「いっくんは? 小さい頃、何になりたかった?」

 そして彼女が放った、その場の雰囲気を変えるための質問。きっとこれは、ただの言葉のやりとりだ。彼女は心に秘めた将来の夢を僕に打ち明けた。だから僕にも同じことを聞いてきたという、それだけのことだ。それでも今の僕にとって、その質問は何よりも鈍く痛む傷に触れるのと同じ。一気にあの棘が生まれるかと思いきや僕の心は落ち着いたままで、考えるよりも早く口が勝手に動いた。

「……サッカー選手」

 長年口に出し続けてきた想いを再び思い返すことは、ズキズキと傷に響く。それでも不思議と、彼女には少しくらい話してもいいのではないだろうかという気持ちにもなっていた。その心境の変化は自分でも驚くもので、もしかしたら今僕は夢の中にいるのではないかと馬鹿げたことを思ってしまったほどだ。

 僕が全てを投げ出した理由。人と関わりたくない理由。前野を過度に遠ざける理由。それは全て、サッカーによるものだ。僕にとって、サッカーは人生そのものだった。

「小さい頃からサッカーしかやってこなかった。キャプテンもやってたし中学のときは地区予選で優勝とかして。高校でも期待の新入部員とか言われてさ。だけど一年前、試合中にでかい怪我をして。それで全部終わり」

 わざと傷をえぐるよう、僕は淡々と事実を話した。やはり今でも、じくりじくりと傷は痛む。それと同時に気付いたのだ。こうして話してしまえば、たったの十秒ほどで語り終えてしまうものだということに。

 僕にとってサッカーは何にも替えられないもので、それを失ったことは地球が終わりを迎えるのとほぼ同義だった。それでも客観的に見ればこんなことは世の中にありふれた出来事で、腐らずしっかりと前向きに生きている人もたくさんいるのだろう。
 だけど僕にはそれができない。他人が「それくらいで」と言おうとも、「命まで取られたわけじゃないんだし」なんて励まそうとも、そんな言葉は僕にとって何の意味も持たなかった。

 だってサッカーを取り上げられた僕は、中身が何もない、空っぽな抜け殻でしかなかったのだから。

「──まあ、現実なんてこんなもんだろ」

 誤魔化すようにそっけなくそう言いながら、いつの間にか隣で丸くなって眠っていた猫の背中をつんつんと軽く突付く。猫は時折ひげをぴくぴくと動かすだけで、僕の攻撃に顔も上げなかった。
 素直に自分のことを話してしまったことに、じわじわと気まずさと後悔が顔をもたげる。よく知りもしない相手に、余計なことを話してしまった。極力他人とは関係を持ちたくないのに、一歩踏み込ませる隙を与えてしまったかもしれない。

 しかし、いつまで経っても咲果の口から何かが語られることはなかった。彼女はただ、右手でまるい石を拾いあげると、それを大きく腕を振りかぶったのだ。

 ぽーんと投げられた石は夜空に大きく弧を描き、やがて川の中へちゃぽんと音を立てて落ちる。それから僕に別の石を手渡すと、穏やかな表情で言った。

「こうやって何もかも、遠くへ投げられたらいいのにね」

 眠っていたはずの猫が顔をあげ、彼女の言葉に「ニャオォ」としわがれ声で鳴いた。

 ──きっと多分、込み上がる何かで声を出せなくなった、僕の代わりに。



 ざわざわと揺れる教室内は異様な高揚感に包まれている。

 ぱっと笑みを浮かべてから慌てて無表情を繕う人や、あからさまに肩を落とす人。ちらちらと周りを見てはホッとした表情を浮かべる人。人の気持ちというのは波動みたいに空気そのものを揺らすのだと僕は思う。

 なんてかっこいいことを言ったけれど、今起きているこの波動は、担任から返却されたテストの結果によって生み出されたものだ。
 学校が変われども、基本的なテスト返却の仕方は全国共通なのかもしれない。ひとりひとり名前を呼ばれ、先生の元へと取りに行く。出席番号順に呼ばれるため、今しがた結果を受け取った〝朔田〟である僕の後ろには〝沢石〟である咲果がそわそわとした表情で控えている。

「朔田、もう少しやる気というものを出せ」

 呆れ半分、心配半分といった表情をしているのは〝ふじやん〟と呼ばれている担任だ。引っ越してきてから今日まで何かと気をかけてくれているが、もう子供でもないので正直そっとしておいてほしいと思っている。が、もちろん口には出していない。

「わかりました」

 きっと心にもないことを、とふじやんは思ったかもしれない。テンプレ通りの返事をした僕は、手元の用紙には目もくれずに席へと戻った。点数など確認せずにそのまま机の中に滑り込ませる。何点だろうが、別に構わない。

 窓際の一番前の席が、僕に与えられた席だ。何か困ったことがあったとき、すぐに聞けるようにと教卓のそばに配置されたようだが、あいにくそんな機会は今までなく、これからもないと思う。それでも教室の端であるこの席は、前と左という二方向に人がおらずそれがとても気楽だった。
 ぼんやりと校庭へ視線を流す。テストだとか授業だとか成績だとか、そのどれもが僕にはどうでもいい。赤点を取って困ると思っていたのは、それが原因で部活に参加できなくなることを恐れていた以前の僕だけだ。
 誰もいない校庭に、ボールを追いかけるいつかの自分の幻が見え、僕はゆっくりと頭を振った。

 ──どうかしてる。もうどうでもいいはずなのに。

「や……やばい……」

 はあとため息をついたとき、それを上回る憂鬱さを含んだ声が前方から聞こえてきた。テスト用紙を手にこちらを振り返る咲果の姿が視界の端に映り込む。しかし僕はあえて、窓から視線をずらすようなことはしなかった。

 普段とは異なる場所で顔を合わせるというのは、ときとして距離感やそれまでの感情をバグらせるのかもしれない。昨夜の僕はちょっとどうかしていたし、それが彼女に入り込む隙を与えてしまったのだと言われれば、確かに多少の非はあると思う。それでも冬の夜の空気の匂いだとか、川の流れる音だとか、やたらと太った猫の存在だとか、そういったものが僕をセンチメンタルにさせていただけなのだ。
 僕は何度かかぶりを振ると、昨夜の出来事を頭の中から追い出したのだった。



「補講、わたしといっくんの二人だって」
「あっそ」

 休み時間になると、咲果は返されたテスト用紙を手に僕のところへとトボトボとやって来た。下唇を突き出して、不満たらたらといった表情だ。その点数を取ったのは自分自身。憎むなら己を憎め。

「うわ、二十八点はやばい」

 咲果のテストを真横からひょいと覗き込んだのは、彼女の友人である倉田(くらた)(もも)だ。
 倉田はどこか、他の女子たちよりも大人びた雰囲気がある。艶のある長い黒髪は知的さを醸しているし、背も高くすらりとしている。落ち着いた物言いで咲果と接しているのを見ると、このふたりは正反対だからこそうまくいっているのかもしれないと思った。とは言え、倉田と僕が直接話したことはない。

「桃〜! わかってる、わかってるの。本当にやばいことくらいわかってる!」

 わかりやすいほどの泣き出しそうな表情を向ける咲果は、やっぱり倉田と並ぶとずいぶんと年下のようにも見える。

「いつも八十点以上は取ってるのに、どうしちゃったの?」

 そんな倉田の言葉に、咲果はぴたっと動きを止める。それから忙しなく視線を左右上下へと泳がせた後「ヤマが外れちゃって……」と今度はへらへらと笑った。

「咲果はヤマとかかけないタイプだっただろ!」

 続いて登場したのは、僕が最も関わりを持ちたくない前野。勘弁してもらいたい。昨日の今日で顔も合わせたくないんだ。しかし前野は鈍いのだろうか。全く気にする素振りもなく「転校早々、赤点はきついなー」なんて僕にまで屈託ない笑顔を向けてくるから、うんざりして体ごと窓へと向けた。

 前野は多分、悪いやつではない。僕が思った通り、やつはサッカー部に所属していて、部長を務めているらしい。みんなから〝ボウ〟と呼ばれているのは、その坊主頭が由来しているのかもしれない。今は芝生くらいの長さにはなっているけれど。とにかく、この男に罪がないのはわかっている。それでも僕にとってこの男が地雷であることも事実だった。

「こ、今回はちょっと特別だったの! ちゃんと理由があるんだから!」

 それにしても、どうして彼らはこの広い教室のわざわざこんな隅っこに集まってそんなやりとりをしているのか。残念なことに、この三人の会話は僕の目の前で行われている。さらには「二年生になったら急に勉強難しくなった! ね、いっくん?」なんて会話に巻き込まれてしまうのだからたまったものではない。
 それでもどういうわけか、名指しで話しかけられてしまえば完全に無視するのもちょっとな、という気持ちになってしまうのだ。

「まあ……」

 目線は窓の向こうにやったままそう答えると、今度は目の前に前野の顔面が現れた。あまりの突然出来事にびくりと体を引いてしまう。

「ははーん」

 顎の下に手を当てて、咲果と僕の顔を交互に何度か見やる前野。にやにやと口元は弧を描いている。

「さては咲果、樹と居残りしたいがために、わざと赤点取ったな?」

 ──樹?

 実にさらりと、前野は僕をそう呼んだ。その唐突さと展開の滑稽さに、僕は呆気にとられてしまう。

「今のだと、朔田が最初から赤点取るって咲果が決めつけていたように聞こえるけど」

 淡々とそう言う倉田と、顔を赤くして「違う違うっ! いっくん違うっ!」と顔の前で必死に両手を振る咲果。

 ──どっか他でやってくれ。僕に構うなよ。僕を巻き込むな。面倒だな。

 そう思うのに、いつまでも心に棘が立ち並ばないのはどういうことか。
 曇っていた空の隙間から、うっすらと光が教室へと差し込む。目の前にあった三人が、ゆっくりと目を見開くのがわかった。

「──いっくんが、笑った」

 ハッとして口元を手で覆う。確かに若干、いつも不機嫌に結んでいる口元の力が抜けた気はしたけれど、決して笑ったわけではない。
 なんだか気まずいものを見られたような気持ちになって、僕は鼻先をそっと擦った。

「……笑ってないし」

 視線を逸らしてそう言えば、目の前の三人はそれぞれのやり方で表情を崩す。
 倉田は口元だけをふっと持ち上げ、前野はニカッと白い歯を出し、咲果は顔をくしゃくしゃにして。確かに彼らは僕に向かって笑いかけた。


 その日の放課後、咲果と僕は補講のために教室に残っていた。

 補講とは言っても名ばかりで、誰もいない教室で先生から出されたプリントを解いているだけだ。みっちりとした監視のもと行われるものだと思いこんでいたが、どうやら教師という仕事は授業以外にも色々とやることがあるらしい。
 プリントの内容は赤点者向けだからか、実にシンプルなものだった。授業をちゃんと聞いていない僕でも、教科書を見ながらやれば解けるようなものばかり。基礎をしっかりやりなさいということなのか、もしくは教師がいなくても解けるようにわざと簡単にしているのか。

 一通りの問題を解き終わった僕がシャープペンシルをくるりと回すと、後ろの席でウンウンと頭を捻っている咲果の姿が目に映った。
 自分の席で解けばいいものの、「一人より二人のがいいでしょ」と言いながらその席に座ったのが三十分くらい前のことだ。
 ちらりとその手元に視線をやれば、プリント中盤の問題で躓いているようだ。何度も教科書をペラペラとめくってはメモ用紙に計算をして、それでもだめだと頭を抱えている。

「ここ、使う公式が違う」

 僕は椅子ごと体の向きを変えて、芯をしまったシャープペンシルの先で彼女の教科書をトン、と指した。そのページには二種類の公式が説明されていて、どうやら彼女は必死にもうひとつの公式を使おうとしていたようだ。

「これをこっちに当てはめて、それで計算してみたらいいかも」

 小さい頃からサッカーばかりやってきたから、勉強はほとんどしてこなかったと言ってもいいと思う。高校だってスポーツ推薦での入学で、受験らしい受験は経験していない。それでも数学は割と好きな方で、褒められる点数ではないが赤点を取ることもなかった。──少なくとも、以前の学校では。まあ、赤点を取ったら一週間部活禁止という決まりのもと、ギリギリのラインはキープするようにしていたのも理由のひとつではあるけれど。

「まず、この途中式の解き方がわからないの……」

 しばらく考えた表情を見せたあと、咲果は深刻そうな声でそう懺悔する。
 どれ、と手元を見ると、そもそも今までに学んできた部分が理解できていないらしい。前に通っていた高校と教科書自体は同じだから、二学期には授業で学んでいるはずだがよっぽど数学が苦手なのだろうか。

 パラパラと教科書のページをいくつも戻した僕は、その内容をひとつずつ説明してみる。咲果はそれを、ふんふんと真面目な表情で聞いていた。

「できた……かも」

 ゆっくりと時間をかけて一問解いた咲果は、答え合わせを待つ子供のようにじっとこちらを見上げてくる。
 どんぐりのようなころんとした瞳と、透き通るような白い肌。一瞬、彼女の姿が限りなく透明に近いものに感じてしまい、僕はゆっくりと瞬きを繰り返した。

「いっくん、答え合わせしてくれる?」

 くっきりとした輪郭を持つ彼女の声で、僕ははっと我に返る。なんだか今の一瞬だけ、夢を見ているような感覚だった。現実から切り離された瞬間、みたいな。
 僕は彼女に気付かれないようにさりげなく咳払いをすることで、どうにか気持ちを切り替える。それでもまだ、心臓がドッドッと細かく波打っているようだ。

「……うん、僕の答えと同じ」
「やった!」
「いや、ふたりで間違えてる可能性もあるから」
「それでもいっくんと一緒ならいいや!」

 なんだよそれ、と僕は思わず笑ってしまいそうになるのをぐっと堪えた。また「笑った!」だなんて言われたら気恥ずかしいし。

 だけど僕は感じていた。咲果と一緒にいると、心の中に光が生まれてくることを。すっからかんになった自分の中に、コロンとビー玉がひとつずつ転がっていくような感覚を、確かに僕は感じていたのだと思う。

 咲果はとても自由だ。何にも捕らわれていなくって、まっすぐに差し込む太陽の光みたいに眩しくて。こうしたらいいとアドバイスされれば素直にそれに従い、がんばれと言われればひたすらに努力ができる、そんな人。その姿は、今の僕とはまるで正反対だ。

 ──咲果が光だとしたら、僕は影だな。

 途端に卑屈な自分が顔を出しそうになり、僕はぎりっと奥歯を強く噛み締めた。

「いっくんって、ギターはどこで習ったの?」

 そんな僕の気持ちに気付かない咲果は、ここまで解いてきた問題をノートに書き写しながら口を開く。家で復習でもするつもりなのだろうか。

「小さい頃にじーちゃんに少し習っただけ」

 知らずのうちに、卑屈さが心臓を緊張状態にしてしまっていたらしい。しかし、ギターの話をしたことでそれがふっと緩むのがわかり、僕は小さく安堵の息を吐き出した。

 たまに襲ってくる自己嫌悪感。ここでサッカーの話を出されていたら、僕は無言で教室を出ていったかもしれない。いつだって心に酸素を送り込んでくれるのは、じーちゃんと、じーちゃんがくれたギターの存在。

 この土地は僕にとって、全くの無縁な場所というわけではない。父方のじーちゃんばーちゃんの家がここにはあった。過去形にしたのは、その場所には今、僕らの住む新築の家が建っているからだ。つまりこの引っ越しは僕にとってだけ〝突然〟の出来事であって、両親は一年ほど前から──もしくはそれ以上前から──ここへ移住することを考えていたというわけである。
 確かにじーちゃんの家は老朽化も進んでいたし、台風のときには雨漏りもひどかった。それでも僕にとってそこは、今はもう会うことのできないふたりとの大事な思い出が詰まった場所であり、それが何も知らないうちに取り壊され、白い外壁がやたらと眩しい新築の家になっていたという事実もまた、この新生活を大腕を広げて受け入れられずにいる理由のひとつでもある。

 まあともかく、そういった意味ではこの土地は僕にとって懐かしい日々が刻まれている特別な場所でもあるわけだ。小学生の頃は、毎年夏休みになるとじーちゃんの家に預けられた。僕の両親は共働きで、大人たちに夏休みなんてないようなものだったからだ。

「あのギターも、おじいちゃんの?」

 咲果はシャープペンシルを動かしながらそう聞く。数学の問題を書き写しながら話すなんて、結構高度な技術のように思える。それとも女子は、そういうことが得意なのだろうか。確かに教室でも、女子たちはスマホをいじりながらおしゃべりに興じるという器用なことを日常的にやってのけている。

「そう。じーちゃんがくれた、唯一のプレゼント」

 僕のじーちゃんは、とても優しい人だった。大らかで穏やかで、海の凪のように感情の起伏がほとんどない。
 そんなじーちゃんの信条は『本当に大切なものは、見えないところにこそ宿る』。そのためか、小さい頃から何か物を買ってもらったことはない。
 夏休みが終わって東京へ戻ると、みんなが祖父母からプレゼントされたというスケートボードや、もらったお小遣いで買ったゲームなどを見せびらかし合う。そんなとき、僕はいつも会話には加わらず、ひとりでサッカーボールを蹴って過ごした。
「どうしてうちのじーちゃんはケチなんだろう」と思ったことも一度や二度じゃない。あの頃は今よりももっと単純で、目に見えるものが全てだったのだ。

 そんなじーちゃんが唯一僕にくれたのが、大事にしていたアコースティックギターだった。毎年夏にだけ、じーちゃんの家で触ることのできるギターは僕にとっては特別だった。ときには家から持ってきたサッカーボールを放っておくくらい、ギターに触れることは純粋に楽しかったのだ。
 楽譜なんて読めない僕に、じーちゃんはギターのコードを教えてくれた。最初に弾けた曲は『チューリップ』。さいたー、さいたー、でお馴染みのあの曲だ。

 その話をすると、咲果は楽しそうに声をあげて笑った。

「樹には音を楽しむセンスがある、なんて言って。小六の夏休みに、突然くれた」

 何かを予感していたのだろうか。その年の冬に、何の前触れもなくじーちゃんはこの世を去った。
 その後、中学でサッカー部に入った僕は、部活だけにひたすら明け暮れる日々を過ごしていた。ギターはケースに入れられたまま、クローゼットの奥で数年間眠ることとなる。

「そのギターは、おじいちゃん自身なのかもしれないね」

 いつの間にか、咲果はノートに書き写す作業を終えていたらしい。頬杖をついたまま、僕の方をじっと見ていた。その瞳があまりにも優しい色を含んでいて、僕は思わずそっと顔を背ける。なるべく不自然にならないように、さりげなく。

 こんな風に僕の話なんか聞いて、退屈じゃないのだろうか。そんな思いがよぎったけれど、咲果はじっと話の先を待ってくれていて、僕は素直にその感覚に身を任せ彼女と一緒に過去を辿る。

 ギターから離れた僕がその存在を思い出したのは、怪我をして家から出られなくなったときだった。
 悔しくて悲しくて、イライラが止まらなくてやるせなくて。あのときの僕は、自分でもひどかったと思う。八つ当たりという八つ当たりを、繋がりのある人全員にした。

 母親はそれを黙って受け止めてくれたが、父親はそうはいかない。何度も喧嘩をし、家出をすることもできない自分の体と年齢を心底憎んだ。
 心配してくれた仲間たちからのメッセージも全て削除して連絡を絶った。サッカーしかしてこなかった僕は、このやり場のない気持ちをどうしたらいいかわからなかったのだ。

 そんなある日、僕はサッカーに関わるものを全て処分することを決意した。今思えば、それは決意というよりは、諦めきれない気持ちの捨て方を他に見つけられなかっただけかもしれない。

 散らかった部屋の中、目についたものを大きなゴミ袋に次々と入れていく。
 ユニフォーム、靴下、ジャージにバンテージ。冬場を共に乗り越えたベンチコートに、サイズアウトしたのになぜか捨てられずに取っておいたおんぼろスパイク。棚の上のトロフィーに、地区大会で優勝したときの金メダル。幼少期のサッカークラブ時代の思い出が収められた大きなアルバムに、憧れの選手にもらったサイン色紙。〝サッカー選手になれますように〟と書いた子供の頃の七夕飾り。

 袋に詰め込むたび、涙が溢れた。悔しいのか、悲しいのか、失うのが怖いのか。よくわからないけれど、あのときが一番、僕が涙を流した瞬間だと思う。
 サッカー用品がなくなったクローゼットの中は、気付けば空っぽになっていた。たったひとつ、ケースに入ったままのギターを除いて。

「今も弾いているっていうことは、ギターがいっくんを支えてくれたんだね」

 静かに話を聞いていた咲果は、そう言って目を閉じる。

 こんなことを、誰かに話す日が来るなんて思わなかった。無理やりに遠ざけて、くしゃりと丸めて投げ捨てた夢。そのとき僕は、自分自身の心も同じように──もしかしたらそれ以上に、ぐしゃぐしゃに握りつぶして捨てようとしていたのかもしれない。
 しかしそれが今、ギターと咲果の言葉によって少しずつ元の形へ戻ろうとゆっくり開いていくのを感じていた。

『樹が奏でる音は、優しく透き通った音がする』

 縁側に並んで座る、幼き日の僕とじーちゃん。ミンミンと蝉がせわしなく鳴いて、僕はばーちゃんの入れてくれたシュワシュワの乳酸飲料が入ったグラスに口をつける。氷がカランと音を立てて、ツウっとグラスの表面を結露が滑り落ちる。じーちゃんはあさがおが描かれたちょっとヨレヨレのうちわをパタパタと仰いで、僕にもっと聞かせろと催促をする。蚊取り線香の燻した匂い、台所から聞こえてくるトントントンという野菜を切る音。そんな中で、上手いとか下手とか気にせずにただただ楽しく音を奏でる。

 久しぶりにギターの弦を弾いたとき、そんな懐かしき夏の日の光景が鮮やかに浮かび上がったのだ。

「──いっくんの音楽は、人を幸せにする力があると思うの」

 ふたりだけの静かな教室。

 彼女の言葉は、リンと響く鈴の音のように僕の鼓膜を優しく揺らした。







「樹、パート分けどうする? 俺、歌得意だからメインいっちゃおうかと思ってんだけど」

 いつの間にか隣の席に陣取っていた前野がしたり顔でそんなことを言っている。

 いや、なんでお前が隣にいる? いやその前に、その呼び方は何なんだ?

 現在、僕たちがいるのは学校の音楽室。もちろん音楽の授業中だ。
 音楽室と言えば、前の方にドカーンとグランドピアノが置いてあって、隅には大太鼓や小太鼓が壁に沿った形で収納されて。壁面にはベートーヴェンやモーツァルトたちが難しい顔をして並び、視線を少し下に落とせばおばあちゃんが作ったかのようなキルティング生地のカバーがかけられた木琴や鉄琴が鎮座する。教室に机はなく、木製のスツールが必要に応じて並べられるというのが今まで僕が見てきた音楽室だった。
 しかしこの学校の音楽室には三人がけの長い机が並べられており、各々好きな席で授業を受けることができる。僕にとっては新しい授業スタイルだ。

 席へのこだわりなんかはないため、普段の教室と同じ窓際の一番前に座る。するとごくごく自然な様子で前野がその隣へと滑り込んできたのである。しかも何の躊躇もなく『樹』と僕を呼び、旧友かのような気軽さで声をかけてくるのだ。

 やつが僕を樹と呼んで以来、なぜか僕らが一緒に過ごす時間は増えている。あっけらかんとしていて裏表のない前野は、実際のところ相当に鈍いのだが、非常階段での一件は心に刻まれているらしい。一度もサッカーという言葉を出すことはなく、流されるように僕はやつと少ないながらも会話らしきものをするようになっていた。

「前野がやりたいなら、メイン行けばいいと思うけど」

 〝メイン〟というのは合唱のメインパートのことだ。三月に行われる卒業式で、二年生がはなむけの歌を歌うというのは全国共通の習わしらしい。この学校でも例外なく、三年生を歌で送り出すという慣習が残っている。ただ少し特殊なのは、その熱の入りようがすごいということ。普通ならばソプラノ、アルトとふたつのパートにわかれるくらいのものが、ここではさらに細かいパート割となっている。
 主となるメロディラインを歌うメインパート、定番のソプラノとアルトは健在、さらには主旋律をなぞることの一切ないバックコーラスというパートが用意されているのである。

 ちなみにパート割は基本的には挙手制。あまりにも人数に偏りが出た場合は、残酷なことに簡単なオーディションのようなものが行われるらしい。特に花形でもあるメインパートは狭き門のようだ。

 僕はもちろん、バックコーラスに手を挙げるつもりでいる。ギターをちょっとくらい弾けるからと言って、歌がうまいとは限らない。僕だって自分の歌唱力に難があることくらいはちゃんと自覚しているのだ。

「前野とかやめろよ、他人行儀じゃん」

 前野は鼻にシワを寄せると、そのまま片方の目を細める。わかりやすいほどの〝しかめ面〟だ。

 きっと前野は、漫画を読むことが好きだと思う。だってその表情は、僕ですら見覚えのある人気漫画のキャラクターがよくする表情にとても似ていたからだ。それにしても、どうして咲果にしても前野にしても、距離の詰め方がこうも強引なのか。他人であることは事実なのに、やたらと〝他人行儀〟を嫌がる。
 僕が黙っていると、前野は今度は少しだけ頬を赤く染めながらぼそりと呟いた。

「りゅ……竜でいいけど」

 ──前野竜、の、竜?

 みんなからあだ名で呼ばれている前野は、実は下の名前で呼ばれることに憧れを持っているのかもしれない。

「……わかった、ボウ」
「いやっ、だから! 竜でいいって言ってんのに!」

 面倒だと思っていたはずのクラスメイトとのやりとり。それでも咲果の影響で耐性がついたのだろうか。嫌な気持ちはしなかったし、素直すぎるクラスメイトを前に僕の口角は少しだけ上がってしまっていたかもしれない。その証拠に、隣のボウは満足そうに鼻の穴を広げていた。

 こほんと咳払いをした僕は、そっと右後ろを振り返る。音楽室での席順は自由なのに、やはり彼女も僕と同じく、教室での席と同じように廊下側の一番後ろに腰掛けている。隣には倉田が座っている、というのが教室とは異なる点だ。

 以前、川沿いの公園で彼女の歌を聴いたとき。正直に言って全身に電流が駆け抜けたような気がした。それは単にうまいだとか声が綺麗だとかそういうのとはまた違って、ただの校歌だというのに一気に彼女の世界に惹き込まれるような感覚に包まれたのだ。
 まるでそれは、柔らかく透き通るような青い空と空気の中へと真っ逆さまに落ちていくみたいな感覚だった。頭上に広がる空へ落ちていく、しかもそのときの時間は夜だったわけだし、全体的におかしな表現だというのはわかる。だけどあのとき僕は確かに、そんな風に感じたのだ。

 ──彼女にとって、歌は特別なもの。

 そんなことは、一度彼女の歌を聴いただけの僕でもわかった。僕なんかより付き合いの長いクラスのみんなだってそのことはよく知っているはずだし、メインパートの中心は彼女になるに違いない。

「はい、それじゃまずざっと数確認するわね。メインパートやりたい人?」

 頭の真上で丸いお団子を作った音楽教師がそう言うと、ぱらりぱらりと手が上がった。
 あれほどに自信満々に立候補すると言っていたボウは、なぜかそわそわと周りと見回すだけで手を挙げる気配はない。さっきまでの勢いはどこにいったんだ。「やっぱちょっと、メインは高音もあるしな」だなんて言い訳をするようにぼそぼそと言っているけれど、別に僕はボウがどのパートをやろうが構わない。

「関口さん、前沢さん、村上さん、葉山さんね」

 カツカツと黒板に挙手した生徒の名前を書いていく先生。メインパートに立候補したのは女子ばかり。確かにボウが言う通り、高音が多いのも影響しているのかもしれない。──とそこに、あるはずの名前がないことに僕は気付いた。

「それじゃ次、ソプラノパート希望の人、手を挙げて」

 首をぐるりと捻り、対角線上を確認する。咲果は隣の倉田とクスクスと笑い合っているだけで、ここにも手を挙げる素振りはない。てっきりメインパートを希望すると思っていたのに。歌がうまくて、歌うことが好きで、誰もが認める歌声を持つ彼女が、どうして未だに手を挙げないのか。

 結局彼女が手を挙げたのは一番最後、僕と同じバックコーラスのパートのところだった。

 僕の強い視線に気付いたのかもしれない。咲果はこちらを見て僕の視線を受け止めると、へらりと笑って首をすくめ、あっという間に視線をほどいた。
 ざわざわと胸の奥が、嵐の前の強風に吹かれた雑木林のように大きく揺れる。彼女がどうしようと、僕には何も関係のないことだ。それでもあの夜、『歌手、なりたかったな……』と諦めたように笑った彼女の姿が脳裏に色濃く蘇る。あれはきっと、本心だった。

「咲果がバックコーラス……?」

 ぽつりとこぼれ落ちた呟きを、ボウは耳聡く拾い上げる。それから僕の視線を追うように首を捻り、「ああ」と大して驚きもせずに顔の向きを戻した。ついでに言えば、ボウも結局俺と同じくバックコーラスに挙手をした。明るく調子が良いボウは、実際にはかなり真面目で、それでいて若干の小心者でもあるのかもしれない。本人が自覚しているかは知らないけれど。

「咲果はバックコーラス以外やらないよ。本当なら合唱には参加もしたくないだろうし」

 配布された楽譜の端を三角形に折りたたみながらそう言うボウに、僕は違和感を覚えた。彼の様子が、あまりにも当然のことを話しているかのように見えたからだ。
 この町で小さな頃から一緒に育ってきたボウなら、咲果の実力を知っているはずだ。それでも彼女がメインを選ばなかったことに何の疑問も持っていないなんて。
 「なんで──」という言葉を、喉の手前でごくんと飲み込む。

 ──そんなことは、本人に聞けばいい。

 前の席から回ってきた楽譜を見もせずに、咲果は倉田と相変わらずにおしゃべりをし続けていた。


「いっくん、こんばんは!」

 その日の夜、公園でギターを抱えていた僕の前に彼女は現れた。

 ここ最近、僕はほぼ毎晩のようにこの場所でギターを弾いている。しかし咲果がここへやって来るのは毎日ではない。僕たちは約束をしているわけではないし、女の子である咲果が夜に外出をするというのは、僕が同じようにするよりもハードルが高いのかもしれない。両親だってやっぱり心配するだろうし。
 それでも今夜、きっと咲果は現れると僕はそう思っていた。

 オレンジ色のマフラーで顔の半分を隠した彼女は、自然な様子で僕の隣へと腰を下ろす。ふわりと舞うのは、シャンプーの甘い香り。ドキッとした心を、風呂上がりで外出したら風邪を引くんじゃないかという保護者みたいな心配で落ち着かせる。
 「いやぁ今日も冷えるねぇ」などと言う咲果は、言葉の割には楽しそうだ。いつもそう。彼女はいつでも、どんなときでも、本当に楽しそうな表情をする。あ、赤点を取ったときだけは本当に焦った顔をしていたけれど。
 思い出して口の端が微妙に持ち上がってしまうと「あーいっくん思い出し笑いしてるでしょ」と図星を突かれてしまった。

「ね、今夜は何にする?」

 数回、この場所で僕らは音と音を重ね合わせた。僕がギターを奏で、彼女は声を奏でる。それは誰に聞かせるでもない、僕たちふたりの遊びのようなものだ。目的があるわけでもないし、目指すものがあるわけでもない。
 それは例えば、小学生の頃の休み時間に夢中になったドロケイとかと同じようなものだ。子供たちは決してマラソン選手になるために走り回るわけじゃないし、警官になる訓練としてドロケイに興じるわけでもない。泥棒に至っては論じるまでもないだろう。子供たちがそれに夢中になる理由はただひとつ。〝楽しいから〟だ。

 僕は彼女の問いには答えず、今日初めて耳にしたメロディのイントロを、なんとなくの記憶を辿り指に乗せる。隣の彼女を包む空気が少しだけ固まるのを感じたけれど、気付かないふりをしてギターを弾き続けた。しかしいつまで経っても、そこに歌声が重なることはない。

「──なんで、って言いたいんでしょ」

 ブツリと曲の途中で演奏を切ると、咲果は苦笑いしながらいつものように足先をゆらゆらと揺らした。
 どうやら僕が言いたいことは、もう伝わっているみたいだ。不思議だなと思う。僕には彼女の気持ちが全くわからないのに、咲果は僕が言わんとしていることがギターの音色だけでわかるのだ。

 パート割りを決めたあと、僕たちは先生のピアノ伴奏に合わせて歌の練習をスタートさせた。とは言っても、本格的に練習が始まるのは次回からで、今日行われたのは簡単な音合わせみたいなものだ。みんなが楽譜を見つつ、周りの音程を探りつつ、なんとなくで歌詞と音符を拾っていく。

 ギターを弾くことはできる僕だけど、じーちゃんから習ったギターコードと一般的な楽譜は全く違う。耳で聴いて覚えるタイプの僕にとっては、おたまじゃくしが縦になって泳いでいるような楽譜ではメロディをイメージすることすらできず、今日はほとんど口パク状態だった。そしてそれは、歌が得意なはずの咲果も同じだったのだ。

「なんでバックコーラスに?」

 すぐに核心に迫りたい気もしたが、僕はあえて順番を守るようにその質問からスタートさせた。
 きっと咲果には、咲果なりの理由がある。僕がサッカーから離れた理由があるように。そしてそれは、簡単に土足で踏み込んでいい部分ではないという気がしたのだ。

「人数が一番多いから」

 その他大勢になれると楽でしょ、と彼女は口笛を吹くようにそう付け加えた。

「なんで音楽に興味のないふりを?」

 音楽の授業中、彼女はずっと隣の席の倉田と楽しそうにおしゃべりをしていた。
 授業のときにコソコソとおしゃべりを楽しむ。それは高校生──特に女子にはよく見られる光景だ。

 しかし僕が気になっていたのは、咲果が他の授業ではいつも真面目に授業を受けているという点だった。赤点を取ったことはあったものの、彼女の授業態度は一ヶ月ほどしかこの学校にいない僕から見ても優良なものに違いなくて、先生から注意されているところなんて見たことがない。
 そんな彼女の今日の態度は、わざと音楽に興味がないということを周りにアピールしているようにも見えたのだ。

「あー……。それはね、ちょっとした事情っていうか、辻褄合わせというか……」
「辻褄合わせ?」

 うまく説明する言葉が見つからないのかもしれない。咲果は腕を組み、口元をきゅっと結ぶと視線を彷徨わせた。

 『音楽が好きだと周りに知られたくないのか?』『歌うことを恥ずかしいと思っている?』『自分の歌を過小評価してるんじゃないか?』

 心の中から湧き出てくる言葉たちを、すんでのところでみぞおちへと押し返す。
 僕がどの言葉を言ったところで多分それはどれも彼女にとっての正解ではなくて、それでも咲果はそれら全てに困ったように笑いながら頷くような気がしたからだ。
 だから僕は、じっと我慢して彼女が言葉を見つけるのを待つ。

 咲果は右手を口元に置いたまま、じっとどこか一点を見つめている。時折、とんとん、と丸めた人差し指の第一関節を唇に当てているのは、思考を巡らせている証拠なのかもしれない。彼女の頭上に、インターネットのページを読み込むときのクルクル回る円が見えるような気がした。
 ──と、彼女は「これだ」とひとりごちると、姿勢を正してふぅーっと長い息を吐き出した。

「わたしね、小さい頃からずっと歌手になりたかった、って前に話したよね」

 それは初めて僕があの歌声を聴いた夜、彼女自身がつぶやいた『歌手、なりたかったな……』という心の言葉。彼女は今から、あのときの続きを話そうとしている。そう感じた僕は、咲果と同じように背筋を伸ばした。