではない。
殉教とは言っても、広宣流布のために生き抜くことではないだろうか?
それも、頭で考えてやりきれるよりも、もっとずっと大きな
これ以上不幸になることは出来ないというような環境の中での
それでも消えない広宣流布への臨終正念が
始まりも終わりもなくあったのだということ。

ここに至るためにはやはり
誰を師とし、どの仏を本仏とするかは
極めて重要である。

また、話は変わるが
題目の唱え方には種類があるらしい。

<宿坊>宮川さんのFacebookの代理投稿  投稿者:ドン・キホーテ
http://6027.teacup.com/situation/bbs/83820

その何がどうと言って

池田先生が同中でやっていた
あの、すごく引っ張った題目三唱。

どれぐらい呼吸を合わせられました?

そこを思い出せるなら
どんな地獄の底にあっても
臨終正念を取り戻せるんじゃないでしょうかね?

そこはもう、理屈じゃないですよ。



[891] 正法とは

投稿者: 飛翔こそ蘇生 投稿日:2018年 5月 6日(日)12時28分58秒   通報   返信・引用

<宿坊>正法とは  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/index/detail/comm_id/83816

<宿坊>或失本心或不失者  投稿者:飛翔こそ蘇生
http://6027.teacup.com/situation/bbs/83772
(この投稿の圧力感には自戒すべきところの自覚もある。)

<宿坊>職員の皆様へ  投稿者:ちょっと立読み
http://6027.teacup.com/situation/bbs/83801
創価新報のコピーを地区で配るより、この投稿を配ってほしいよ。


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