幸野 うさぎ

　どこにでもいる、普通の女子高生である私。
　そんな平凡な私の平凡な日常に、突然現れた非日常。
　それが「彼」だった。
　そして……
　高２の冬の初恋は、あの走り去っていく電車とともに終わりを告げた。

「さようなら……」

　涙をこらえる。
　もう、泣かないと決めていた。
　だってこの１ヶ月、さんざん泣いたもの。

　まだ雪がちらつく、３月の仙台。
　私は前を向き、歩き始めた。

　例年より暑かった夏が終わり、空気が変わって、少し肌寒くなってきた高校２年の秋。
　私の通っている予備校の空気も、変わり始めた。
　やっぱり、あと１年ちょっとで受験だからかな？
　受験に備えて、「チューター」っていう進路専用の講師が、全員につくらしい。

　チューターか。そうだよね、志望校を決めなきゃ。
　勉強だって、しなきゃダメだよね。受験生だし。
　
　でも、まるで現実感がない。
　私、大学に行って、何がしたいんだろう？
　そして卒業したら、何になるんだろう？
　小さい頃は、保母さんになりたいとか思ったけど。
　でも今は、それもなんとなくでしかない。
　みんなには、将来の目標があるんだろうな。
　ぼんやりしてるのって、私だけかも。
　……でも私って、何の取り柄もないからなあ。
　ごく普通の家庭で、ごく普通に育って。
　成績もいたって普通。クラスでも地味な方だし。

　「君が、幸野うさぎさん？」

　ぼんやりしていると、急に現実に引き戻された。

　そしてそれが、私と「彼」との出会いだった。

　私のチューターになった「彼」は、地元仙台の大学に通う４年生だ。
　文学部の英文学科に通っていて、普段は塾で英語を教えているらしい。

「君は、どこの学校を志望しているの？　え？　この成績で？　それじゃ、もったいないよ」

　グイグイ来る。距離が近い。でも、嫌な気はしない。
　情熱的で、親身になってくれそう。

　……そもそも私、年上の男性とこんな近くで話したの初めてかもしれない。
　もちろん、お父さんとは話すけど……
　そうじゃなくて、恋愛対象に入る年上の男性とは……

　恋愛対象？

　それ、どういうこと？
　私、彼のことが気になっているのかな？
　でも、そもそも私、彼氏ができたことがない。
　ううん、誰かに真剣に恋したこともないと思う。
　たぶん年上の人と話すことなんて今までなかったから
　ちょっと、動揺しちゃっただけだと思う。
　……うん、きっとそのはず。

　でも翌日も、その次の日も……
　彼と話す時間を、楽しみにしている自分がいた。
　これって、やっぱり恋なのかも。

　彼がチューターになって、１週間。私はその間、彼と色々な話をした。受験のことも、それ以外のことも。
　もしかしたら、受験以外のことの方が多いかも。
　私はとにかく、彼のことが知りたかった。

　彼が、青森の弘前出身だということ。
　今はひとり暮らしで、就職活動をしながら塾講師で生計を立てていること。
　あと、彼に高校から付き合っていた彼女がいたことも　知った。
　それを聞いたときは嫉妬したけど、大学入学後に距離が離れて自然消滅したことを知って、安心したり。

　やっぱり、これは恋だ。
　しかも、人生初の。

　そして彼と出会ってから、１ヶ月たったある日。
　帰り道、たまたま一緒になった彼が、駅まで送ってくれるというので一緒に歩いた。
　秋はさらに深まり、ぐっと気温が下がったこと、彼と二人で歩いていることで、緊張していた私は寒そうに見えたのかもしれない。彼はマフラーを貸してくれた。

　マフラー、暖かい。
　「そのまま持って行っていいよ」
　別れ際、マフラーを返そうと思ったらそんな返事。

　……それから一週間の間。
　ベッドの上で、マフラーを抱いてドキドキしたり。
　洗濯に失敗して、少しマフラーが縮んで、焦ったり。
　私、何をしているんだろう。
　とにかく、彼のことが頭から離れない。
　
　翌週、私はマフラーを返す時に、ありったけの勇気を振り絞った。

　「あなたのことが好きです。
　　……私と、付き合ってください」

　勇気を振り絞った、人生初の告白。
　か細く、聞き取れないほどの小さな声。
　自分では、大きな声を出したつもりだったのに。

　一瞬が永遠に感じられるような、沈黙の後……
　彼が出した答えは、
　「俺も、うさぎちゃんのことが気になってたんだ」
　だった。

　こうして、私に人生初の「恋人」ができた。
　クラスの友人は、彼氏が欲しいってよく言ってたけどそんな気持ち、その時は全然わからなかった。
　でも、今ならわかる。
　一緒にいるだけで、ドキドキして息苦しくなって……
　彼の顔を見ているだけで、笑顔になれて。

　チューターと生徒という関係上、あまりおおっぴらには会えない。
　彼の仕事が終わるまで、自習室で勉強して帰りの時間を合わせて、駅まで一緒に歩くだけ。
　恋人同士って、本当はもっとデートしたり、たくさんの時間を、一緒に過ごすものだとと思う。

　でも私は、満足だった。
　たまに帰りの公園でブランコに乗ったりして、ゆっくりと話す時がある。

　彼は旅が好きで、いつかひとりで世界を一周するという夢がある。
　そこに私がいないのが残念だけど、夢を語る男の人は普段よりカッコよく見える。

　……じゃあ、私の夢は？

　彼と、ずっと一緒にいたい。

　ある日の塾帰り。
　大型の低気圧が東北に来て、仙台は大雪になった。
　天気予報では、確かに大雪になるって言ってたけど。
　完全に交通機関が麻痺するなんて、このままじゃ家に帰れない。どうしよう……

　……そういえば、彼が住んでいるマンションは塾から近いって聞いたことがある。
　彼に話したら、部屋に招待してくれた。緊張する……

　初めて訪れた、彼の部屋。
　８畳のワンルーム。男の人のひとり暮らしって、汚いイメージがあったけど、きちんと整理整頓されている。
　白い壁には、ポスター１枚貼られていない。
　殺風景だけど、彼がこの部屋にいるだけで、なんだか暖かく感じてしまう。

　……誰にも邪魔されない、彼との２人だけの時間。
　ずっと、こうだったらいいのに。
　でも雪は、塾を出た時より、ずいぶんと小降りになっている。この調子だと、交通機関も回復するかも。

　帰りが遅くなるって、家に電話したら？　と彼。
　確かに、終電の頃には電車、動いてるかも。
　私は、母に電話をした。

　「お母さん……」

　「今日、友達の家に泊まるね」

　初めて親についた、大きな嘘。
　彼も驚いた顔をしている。
　でもその後、とびっきりの笑顔を見せてくれた。

　初めて彼と過ごす夜。
　彼のぬくもりが、すぐ隣にある。

　初めて彼と迎えた朝。
　昨日の雪が、太陽に照らされてキラキラ光っている。
　すごく綺麗だと、私は思った。

　あの大雪の日から、私の日常は変わった。
　そして、彼との関係も。

　塾から駅まで送ってもらう、それだけだった関係。
　でも今は、塾の帰りに彼の部屋へ寄っている。
　自習室で潰していた時間を、彼の夕飯を作る時間に。
　……結婚したら、毎日こんな感じなんだろうな。

　これまで想像もしなかったことが、彼と出会ってからめまぐるしく変化して、目が回りそう。
　でも、これだけははっきりと言える。

　夕焼けを見ながら、彼を待つ時間がすごく幸せ。
　帰ってきた彼の笑顔を見る時が、すごく幸せ。
　美味しそうに私の作った夕飯を食べる、彼を見るのが幸せ。

　私、こんなに幸せでいいのかな？
　突然、不幸な出来事が起こったりしないかな？

　ふと、そんな不安に駆られる時がある。
　でもきっと大丈夫。

　何が起ころうと、彼が隣にいれば。

　志望校を彼と同じ大学の英文科に変更した私は、合格を目指して勉強しながら、彼の部屋へ毎日通っていた。
　それが、私の日常になりつつあった。

　もちろん、私が大学に入学しても、彼はとっくに卒業しているけど……それでも同じ大学に行きたい。
　彼の会社も近いし、引っ越すつもりもないらしい。
　だからきっと、この日常は続いていく。

　そして、彼の卒業が近づいた２月。
　彼が内定している会社から、連絡があったらしい。
　いわく、本社で勤務してみないかと。

　……「青天のヘキレキ」って言葉、こういう時に使うのかな。

　彼は、熱っぽく話していた。
　世界の、様々なプロジェクトに関われるチャンスだ。
　アフリカのＮＰＯと協力して、ビッグプロジェクトが動かせる。
　世界の貧困を減らすことに、貢献できるかも……！

「俺は、自分の夢をかなえたいんだ」

　でも私の耳には、内容はまるで入ってこなかった。
　だって、東京に行けば……

　彼と、会えなくなってしまう。

　いつも笑顔が絶えなかった。
　私にとって、幸せの象徴だったワンルーム。
　その白い壁が、今日は妙に冷たく感じる。
　部屋を、夕暮れの闇が包み込む。
　暗くなる部屋で、私はずっと泣いていた。
　彼は、何も言わなかった。

　……言ってくれなかった。

　彼に、東京に行くことを告げられてから数日。
　私はその間、一度も彼の部屋に行っていない。
　彼の部屋だけじゃなくて、予備校へも。

　ひとりで部屋に閉じこもって、ずっと考えてる。

　彼の将来の夢。
　……かなえてほしい。

　私の気持ち。
　……彼と一緒にいたい。

　二人の未来。
　……わからない。

　同じことを、ぐるぐる、ぐるぐる。
　まるで食欲がなくて、何も食べたくない。
　勉強だって、したくない。
　知らない間に、涙が流れている。

　どうなるんだろう。
　どうすればいいんだろう。

　何も、答えが出ない。
　ただ、悲しいだけ。

　あの日から、１週間ちょっとたったある日。
　私の携帯に、彼から着信が入った。
　ついこの間までは、この彼専用の着信音が鳴るたびに幸せな気分に包まれていたのに……

　彼に呼ばれた私は、いろいろな想像を巡らせる。
　彼は、眼を腫らせた私の顔を見て少し驚いたみたい。
　でも、意を決したように、私に告げた。
　……別れの言葉を。

　必死に抵抗する私。
　自分でも、惨めだってことはわかってる。
　でも、でも……

　「うさぎの将来を考えると別れた方がいい」
　「自分の夢のために、うさぎを犠牲にできない」
　「君のことは愛している。でもしょうがないんだ」

　うん、わかるよ。
　あなたの言っていることはわかる。
　そうだよね、夢がかなうチャンスなんだもの。
　私なんて、邪魔になっちゃうよね。

　でも、でも……
　私は、ただ泣くことしかできなかった。

　別れの日からしばらくして、彼は予備校のチューターをやめた。
　彼と会う機会は、本当になくなってしまった。
　呆然と過ごす日々。
　受験勉強なんてまるで手に着かないけど、余計なことを考えたくないし、自習室で勉強に没頭しようとする。

　……でも、やっぱりうまくいかない。
　ここにいると、どうしても彼の帰りを待っていたあの日々を思い出してしまう。
　彼の部屋に行って、夕飯を作って、帰りを待っていた日々を思い出してしまう。
　それで結局、自習室にいるのが辛くなって家に帰る。

　そんな無意味な日々を過ごしていたある日。
　偶然、廊下で話していた予備校の先生同士の会話から彼の東京行きの出発時間を、私は知った。

　これが、彼と会う最後のチャンスかもしれない。
　行かなきゃ。彼と、話さなきゃ。
　
　そして彼に会ったらもう一度、私の想いを告げよう。
　そしてそのまま、一緒に東京に――

　……でも私は結局、会うことをやめた。
　東京に向かう電車を目の前にして。

　私は、彼の将来のことを、もう一度考えた。
　やっぱり、私が重荷になっちゃうよね。

　自分の将来のことも、考えた。
　今は、すごく漠然としているけど……
　彼と話しているうちに、私は海外に行くことに少し、憧れを抱くようになった。
　もしかしたら、このほんの少しの憧れは、大きな夢となって、いつか私を突き動かすのかもしれない。

　うん。私は、前を向いていこう。
　２人で過ごした時間は、きっと無駄じゃない。
　恋をして、私は成長した。
　だから、だから……

　――そして電車に背を向けて、私は歩き出した。