「……すごく綺麗なメロディだね」
ワンフレーズを弾き終えると、それまで黙って目を閉じていた咲果がゆっくりと口を開いた。僕はまた「別に」と返す。ただ今回は、そこにほんの少し動揺が混じってしまった。
じーちゃんとばーちゃん以外の誰かに、ギターを聞かせたことは一度もない。今の学校では当然だが、以前通っていた高校でも僕がギターを弾けるということを知っている人物はひとりもいなかった。そもそも僕のイメージに、ギターや音楽自体が不釣り合いだったというのもあるのだろう。
だからこそ、こうして彼女の前で何も考えずにギターを弾けたことに、僕は小さな驚きを覚えていた。すでに目撃されているからだろうか。それでも、誰かに自分が紡ぎ出したメロディを綺麗と表現されたことは、僕にとって初めての経験だったのだ。
「歌詞はないの?」
「……今浮かんだだけだし」
僕は歌を作るためにギターを弾いているわけではない。思い浮かんだメロディを即興で演奏するだけだし、そこに言葉をのせるときだって口からでまかせ状態だ。とどのつまり、歌と呼べるようなものを僕は作ったことがない。
そのことをかいつまんで話せば、咲果はもともと大きなその瞳をさらにくるりと見開いて、口をパクパクさせた。
「もしかして、天才なの……?」
あまりにも短絡的な思考と言葉に、僕は眉を寄せる。天才、って久しぶりに聞いたけど。小学生の頃、みんながそろって馬鹿の一つ覚えのように「天才」という言葉を乱用していたっけ。何かにつけて口にしていたその二文字。それが持つニュアンスや響きは、小学生の感性にピタリとはまっていたのだろう。
「もしかして、一度聞いた音楽を弾けたりもする?」
興奮を抑えるように、彼女は問う。昨夜と同じく、鼻先と頬がほんのりと赤い。しかし今日は目を爛々と輝かせているから、ピンク色の正体は寒さのせいだけじゃないのかもしれない。
僕は彼女の質問に答える代わりにギターを構え直し、指を弦にそっと押し当てた。
うちの学校では毎朝、約二十分間にわたり校内放送で校歌が響き渡る。ノイローゼになりそうなエンドレスリピートに最初は辟易していたが、しばらくすれば他のクラスメイト同様、僕の耳もついに慣れてしまった。
人間の体というのは、本当に便利なものだ。嫌というほどに刷り込まれたメロディは、いとも簡単に脳内でギターコードへと変換される。あとはそれを指でなぞるだけ。
僕なんかよりも長く、あのリピート地獄の中で生活してきただけはある。咲果はイントロだけで「わ、校歌だ!」と小さく喜びの声をあげ、すごいすごいとはしゃいだように手を叩いた。
しかし、本当に驚かされたのは僕の方だった。
僕のギターの音色が響き、そこに透き通るような、どこまでも突き抜けるような、そんな歌声が重なったのだ。
「……なに? 今の」
結局僕は、三番までフルコーラスで演奏をしきった。本当ならばイントロだけで終わらせようと思っていたのにここまで弾いてしまったのは、彼女の歌声があまりに美しかったからだ。
伸びやかで力強く、だけどどこか儚さも持つその歌声。音楽に精通しているわけではない僕でも、彼女の歌声が凡人のそれとは違うことくらいはわかった。
はあ、と小さく肩を揺らした彼女は、振り返ると満面の笑みを咲かせる。そのあまりの眩しさに、僕は一瞬目を閉じてしまったくらいだ。
彼女はいつも笑っている。だけど今の笑顔は、そのどれとも異なるような──本当の笑顔である気がしたのだ。
「わたしの歌、よかった?」
歌いきって満足したのか、晴れ晴れとした表情を浮かべた彼女は首をすくめてこちらを見る。「一年ぶりに歌ったからちょっと掠れちゃったなぁ」などと言いつつも楽しそうだ。
「すごいと思った、本気で。なんていうか……びっくりした……」
僕を覆っていた棘はいつの間にか綺麗に全て抜け落ちてしまったらしい。あまりに素直な口調に、僕自身がはっと口を抑えてしまう。だけどそれほどに、彼女の歌声は僕の心をひどく震えさせたのだ。
彼女は一瞬びっくりしたようにこちらを見て、それからふにゃふにゃと破顔していく。まさか僕に褒められるだなんて、思ってもいなかったのだろう。
全てがどうでもよくなって、何もかもを諦めた僕。
人との関わりを拒み、ひとりきりで過ごすことを選んだ僕。
だけど人間の根底というものはそう簡単に変わるものでもないらしい。もとの僕が顔を出せば、今この瞬間、再び棘で体を覆い尽くすことは不可能なようにも思えた。
「歌手とか……ならないわけ?」
明日になれば、また棘だらけの自分になっているかもしれない。それでも今は、もう少しこのままでいても許されるような気がする。だから僕はこの素直な自分のまま、浮かんだ疑問を口にした。
これほどに歌がうまければ、きっと小さい頃から持て囃されてきたことだろう。よくテレビ番組で〝歌うまキッズ〟なんて特集されているのを見たこともあるけれど、そういうものに出演したことがあってもおかしくはない。だってこの歌声を、周りが放っておいたとは思えないのだ。
しかし彼女は、そんな僕の視線から逃れるように川の方へと顔を向けた。そのまま、眉を下げて力なく笑う。
僕はこの笑顔を知っている。これは、諦めの表情だ。彼女も僕と同じように、何らかの理由で将来への希望を失ってしまったのだろうか。
ゆっくりと立ち上がった咲果は、夜空へ両手を伸ばしながら大きく深呼吸をする。つられるように、僕もその場で胸いっぱいに冬の空気を吸い込んだ。
ひんやりと染み渡っていく、透明な空気。そこにほんのりと交じる、彼女のシャンプーの香り。
「歌手、なりたかったな」
踵をあげてさらに上へと背伸びした彼女は、解き放つようにそう言った。
「なれる……」
「え?」
反射的に口から言葉が飛び出る。〝なりたかった〟だなんて、過去形にしなくていい。
もちろん僕は、咲果のことを何も知らない。どんな事情があってその夢を過去形に変えたのか、どんな思いを乗り越えてその台詞を放ったのか、そんなことは何もわからない。
それでも僕は知っている。彼女の歌声が、人の心を強く強く揺さぶること。彼女の声そのものが、特別な響きを持っているということ。そして何よりも、彼女自身、歌うことが大好きなのだろうということを。
「なれるよ、歌手」
「……そうかな」
「絶対なれる」
「……ありがとう」
どきりと心臓が高なったのは、咲果の瞳から涙がこぼれ落ちたように見えたからだ。実際にはそれは僕の勘違いで、咲果はもう一度伸びをすると、今度はくるんと僕の方へと体を向けた。そこにはもう、泣き出しそうな気配は一切感じられない。
彼女と会話をするようになってまだ二日目だが、咲果は切り替えがとても得意なタイプだということはわかった。そしてその切り替えは、それ以上踏み込ませないための彼女なりの棘の形なのかもしれないと、そんなことを感じていた。
「いっくんは? 小さい頃、何になりたかった?」
そして彼女が放った、その場の雰囲気を変えるための質問。きっとこれは、ただの言葉のやりとりだ。彼女は心に秘めた将来の夢を僕に打ち明けた。だから僕にも同じことを聞いてきたという、それだけのことだ。それでも今の僕にとって、その質問は何よりも鈍く痛む傷に触れるのと同じ。一気にあの棘が生まれるかと思いきや僕の心は落ち着いたままで、考えるよりも早く口が勝手に動いた。
「……サッカー選手」
長年口に出し続けてきた想いを再び思い返すことは、ズキズキと傷に響く。それでも不思議と、彼女には少しくらい話してもいいのではないだろうかという気持ちにもなっていた。その心境の変化は自分でも驚くもので、もしかしたら今僕は夢の中にいるのではないかと馬鹿げたことを思ってしまったほどだ。
僕が全てを投げ出した理由。人と関わりたくない理由。前野を過度に遠ざける理由。それは全て、サッカーによるものだ。僕にとって、サッカーは人生そのものだった。
「小さい頃からサッカーしかやってこなかった。キャプテンもやってたし中学のときは地区予選で優勝とかして。高校でも期待の新入部員とか言われてさ。だけど一年前、試合中にでかい怪我をして。それで全部終わり」
わざと傷をえぐるよう、僕は淡々と事実を話した。やはり今でも、じくりじくりと傷は痛む。それと同時に気付いたのだ。こうして話してしまえば、たったの十秒ほどで語り終えてしまうものだということに。
僕にとってサッカーは何にも替えられないもので、それを失ったことは地球が終わりを迎えるのとほぼ同義だった。それでも客観的に見ればこんなことは世の中にありふれた出来事で、腐らずしっかりと前向きに生きている人もたくさんいるのだろう。
だけど僕にはそれができない。他人が「それくらいで」と言おうとも、「命まで取られたわけじゃないんだし」なんて励まそうとも、そんな言葉は僕にとって何の意味も持たなかった。
だってサッカーを取り上げられた僕は、中身が何もない、空っぽな抜け殻でしかなかったのだから。
「──まあ、現実なんてこんなもんだろ」
誤魔化すようにそっけなくそう言いながら、いつの間にか隣で丸くなって眠っていた猫の背中をつんつんと軽く突付く。猫は時折ひげをぴくぴくと動かすだけで、僕の攻撃に顔も上げなかった。
素直に自分のことを話してしまったことに、じわじわと気まずさと後悔が顔をもたげる。よく知りもしない相手に、余計なことを話してしまった。極力他人とは関係を持ちたくないのに、一歩踏み込ませる隙を与えてしまったかもしれない。
しかし、いつまで経っても咲果の口から何かが語られることはなかった。彼女はただ、右手でまるい石を拾いあげると、それを大きく腕を振りかぶったのだ。
ぽーんと投げられた石は夜空に大きく弧を描き、やがて川の中へちゃぽんと音を立てて落ちる。それから僕に別の石を手渡すと、穏やかな表情で言った。
「こうやって何もかも、遠くへ投げられたらいいのにね」
眠っていたはずの猫が顔をあげ、彼女の言葉に「ニャオォ」としわがれ声で鳴いた。
──きっと多分、込み上がる何かで声を出せなくなった、僕の代わりに。
◇
ざわざわと揺れる教室内は異様な高揚感に包まれている。
ぱっと笑みを浮かべてから慌てて無表情を繕う人や、あからさまに肩を落とす人。ちらちらと周りを見てはホッとした表情を浮かべる人。人の気持ちというのは波動みたいに空気そのものを揺らすのだと僕は思う。
なんてかっこいいことを言ったけれど、今起きているこの波動は、担任から返却されたテストの結果によって生み出されたものだ。
学校が変われども、基本的なテスト返却の仕方は全国共通なのかもしれない。ひとりひとり名前を呼ばれ、先生の元へと取りに行く。出席番号順に呼ばれるため、今しがた結果を受け取った〝朔田〟である僕の後ろには〝沢石〟である咲果がそわそわとした表情で控えている。
「朔田、もう少しやる気というものを出せ」
呆れ半分、心配半分といった表情をしているのは〝ふじやん〟と呼ばれている担任だ。引っ越してきてから今日まで何かと気をかけてくれているが、もう子供でもないので正直そっとしておいてほしいと思っている。が、もちろん口には出していない。
「わかりました」
きっと心にもないことを、とふじやんは思ったかもしれない。テンプレ通りの返事をした僕は、手元の用紙には目もくれずに席へと戻った。点数など確認せずにそのまま机の中に滑り込ませる。何点だろうが、別に構わない。
窓際の一番前の席が、僕に与えられた席だ。何か困ったことがあったとき、すぐに聞けるようにと教卓のそばに配置されたようだが、あいにくそんな機会は今までなく、これからもないと思う。それでも教室の端であるこの席は、前と左という二方向に人がおらずそれがとても気楽だった。
ぼんやりと校庭へ視線を流す。テストだとか授業だとか成績だとか、そのどれもが僕にはどうでもいい。赤点を取って困ると思っていたのは、それが原因で部活に参加できなくなることを恐れていた以前の僕だけだ。
誰もいない校庭に、ボールを追いかけるいつかの自分の幻が見え、僕はゆっくりと頭を振った。
──どうかしてる。もうどうでもいいはずなのに。
「や……やばい……」
はあとため息をついたとき、それを上回る憂鬱さを含んだ声が前方から聞こえてきた。テスト用紙を手にこちらを振り返る咲果の姿が視界の端に映り込む。しかし僕はあえて、窓から視線をずらすようなことはしなかった。
普段とは異なる場所で顔を合わせるというのは、ときとして距離感やそれまでの感情をバグらせるのかもしれない。昨夜の僕はちょっとどうかしていたし、それが彼女に入り込む隙を与えてしまったのだと言われれば、確かに多少の非はあると思う。それでも冬の夜の空気の匂いだとか、川の流れる音だとか、やたらと太った猫の存在だとか、そういったものが僕をセンチメンタルにさせていただけなのだ。
僕は何度かかぶりを振ると、昨夜の出来事を頭の中から追い出したのだった。
「補講、わたしといっくんの二人だって」
「あっそ」
休み時間になると、咲果は返されたテスト用紙を手に僕のところへとトボトボとやって来た。下唇を突き出して、不満たらたらといった表情だ。その点数を取ったのは自分自身。憎むなら己を憎め。
「うわ、二十八点はやばい」
咲果のテストを真横からひょいと覗き込んだのは、彼女の友人である倉田(桃(だ。
倉田はどこか、他の女子たちよりも大人びた雰囲気がある。艶のある長い黒髪は知的さを醸しているし、背も高くすらりとしている。落ち着いた物言いで咲果と接しているのを見ると、このふたりは正反対だからこそうまくいっているのかもしれないと思った。とは言え、倉田と僕が直接話したことはない。
「桃〜! わかってる、わかってるの。本当にやばいことくらいわかってる!」
わかりやすいほどの泣き出しそうな表情を向ける咲果は、やっぱり倉田と並ぶとずいぶんと年下のようにも見える。
「いつも八十点以上は取ってるのに、どうしちゃったの?」
そんな倉田の言葉に、咲果はぴたっと動きを止める。それから忙しなく視線を左右上下へと泳がせた後「ヤマが外れちゃって……」と今度はへらへらと笑った。
「咲果はヤマとかかけないタイプだっただろ!」
続いて登場したのは、僕が最も関わりを持ちたくない前野。勘弁してもらいたい。昨日の今日で顔も合わせたくないんだ。しかし前野は鈍いのだろうか。全く気にする素振りもなく「転校早々、赤点はきついなー」なんて僕にまで屈託ない笑顔を向けてくるから、うんざりして体ごと窓へと向けた。
前野は多分、悪いやつではない。僕が思った通り、やつはサッカー部に所属していて、部長を務めているらしい。みんなから〝ボウ〟と呼ばれているのは、その坊主頭が由来しているのかもしれない。今は芝生くらいの長さにはなっているけれど。とにかく、この男に罪がないのはわかっている。それでも僕にとってこの男が地雷であることも事実だった。
「こ、今回はちょっと特別だったの! ちゃんと理由があるんだから!」
それにしても、どうして彼らはこの広い教室のわざわざこんな隅っこに集まってそんなやりとりをしているのか。残念なことに、この三人の会話は僕の目の前で行われている。さらには「二年生になったら急に勉強難しくなった! ね、いっくん?」なんて会話に巻き込まれてしまうのだからたまったものではない。
それでもどういうわけか、名指しで話しかけられてしまえば完全に無視するのもちょっとな、という気持ちになってしまうのだ。
「まあ……」
目線は窓の向こうにやったままそう答えると、今度は目の前に前野の顔面が現れた。あまりの突然出来事にびくりと体を引いてしまう。
「ははーん」
顎の下に手を当てて、咲果と僕の顔を交互に何度か見やる前野。にやにやと口元は弧を描いている。
「さては咲果、樹と居残りしたいがために、わざと赤点取ったな?」
──樹?
実にさらりと、前野は僕をそう呼んだ。その唐突さと展開の滑稽さに、僕は呆気にとられてしまう。
「今のだと、朔田が最初から赤点取るって咲果が決めつけていたように聞こえるけど」
淡々とそう言う倉田と、顔を赤くして「違う違うっ! いっくん違うっ!」と顔の前で必死に両手を振る咲果。
──どっか他でやってくれ。僕に構うなよ。僕を巻き込むな。面倒だな。
そう思うのに、いつまでも心に棘が立ち並ばないのはどういうことか。
曇っていた空の隙間から、うっすらと光が教室へと差し込む。目の前にあった三人が、ゆっくりと目を見開くのがわかった。
「──いっくんが、笑った」
ハッとして口元を手で覆う。確かに若干、いつも不機嫌に結んでいる口元の力が抜けた気はしたけれど、決して笑ったわけではない。
なんだか気まずいものを見られたような気持ちになって、僕は鼻先をそっと擦った。
「……笑ってないし」
視線を逸らしてそう言えば、目の前の三人はそれぞれのやり方で表情を崩す。
倉田は口元だけをふっと持ち上げ、前野はニカッと白い歯を出し、咲果は顔をくしゃくしゃにして。確かに彼らは僕に向かって笑いかけた。
その日の放課後、咲果と僕は補講のために教室に残っていた。
補講とは言っても名ばかりで、誰もいない教室で先生から出されたプリントを解いているだけだ。みっちりとした監視のもと行われるものだと思いこんでいたが、どうやら教師という仕事は授業以外にも色々とやることがあるらしい。
プリントの内容は赤点者向けだからか、実にシンプルなものだった。授業をちゃんと聞いていない僕でも、教科書を見ながらやれば解けるようなものばかり。基礎をしっかりやりなさいということなのか、もしくは教師がいなくても解けるようにわざと簡単にしているのか。
一通りの問題を解き終わった僕がシャープペンシルをくるりと回すと、後ろの席でウンウンと頭を捻っている咲果の姿が目に映った。
自分の席で解けばいいものの、「一人より二人のがいいでしょ」と言いながらその席に座ったのが三十分くらい前のことだ。
ちらりとその手元に視線をやれば、プリント中盤の問題で躓いているようだ。何度も教科書をペラペラとめくってはメモ用紙に計算をして、それでもだめだと頭を抱えている。
「ここ、使う公式が違う」
僕は椅子ごと体の向きを変えて、芯をしまったシャープペンシルの先で彼女の教科書をトン、と指した。そのページには二種類の公式が説明されていて、どうやら彼女は必死にもうひとつの公式を使おうとしていたようだ。
「これをこっちに当てはめて、それで計算してみたらいいかも」
小さい頃からサッカーばかりやってきたから、勉強はほとんどしてこなかったと言ってもいいと思う。高校だってスポーツ推薦での入学で、受験らしい受験は経験していない。それでも数学は割と好きな方で、褒められる点数ではないが赤点を取ることもなかった。──少なくとも、以前の学校では。まあ、赤点を取ったら一週間部活禁止という決まりのもと、ギリギリのラインはキープするようにしていたのも理由のひとつではあるけれど。
「まず、この途中式の解き方がわからないの……」
しばらく考えた表情を見せたあと、咲果は深刻そうな声でそう懺悔する。
どれ、と手元を見ると、そもそも今までに学んできた部分が理解できていないらしい。前に通っていた高校と教科書自体は同じだから、二学期には授業で学んでいるはずだがよっぽど数学が苦手なのだろうか。
パラパラと教科書のページをいくつも戻した僕は、その内容をひとつずつ説明してみる。咲果はそれを、ふんふんと真面目な表情で聞いていた。
「できた……かも」
ゆっくりと時間をかけて一問解いた咲果は、答え合わせを待つ子供のようにじっとこちらを見上げてくる。
どんぐりのようなころんとした瞳と、透き通るような白い肌。一瞬、彼女の姿が限りなく透明に近いものに感じてしまい、僕はゆっくりと瞬きを繰り返した。
「いっくん、答え合わせしてくれる?」
くっきりとした輪郭を持つ彼女の声で、僕ははっと我に返る。なんだか今の一瞬だけ、夢を見ているような感覚だった。現実から切り離された瞬間、みたいな。
僕は彼女に気付かれないようにさりげなく咳払いをすることで、どうにか気持ちを切り替える。それでもまだ、心臓がドッドッと細かく波打っているようだ。
「……うん、僕の答えと同じ」
「やった!」
「いや、ふたりで間違えてる可能性もあるから」
「それでもいっくんと一緒ならいいや!」
なんだよそれ、と僕は思わず笑ってしまいそうになるのをぐっと堪えた。また「笑った!」だなんて言われたら気恥ずかしいし。
だけど僕は感じていた。咲果と一緒にいると、心の中に光が生まれてくることを。すっからかんになった自分の中に、コロンとビー玉がひとつずつ転がっていくような感覚を、確かに僕は感じていたのだと思う。
咲果はとても自由だ。何にも捕らわれていなくって、まっすぐに差し込む太陽の光みたいに眩しくて。こうしたらいいとアドバイスされれば素直にそれに従い、がんばれと言われればひたすらに努力ができる、そんな人。その姿は、今の僕とはまるで正反対だ。
──咲果が光だとしたら、僕は影だな。
途端に卑屈な自分が顔を出しそうになり、僕はぎりっと奥歯を強く噛み締めた。
「いっくんって、ギターはどこで習ったの?」
そんな僕の気持ちに気付かない咲果は、ここまで解いてきた問題をノートに書き写しながら口を開く。家で復習でもするつもりなのだろうか。
「小さい頃にじーちゃんに少し習っただけ」
知らずのうちに、卑屈さが心臓を緊張状態にしてしまっていたらしい。しかし、ギターの話をしたことでそれがふっと緩むのがわかり、僕は小さく安堵の息を吐き出した。
たまに襲ってくる自己嫌悪感。ここでサッカーの話を出されていたら、僕は無言で教室を出ていったかもしれない。いつだって心に酸素を送り込んでくれるのは、じーちゃんと、じーちゃんがくれたギターの存在。
この土地は僕にとって、全くの無縁な場所というわけではない。父方のじーちゃんばーちゃんの家がここにはあった。過去形にしたのは、その場所には今、僕らの住む新築の家が建っているからだ。つまりこの引っ越しは僕にとってだけ〝突然〟の出来事であって、両親は一年ほど前から──もしくはそれ以上前から──ここへ移住することを考えていたというわけである。
確かにじーちゃんの家は老朽化も進んでいたし、台風のときには雨漏りもひどかった。それでも僕にとってそこは、今はもう会うことのできないふたりとの大事な思い出が詰まった場所であり、それが何も知らないうちに取り壊され、白い外壁がやたらと眩しい新築の家になっていたという事実もまた、この新生活を大腕を広げて受け入れられずにいる理由のひとつでもある。
まあともかく、そういった意味ではこの土地は僕にとって懐かしい日々が刻まれている特別な場所でもあるわけだ。小学生の頃は、毎年夏休みになるとじーちゃんの家に預けられた。僕の両親は共働きで、大人たちに夏休みなんてないようなものだったからだ。
「あのギターも、おじいちゃんの?」
咲果はシャープペンシルを動かしながらそう聞く。数学の問題を書き写しながら話すなんて、結構高度な技術のように思える。それとも女子は、そういうことが得意なのだろうか。確かに教室でも、女子たちはスマホをいじりながらおしゃべりに興じるという器用なことを日常的にやってのけている。
「そう。じーちゃんがくれた、唯一のプレゼント」
僕のじーちゃんは、とても優しい人だった。大らかで穏やかで、海の凪のように感情の起伏がほとんどない。
そんなじーちゃんの信条は『本当に大切なものは、見えないところにこそ宿る』。そのためか、小さい頃から何か物を買ってもらったことはない。
夏休みが終わって東京へ戻ると、みんなが祖父母からプレゼントされたというスケートボードや、もらったお小遣いで買ったゲームなどを見せびらかし合う。そんなとき、僕はいつも会話には加わらず、ひとりでサッカーボールを蹴って過ごした。
「どうしてうちのじーちゃんはケチなんだろう」と思ったことも一度や二度じゃない。あの頃は今よりももっと単純で、目に見えるものが全てだったのだ。
そんなじーちゃんが唯一僕にくれたのが、大事にしていたアコースティックギターだった。毎年夏にだけ、じーちゃんの家で触ることのできるギターは僕にとっては特別だった。ときには家から持ってきたサッカーボールを放っておくくらい、ギターに触れることは純粋に楽しかったのだ。
楽譜なんて読めない僕に、じーちゃんはギターのコードを教えてくれた。最初に弾けた曲は『チューリップ』。さいたー、さいたー、でお馴染みのあの曲だ。
その話をすると、咲果は楽しそうに声をあげて笑った。
「樹には音を楽しむセンスがある、なんて言って。小六の夏休みに、突然くれた」
何かを予感していたのだろうか。その年の冬に、何の前触れもなくじーちゃんはこの世を去った。
その後、中学でサッカー部に入った僕は、部活だけにひたすら明け暮れる日々を過ごしていた。ギターはケースに入れられたまま、クローゼットの奥で数年間眠ることとなる。
「そのギターは、おじいちゃん自身なのかもしれないね」
いつの間にか、咲果はノートに書き写す作業を終えていたらしい。頬杖をついたまま、僕の方をじっと見ていた。その瞳があまりにも優しい色を含んでいて、僕は思わずそっと顔を背ける。なるべく不自然にならないように、さりげなく。
こんな風に僕の話なんか聞いて、退屈じゃないのだろうか。そんな思いがよぎったけれど、咲果はじっと話の先を待ってくれていて、僕は素直にその感覚に身を任せ彼女と一緒に過去を辿る。
ギターから離れた僕がその存在を思い出したのは、怪我をして家から出られなくなったときだった。
悔しくて悲しくて、イライラが止まらなくてやるせなくて。あのときの僕は、自分でもひどかったと思う。八つ当たりという八つ当たりを、繋がりのある人全員にした。
母親はそれを黙って受け止めてくれたが、父親はそうはいかない。何度も喧嘩をし、家出をすることもできない自分の体と年齢を心底憎んだ。
心配してくれた仲間たちからのメッセージも全て削除して連絡を絶った。サッカーしかしてこなかった僕は、このやり場のない気持ちをどうしたらいいかわからなかったのだ。
そんなある日、僕はサッカーに関わるものを全て処分することを決意した。今思えば、それは決意というよりは、諦めきれない気持ちの捨て方を他に見つけられなかっただけかもしれない。
散らかった部屋の中、目についたものを大きなゴミ袋に次々と入れていく。
ユニフォーム、靴下、ジャージにバンテージ。冬場を共に乗り越えたベンチコートに、サイズアウトしたのになぜか捨てられずに取っておいたおんぼろスパイク。棚の上のトロフィーに、地区大会で優勝したときの金メダル。幼少期のサッカークラブ時代の思い出が収められた大きなアルバムに、憧れの選手にもらったサイン色紙。〝サッカー選手になれますように〟と書いた子供の頃の七夕飾り。
袋に詰め込むたび、涙が溢れた。悔しいのか、悲しいのか、失うのが怖いのか。よくわからないけれど、あのときが一番、僕が涙を流した瞬間だと思う。
サッカー用品がなくなったクローゼットの中は、気付けば空っぽになっていた。たったひとつ、ケースに入ったままのギターを除いて。
「今も弾いているっていうことは、ギターがいっくんを支えてくれたんだね」
静かに話を聞いていた咲果は、そう言って目を閉じる。
こんなことを、誰かに話す日が来るなんて思わなかった。無理やりに遠ざけて、くしゃりと丸めて投げ捨てた夢。そのとき僕は、自分自身の心も同じように──もしかしたらそれ以上に、ぐしゃぐしゃに握りつぶして捨てようとしていたのかもしれない。
しかしそれが今、ギターと咲果の言葉によって少しずつ元の形へ戻ろうとゆっくり開いていくのを感じていた。
『樹が奏でる音は、優しく透き通った音がする』
縁側に並んで座る、幼き日の僕とじーちゃん。ミンミンと蝉がせわしなく鳴いて、僕はばーちゃんの入れてくれたシュワシュワの乳酸飲料が入ったグラスに口をつける。氷がカランと音を立てて、ツウっとグラスの表面を結露が滑り落ちる。じーちゃんはあさがおが描かれたちょっとヨレヨレのうちわをパタパタと仰いで、僕にもっと聞かせろと催促をする。蚊取り線香の燻した匂い、台所から聞こえてくるトントントンという野菜を切る音。そんな中で、上手いとか下手とか気にせずにただただ楽しく音を奏でる。
久しぶりにギターの弦を弾いたとき、そんな懐かしき夏の日の光景が鮮やかに浮かび上がったのだ。
「──いっくんの音楽は、人を幸せにする力があると思うの」
ふたりだけの静かな教室。
彼女の言葉は、リンと響く鈴の音のように僕の鼓膜を優しく揺らした。