この世の中には、常に二種類の人間がいる。
 笑顔でいることが苦ではない人間と、苦でしかない人間。
 話すことが楽しい人間と、苦手な人間。
 人と関わることが好きな人間と、嫌いな人間。
 夢を追い続けることができる人間と、それを諦め手放してしまう人間。

 ──全てにおいて、僕は後者の人間だ。



「……別に」

 その一言で、周りの空気がぴしりと凍りつくのがわかった。

 たったの三文字であっという間に他人を遠ざけ、自分へ向けられている好奇を切り捨てる便利な言葉をこれ以外に僕は知らない。予想通り、僕を囲っていた野次馬たちは眉をひそめ、嫌悪感を思い切り顔に表わしている。
 都心から電車で約一時間半。山に囲まれた坂がやたらと多いこの町へ、僕は先週引っ越してきた。正直、青天の霹靂(へきれき)だ。生まれ育った東京の吉祥寺を高校二年の冬という中途半端な時期に離れ、まさかこんな田舎に住むことになるなんて誰が想像していただろうか。
 放課後に遊ぶようなところも、休日に出かけるような場所もないに等しい。片道三十分の自転車通学に、足がつりそうなほどきつくて長い坂道。学校に到着するまでに全体力を使い果たしてしまうような地形だ。
 古びた校舎と無難な学ラン。垢抜けないクラスメイトは好奇心だけは人一倍強いらしい。もしかすると刺激のない毎日を送っているから、転入生が来たというちっぽけな出来事にも群がってしまうのかもしれない。放課後は何をして遊んでいたかだとか、芸能人に偶然会うことはあるのかだとか、彼女がいるかとか、どうたらこうたらエトセトラ。それらに僕は、冒頭の一言を返したというだけのことだ。

「べ、別にって、お前それはないだろ〜!」
「初対面でお前呼びされる筋合いはないけど」

 その場の空気を緩めるように僕の正面で笑った男は、ヒクッと口元を引きつらせた。ちら、と視線を落とせば、制服の裾を捲りあげ露出した足首には、汚れた赤いミサンガがかろうじてといった様子で輪を作っている。

 ──こいつ、サッカー部か。

 「チッ」と無意識に舌打ちが溢れる。それは思っていた以上に大きな音を伴っていたらしい。目の前の男は一瞬顔を強張らせ、他のやつらの眉が釣り上がるのがわかった。

「せっかく親切で声をかけてあげたのに、カンジ悪ー」
 ──なにが親切だ。ただのおせっかいだろ。

「別に、とか芸能人気取りかっての」
 ──芸能人とか関係ないだろ。意味不明。

「東京に住んでたからって、うちらのこと馬鹿にしてるんじゃないの」
 ──少なくとも、好奇をぶつけてくるだけのあんたたちのことを敬う気にはなれないな。

 わざと聞こえるように僕への嫌悪を表した彼らは、じろりとこちらを一度だけ見てそれぞれの席へと散っていった。少しだけ開いた窓の隙間から、冷たい空気がひゅるりと僕の襟足をなぞる。

 ああ、やっと解放された。

 体感温度が三度ほど下がったと感じた僕は、やっとそこで窓の向こうへと意識を投げることができたのだった。



 自分の人生の中に〝転校〟というワードが関係する日が来るなんて、想像もしていなかった。僕らが住んでいたマンションは両親が結婚して少し経った頃に購入したマイホームだったし、父親の仕事は東京にしか会社がないため転勤とは無縁。母親は吉祥寺の街がとにかく好きで、あの場所に住んでいること自体をステイタスだと思っている節があった。だからこそ、引っ越しをする理由など僕たち家族にはひとつもないはずだったのだ。

 それがどういうことだろうか。こんなにも不便な田舎町で、僕らは新生活をスタートすることになった。住み慣れた家も、通い慣れた商店街も、慣れ親しんだ交友関係も手放して、山に囲まれた自然だけが豊かなこの場所へやってきたのだ。
 その一連の流れの中で、僕の意見が採用されることは一度もなかった。ある夜突然、「来週末に引っ越す」と親から告げられ、有無を言わさぬ状態で空っぽの自宅を後にした。

 高校生って、本当に不便だ。年齢としては一人暮らしをすることも可能だろうが、貯金もなく、自立しているような友人もいないただの高校生の僕には、不機嫌な顔をしつつも両親についていくことしか選択肢はなかったのだ。



 コンコン、と職員室のドアをノックする。転校初日、色々と渡すものがあるから放課後に来るように担任から言われていたのだ。ゆっくりと引き戸を開けても、教師たちはそれぞれの机に向き合っていて誰も顔を上げたりしない。
 担任はどこだっけ。っていうか、担任の顔もはっきりと覚えていないんだけど。

「あら、誰先生に用事? クラスと名前は?」

 ドアの前を通りかかった女性教師にそう聞かれ、僕はボソボソと自分の名前を口にした。ところが、小さくて聞こえなかったのか「え?」とその教師は首を傾げる。その声で気付いたのだろう。ドアのすぐそばにいた男性教師が顔をあげてこちらを振り向いた。

「おー転校生。お前、声ちっさいなぁ」

 担任は、ゆるそうな男性教師だ。こちらは呼ばれたから来ているのであって、ドアを開けたところで大声で名乗る必要性はどこにあるのか。大体、自分の名前を堂々とアピールしながら職員室に報告に行くような嬉々とする出来事が、この学校生活にあるとは思えない。
 なんて言えば、理屈っぽいだとか言われるのは目に見えているので、「はぁ、すんません」と適当に返しておいた。

「どうだ? 初日は」
「はぁ、まあそれなりに」
「覇気もないなぁ」
「はあ」
「まあクラスはみんな気のいいやつらばかりだから、すぐに慣れるだろ」

 そうか、担任は僕の「別に」発言を知らないのだ。
 残念ながらあなたのクラスではすでに、転校生が孤立してますよ。みんな仲良し二年二組、なんていうのを目指しているのかもしれないですけど、まあ無理ですね。とは言えないので曖昧に返事を濁し、書類だけ受け取って職員室を後にした。ちなみにここでは退出の際にも大声で「失礼しました!」と言わなければならないらしい。

 僕はもちろん言わずに出てきた。咎められたら、転校生だから知りませんでしたってことで免除してもらえばいい。



 帰り道、耳につっこんだイヤホンの音量を最大まで引き上げて、やつあたりするようにペダルを漕いだ。グングンと前へ進む車輪と、それを越す勢いで僕の横を走り抜ける車たち。
 転校初日、とりあえずは無事に一日を終えられた。おせっかいなクラスメイトたちを遠ざけることができたし、今日は「別に」と「初対面でお前呼びされる筋合いはないけど」という二言以外は発さずに済んだ。
 ちなみに自己紹介も黒板に黙って〝朔田(さくた)(いつき)〟とだけ書き、一礼して終えた。そもそもその時点で、話しかけないでほしいんだろうなと察してくれても良さそうなものだ。

 下り坂の多い家までの道を、朝の記憶を辿りながら自転車を走らせる。しかし記憶力なんていい加減なものだ。どう考えても朝は通らなかった田んぼ道を、僕は走っていた。

「だから田舎は嫌なんだよ」

 自分の記憶力を棚に上げ、僕はあぜ道に悪態を投げる。と、斜め前で軽トラックが溝にはまっているのが見えた。おじいさんが運転席でアクセルを踏んでいるようだが、左後ろのタイヤがギュルルルルと泥を跳ね上げながら空回りするだけ。こういう光景も、田舎では日常茶飯事なのだろうか。周囲に散らばる泥を一瞥した僕は、そのまま軽トラックの脇を通過する。

 ──きっとこういった状況も慣れているだろうし。別に僕が何かしなくたって、あのおじいさんがどうにかするだろうし。いくら田舎の老人でも携帯くらいは持ってるよな。いざとなればそれで助けを呼ぶことだってできるだろうし。

「……ああ、くそっ」

 二十メートルほど自転車を走らせた僕はそこでキキッと急ブレーキを踏み、ぐりんと自転車のハンドルを百八十度回転させた。

 たった一日しか足を通していない制服のズボンと真新しいスニーカーをどろどろに汚し、予定時刻よりもかなり遅れて帰宅した僕のことを、母親が鬼の形相で出迎えたのは言うまでもない。



「……いつから?」

 今年の冬は、特に寒い。夜ともなればその寒さはひとしおだ。シンと冷えた空気は透明と白の間の色をしていて、ほんの小さな息遣いさえもどこまでも響くように感じられる中に不機嫌な僕の声が響いた。

 ここは家の近所にある公園。この町には大きな川が流れており、それと大通りの橋が交差する角にひっそりと佇んでいる。
 通りからは一段低いところに作られているためか、夜になるとほとんど人が通ることはない。川に向かって下っていくように半円状に段差が作られていて、さながらスタジアム状のステージのようだ。もちろん僕はそのステージの中央に立っているわけじゃなく、客席ともとれる端っこの段に腰掛けている。

 ──アコースティックギターを抱えて。

「だから、いつからそこにいたわけ?」
「ええっと、今の曲が始まった頃……かな?」

 重ねた僕の質問に首をすくめて「へへっ」と笑ったクラスメイトを前に、僕は大きくため息を吐いたのだった。



 転校してから一週間が経過していた。僕の思惑通り、あれ以来誰ひとりとして学校で僕に声をかけてくる生徒はいない。たまに、あの伸びかけ坊主頭が話しかけてくるが、それもことごとく無視している。
 友達なんて必要ないし、馴れ合いなんてごめんだ。転校してきたばかりでわからないことだらけ。それでも別に、そんなことは構わなかった。学校も勉強も生活も、なにもかも今の僕にとってはどうでもいい。例えば明日死んだって、僕は後悔なんてしないだろう。

 そんな僕でも、ひとつだけ新たな生活のルーティンとなったことがあった。それが、夜にこの公園でギターを弾くというものだ。
 別に趣味というほどのものではないし、ギターが特別に好きというわけでもない。それでも胸の奥にたまに湧き上がってくる正体不明のイライラだとか、どうしようもない不安感だとか、自分に対する嫌悪感だとか、そういうものをかき消すように僕はここでギターを弾く。ときには胸の中に溜まった言葉をそのままメロディにのせることもある。

 ──そして、それを今まさに同じクラスの女子に聞かれてしまったわけである。

「それよりさ、朔田くんってギター弾けるんだね」

 教室では僕と対角線上の席──廊下側の一番後ろの席に座っている彼女の名前は、沢石(さわいし)咲果(さきか)。クラスの中心人物というわけではないけれど、いつも笑顔でいるため友達が多いようなイメージがある。多分お人好しな性格なのだろう。担任から雑務を任されている場面もあった。
 ちなみに名前を覚えているのは、僕の昔からの癖というか、ひとつの特殊能力みたいなものだ。一度見た人の名前と顔は、絶対に忘れない。そこに興味の有無は関係なくて、勝手に名前と顔がインプットされていくというような感覚だ。
 彼女は転校初日に僕を取り囲んだ輪の中にはいなかったと思うから、こうして言葉を交わしたのは初めてのこと。もちろんあの教室内にいれば、僕が周りとの関わりを断つためにとっていた言動は見ているはずである。それなのに、彼女はこれはいい機会と言わんばかりに、するりと僕の隣のコンクリートへと腰を下ろしたのだ。

 立ち上がった僕は、三歩離れてもう一度腰を下ろす。沢石咲果はそんな僕のことを見上げて、「(かたく)なだなぁ」と小さく笑った。

「……別に」

 うまく言えただろうか。一週間前教室で放ったものと同じ言葉のはずなのに、その響きはどこか頼りなさを含んでしまう。
 僕は多分、動揺していたのだと思う。こんな風に夜の公園でギターをかき鳴らし自作の曲を歌っているところを見られてしまったという羞恥心。誰との関わりも持ちたくなくて人を寄せ付けないオーラを常にまとっていたはずなのに、彼女がためらいもなく僕の隣へと腰を下ろしたという事実。そして、本来であればギターをしまってさっさとこの場を立ち去るのが僕の取るべき行動であるはずなのに、ただ距離をとっただけでこの場所にとどまるという選択をした自分自身に、僕は内心ひどく動揺していたのだ。

「いっくんってさ、音痴なんだね」

 突然のいっくん呼びに、思わず僕はバッと勢いよく顔を向ける。作戦通りといった表情の彼女と視線がぶつかって、気まずさでまた顔をそらした。そんな呼び方をすれば僕が反応すると予想していたのかもしれない。沢石咲果は嬉しそうに、もこもことしたスエードブーツのつま先をぶらぶらと揺らす。

 確かに、僕は音痴だ。ギターはなんとなく弾けるものの、演奏するのと歌うのは全く別の次元の話。自分でもわかっているから、人前で歌ったりはしない。前の高校でも、友達とたまに訪れたカラオケではタンバリンを鳴らしたりガヤを入れる専門だった。
 それじゃあ歌うことが嫌いかと言われれば、そういうわけではない。だからこそ僕は、今もこうして夜の公園なんかでギターをかき鳴らしつつ歌ったりしているのだ。もちろん、誰も聞いていない、というのが前提だったわけだが。

 いつもは制服姿の彼女だけど、夜八時というこの時間、暖かそうなコートにニット素材のスカートと黒タイツ、首元にはもこもこのオレンジ色のマフラーをぐるぐると巻いている。
 毎年冬が来るたびに思うのだが、寒さを凌ぐためのアイテムというのは女性ものの方が充実しているような気がする。彼女のスカートはまるでブランケットのようで、これを巻いていれば真冬のアスファルトに座ったって冷えは容易に(しの)げるだろうなと思った。
 対する僕は、スウェット上下にダウンコートというラフな出で立ち。スウェットは普通の素材なので、地面に接している部分はすでに熱を失っている。

「怒らないんだね」
「なにが……」
「いっくんって呼んだことも、音痴だって言ったことも」
「別に……」

 ああまただ。僕にとって最強の台詞であるはずのこの三文字が、今日はその威力を全く発揮してくれない。
 これ以上黙っていたら、彼女のペースに流されてしまうかもしれない。そう思った僕は、話の主導権を握ろうとこちらに来て初めての質問を口にした。

「沢石は、こんな時間に何してたわけ?」

 別に興味があったわけではない。ただ、自分のペースを守るために口にしただけの問いだ。すると彼女は、うーん、と空を見上げながら考える素振りを見せた。

「夜の散歩──ってとこかな」

 散歩? こんな寒い夜にわざわざ? 大体、「――ってとこかな」という濁し方も意味がわからない。

 そんなちょっとした疑問は浮かんだものの、僕はただ「ふうん」とだけ返した。少しだけ落ち着きを取り戻す。
 いつもの僕が、戻ってきたみたいだ。
 よし、と息を深く吸うと、足元にもふっとした感触がまとわりつく。驚いて見下ろせば、そこにはずいぶんと図体のでかい猫が一匹。ごち、と僕のすねに自らの頭を擦り付けたあと、彼女の足元へと向かった。

「……猫? かわいい、もふもふだねぇ。よしよし、いいこいいこ」

 月明かりの中、慣れた手付きで柔らかい背中を撫でる彼女はどこか幻想的で、僕は一瞬目を奪われてしまう。すると不意に、彼女がその姿勢のままで僕の名前を呼んだ。

「いっくん、ひとつお願いがあるんだけど」

 見つめてしまっていたことに気付かれたような気がして、僕は咳払いをしながら顔を上へと向けた。冬の夜空には、いくつもの星が瞬いている。知らなかった、この町では星がこんなにも綺麗に見えるらしい。

「なに」

 そのまま僕は、短く答える。別にお願いを聞いてあげる義理なんてない。だけど歌っている姿を見られたという弱みがあるせいか、内容によっては承諾してやらないこともないと僕は思っていた。

「沢石じゃなくて、咲果って呼んでくれないかな」

 しかし彼女からの願いごとは、僕が想像していたものとはかけ離れた内容だった。だって例えば「あの歌を聞かせて」と無茶ぶりをされるとか、寒いから肉まんおごってと催促されるとか、そういうのをイメージしていたから。

 ゆっくりと視線をおろした僕は、不思議な思いで彼女を見つめる。さらさらと揺れる薄茶色の長い髪の毛。くるみ色の瞳に、きれいにカールした長いまつげ。通った鼻筋と形のいい唇。寒さのせいか、ほんのり赤く染まる鼻先と頬。その全てから、やはり僕は目を逸らせない。

「……なんで」

 やっとのことで僕は、その一言を発する。それでも未だ、僕の瞳は彼女の姿を捉えたままだ。引力に逆らえないように、視線は彼女へと吸い込まれていく。そこで、くしゃっと彼女が笑った。
 まるで魔法が解けたみたいだった。その表情で、僕はハッと我に返る。途端に気恥ずかしさがせり上がり、「なんでだよ」ともう一度、面倒くさく聞こえるようにそう発し視線を正面の川へと投げる。

「みんなそうやって呼んでるし、沢石なんて他人行儀な感じじゃない?」

 明るい声でそう言う彼女は、いつも教室で見かける彼女の姿と同じだった。
 不思議な感覚だ。なんだかまるで、クラスにいる彼女とは別の人物と話していたのではないかと思ってしまうような空気感がそこにはあった。

「他人だろ」

 彼女といると、必死に守ろうと重ねていた鎧がいとも簡単に剥がれてしまう気がしてくる。あまり深く関わらない方がいい。そう感じた僕は、足元のケースにギターをしまうことにした。

「お願い!」
「無理」
「一生のお願い!」

 何が一生のお願いだ。こういうことを言うやつは、絶対その台詞を何度も使い回すんだ。しつこく頼み込んでくる彼女に、僕は大きくため息をついた。

「なんだよ。言うことをきかなかったら、音痴な僕が夜な夜な公園で歌っているとでも言いふらすわけ?」

 嫌味で言ったつもりだった。いかにも善人といった雰囲気の彼女は、絶対にそんなことをしないだろうというおごりがあったのも事実だ。
 しかし目の前の彼女は僕の言葉を聞くと一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それからにんまりと口元に弧を描いた。

「それ、名案だよいっくん!」

 ──これが、僕と彼女の出会いだ。いや、学校でもともと顔は合わせていたのでその言葉は的確ではないのかもしれない。それでも、これが始まりだった。



 僕と彼女は確かにこの夜、この場所で〝出会った〟のだ。







 本当のことを言えば、学校なんて行きたくない。それでも行かなければ両親がとやかく言うのが面倒くさいし、サボろうにも適当な場所が見つからない。吉祥寺に住んでいた頃は、時間を潰す場所なんていくらでもあったのに。

 一度あの公園で過ごそうと思ったのだが、さすがは田舎。ゲートボールをしにきたご老人団体から「学校はどうした」だの「その制服はあの高校だな」だの散々絡まれ、ひどい目に遭った。総合的に考えて、学校に行きぼーっと過ごすというのが一番安全で気楽だという結論に、僕は行き着いたわけである。

「いっくんおはよう!」

 今日も誰にも話しかけられないよう、不機嫌な表情で窓の外を見ていたはずなのに、気付けば目の前に沢石咲果が笑顔で立っていた。
 そもそも彼女の席はここから一番遠いところのはずで、どうして登校早々鞄も置かず、ここに来たのか。面倒くさい。僕は無視を決め込むことにする。

 しかし、彼女は首を傾げると口の形だけで「い・い・の?」と伝えてきたのだ。これはすなわち、「みんなに自作ソングを歌っていることを知られてもいいのか?」という意味だ。人の良さそうな顔をしておいて、中身は悪魔。そんな彼女にほとほと呆れて、僕はため息を吐き出した。

「……おはよ」

 仕方なく早口でそう返すと、なぜか周りで小さなどよめきが起こる。「スカし野郎が返事してる!」などというヒソヒソ声まで聞こえてくるから、本気で頭を抱えたくもなった。
 というか、スカし野郎などと呼ばれているらしい。今知った。別にどう呼ばれようとかまわないけどさ。

 彼女はにんまりと満足げな笑顔を見せると、スキップをしながら自分の席へと戻っていく。
 本当に変な人だと思う。物好きというか、なんというか。じろじろと好奇の視線が集まってくるのを感じた僕は、また大きめの舌打ちでそれを払うと、窓の外、山以外に何も見えない景色へと視線を投げたのだった。


 しかしながら、彼女の猛撃は朝だけに収まらなかった。僕はいつも、昼休みは非常階段で過ごしている。理由は至極簡単。ひとりで静かに過ごせる場所にいたいから。
 できることなら学校になど来たくない僕だ。家から一歩も出ず、誰とも顔を合わせずにいたい。だからこそ、人の行き来が多い昼休みは誰も寄り付かない場所で過ごすことにしている。
 ところが今日、僕の後を追って彼女までもが非常階段へやって来たのだ。ハムスターが食べるのか?というような小さな弁当箱を持って。

「いっくんも、教室でみんなと一緒に食べればいいのに」
「面倒」
「みんな、本当は話しかけてみたいんだよ」
「どうでもいいし」
「いっくんは別世界から来た特別なひとなんだから」
「は? 意味不明」

 非常階段の幅は、二メートルないくらい。決して広いとは言えない幅なので、さすがの彼女も昨夜のように隣には座らず、僕の三段下に腰を下ろしていた。時折冷たい風が吹くと、彼女はその都度肩をきゅっと縮めている。寒いなら教室で食べればいいのに。

「わかってないなぁ、いっくんは」

 咲果は人差し指を立てて〝みんなが僕に興味を持つ理由〟を説明する。

 この場所は、東京都心からは電車で一時間半ほどの場所にあるというのは前も言った通りだ。坂と緑の多い昔ながらの住宅街なので、ザ・田舎と言うほどの田舎ではない。それでも必ずどこかに山が見えるし、春の田んぼではウシガエルが大きな声で合唱しているらしく、牛だってわざわざ動物園に行かずとも見ることができ、一本入ればあっという間に田んぼ道が続くような場所だ。
 生まれ育った環境というのは、人格形成にも大きく作用するのだろうか。クラスメイトたちも全体的にのんびりとしていて、穏やかな雰囲気がこの学校には漂っている。それでももちろん、ひとりひとりは違う人間だ。考え方も性格も違う。

「東京に対しての考え方も、人それぞれだよ。都会に強い憧れを持つ子もいれば、大して興味のない子もいる。それでもみんな一度くらいは、東京がどんな場所なのかという好奇心くらいは抱いたことがあると思う」

 彼女の言うことは、東京で生まれ育った僕にとってはいまいちピンとこない話だった。それでも確かに、情報として知ってはいるものの訪れたことのない場所というのは、魅力的に映ることもあるのだろう。

 電車で一時間半。それは高校生にとって近いように見えて遠い、なかなか越えることのできない距離であることもまた事実なのかもしれない。

「届きそうで届かない場所からやって来たいっくんは、わたしたちと同じ高校二年生でも、別の世界を知る特別な存在だって感じてるの」
「そんなの僕には関係ないし」

 そっけなく返せば、彼女は「もう〜!」とわかりやすく頬を膨らませた。

 どれほどに僕が尖ろうと、どれほど冷たくあしらおうと、彼女は決してめげなかった。それどころか、気分を害する様子すら見せないのだから、僕は厄介な人に目をつけられてしまったらしい。
 それでも僕が彼女を思い切り突き放すことができないのは、弱みを握られているから。それともうひとつ。彼女をまとう空気は不思議なほどに軽やかで、人間が持つ特有の〝好奇〟とか〝野次馬〟的な匂いがしなかったからかもしれない。

 昼休みも中盤に差し掛かると、グラウンドからは体力を持て余した生徒たちがスポーツに興じる声が響き始めた。コンクリートの手すりで囲まれたこの場所は、こうして姿勢を低くしてさえいれば外から姿を見られることはない。それなのに、あろうことか咲果はその声に気づくと立ち上がり「おーい!」とボールを追いかける集団に向かって大きく手を振ったのだ。
 チッと舌打ちするも、彼女の耳にそれは届いていないのか、それとも聞こえても動じないだけなのか、咲果は相変わらずに大きく手を振り続ける。誰かがこちらにやって来る前に早々と退散しよう。

「咲果、こんなとこで飯食ってたの? ──って、朔田もいるじゃん!」

 しかし相手の行動は僕の予想よりも遥かに速かった。最悪なことに、サッカー部に所属しているあの伸びかけ坊主──前野(まえの)(りゅう)が階段を上がってきたのだ。
 僕がことごとく無視をし続けているにもかかわらず、なにかとアクションを取ってくる前野。僕はこの男とは絶対に関わりたくなかった。

 なぜなら──。

「朔田って、サッカー経験者だろ? 一緒にやろうぜ!」

 一番避けたかった単語が飛び出し、僕はギッと前野を睨んだ。

 スポーツ経験者というものは、なんとなくの雰囲気で相手も同じスポーツをしたことがあるとわかるものだ。実際僕が、こいつはサッカー部だろうと読んだのと同じように、やつも僕の経験を読んだのだ。

「──僕の前で、その言葉を二度と出すな」

 空になったパンの袋をぐしゃりと右手で握りつぶすと、僕はその場を後にした。咲果の声が弾かれたように僕の名前を呼んだけれど、この足を止めることはできない。

 僕の中にはただ、どうしようもない苛立ちだけが隙間なく棘のように立ち並んでいるだけだった。



 棘を持つものは、保身能力に長けている。ハリネズミやハリセンボンは危険を察知したときには体の表面に棘を起こし、栗のイガや海の底にいるウニは常に棘をまとうことで中にある大切なものを守っている。
 それでは、皮膚に棘を持たない人間である僕らはどうしたいいのか。答えは簡単だ。目には見えないが確かに存在する人工的な棘を、自ら作っていけばいい。

「やっぱり、今夜も来てたんだね」

 ジャリ、と靴底に小さな石が擦れた音のあと、落ち着いた声が響いた。
 昨日と同じ時間帯、同じ場所。夜の公園で僕はギターを抱えていた。それでも演奏する気にはなれなくて、ただただぼーっと流れる川を眺めていただけだ。

 なんとなく、彼女は今日もここへやってくるような気がしていた。今日の僕の態度は、自分でも思っていた以上に鋭い棘をまとっていたと思う。普通ならば、誰だって自然と離れていくはずだ。だけど彼女に至っては、その〝普通〟があてはまらないことに僕はなんとなく気付いていたのかもしれない。

「別に」

 今夜の三文字は、戸惑いも感情もなく冷たく響く。不思議なものだ。同じ言葉でも発する度に違う色を持つ。心と体が直結しているというのは、やはり本当のことなのだろう。
 彼女は今夜もごく自然な様子で、昨日と同じ場所へと腰を下ろした。それでも何かを言うわけではない。ただただ僕と同じように、目の前を流れていく川を眺めていた。

 どれほどそうしていただろうか。水が流れる音というのは鎮静作用があるのかもしれない。ふと、その中にメロディのようなものを見つけ、何の気なしに弦を弾いた。
 ひとつ、ふたつ、音が連なり音階を作り上げる。それは僕にとってはごく自然な日常の一部で、浮かぶものをそのまま指に乗せているだけだ。名前もない、ただのメロディ。歌詞も意味もない、音の羅列。それでも確かに、僕はその音たちに、そしてその行為自体にどこか癒やされているところがあるのも事実だった。

「……すごく綺麗なメロディだね」

 ワンフレーズを弾き終えると、それまで黙って目を閉じていた咲果がゆっくりと口を開いた。僕はまた「別に」と返す。ただ今回は、そこにほんの少し動揺が混じってしまった。

 じーちゃんとばーちゃん以外の誰かに、ギターを聞かせたことは一度もない。今の学校では当然だが、以前通っていた高校でも僕がギターを弾けるということを知っている人物はひとりもいなかった。そもそも僕のイメージに、ギターや音楽自体が不釣り合いだったというのもあるのだろう。
 だからこそ、こうして彼女の前で何も考えずにギターを弾けたことに、僕は小さな驚きを覚えていた。すでに目撃されているからだろうか。それでも、誰かに自分が紡ぎ出したメロディを綺麗と表現されたことは、僕にとって初めての経験だったのだ。

「歌詞はないの?」
「……今浮かんだだけだし」

 僕は歌を作るためにギターを弾いているわけではない。思い浮かんだメロディを即興で演奏するだけだし、そこに言葉をのせるときだって口からでまかせ状態だ。とどのつまり、歌と呼べるようなものを僕は作ったことがない。
 そのことをかいつまんで話せば、咲果はもともと大きなその瞳をさらにくるりと見開いて、口をパクパクさせた。

「もしかして、天才なの……?」

 あまりにも短絡的な思考と言葉に、僕は眉を寄せる。天才、って久しぶりに聞いたけど。小学生の頃、みんながそろって馬鹿の一つ覚えのように「天才」という言葉を乱用していたっけ。何かにつけて口にしていたその二文字。それが持つニュアンスや響きは、小学生の感性にピタリとはまっていたのだろう。

「もしかして、一度聞いた音楽を弾けたりもする?」

 興奮を抑えるように、彼女は問う。昨夜と同じく、鼻先と頬がほんのりと赤い。しかし今日は目を爛々と輝かせているから、ピンク色の正体は寒さのせいだけじゃないのかもしれない。
 僕は彼女の質問に答える代わりにギターを構え直し、指を弦にそっと押し当てた。

 うちの学校では毎朝、約二十分間にわたり校内放送で校歌が響き渡る。ノイローゼになりそうなエンドレスリピートに最初は辟易していたが、しばらくすれば他のクラスメイト同様、僕の耳もついに慣れてしまった。
 人間の体というのは、本当に便利なものだ。嫌というほどに刷り込まれたメロディは、いとも簡単に脳内でギターコードへと変換される。あとはそれを指でなぞるだけ。
 僕なんかよりも長く、あのリピート地獄の中で生活してきただけはある。咲果はイントロだけで「わ、校歌だ!」と小さく喜びの声をあげ、すごいすごいとはしゃいだように手を叩いた。

 しかし、本当に驚かされたのは僕の方だった。

 僕のギターの音色が響き、そこに透き通るような、どこまでも突き抜けるような、そんな歌声が重なったのだ。


「……なに? 今の」

 結局僕は、三番までフルコーラスで演奏をしきった。本当ならばイントロだけで終わらせようと思っていたのにここまで弾いてしまったのは、彼女の歌声があまりに美しかったからだ。
 伸びやかで力強く、だけどどこか儚さも持つその歌声。音楽に精通しているわけではない僕でも、彼女の歌声が凡人のそれとは違うことくらいはわかった。

 はあ、と小さく肩を揺らした彼女は、振り返ると満面の笑みを咲かせる。そのあまりの眩しさに、僕は一瞬目を閉じてしまったくらいだ。
 彼女はいつも笑っている。だけど今の笑顔は、そのどれとも異なるような──本当の笑顔である気がしたのだ。

「わたしの歌、よかった?」

 歌いきって満足したのか、晴れ晴れとした表情を浮かべた彼女は首をすくめてこちらを見る。「一年ぶりに歌ったからちょっと(かす)れちゃったなぁ」などと言いつつも楽しそうだ。

「すごいと思った、本気で。なんていうか……びっくりした……」

 僕を覆っていた棘はいつの間にか綺麗に全て抜け落ちてしまったらしい。あまりに素直な口調に、僕自身がはっと口を抑えてしまう。だけどそれほどに、彼女の歌声は僕の心をひどく震えさせたのだ。

 彼女は一瞬びっくりしたようにこちらを見て、それからふにゃふにゃと破顔していく。まさか僕に褒められるだなんて、思ってもいなかったのだろう。

 全てがどうでもよくなって、何もかもを諦めた僕。
 人との関わりを拒み、ひとりきりで過ごすことを選んだ僕。

 だけど人間の根底というものはそう簡単に変わるものでもないらしい。もとの僕が顔を出せば、今この瞬間、再び棘で体を覆い尽くすことは不可能なようにも思えた。

「歌手とか……ならないわけ?」

 明日になれば、また棘だらけの自分になっているかもしれない。それでも今は、もう少しこのままでいても許されるような気がする。だから僕はこの素直な自分のまま、浮かんだ疑問を口にした。

 これほどに歌がうまければ、きっと小さい頃から持て囃されてきたことだろう。よくテレビ番組で〝歌うまキッズ〟なんて特集されているのを見たこともあるけれど、そういうものに出演したことがあってもおかしくはない。だってこの歌声を、周りが放っておいたとは思えないのだ。

 しかし彼女は、そんな僕の視線から逃れるように川の方へと顔を向けた。そのまま、眉を下げて力なく笑う。
 僕はこの笑顔を知っている。これは、諦めの表情だ。彼女も僕と同じように、何らかの理由で将来への希望を失ってしまったのだろうか。