その日の放課後、咲果と僕は補講のために教室に残っていた。

 補講とは言っても名ばかりで、誰もいない教室で先生から出されたプリントを解いているだけだ。みっちりとした監視のもと行われるものだと思いこんでいたが、どうやら教師という仕事は授業以外にも色々とやることがあるらしい。
 プリントの内容は赤点者向けだからか、実にシンプルなものだった。授業をちゃんと聞いていない僕でも、教科書を見ながらやれば解けるようなものばかり。基礎をしっかりやりなさいということなのか、もしくは教師がいなくても解けるようにわざと簡単にしているのか。

 一通りの問題を解き終わった僕がシャープペンシルをくるりと回すと、後ろの席でウンウンと頭を捻っている咲果の姿が目に映った。
 自分の席で解けばいいものの、「一人より二人のがいいでしょ」と言いながらその席に座ったのが三十分くらい前のことだ。
 ちらりとその手元に視線をやれば、プリント中盤の問題で躓いているようだ。何度も教科書をペラペラとめくってはメモ用紙に計算をして、それでもだめだと頭を抱えている。

「ここ、使う公式が違う」

 僕は椅子ごと体の向きを変えて、芯をしまったシャープペンシルの先で彼女の教科書をトン、と指した。そのページには二種類の公式が説明されていて、どうやら彼女は必死にもうひとつの公式を使おうとしていたようだ。

「これをこっちに当てはめて、それで計算してみたらいいかも」

 小さい頃からサッカーばかりやってきたから、勉強はほとんどしてこなかったと言ってもいいと思う。高校だってスポーツ推薦での入学で、受験らしい受験は経験していない。それでも数学は割と好きな方で、褒められる点数ではないが赤点を取ることもなかった。──少なくとも、以前の学校では。まあ、赤点を取ったら一週間部活禁止という決まりのもと、ギリギリのラインはキープするようにしていたのも理由のひとつではあるけれど。

「まず、この途中式の解き方がわからないの……」

 しばらく考えた表情を見せたあと、咲果は深刻そうな声でそう懺悔する。
 どれ、と手元を見ると、そもそも今までに学んできた部分が理解できていないらしい。前に通っていた高校と教科書自体は同じだから、二学期には授業で学んでいるはずだがよっぽど数学が苦手なのだろうか。

 パラパラと教科書のページをいくつも戻した僕は、その内容をひとつずつ説明してみる。咲果はそれを、ふんふんと真面目な表情で聞いていた。

「できた……かも」

 ゆっくりと時間をかけて一問解いた咲果は、答え合わせを待つ子供のようにじっとこちらを見上げてくる。
 どんぐりのようなころんとした瞳と、透き通るような白い肌。一瞬、彼女の姿が限りなく透明に近いものに感じてしまい、僕はゆっくりと瞬きを繰り返した。

「いっくん、答え合わせしてくれる?」

 くっきりとした輪郭を持つ彼女の声で、僕ははっと我に返る。なんだか今の一瞬だけ、夢を見ているような感覚だった。現実から切り離された瞬間、みたいな。
 僕は彼女に気付かれないようにさりげなく咳払いをすることで、どうにか気持ちを切り替える。それでもまだ、心臓がドッドッと細かく波打っているようだ。

「……うん、僕の答えと同じ」
「やった!」
「いや、ふたりで間違えてる可能性もあるから」
「それでもいっくんと一緒ならいいや!」

 なんだよそれ、と僕は思わず笑ってしまいそうになるのをぐっと堪えた。また「笑った!」だなんて言われたら気恥ずかしいし。

 だけど僕は感じていた。咲果と一緒にいると、心の中に光が生まれてくることを。すっからかんになった自分の中に、コロンとビー玉がひとつずつ転がっていくような感覚を、確かに僕は感じていたのだと思う。

 咲果はとても自由だ。何にも捕らわれていなくって、まっすぐに差し込む太陽の光みたいに眩しくて。こうしたらいいとアドバイスされれば素直にそれに従い、がんばれと言われればひたすらに努力ができる、そんな人。その姿は、今の僕とはまるで正反対だ。

 ──咲果が光だとしたら、僕は影だな。

 途端に卑屈な自分が顔を出しそうになり、僕はぎりっと奥歯を強く噛み締めた。

「いっくんって、ギターはどこで習ったの?」

 そんな僕の気持ちに気付かない咲果は、ここまで解いてきた問題をノートに書き写しながら口を開く。家で復習でもするつもりなのだろうか。

「小さい頃にじーちゃんに少し習っただけ」

 知らずのうちに、卑屈さが心臓を緊張状態にしてしまっていたらしい。しかし、ギターの話をしたことでそれがふっと緩むのがわかり、僕は小さく安堵の息を吐き出した。

 たまに襲ってくる自己嫌悪感。ここでサッカーの話を出されていたら、僕は無言で教室を出ていったかもしれない。いつだって心に酸素を送り込んでくれるのは、じーちゃんと、じーちゃんがくれたギターの存在。

 この土地は僕にとって、全くの無縁な場所というわけではない。父方のじーちゃんばーちゃんの家がここにはあった。過去形にしたのは、その場所には今、僕らの住む新築の家が建っているからだ。つまりこの引っ越しは僕にとってだけ〝突然〟の出来事であって、両親は一年ほど前から──もしくはそれ以上前から──ここへ移住することを考えていたというわけである。
 確かにじーちゃんの家は老朽化も進んでいたし、台風のときには雨漏りもひどかった。それでも僕にとってそこは、今はもう会うことのできないふたりとの大事な思い出が詰まった場所であり、それが何も知らないうちに取り壊され、白い外壁がやたらと眩しい新築の家になっていたという事実もまた、この新生活を大腕を広げて受け入れられずにいる理由のひとつでもある。

 まあともかく、そういった意味ではこの土地は僕にとって懐かしい日々が刻まれている特別な場所でもあるわけだ。小学生の頃は、毎年夏休みになるとじーちゃんの家に預けられた。僕の両親は共働きで、大人たちに夏休みなんてないようなものだったからだ。

「あのギターも、おじいちゃんの?」

 咲果はシャープペンシルを動かしながらそう聞く。数学の問題を書き写しながら話すなんて、結構高度な技術のように思える。それとも女子は、そういうことが得意なのだろうか。確かに教室でも、女子たちはスマホをいじりながらおしゃべりに興じるという器用なことを日常的にやってのけている。

「そう。じーちゃんがくれた、唯一のプレゼント」

 僕のじーちゃんは、とても優しい人だった。大らかで穏やかで、海の凪のように感情の起伏がほとんどない。
 そんなじーちゃんの信条は『本当に大切なものは、見えないところにこそ宿る』。そのためか、小さい頃から何か物を買ってもらったことはない。
 夏休みが終わって東京へ戻ると、みんなが祖父母からプレゼントされたというスケートボードや、もらったお小遣いで買ったゲームなどを見せびらかし合う。そんなとき、僕はいつも会話には加わらず、ひとりでサッカーボールを蹴って過ごした。
「どうしてうちのじーちゃんはケチなんだろう」と思ったことも一度や二度じゃない。あの頃は今よりももっと単純で、目に見えるものが全てだったのだ。

 そんなじーちゃんが唯一僕にくれたのが、大事にしていたアコースティックギターだった。毎年夏にだけ、じーちゃんの家で触ることのできるギターは僕にとっては特別だった。ときには家から持ってきたサッカーボールを放っておくくらい、ギターに触れることは純粋に楽しかったのだ。
 楽譜なんて読めない僕に、じーちゃんはギターのコードを教えてくれた。最初に弾けた曲は『チューリップ』。さいたー、さいたー、でお馴染みのあの曲だ。

 その話をすると、咲果は楽しそうに声をあげて笑った。

「樹には音を楽しむセンスがある、なんて言って。小六の夏休みに、突然くれた」

 何かを予感していたのだろうか。その年の冬に、何の前触れもなくじーちゃんはこの世を去った。
 その後、中学でサッカー部に入った僕は、部活だけにひたすら明け暮れる日々を過ごしていた。ギターはケースに入れられたまま、クローゼットの奥で数年間眠ることとなる。

「そのギターは、おじいちゃん自身なのかもしれないね」

 いつの間にか、咲果はノートに書き写す作業を終えていたらしい。頬杖をついたまま、僕の方をじっと見ていた。その瞳があまりにも優しい色を含んでいて、僕は思わずそっと顔を背ける。なるべく不自然にならないように、さりげなく。

 こんな風に僕の話なんか聞いて、退屈じゃないのだろうか。そんな思いがよぎったけれど、咲果はじっと話の先を待ってくれていて、僕は素直にその感覚に身を任せ彼女と一緒に過去を辿る。

 ギターから離れた僕がその存在を思い出したのは、怪我をして家から出られなくなったときだった。
 悔しくて悲しくて、イライラが止まらなくてやるせなくて。あのときの僕は、自分でもひどかったと思う。八つ当たりという八つ当たりを、繋がりのある人全員にした。

 母親はそれを黙って受け止めてくれたが、父親はそうはいかない。何度も喧嘩をし、家出をすることもできない自分の体と年齢を心底憎んだ。
 心配してくれた仲間たちからのメッセージも全て削除して連絡を絶った。サッカーしかしてこなかった僕は、このやり場のない気持ちをどうしたらいいかわからなかったのだ。

 そんなある日、僕はサッカーに関わるものを全て処分することを決意した。今思えば、それは決意というよりは、諦めきれない気持ちの捨て方を他に見つけられなかっただけかもしれない。

 散らかった部屋の中、目についたものを大きなゴミ袋に次々と入れていく。
 ユニフォーム、靴下、ジャージにバンテージ。冬場を共に乗り越えたベンチコートに、サイズアウトしたのになぜか捨てられずに取っておいたおんぼろスパイク。棚の上のトロフィーに、地区大会で優勝したときの金メダル。幼少期のサッカークラブ時代の思い出が収められた大きなアルバムに、憧れの選手にもらったサイン色紙。〝サッカー選手になれますように〟と書いた子供の頃の七夕飾り。

 袋に詰め込むたび、涙が溢れた。悔しいのか、悲しいのか、失うのが怖いのか。よくわからないけれど、あのときが一番、僕が涙を流した瞬間だと思う。
 サッカー用品がなくなったクローゼットの中は、気付けば空っぽになっていた。たったひとつ、ケースに入ったままのギターを除いて。

「今も弾いているっていうことは、ギターがいっくんを支えてくれたんだね」

 静かに話を聞いていた咲果は、そう言って目を閉じる。

 こんなことを、誰かに話す日が来るなんて思わなかった。無理やりに遠ざけて、くしゃりと丸めて投げ捨てた夢。そのとき僕は、自分自身の心も同じように──もしかしたらそれ以上に、ぐしゃぐしゃに握りつぶして捨てようとしていたのかもしれない。
 しかしそれが今、ギターと咲果の言葉によって少しずつ元の形へ戻ろうとゆっくり開いていくのを感じていた。

『樹が奏でる音は、優しく透き通った音がする』

 縁側に並んで座る、幼き日の僕とじーちゃん。ミンミンと蝉がせわしなく鳴いて、僕はばーちゃんの入れてくれたシュワシュワの乳酸飲料が入ったグラスに口をつける。氷がカランと音を立てて、ツウっとグラスの表面を結露が滑り落ちる。じーちゃんはあさがおが描かれたちょっとヨレヨレのうちわをパタパタと仰いで、僕にもっと聞かせろと催促をする。蚊取り線香の燻した匂い、台所から聞こえてくるトントントンという野菜を切る音。そんな中で、上手いとか下手とか気にせずにただただ楽しく音を奏でる。

 久しぶりにギターの弦を弾いたとき、そんな懐かしき夏の日の光景が鮮やかに浮かび上がったのだ。

「──いっくんの音楽は、人を幸せにする力があると思うの」

 ふたりだけの静かな教室。

 彼女の言葉は、リンと響く鈴の音のように僕の鼓膜を優しく揺らした。







「樹、パート分けどうする? 俺、歌得意だからメインいっちゃおうかと思ってんだけど」

 いつの間にか隣の席に陣取っていた前野がしたり顔でそんなことを言っている。

 いや、なんでお前が隣にいる? いやその前に、その呼び方は何なんだ?

 現在、僕たちがいるのは学校の音楽室。もちろん音楽の授業中だ。
 音楽室と言えば、前の方にドカーンとグランドピアノが置いてあって、隅には大太鼓や小太鼓が壁に沿った形で収納されて。壁面にはベートーヴェンやモーツァルトたちが難しい顔をして並び、視線を少し下に落とせばおばあちゃんが作ったかのようなキルティング生地のカバーがかけられた木琴や鉄琴が鎮座する。教室に机はなく、木製のスツールが必要に応じて並べられるというのが今まで僕が見てきた音楽室だった。
 しかしこの学校の音楽室には三人がけの長い机が並べられており、各々好きな席で授業を受けることができる。僕にとっては新しい授業スタイルだ。

 席へのこだわりなんかはないため、普段の教室と同じ窓際の一番前に座る。するとごくごく自然な様子で前野がその隣へと滑り込んできたのである。しかも何の躊躇もなく『樹』と僕を呼び、旧友かのような気軽さで声をかけてくるのだ。

 やつが僕を樹と呼んで以来、なぜか僕らが一緒に過ごす時間は増えている。あっけらかんとしていて裏表のない前野は、実際のところ相当に鈍いのだが、非常階段での一件は心に刻まれているらしい。一度もサッカーという言葉を出すことはなく、流されるように僕はやつと少ないながらも会話らしきものをするようになっていた。

「前野がやりたいなら、メイン行けばいいと思うけど」

 〝メイン〟というのは合唱のメインパートのことだ。三月に行われる卒業式で、二年生がはなむけの歌を歌うというのは全国共通の習わしらしい。この学校でも例外なく、三年生を歌で送り出すという慣習が残っている。ただ少し特殊なのは、その熱の入りようがすごいということ。普通ならばソプラノ、アルトとふたつのパートにわかれるくらいのものが、ここではさらに細かいパート割となっている。
 主となるメロディラインを歌うメインパート、定番のソプラノとアルトは健在、さらには主旋律をなぞることの一切ないバックコーラスというパートが用意されているのである。

 ちなみにパート割は基本的には挙手制。あまりにも人数に偏りが出た場合は、残酷なことに簡単なオーディションのようなものが行われるらしい。特に花形でもあるメインパートは狭き門のようだ。

 僕はもちろん、バックコーラスに手を挙げるつもりでいる。ギターをちょっとくらい弾けるからと言って、歌がうまいとは限らない。僕だって自分の歌唱力に難があることくらいはちゃんと自覚しているのだ。

「前野とかやめろよ、他人行儀じゃん」

 前野は鼻にシワを寄せると、そのまま片方の目を細める。わかりやすいほどの〝しかめ面〟だ。

 きっと前野は、漫画を読むことが好きだと思う。だってその表情は、僕ですら見覚えのある人気漫画のキャラクターがよくする表情にとても似ていたからだ。それにしても、どうして咲果にしても前野にしても、距離の詰め方がこうも強引なのか。他人であることは事実なのに、やたらと〝他人行儀〟を嫌がる。
 僕が黙っていると、前野は今度は少しだけ頬を赤く染めながらぼそりと呟いた。

「りゅ……竜でいいけど」

 ──前野竜、の、竜?

 みんなからあだ名で呼ばれている前野は、実は下の名前で呼ばれることに憧れを持っているのかもしれない。

「……わかった、ボウ」
「いやっ、だから! 竜でいいって言ってんのに!」

 面倒だと思っていたはずのクラスメイトとのやりとり。それでも咲果の影響で耐性がついたのだろうか。嫌な気持ちはしなかったし、素直すぎるクラスメイトを前に僕の口角は少しだけ上がってしまっていたかもしれない。その証拠に、隣のボウは満足そうに鼻の穴を広げていた。

 こほんと咳払いをした僕は、そっと右後ろを振り返る。音楽室での席順は自由なのに、やはり彼女も僕と同じく、教室での席と同じように廊下側の一番後ろに腰掛けている。隣には倉田が座っている、というのが教室とは異なる点だ。

 以前、川沿いの公園で彼女の歌を聴いたとき。正直に言って全身に電流が駆け抜けたような気がした。それは単にうまいだとか声が綺麗だとかそういうのとはまた違って、ただの校歌だというのに一気に彼女の世界に惹き込まれるような感覚に包まれたのだ。
 まるでそれは、柔らかく透き通るような青い空と空気の中へと真っ逆さまに落ちていくみたいな感覚だった。頭上に広がる空へ落ちていく、しかもそのときの時間は夜だったわけだし、全体的におかしな表現だというのはわかる。だけどあのとき僕は確かに、そんな風に感じたのだ。

 ──彼女にとって、歌は特別なもの。

 そんなことは、一度彼女の歌を聴いただけの僕でもわかった。僕なんかより付き合いの長いクラスのみんなだってそのことはよく知っているはずだし、メインパートの中心は彼女になるに違いない。

「はい、それじゃまずざっと数確認するわね。メインパートやりたい人?」

 頭の真上で丸いお団子を作った音楽教師がそう言うと、ぱらりぱらりと手が上がった。
 あれほどに自信満々に立候補すると言っていたボウは、なぜかそわそわと周りと見回すだけで手を挙げる気配はない。さっきまでの勢いはどこにいったんだ。「やっぱちょっと、メインは高音もあるしな」だなんて言い訳をするようにぼそぼそと言っているけれど、別に僕はボウがどのパートをやろうが構わない。

「関口さん、前沢さん、村上さん、葉山さんね」

 カツカツと黒板に挙手した生徒の名前を書いていく先生。メインパートに立候補したのは女子ばかり。確かにボウが言う通り、高音が多いのも影響しているのかもしれない。──とそこに、あるはずの名前がないことに僕は気付いた。

「それじゃ次、ソプラノパート希望の人、手を挙げて」

 首をぐるりと捻り、対角線上を確認する。咲果は隣の倉田とクスクスと笑い合っているだけで、ここにも手を挙げる素振りはない。てっきりメインパートを希望すると思っていたのに。歌がうまくて、歌うことが好きで、誰もが認める歌声を持つ彼女が、どうして未だに手を挙げないのか。

 結局彼女が手を挙げたのは一番最後、僕と同じバックコーラスのパートのところだった。

 僕の強い視線に気付いたのかもしれない。咲果はこちらを見て僕の視線を受け止めると、へらりと笑って首をすくめ、あっという間に視線をほどいた。
 ざわざわと胸の奥が、嵐の前の強風に吹かれた雑木林のように大きく揺れる。彼女がどうしようと、僕には何も関係のないことだ。それでもあの夜、『歌手、なりたかったな……』と諦めたように笑った彼女の姿が脳裏に色濃く蘇る。あれはきっと、本心だった。

「咲果がバックコーラス……?」

 ぽつりとこぼれ落ちた呟きを、ボウは耳聡く拾い上げる。それから僕の視線を追うように首を捻り、「ああ」と大して驚きもせずに顔の向きを戻した。ついでに言えば、ボウも結局俺と同じくバックコーラスに挙手をした。明るく調子が良いボウは、実際にはかなり真面目で、それでいて若干の小心者でもあるのかもしれない。本人が自覚しているかは知らないけれど。

「咲果はバックコーラス以外やらないよ。本当なら合唱には参加もしたくないだろうし」

 配布された楽譜の端を三角形に折りたたみながらそう言うボウに、僕は違和感を覚えた。彼の様子が、あまりにも当然のことを話しているかのように見えたからだ。
 この町で小さな頃から一緒に育ってきたボウなら、咲果の実力を知っているはずだ。それでも彼女がメインを選ばなかったことに何の疑問も持っていないなんて。
 「なんで──」という言葉を、喉の手前でごくんと飲み込む。

 ──そんなことは、本人に聞けばいい。

 前の席から回ってきた楽譜を見もせずに、咲果は倉田と相変わらずにおしゃべりをし続けていた。


「いっくん、こんばんは!」

 その日の夜、公園でギターを抱えていた僕の前に彼女は現れた。

 ここ最近、僕はほぼ毎晩のようにこの場所でギターを弾いている。しかし咲果がここへやって来るのは毎日ではない。僕たちは約束をしているわけではないし、女の子である咲果が夜に外出をするというのは、僕が同じようにするよりもハードルが高いのかもしれない。両親だってやっぱり心配するだろうし。
 それでも今夜、きっと咲果は現れると僕はそう思っていた。

 オレンジ色のマフラーで顔の半分を隠した彼女は、自然な様子で僕の隣へと腰を下ろす。ふわりと舞うのは、シャンプーの甘い香り。ドキッとした心を、風呂上がりで外出したら風邪を引くんじゃないかという保護者みたいな心配で落ち着かせる。
 「いやぁ今日も冷えるねぇ」などと言う咲果は、言葉の割には楽しそうだ。いつもそう。彼女はいつでも、どんなときでも、本当に楽しそうな表情をする。あ、赤点を取ったときだけは本当に焦った顔をしていたけれど。
 思い出して口の端が微妙に持ち上がってしまうと「あーいっくん思い出し笑いしてるでしょ」と図星を突かれてしまった。

「ね、今夜は何にする?」

 数回、この場所で僕らは音と音を重ね合わせた。僕がギターを奏で、彼女は声を奏でる。それは誰に聞かせるでもない、僕たちふたりの遊びのようなものだ。目的があるわけでもないし、目指すものがあるわけでもない。
 それは例えば、小学生の頃の休み時間に夢中になったドロケイとかと同じようなものだ。子供たちは決してマラソン選手になるために走り回るわけじゃないし、警官になる訓練としてドロケイに興じるわけでもない。泥棒に至っては論じるまでもないだろう。子供たちがそれに夢中になる理由はただひとつ。〝楽しいから〟だ。

 僕は彼女の問いには答えず、今日初めて耳にしたメロディのイントロを、なんとなくの記憶を辿り指に乗せる。隣の彼女を包む空気が少しだけ固まるのを感じたけれど、気付かないふりをしてギターを弾き続けた。しかしいつまで経っても、そこに歌声が重なることはない。

「──なんで、って言いたいんでしょ」

 ブツリと曲の途中で演奏を切ると、咲果は苦笑いしながらいつものように足先をゆらゆらと揺らした。
 どうやら僕が言いたいことは、もう伝わっているみたいだ。不思議だなと思う。僕には彼女の気持ちが全くわからないのに、咲果は僕が言わんとしていることがギターの音色だけでわかるのだ。

 パート割りを決めたあと、僕たちは先生のピアノ伴奏に合わせて歌の練習をスタートさせた。とは言っても、本格的に練習が始まるのは次回からで、今日行われたのは簡単な音合わせみたいなものだ。みんなが楽譜を見つつ、周りの音程を探りつつ、なんとなくで歌詞と音符を拾っていく。

 ギターを弾くことはできる僕だけど、じーちゃんから習ったギターコードと一般的な楽譜は全く違う。耳で聴いて覚えるタイプの僕にとっては、おたまじゃくしが縦になって泳いでいるような楽譜ではメロディをイメージすることすらできず、今日はほとんど口パク状態だった。そしてそれは、歌が得意なはずの咲果も同じだったのだ。

「なんでバックコーラスに?」

 すぐに核心に迫りたい気もしたが、僕はあえて順番を守るようにその質問からスタートさせた。
 きっと咲果には、咲果なりの理由がある。僕がサッカーから離れた理由があるように。そしてそれは、簡単に土足で踏み込んでいい部分ではないという気がしたのだ。

「人数が一番多いから」

 その他大勢になれると楽でしょ、と彼女は口笛を吹くようにそう付け加えた。

「なんで音楽に興味のないふりを?」

 音楽の授業中、彼女はずっと隣の席の倉田と楽しそうにおしゃべりをしていた。
 授業のときにコソコソとおしゃべりを楽しむ。それは高校生──特に女子にはよく見られる光景だ。

 しかし僕が気になっていたのは、咲果が他の授業ではいつも真面目に授業を受けているという点だった。赤点を取ったことはあったものの、彼女の授業態度は一ヶ月ほどしかこの学校にいない僕から見ても優良なものに違いなくて、先生から注意されているところなんて見たことがない。
 そんな彼女の今日の態度は、わざと音楽に興味がないということを周りにアピールしているようにも見えたのだ。

「あー……。それはね、ちょっとした事情っていうか、辻褄合わせというか……」
「辻褄合わせ?」

 うまく説明する言葉が見つからないのかもしれない。咲果は腕を組み、口元をきゅっと結ぶと視線を彷徨わせた。

 『音楽が好きだと周りに知られたくないのか?』『歌うことを恥ずかしいと思っている?』『自分の歌を過小評価してるんじゃないか?』

 心の中から湧き出てくる言葉たちを、すんでのところでみぞおちへと押し返す。
 僕がどの言葉を言ったところで多分それはどれも彼女にとっての正解ではなくて、それでも咲果はそれら全てに困ったように笑いながら頷くような気がしたからだ。
 だから僕は、じっと我慢して彼女が言葉を見つけるのを待つ。

 咲果は右手を口元に置いたまま、じっとどこか一点を見つめている。時折、とんとん、と丸めた人差し指の第一関節を唇に当てているのは、思考を巡らせている証拠なのかもしれない。彼女の頭上に、インターネットのページを読み込むときのクルクル回る円が見えるような気がした。
 ──と、彼女は「これだ」とひとりごちると、姿勢を正してふぅーっと長い息を吐き出した。

「わたしね、小さい頃からずっと歌手になりたかった、って前に話したよね」

 それは初めて僕があの歌声を聴いた夜、彼女自身がつぶやいた『歌手、なりたかったな……』という心の言葉。彼女は今から、あのときの続きを話そうとしている。そう感じた僕は、咲果と同じように背筋を伸ばした。

 幼い頃から歌がうまかった咲果は、このあたりではちょっとした有名人だったらしい。当たり前のように周りは歌手になることを彼女に夢見させ、本人もそれを望んだ。だけど少しずつそんな〝大きな夢〟を語るには、現実が重みを増すようになっていったのだ。

「思春期になると、みんな素直に自分の思っていることを口にはしなくなるじゃない? 将来の夢とか聞かれても『わかりませーん』って答えたりさ。だけどわたしは、小さい頃と変わらずに歌手を目指してるって話したの。そしたらみんな、なんて言ったと思う?」

 咲果はまるで昨日見たドラマの話をするかのように、熱を込めて、だけどどこか他人事のように話をする。

「なんて?」

 大体想像はつく。だけどその疑問符が求めているのは正解なんかじゃなくて、彼女に語らせるための返事だ。
 咲果はすう、と息を吸い込むと、まるでそのときの様子を再現するかのように一息に言葉を吐き出した。

「〝まだそんな夢をみてるの?〟〝そろそろ大人になった方がいいよ〟」

 いつの間にか咲果の足元に擦り寄るように現れたまんまる猫の額を指先で撫でながら、彼女はそう言い放った。

 そこには当時彼女が感じたのであろう友人からの軽視、嘲笑が色濃く表れていた。もしかしたら友人たちは、そこまで深い意図や考えなく発した言葉だったのかもしれない。それでも本気で自分の進みたい道を信じ、周りの大人たちからもそれを否定されそうな気配を敏感に感じ取っていた当時の咲果にとっては、今でも忘れられない瞬間となってしまっているのだろう。
 だけどその想いを切り取って、悲話として語ったりしないのが彼女のすごいところだ。当時のことをこうして淀みなく語ることができるのは、忘れられない瞬間をトラウマとして残すのではなく、自分と切り離した過去の出来事として記憶させることができているから。

 過去を語る彼女の声は決して震えてなんかいなく、その当時のニュアンスは残されているものの、それでもやはりどこか自分のことではないような響きを持っていた。
 もちろん表情にも、滲み出るような負の陰りはない。僕にはそれが、反って切なく感じたのだ。

「……前にも言ったけど、僕はなれると思ってる」
「……え?」
「咲果がその夢を叶えられるって、本気で思ってる」

 咲果の両親がここにいたら、なんて無責任なことを言うんだと怒るかもしれない。だけどこれは気休めでもなんでもない。咲果を慰めるためでもご機嫌をとるためでももちろんない。僕の本心だ。

 咲果の歌声を聴いたとき、僕の中で世界が動いた。怪我をしたあの瞬間、壊れてしまった僕の中の方位磁石。北を見失いぴくりとも動かなくなったあの矢印が、再びゆらゆらと揺れながら北を探し始めたのだ。
 うまい歌を聴いただけじゃ、そんなことは起こらない。綺麗な歌声に触れただけでは、心にできたささくれは治らない。
 何もかもがどうでもいいと思っていたんだ。生きていても死んでいても、変わらないと思っていた。誰とも関わりたくなんてない。何もかもが、どうでもいい。
 そんな僕に変化を与えてくれたのは、彼女の歌声だったのだ。

「僕だって同じだったよ。サッカー選手っていう夢を馬鹿にするやつらもいた。だけどそいつらが、僕の道を作るわけじゃない。自分の未来は、自分で決めていいんだ」

 この辺でちょっとサッカーが上手い、というだけじゃプロになんかなれるわけない。例えばサッカーの強豪校へ行って必死に練習をしたからといって、必ずレギュラーになれるとも限らない。だけどそれと同じように、周りが反対したからといって、無理だと笑ったからといって、それがサッカー選手という夢を妨害することには繋がらない。サッカーをやめない限り、可能性はゼロにはならないのだ。
 だからこそ、僕はあの高校を選んだ。サッカー推薦で入れるならば、みんなが受験勉強をしている間にも練習できる。入学前の春休みから、先輩たちに混じって部活動に参加することも許された。
 どんなに険しく見えても、そこへと繋がっている道の上にいるという実感がモチベーションの全て。だからこそ僕は、その道の上にいることすらできなくなったときに何もかもを手放してしまったのだ。

「……そうだね、そうかもしれない」

 咲果はやっとといった様子でそう答えた。
 語尾が少し震えて聞こえたのは、僕の考えすぎだろうか。顔を上げた彼女の表情は笑っているのに泣いているようにも見えて、僕の心臓は激しく飛び跳ねる。

 以前と同じだ。彼女は泣かない。だけどどこか、泣いているように見える瞬間がある。そしてその後には──。

「……いっくんの、言う通りだと思う! 未来は自分で決めていい!」

 嫌な予感が現実となった。彼女は不自然なほどの笑顔をパッと顔に貼り付けると、明るくそう言い放ったのだ。

 自分の中で、ぷつりと何かが大きく弾けた。
 これ以上踏み込ませない、笑顔の壁。僕の言葉なんて、彼女の心にはこれっぽっちも響いていない。咲果の声には、真実などひとつも含まれていない。
 彼女はきっと──いや絶対に、そんな風に思っていない。目の前の彼女が見せる底抜けの明るさに、僕は偽物を感じてしまったのだ。

「……それなら明日、メインパートに異動するって言うんだよな?」

 怒りは極力抑えられたものの試すような口ぶりになってしまったが、もはや後には引けない。実際に咲果を追い詰めてやろうという気持ちが、ジリジリと僕の背中を押していたのだ。
 そのあとだって僕の思っていた通り、眉を下げたままやっぱり彼女は笑っていた。その笑顔に、腹の奥底からチクチクとした痛みがせり上がる。

 どうしてそんな諦めたような顔で笑う?
 どうして思ってもいないくせに、僕に同調する?
 ──なあ、僕に同情でもしているのか?

 ぐるぐると渦が巻く。小さな苛立ちは徐々に周りを巻き込んで、他の渦を吸収し、どんどん大きくなっていく。僕の心を荒らしていく。咲果の話をしていたはずなのに、いつの間にか渦の中央には僕の失われた夢が鎮座していた。

「……なんだよそれ」

 自分で思っていたよりも、ずっとずっと低い声が響く。どこかでもうひとりの自分が、それに驚いているのを感じた。

「僕はもう、やりたくてもやれないのに……」

 サッカーへの思いは、全て手放したはずだった。あの日、ボールからユニフォームから何もかもをゴミ箱に押し込んだとき、こんな思いも一緒に捨てたはずだったんだ。

 何かを〝やりたい〟だとか。何かに〝なりたい〟だとか。〝希望〟だとか〝夢〟だとか〝将来〟だとか。

 それなのに、輝く光を手に持ちながらも動こうとしない彼女を見ていると、僕の中にほんの少し残っていた未練のカケラがざくざくと心を刺す。それが痛くて、苦しくて、歯がゆくて、それでいて腹立たしい。
 僕は逃げたわけじゃない。仕方がなく、手放した。だけど彼女は、動く前に諦めている。

「咲果は、逃げているだけじゃないか」

 ――ざくり。

 どういうわけだろう。その言葉は確かに咲果に向かって放ったものなのに、同時に僕の心をも強くえぐった。

 咲果はどんな顔をしているのだろうか。もしかしたらそれでもまだ、彼女は笑っているのかもしれない。

 そんなことを考えたら、もうそちらを見る気にはなれなかった。僕は無言のままそそくさとギターをケースにしまい、彼女に背を向け歩き出した。「ナーォ」という丸い猫の低い鳴き声だけが僕の背中を引くように響く。
 それでも僕は、足を止めたりしなかった。咲果が何も言わないのをいいことに、追いかけてこないのをいいことに、僕は彼女の元から逃げ出したのだ。

 家までは歩いて十分。いつもよりスピードを上げ、大股で歩を進めた。凍てつくような風が僕の頬をペチペチと何度も叩いては通り過ぎる。ヒリヒリとした皮膚の痛みは、やがて胸の奥にできたジクジクした痛みと同化していった。

「……だから冬は嫌いなんだ」

 誰にでもなくそう言った僕は、足元に転がっていた石を舌打ちと共に蹴飛ばしたのだった。







「いっくんっおはよーっ!」

 背中から声をかけてきたのは、咲果──ではなく、くにゃっとシナを作って彼女のモノマネらしきことをしているボウだ。校門をくぐったところで後ろから抱きつかれたのだから、気分も最悪。ボウは前へと回って僕の顔を覗き込むと、げっとおもむろに顔をしかめた。

「ひっでー顔してんな、寝てねえの?」
「別に」

 くぁ、とあくびを噛み殺しながら距離の近いボウを右手で押し返す。

 正直に言えば、昨夜は一睡もできなかった。あれほどに怒りでカッと熱くなっていた体は、帰宅するまでのものの十分弱であっという間に冷えきって、代わりに絶望に似たほどの罪悪感が体中を支配していった。

 どう考えても、あれはただの八つ当たりだった。咲果が歌うことに前向きになれないのは何か事情があると思っていたはずなのに、気づけば僕は自分を話の中心に置き換えていたのだ。彼女の事情を何も知らないままに、勝手に状況を比べて卑屈になった。同情でもしているのか?なんて、あのとき僕に同情していたのは、他でもない僕自身だったのだ。

 あの後、寒空の下にひとり残された彼女はどうしたのだろうか。泣いただろうか。それともケロリとした表情で家に戻ったのだろうか。

 ──どちらにしても、僕がひどい言葉を放ったのは事実だ。

 朝会ったら、どんな顔をすればいいのだろう。もしかしたら怒って目も合わせてくれないかもしれない。そんなことを考えていたら、眠気なんて一向にやってこなかったのだ。

「ボウおはよーっ!」

 お、と無理くり肩を組んできたボウが顔を捻るのがわかる。僕の心臓はビクリと跳ね上がった。だってその声は、本物の咲果のものに違いなかったから。
 思わず体が固くなるとそれを感じたらしいボウは、「お? お?」と言いながら僕の体に何度も体重をかけたりしていた。

「いっくんも、おはよ!」

 タタッと駆け足で僕らの横を通り過ぎた咲果は、小さく振り向きながら笑顔を向けてきた。それはいつも通りの、透き通った明るい笑顔。

「……おはよ」

 耳の上あたりでくくったポニーテールと、くるりと巻いたオレンジ色のマフラーの端がひょこりと揺れる。十メートルほど先まで遠ざかってしまった彼女の背中に向かって、僕は届かない〝おはよう〟を複雑な想いと共に吐き出したのだ。