◇
「……いつから?」
今年の冬は、特に寒い。夜ともなればその寒さはひとしおだ。シンと冷えた空気は透明と白の間の色をしていて、ほんの小さな息遣いさえもどこまでも響くように感じられる中に不機嫌な僕の声が響いた。
ここは家の近所にある公園。この町には大きな川が流れており、それと大通りの橋が交差する角にひっそりと佇んでいる。
通りからは一段低いところに作られているためか、夜になるとほとんど人が通ることはない。川に向かって下っていくように半円状に段差が作られていて、さながらスタジアム状のステージのようだ。もちろん僕はそのステージの中央に立っているわけじゃなく、客席ともとれる端っこの段に腰掛けている。
──アコースティックギターを抱えて。
「だから、いつからそこにいたわけ?」
「ええっと、今の曲が始まった頃……かな?」
重ねた僕の質問に首をすくめて「へへっ」と笑ったクラスメイトを前に、僕は大きくため息を吐いたのだった。
転校してから一週間が経過していた。僕の思惑通り、あれ以来誰ひとりとして学校で僕に声をかけてくる生徒はいない。たまに、あの伸びかけ坊主頭が話しかけてくるが、それもことごとく無視している。
友達なんて必要ないし、馴れ合いなんてごめんだ。転校してきたばかりでわからないことだらけ。それでも別に、そんなことは構わなかった。学校も勉強も生活も、なにもかも今の僕にとってはどうでもいい。例えば明日死んだって、僕は後悔なんてしないだろう。
そんな僕でも、ひとつだけ新たな生活のルーティンとなったことがあった。それが、夜にこの公園でギターを弾くというものだ。
別に趣味というほどのものではないし、ギターが特別に好きというわけでもない。それでも胸の奥にたまに湧き上がってくる正体不明のイライラだとか、どうしようもない不安感だとか、自分に対する嫌悪感だとか、そういうものをかき消すように僕はここでギターを弾く。ときには胸の中に溜まった言葉をそのままメロディにのせることもある。
──そして、それを今まさに同じクラスの女子に聞かれてしまったわけである。
「それよりさ、朔田くんってギター弾けるんだね」
教室では僕と対角線上の席──廊下側の一番後ろの席に座っている彼女の名前は、沢石咲果(。クラスの中心人物というわけではないけれど、いつも笑顔でいるため友達が多いようなイメージがある。多分お人好しな性格なのだろう。担任から雑務を任されている場面もあった。
ちなみに名前を覚えているのは、僕の昔からの癖というか、ひとつの特殊能力みたいなものだ。一度見た人の名前と顔は、絶対に忘れない。そこに興味の有無は関係なくて、勝手に名前と顔がインプットされていくというような感覚だ。
彼女は転校初日に僕を取り囲んだ輪の中にはいなかったと思うから、こうして言葉を交わしたのは初めてのこと。もちろんあの教室内にいれば、僕が周りとの関わりを断つためにとっていた言動は見ているはずである。それなのに、彼女はこれはいい機会と言わんばかりに、するりと僕の隣のコンクリートへと腰を下ろしたのだ。
立ち上がった僕は、三歩離れてもう一度腰を下ろす。沢石咲果はそんな僕のことを見上げて、「頑(なだなぁ」と小さく笑った。
「……別に」
うまく言えただろうか。一週間前教室で放ったものと同じ言葉のはずなのに、その響きはどこか頼りなさを含んでしまう。
僕は多分、動揺していたのだと思う。こんな風に夜の公園でギターをかき鳴らし自作の曲を歌っているところを見られてしまったという羞恥心。誰との関わりも持ちたくなくて人を寄せ付けないオーラを常にまとっていたはずなのに、彼女がためらいもなく僕の隣へと腰を下ろしたという事実。そして、本来であればギターをしまってさっさとこの場を立ち去るのが僕の取るべき行動であるはずなのに、ただ距離をとっただけでこの場所にとどまるという選択をした自分自身に、僕は内心ひどく動揺していたのだ。
「いっくんってさ、音痴なんだね」
突然のいっくん呼びに、思わず僕はバッと勢いよく顔を向ける。作戦通りといった表情の彼女と視線がぶつかって、気まずさでまた顔をそらした。そんな呼び方をすれば僕が反応すると予想していたのかもしれない。沢石咲果は嬉しそうに、もこもことしたスエードブーツのつま先をぶらぶらと揺らす。
確かに、僕は音痴だ。ギターはなんとなく弾けるものの、演奏するのと歌うのは全く別の次元の話。自分でもわかっているから、人前で歌ったりはしない。前の高校でも、友達とたまに訪れたカラオケではタンバリンを鳴らしたりガヤを入れる専門だった。
それじゃあ歌うことが嫌いかと言われれば、そういうわけではない。だからこそ僕は、今もこうして夜の公園なんかでギターをかき鳴らしつつ歌ったりしているのだ。もちろん、誰も聞いていない、というのが前提だったわけだが。
いつもは制服姿の彼女だけど、夜八時というこの時間、暖かそうなコートにニット素材のスカートと黒タイツ、首元にはもこもこのオレンジ色のマフラーをぐるぐると巻いている。
毎年冬が来るたびに思うのだが、寒さを凌ぐためのアイテムというのは女性ものの方が充実しているような気がする。彼女のスカートはまるでブランケットのようで、これを巻いていれば真冬のアスファルトに座ったって冷えは容易に凌(げるだろうなと思った。
対する僕は、スウェット上下にダウンコートというラフな出で立ち。スウェットは普通の素材なので、地面に接している部分はすでに熱を失っている。
「怒らないんだね」
「なにが……」
「いっくんって呼んだことも、音痴だって言ったことも」
「別に……」
ああまただ。僕にとって最強の台詞であるはずのこの三文字が、今日はその威力を全く発揮してくれない。
これ以上黙っていたら、彼女のペースに流されてしまうかもしれない。そう思った僕は、話の主導権を握ろうとこちらに来て初めての質問を口にした。
「沢石は、こんな時間に何してたわけ?」
別に興味があったわけではない。ただ、自分のペースを守るために口にしただけの問いだ。すると彼女は、うーん、と空を見上げながら考える素振りを見せた。
「夜の散歩──ってとこかな」
散歩? こんな寒い夜にわざわざ? 大体、「――ってとこかな」という濁し方も意味がわからない。
そんなちょっとした疑問は浮かんだものの、僕はただ「ふうん」とだけ返した。少しだけ落ち着きを取り戻す。
いつもの僕が、戻ってきたみたいだ。
よし、と息を深く吸うと、足元にもふっとした感触がまとわりつく。驚いて見下ろせば、そこにはずいぶんと図体のでかい猫が一匹。ごち、と僕のすねに自らの頭を擦り付けたあと、彼女の足元へと向かった。
「……猫? かわいい、もふもふだねぇ。よしよし、いいこいいこ」
月明かりの中、慣れた手付きで柔らかい背中を撫でる彼女はどこか幻想的で、僕は一瞬目を奪われてしまう。すると不意に、彼女がその姿勢のままで僕の名前を呼んだ。
「いっくん、ひとつお願いがあるんだけど」
見つめてしまっていたことに気付かれたような気がして、僕は咳払いをしながら顔を上へと向けた。冬の夜空には、いくつもの星が瞬いている。知らなかった、この町では星がこんなにも綺麗に見えるらしい。
「なに」
そのまま僕は、短く答える。別にお願いを聞いてあげる義理なんてない。だけど歌っている姿を見られたという弱みがあるせいか、内容によっては承諾してやらないこともないと僕は思っていた。
「沢石じゃなくて、咲果って呼んでくれないかな」
しかし彼女からの願いごとは、僕が想像していたものとはかけ離れた内容だった。だって例えば「あの歌を聞かせて」と無茶ぶりをされるとか、寒いから肉まんおごってと催促されるとか、そういうのをイメージしていたから。
ゆっくりと視線をおろした僕は、不思議な思いで彼女を見つめる。さらさらと揺れる薄茶色の長い髪の毛。くるみ色の瞳に、きれいにカールした長いまつげ。通った鼻筋と形のいい唇。寒さのせいか、ほんのり赤く染まる鼻先と頬。その全てから、やはり僕は目を逸らせない。
「……なんで」
やっとのことで僕は、その一言を発する。それでも未だ、僕の瞳は彼女の姿を捉えたままだ。引力に逆らえないように、視線は彼女へと吸い込まれていく。そこで、くしゃっと彼女が笑った。
まるで魔法が解けたみたいだった。その表情で、僕はハッと我に返る。途端に気恥ずかしさがせり上がり、「なんでだよ」ともう一度、面倒くさく聞こえるようにそう発し視線を正面の川へと投げる。
「みんなそうやって呼んでるし、沢石なんて他人行儀な感じじゃない?」
明るい声でそう言う彼女は、いつも教室で見かける彼女の姿と同じだった。
不思議な感覚だ。なんだかまるで、クラスにいる彼女とは別の人物と話していたのではないかと思ってしまうような空気感がそこにはあった。
「他人だろ」
彼女といると、必死に守ろうと重ねていた鎧がいとも簡単に剥がれてしまう気がしてくる。あまり深く関わらない方がいい。そう感じた僕は、足元のケースにギターをしまうことにした。
「お願い!」
「無理」
「一生のお願い!」
何が一生のお願いだ。こういうことを言うやつは、絶対その台詞を何度も使い回すんだ。しつこく頼み込んでくる彼女に、僕は大きくため息をついた。
「なんだよ。言うことをきかなかったら、音痴な僕が夜な夜な公園で歌っているとでも言いふらすわけ?」
嫌味で言ったつもりだった。いかにも善人といった雰囲気の彼女は、絶対にそんなことをしないだろうというおごりがあったのも事実だ。
しかし目の前の彼女は僕の言葉を聞くと一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それからにんまりと口元に弧を描いた。
「それ、名案だよいっくん!」
──これが、僕と彼女の出会いだ。いや、学校でもともと顔は合わせていたのでその言葉は的確ではないのかもしれない。それでも、これが始まりだった。
僕と彼女は確かにこの夜、この場所で〝出会った〟のだ。
◇
本当のことを言えば、学校なんて行きたくない。それでも行かなければ両親がとやかく言うのが面倒くさいし、サボろうにも適当な場所が見つからない。吉祥寺に住んでいた頃は、時間を潰す場所なんていくらでもあったのに。
一度あの公園で過ごそうと思ったのだが、さすがは田舎。ゲートボールをしにきたご老人団体から「学校はどうした」だの「その制服はあの高校だな」だの散々絡まれ、ひどい目に遭った。総合的に考えて、学校に行きぼーっと過ごすというのが一番安全で気楽だという結論に、僕は行き着いたわけである。
「いっくんおはよう!」
今日も誰にも話しかけられないよう、不機嫌な表情で窓の外を見ていたはずなのに、気付けば目の前に沢石咲果が笑顔で立っていた。
そもそも彼女の席はここから一番遠いところのはずで、どうして登校早々鞄も置かず、ここに来たのか。面倒くさい。僕は無視を決め込むことにする。
しかし、彼女は首を傾げると口の形だけで「い・い・の?」と伝えてきたのだ。これはすなわち、「みんなに自作ソングを歌っていることを知られてもいいのか?」という意味だ。人の良さそうな顔をしておいて、中身は悪魔。そんな彼女にほとほと呆れて、僕はため息を吐き出した。
「……おはよ」
仕方なく早口でそう返すと、なぜか周りで小さなどよめきが起こる。「スカし野郎が返事してる!」などというヒソヒソ声まで聞こえてくるから、本気で頭を抱えたくもなった。
というか、スカし野郎などと呼ばれているらしい。今知った。別にどう呼ばれようとかまわないけどさ。
彼女はにんまりと満足げな笑顔を見せると、スキップをしながら自分の席へと戻っていく。
本当に変な人だと思う。物好きというか、なんというか。じろじろと好奇の視線が集まってくるのを感じた僕は、また大きめの舌打ちでそれを払うと、窓の外、山以外に何も見えない景色へと視線を投げたのだった。
しかしながら、彼女の猛撃は朝だけに収まらなかった。僕はいつも、昼休みは非常階段で過ごしている。理由は至極簡単。ひとりで静かに過ごせる場所にいたいから。
できることなら学校になど来たくない僕だ。家から一歩も出ず、誰とも顔を合わせずにいたい。だからこそ、人の行き来が多い昼休みは誰も寄り付かない場所で過ごすことにしている。
ところが今日、僕の後を追って彼女までもが非常階段へやって来たのだ。ハムスターが食べるのか?というような小さな弁当箱を持って。
「いっくんも、教室でみんなと一緒に食べればいいのに」
「面倒」
「みんな、本当は話しかけてみたいんだよ」
「どうでもいいし」
「いっくんは別世界から来た特別なひとなんだから」
「は? 意味不明」
非常階段の幅は、二メートルないくらい。決して広いとは言えない幅なので、さすがの彼女も昨夜のように隣には座らず、僕の三段下に腰を下ろしていた。時折冷たい風が吹くと、彼女はその都度肩をきゅっと縮めている。寒いなら教室で食べればいいのに。
「わかってないなぁ、いっくんは」
咲果は人差し指を立てて〝みんなが僕に興味を持つ理由〟を説明する。
この場所は、東京都心からは電車で一時間半ほどの場所にあるというのは前も言った通りだ。坂と緑の多い昔ながらの住宅街なので、ザ・田舎と言うほどの田舎ではない。それでも必ずどこかに山が見えるし、春の田んぼではウシガエルが大きな声で合唱しているらしく、牛だってわざわざ動物園に行かずとも見ることができ、一本入ればあっという間に田んぼ道が続くような場所だ。
生まれ育った環境というのは、人格形成にも大きく作用するのだろうか。クラスメイトたちも全体的にのんびりとしていて、穏やかな雰囲気がこの学校には漂っている。それでももちろん、ひとりひとりは違う人間だ。考え方も性格も違う。
「東京に対しての考え方も、人それぞれだよ。都会に強い憧れを持つ子もいれば、大して興味のない子もいる。それでもみんな一度くらいは、東京がどんな場所なのかという好奇心くらいは抱いたことがあると思う」
彼女の言うことは、東京で生まれ育った僕にとってはいまいちピンとこない話だった。それでも確かに、情報として知ってはいるものの訪れたことのない場所というのは、魅力的に映ることもあるのだろう。
電車で一時間半。それは高校生にとって近いように見えて遠い、なかなか越えることのできない距離であることもまた事実なのかもしれない。
「届きそうで届かない場所からやって来たいっくんは、わたしたちと同じ高校二年生でも、別の世界を知る特別な存在だって感じてるの」
「そんなの僕には関係ないし」
そっけなく返せば、彼女は「もう〜!」とわかりやすく頬を膨らませた。
どれほどに僕が尖ろうと、どれほど冷たくあしらおうと、彼女は決してめげなかった。それどころか、気分を害する様子すら見せないのだから、僕は厄介な人に目をつけられてしまったらしい。
それでも僕が彼女を思い切り突き放すことができないのは、弱みを握られているから。それともうひとつ。彼女をまとう空気は不思議なほどに軽やかで、人間が持つ特有の〝好奇〟とか〝野次馬〟的な匂いがしなかったからかもしれない。
昼休みも中盤に差し掛かると、グラウンドからは体力を持て余した生徒たちがスポーツに興じる声が響き始めた。コンクリートの手すりで囲まれたこの場所は、こうして姿勢を低くしてさえいれば外から姿を見られることはない。それなのに、あろうことか咲果はその声に気づくと立ち上がり「おーい!」とボールを追いかける集団に向かって大きく手を振ったのだ。
チッと舌打ちするも、彼女の耳にそれは届いていないのか、それとも聞こえても動じないだけなのか、咲果は相変わらずに大きく手を振り続ける。誰かがこちらにやって来る前に早々と退散しよう。
「咲果、こんなとこで飯食ってたの? ──って、朔田もいるじゃん!」
しかし相手の行動は僕の予想よりも遥かに速かった。最悪なことに、サッカー部に所属しているあの伸びかけ坊主──前野(竜(が階段を上がってきたのだ。
僕がことごとく無視をし続けているにもかかわらず、なにかとアクションを取ってくる前野。僕はこの男とは絶対に関わりたくなかった。
なぜなら──。
「朔田って、サッカー経験者だろ? 一緒にやろうぜ!」
一番避けたかった単語が飛び出し、僕はギッと前野を睨んだ。
スポーツ経験者というものは、なんとなくの雰囲気で相手も同じスポーツをしたことがあるとわかるものだ。実際僕が、こいつはサッカー部だろうと読んだのと同じように、やつも僕の経験を読んだのだ。
「──僕の前で、その言葉を二度と出すな」
空になったパンの袋をぐしゃりと右手で握りつぶすと、僕はその場を後にした。咲果の声が弾かれたように僕の名前を呼んだけれど、この足を止めることはできない。
僕の中にはただ、どうしようもない苛立ちだけが隙間なく棘のように立ち並んでいるだけだった。
◇
棘を持つものは、保身能力に長けている。ハリネズミやハリセンボンは危険を察知したときには体の表面に棘を起こし、栗のイガや海の底にいるウニは常に棘をまとうことで中にある大切なものを守っている。
それでは、皮膚に棘を持たない人間である僕らはどうしたいいのか。答えは簡単だ。目には見えないが確かに存在する人工的な棘を、自ら作っていけばいい。
「やっぱり、今夜も来てたんだね」
ジャリ、と靴底に小さな石が擦れた音のあと、落ち着いた声が響いた。
昨日と同じ時間帯、同じ場所。夜の公園で僕はギターを抱えていた。それでも演奏する気にはなれなくて、ただただぼーっと流れる川を眺めていただけだ。
なんとなく、彼女は今日もここへやってくるような気がしていた。今日の僕の態度は、自分でも思っていた以上に鋭い棘をまとっていたと思う。普通ならば、誰だって自然と離れていくはずだ。だけど彼女に至っては、その〝普通〟があてはまらないことに僕はなんとなく気付いていたのかもしれない。
「別に」
今夜の三文字は、戸惑いも感情もなく冷たく響く。不思議なものだ。同じ言葉でも発する度に違う色を持つ。心と体が直結しているというのは、やはり本当のことなのだろう。
彼女は今夜もごく自然な様子で、昨日と同じ場所へと腰を下ろした。それでも何かを言うわけではない。ただただ僕と同じように、目の前を流れていく川を眺めていた。
どれほどそうしていただろうか。水が流れる音というのは鎮静作用があるのかもしれない。ふと、その中にメロディのようなものを見つけ、何の気なしに弦を弾いた。
ひとつ、ふたつ、音が連なり音階を作り上げる。それは僕にとってはごく自然な日常の一部で、浮かぶものをそのまま指に乗せているだけだ。名前もない、ただのメロディ。歌詞も意味もない、音の羅列。それでも確かに、僕はその音たちに、そしてその行為自体にどこか癒やされているところがあるのも事実だった。
「……すごく綺麗なメロディだね」
ワンフレーズを弾き終えると、それまで黙って目を閉じていた咲果がゆっくりと口を開いた。僕はまた「別に」と返す。ただ今回は、そこにほんの少し動揺が混じってしまった。
じーちゃんとばーちゃん以外の誰かに、ギターを聞かせたことは一度もない。今の学校では当然だが、以前通っていた高校でも僕がギターを弾けるということを知っている人物はひとりもいなかった。そもそも僕のイメージに、ギターや音楽自体が不釣り合いだったというのもあるのだろう。
だからこそ、こうして彼女の前で何も考えずにギターを弾けたことに、僕は小さな驚きを覚えていた。すでに目撃されているからだろうか。それでも、誰かに自分が紡ぎ出したメロディを綺麗と表現されたことは、僕にとって初めての経験だったのだ。
「歌詞はないの?」
「……今浮かんだだけだし」
僕は歌を作るためにギターを弾いているわけではない。思い浮かんだメロディを即興で演奏するだけだし、そこに言葉をのせるときだって口からでまかせ状態だ。とどのつまり、歌と呼べるようなものを僕は作ったことがない。
そのことをかいつまんで話せば、咲果はもともと大きなその瞳をさらにくるりと見開いて、口をパクパクさせた。
「もしかして、天才なの……?」
あまりにも短絡的な思考と言葉に、僕は眉を寄せる。天才、って久しぶりに聞いたけど。小学生の頃、みんながそろって馬鹿の一つ覚えのように「天才」という言葉を乱用していたっけ。何かにつけて口にしていたその二文字。それが持つニュアンスや響きは、小学生の感性にピタリとはまっていたのだろう。
「もしかして、一度聞いた音楽を弾けたりもする?」
興奮を抑えるように、彼女は問う。昨夜と同じく、鼻先と頬がほんのりと赤い。しかし今日は目を爛々と輝かせているから、ピンク色の正体は寒さのせいだけじゃないのかもしれない。
僕は彼女の質問に答える代わりにギターを構え直し、指を弦にそっと押し当てた。
うちの学校では毎朝、約二十分間にわたり校内放送で校歌が響き渡る。ノイローゼになりそうなエンドレスリピートに最初は辟易していたが、しばらくすれば他のクラスメイト同様、僕の耳もついに慣れてしまった。
人間の体というのは、本当に便利なものだ。嫌というほどに刷り込まれたメロディは、いとも簡単に脳内でギターコードへと変換される。あとはそれを指でなぞるだけ。
僕なんかよりも長く、あのリピート地獄の中で生活してきただけはある。咲果はイントロだけで「わ、校歌だ!」と小さく喜びの声をあげ、すごいすごいとはしゃいだように手を叩いた。
しかし、本当に驚かされたのは僕の方だった。
僕のギターの音色が響き、そこに透き通るような、どこまでも突き抜けるような、そんな歌声が重なったのだ。
「……なに? 今の」
結局僕は、三番までフルコーラスで演奏をしきった。本当ならばイントロだけで終わらせようと思っていたのにここまで弾いてしまったのは、彼女の歌声があまりに美しかったからだ。
伸びやかで力強く、だけどどこか儚さも持つその歌声。音楽に精通しているわけではない僕でも、彼女の歌声が凡人のそれとは違うことくらいはわかった。
はあ、と小さく肩を揺らした彼女は、振り返ると満面の笑みを咲かせる。そのあまりの眩しさに、僕は一瞬目を閉じてしまったくらいだ。
彼女はいつも笑っている。だけど今の笑顔は、そのどれとも異なるような──本当の笑顔である気がしたのだ。
「わたしの歌、よかった?」
歌いきって満足したのか、晴れ晴れとした表情を浮かべた彼女は首をすくめてこちらを見る。「一年ぶりに歌ったからちょっと掠(れちゃったなぁ」などと言いつつも楽しそうだ。
「すごいと思った、本気で。なんていうか……びっくりした……」
僕を覆っていた棘はいつの間にか綺麗に全て抜け落ちてしまったらしい。あまりに素直な口調に、僕自身がはっと口を抑えてしまう。だけどそれほどに、彼女の歌声は僕の心をひどく震えさせたのだ。
彼女は一瞬びっくりしたようにこちらを見て、それからふにゃふにゃと破顔していく。まさか僕に褒められるだなんて、思ってもいなかったのだろう。
全てがどうでもよくなって、何もかもを諦めた僕。
人との関わりを拒み、ひとりきりで過ごすことを選んだ僕。
だけど人間の根底というものはそう簡単に変わるものでもないらしい。もとの僕が顔を出せば、今この瞬間、再び棘で体を覆い尽くすことは不可能なようにも思えた。
「歌手とか……ならないわけ?」
明日になれば、また棘だらけの自分になっているかもしれない。それでも今は、もう少しこのままでいても許されるような気がする。だから僕はこの素直な自分のまま、浮かんだ疑問を口にした。
これほどに歌がうまければ、きっと小さい頃から持て囃されてきたことだろう。よくテレビ番組で〝歌うまキッズ〟なんて特集されているのを見たこともあるけれど、そういうものに出演したことがあってもおかしくはない。だってこの歌声を、周りが放っておいたとは思えないのだ。
しかし彼女は、そんな僕の視線から逃れるように川の方へと顔を向けた。そのまま、眉を下げて力なく笑う。
僕はこの笑顔を知っている。これは、諦めの表情だ。彼女も僕と同じように、何らかの理由で将来への希望を失ってしまったのだろうか。
ゆっくりと立ち上がった咲果は、夜空へ両手を伸ばしながら大きく深呼吸をする。つられるように、僕もその場で胸いっぱいに冬の空気を吸い込んだ。
ひんやりと染み渡っていく、透明な空気。そこにほんのりと交じる、彼女のシャンプーの香り。
「歌手、なりたかったな」
踵をあげてさらに上へと背伸びした彼女は、解き放つようにそう言った。
「なれる……」
「え?」
反射的に口から言葉が飛び出る。〝なりたかった〟だなんて、過去形にしなくていい。
もちろん僕は、咲果のことを何も知らない。どんな事情があってその夢を過去形に変えたのか、どんな思いを乗り越えてその台詞を放ったのか、そんなことは何もわからない。
それでも僕は知っている。彼女の歌声が、人の心を強く強く揺さぶること。彼女の声そのものが、特別な響きを持っているということ。そして何よりも、彼女自身、歌うことが大好きなのだろうということを。
「なれるよ、歌手」
「……そうかな」
「絶対なれる」
「……ありがとう」
どきりと心臓が高なったのは、咲果の瞳から涙がこぼれ落ちたように見えたからだ。実際にはそれは僕の勘違いで、咲果はもう一度伸びをすると、今度はくるんと僕の方へと体を向けた。そこにはもう、泣き出しそうな気配は一切感じられない。
彼女と会話をするようになってまだ二日目だが、咲果は切り替えがとても得意なタイプだということはわかった。そしてその切り替えは、それ以上踏み込ませないための彼女なりの棘の形なのかもしれないと、そんなことを感じていた。
「いっくんは? 小さい頃、何になりたかった?」
そして彼女が放った、その場の雰囲気を変えるための質問。きっとこれは、ただの言葉のやりとりだ。彼女は心に秘めた将来の夢を僕に打ち明けた。だから僕にも同じことを聞いてきたという、それだけのことだ。それでも今の僕にとって、その質問は何よりも鈍く痛む傷に触れるのと同じ。一気にあの棘が生まれるかと思いきや僕の心は落ち着いたままで、考えるよりも早く口が勝手に動いた。
「……サッカー選手」
長年口に出し続けてきた想いを再び思い返すことは、ズキズキと傷に響く。それでも不思議と、彼女には少しくらい話してもいいのではないだろうかという気持ちにもなっていた。その心境の変化は自分でも驚くもので、もしかしたら今僕は夢の中にいるのではないかと馬鹿げたことを思ってしまったほどだ。
僕が全てを投げ出した理由。人と関わりたくない理由。前野を過度に遠ざける理由。それは全て、サッカーによるものだ。僕にとって、サッカーは人生そのものだった。
「小さい頃からサッカーしかやってこなかった。キャプテンもやってたし中学のときは地区予選で優勝とかして。高校でも期待の新入部員とか言われてさ。だけど一年前、試合中にでかい怪我をして。それで全部終わり」
わざと傷をえぐるよう、僕は淡々と事実を話した。やはり今でも、じくりじくりと傷は痛む。それと同時に気付いたのだ。こうして話してしまえば、たったの十秒ほどで語り終えてしまうものだということに。
僕にとってサッカーは何にも替えられないもので、それを失ったことは地球が終わりを迎えるのとほぼ同義だった。それでも客観的に見ればこんなことは世の中にありふれた出来事で、腐らずしっかりと前向きに生きている人もたくさんいるのだろう。
だけど僕にはそれができない。他人が「それくらいで」と言おうとも、「命まで取られたわけじゃないんだし」なんて励まそうとも、そんな言葉は僕にとって何の意味も持たなかった。
だってサッカーを取り上げられた僕は、中身が何もない、空っぽな抜け殻でしかなかったのだから。
「──まあ、現実なんてこんなもんだろ」
誤魔化すようにそっけなくそう言いながら、いつの間にか隣で丸くなって眠っていた猫の背中をつんつんと軽く突付く。猫は時折ひげをぴくぴくと動かすだけで、僕の攻撃に顔も上げなかった。
素直に自分のことを話してしまったことに、じわじわと気まずさと後悔が顔をもたげる。よく知りもしない相手に、余計なことを話してしまった。極力他人とは関係を持ちたくないのに、一歩踏み込ませる隙を与えてしまったかもしれない。
しかし、いつまで経っても咲果の口から何かが語られることはなかった。彼女はただ、右手でまるい石を拾いあげると、それを大きく腕を振りかぶったのだ。
ぽーんと投げられた石は夜空に大きく弧を描き、やがて川の中へちゃぽんと音を立てて落ちる。それから僕に別の石を手渡すと、穏やかな表情で言った。
「こうやって何もかも、遠くへ投げられたらいいのにね」
眠っていたはずの猫が顔をあげ、彼女の言葉に「ニャオォ」としわがれ声で鳴いた。
──きっと多分、込み上がる何かで声を出せなくなった、僕の代わりに。